yokoken001’s diary

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L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (5)

 Chapter 5 General Electric: The Research Process

 本書では、「研究所」を、(1)科学・技術の深い理解を持つ訓練された人間によって研究が行われ、(2)生産部門から分離され、(3) 短期的な企業の営利目的ではなく長期的な会社のニーズに対して責任を持つように管理される場所であると特徴づけられた。第5章では、GEの企業内研究所がそうした意味での「研究所」に変革することができたのはなぜかという問いについて、初代所長を務めたホイットニーの哲学や、その下で目覚ましい研究成果を出したクーリッジ、ラングミュアという2人の研究スタイルなどを俯瞰しながら議論される。

ホイットニー自身は当初研究を行う中で、学術的な理論が産業研究においてそのまま通用することは稀であり、理論よりも試行錯誤の実験やセレンディピティを重視する思想を持つようになった。そしてお役所仕事を減らし、研究者になるべく多くの自由を与えるよう研究所を組織化しない(disorganized)方法を模索した。ホイットニーのポリシーは、研究者の自律性を認めつつ、全体としては特許に結びつくような、会社の利益につながるような研究の方向性へと導くことだった。

まず、研究者に自由を与えることについては、ホイットニーは彼らが学術雑誌に論文を投稿し、学会に参加することを勧めた。しかし、彼らはまず特許を取得してからしか論文を発表できず、また企業秘密に関わるようなことは書くことができないという制約が課された。(クーリッジが母親に寄せた手紙には、その心境がリアルに記されている。)

そして、会社の利益につながるような研究の方向性へと導くことについては、ホイットニー自身は、製造・工学部門と緊密な連携を取るようにしていた。その理由は、研究所の支出は会社の売り上げよって回収されるからである。

 ホイットニーのこうした哲学は、彼の下で非常に性格の異なる2人の科学者(クーリッジとラングミュア)が優れた成果を挙げたことに結実している。クーリッジは最初に目標を立て、それを達成するまで困難に立ち向かうというアプローチでタングステンのフィラメント化の問題に向かったのに対し、ラングミュアはまず物理的過程を完全に理解すべく根本原理の研究から入り、その後応用へ向かう研究を行うという具合に、それぞれ異なるスタイルで研究を行った。このことは、ホイットニーが、問題それ自体と、研究者の個々人の能力応じた、異質の研究アプローチを鼓舞していたことを示している。

 

(以下、大雑把な要約)

 

Chapter 5 General Electric: The Research Process (pp.97-128)

  • 1910s末までに、GEの研究所は大学の研究所や先行するその他の産業研究所と異なる特徴を帯びていった。1880sに設立されたドイツの化学産業の企業研究所は、厳密に組織され、秘密主義が貫かれ、ビジネスに応用できない科学研究は大学に残すといった性質の場所だった。また、アメリカのその他の産業研究所は、物質の分析やエンジニアリング志向が強く、技術革新を生み出す基礎的な科学研究という要素がなかった。しかし、GEが白熱電球で成功すると、ようやく研究の方法や視野が多様化し、従来の企業的工学・分析から「研究」する場所へと性格を変えた。この場合、「研究」は、生産部門から分離され、科学・技術の深い理解を持つ訓練された人間によって行われ、短期的な企業の営利目的ではなく、長期的なニーズに対して責任を持つように管理される活動を意味する。本章では、GEのこうした変革とそれを可能にした方針を論じる。

 

5-1 Willis Whitney and the administration of research

  • ホイットニーは最初研究所の主任研究員(chief researcher)として仕事を始めたが、その後スタッフの数や研究が多くなったので、彼は研究よりも多くの時間を行政(アドミニストレーション)に割くことになった。
  • ホイットニーは研究すべき問題の選択、実際の仕事の方向性を支配していたので、彼の方針が強く研究所の運営に影響した。彼の哲学は、17Cにおけるフランシス・ベーコンの実験アプローチにまで遡る。すなわち、実験と経験に基づいてデータを蓄積することであらゆる問題を解決することができるという考えである。しかしホイットニーはGEにその哲学を持ち込んだのではなく、むしろ彼の経験がそのような哲学に導いた。初期において、彼はアークライトに関連する重要な問題を解決することに失敗した。その理由は、電気化学の理論的構築が産業研究においては効果がなかったからだった。彼は学術的なアプローチを産業研究に応用することはできないことを理解し、理論よりも実験を重視するようになったのである。大事なのは、多くの実験を行い、チャンスがくることを待つことである。1920sまで、セレンディピティがGE研究所の思想の一部になっていた。
  • 1908年にホイットニーは行政主任エンジニア(Research Laboratory Executive Engineer)というポジションを作り、彼自身から行政上の仕事を減らし、工学・製造部門との連携を組織化しようとした。最初にそのポジションに就いたのはSamuel Fergusonであり、スタインメッツの研究グループ出身だった。彼は文通や予算の管理、その能力の維持に責任を持った。そして監督委員会(advisory council meeting)での準備のための報告書の要約を書くために、研究者から論文を収集した。1912年にその仕事はLawrence Hawkinsに移り、1945まで務めた。
  • しかし、ホイットニーは、次第に行政の仕事が逆効果なのではないかと思い、組織しすぎることは何もしないことよりも悪いと考えるようになった。そのため、可能な限りadvisory council meetingを無くすようにしていき、研究所の組織をインフォーマルなものにし、役所仕事的ではなく、アドフォックベースで進めるようにした。
  • しかし、研究所を「組織化しない」ということに関しては、彼は思慮深かった。彼は研究者に計画を割り当てるのではなく、軽く提案するといった形で提示した。そして、その方法が効果的だった。彼はそれぞれの研究者のやる気を鼓舞し、能力を引き出すことに長けていた。彼は研究者と3分間話すだけで、3ヶ月分のやる気を与えたと言われている。
  • ただし、ここの研究者から努力を引き出すということだけではなく、工学・製造部門や他の部署との連携を重視していた。成果は特許として出願され、GEという企業を作り上げている工学、製造、財政、法人の内部で実用化される必要があった。この仕事の一部を主任研究員に引き渡したものの、ホイットニーは依然として自分で行う必要もあった。しかし、WW1以降になるとホイットニーは、クーリッジ、ラングミュア、ダッシュマン、ハルらを非公式のリーダーとして信頼するようになった。
  • ホイットニーの研究哲学は、何よりもまず研究者の士気(morale)とモチベーションを高く維持することだった。緻密に組織された研究よりも研究者の熱意が成果を生むと考えていた。彼が直面した問題は、(1)彼らにやる気を与えること、(2)彼が適切だと考える方向に従わせつつもある程度の独立性を認めることだった。このためには、しばしば研究が横道に逸れることも容認した。だがこの種の研究が行き過ぎると、メンバーは軌道修正する必要があった。
  • またホイットニーは、研究所とGEの他の部門との間の情報の流れの制御を維持しようとしていた。例えば、彼は特許部門との相互作用に注意していた。彼は研究者に、仕事の中に特許化できるような技術がないかどうか隈なく探すような報告書を月に一回提出させるようにした。その中に有望なものがあれば、特許部門にメモとオリジナルのレポートと共に送付した。それは特許のプライオリティを確立するための記録となった。
  • 1908年以降、ホイットニーは連続する番号が振られたノートを発行するようになった。これは研究者の独立性と責任を強調するための計画の一部だった。しかし、各人はこのノートを期待通りに書かなかった。1920年までに彼は必ずしもこれを要求しないようにした。それでもなお、全ての報告書は標準化されたシートを用い、そこに方法と結果が記された。また実験器具や部屋の写真を頻繁に撮るようにさせた。
  • その後、1910sの間に、研究所と特許部門との関係は変化した。従来ホイットニーは特許への応用を示唆する手紙を送るべく、研究の報告書をレビューしていた。しかし、次第に特許部は、研究報告書を読むことや研究所を訪問することで研究をフォローするために代理人(attorney)を配属するようになった。例えば、ハルの研究をフォローした特許代理人は電子回路やその商業的価値を理解するのに十分な技術知識を持っており、(研究者本人は本来)商業的応用を志向していない研究から重大な成果が出された。
  • 特許部門は、研究所に会社の特許のニーズを知らせるように維持していた。そして研究者はそれらのニーズを満たすために計画を拡張した。ハルが真空中における電流の磁気的操作を発見したのは、彼はそのアイデアに多くの時間を割いていたときだった。なぜなら、それはGEがAT&Tが保持するデフォレストの三極真空管特許権を巧みに回避する機会を与えるものだと理解していたからである。そしてマグネトロンは、1920年におけるAT&Tとの無線製造協定において同社のポジションを高めることに寄与した。

 

5-2 Laboratory relations within GE

  • 研究所(Research Laboratory)はGEによって運営されたラボのうちの一つに過ぎない。技術の目まぐるしい変化は、競合社に対するアドバンテージを維持するための研究所を創設することを必要とした。リサーチラボ以外には、Standardizing Laboratory、Schenectady Works Testing Laboratory、Institution Laboratory、Consulting Engineering Laboratory、Radio Engineering Departmentなどが存在した。
  • これらのラボの存在は、リサーチラボの日常的な調査や厳格な開発の仕事(strictly developmental work)を軽減した。しかし、その一方で、研究所間のコラボレーションや妬みの問題も生じさせた。例えば、スタインメッツは、リサーチラボと彼自身のConsulting Research Laboratoryとの間の資源配分に違いがあることを好ましく思っていなかった。
  • ある領域に特化した研究所の間での協働は難しかったが、その間を仲介し交流を促したのがexecutive engineerだった。彼は全てラボと製造部門との接触を維持した。また販売部門との関係も維持し、研究者らに市場の認識を与える役割も果たした。リサーチラボは工学(engineering)と製造部門と連携していたので、素材や技術が大量生産に最適化させることができた。リサーチラボが、大量生産の準備として、パイロット・プラントを作ることもあった。ホイットニーが研究所で生産関係の仕事のいくつかを維持したのは、それが研究所の支出を相殺する収入に深く関わっていたからだった。研究所は「利益センター(profit center)」であった。研究計画がそれを実行する当の研究所によって支持されている場合、その成果を市場で販売することで研究費用を回収することができる。それゆえホイットニーは、(生産部門と連携しながら)研究所内で有用な成果を生み出すことに強い関心があった。
  • こうした研究所のための単なる社費から複雑な会計システムへの変貌は、ホイットニーがその他の行政変革を行なっていたのと同時に生じていた。ホイットニーはexecutive engineerに、一年間の論文の報告や、全売り上げの見積もりなどを準備させるようにし始めた。これは、研究所の研究の重要性を示し、会社部門として定期的に「赤字」を出すことを正当化するものであった。
  • 財政的な意味で研究所をGEのその他の部門にしようとすることは、ラボの運営と、工学・製造におけるニーズとを調和させることを手助けした。未回収の支出を最小化すべく、この研究所では常に自分たちの研究が他の企業部門にとってどのような価値があるのかを考えていた。このことは「非生産的な」研究を認めないことを意味していた。自分が思うように研究できる自由があると感じさせつつ、彼らを潜在的に役立つ方向へ向かうように研究させるは、リサーチディレクターとしてのホイットニーの才能だった。

5-3 Researchers and the lab

  • ホイットニーは、やる気があり、企業環境で協力的に働ける研究者を探していたが、後者の条件は当初はさほど重要でなかったように思われる。ドイツのアカデミズムで厳格な教育を受けた人々はホイットニーや他のメンバーと非協力的で、Davisの言葉を借りれば、”(動物園)menagerie”、”(囲い)bear pit”のようだった(=つまり個々人が独立していた)。
  • ホイットニーは、一流の研究者を招聘するために、企業環境で損なわれる研究者の独立性を補償しなければならなかった。その一つが破格の給料を提示することだった。
  • ホイットニーは大学の環境を見習い、1901年秋からは定期的にコロキウムが開催されることになった。そこでは、GEスタッフの成員や部外者から提示された科学・技術の世界における重要な発見・問題を聞くために、ラボの研究者が集められた。会社の研究員や管理者は、GEが直面している問題をコロキウムで扱うことがあった。1908年以降、ホイットニーはグループ全体でプロジェクトについて議論する前に(成果等を)秘匿する習慣を廃止し、チームワークや分野越境的な活性化(cross-fertilization)を促した。
  • 図書館も重要な研究ツールだった。1915年までに1400のコレクション、65の定期刊行物を取り寄せ、フルタイムの司書を雇っていた。しかし、ホイットニーは先行研究を参照することで、(無理だと思って)新しい研究への意欲を阻害することを勧めなかった。
  • 研究者は大学の環境以上に充実した設備や助手などのサポートにアクセスしやすかった。研究所は優れた器具製作者(craftsman)を雇用していたので、最先端の器具が揃っていた。
  • 優れた人材を引っ張るために、ホイットニーはまたGEにいながらも学術雑誌への投稿の自由を与える必要があることも理解していた。しかし、研究者は、(1)最初に特許を取得したのちに初めて論文を投稿できるということ、(2)秘密性の高い技術を完全に開陳することはできないといった制限が課された。従ってGE以外の研究者が先に成果を完全に発表してしまったため、発明におけるクレジットを受け取ることができないこともしばしばあった。それでもなお、(ペーパー数では一流大学に負けていたもの)1920sまでにGE研究所は科学研究機関としての名声を高めた。
  • し時には秘匿が厳しく強制されることもあった。延性タングステンの場合は、クーリッジは外部の人間はもとより、研究所内の人間にさえ情報を漏らしてはいけないという指示が出され、結果的にこの戦略はうまくいった。なぜなら1909年末に演示するまで、欧州で全く知られていないままの状態にできたからである。しかし、クーリッジは1907年12月に母親に宛てた手紙の中で、こうした厳しい企業研究所の環境に不満を漏らしていた。曰く、”scrap heap”, which was “a poor place to look for memorial tablets.”で、成果を公表できる環境をより好んでいた。
  • ホイットニーは、博士号を取得下ばかりで教職に就いていない者、学部を卒業したばかりの人間をリクルートした(特にMITとのつながりは顕著だった)。しかし、中には大学の教授職を放棄してGEに入所した者もいた。その代表がラングミュアである。彼はスティーブン工科大学において、学生のやる気がない、設備が十分でない、研究時間が十分に確保できないといった、アカデミア環境に満足してなかった。それゆえ、彼はGEの研究所により良いポジションを見出した。
  • ホイットニーはさらに、Geの研究員に科学・技術の学会に参加するように勧めた。そしてホイットニーもラングミュアもアメリカ化学学会の会長を務め、アルバート・ハルはアメリ物理学会の会長を務めた。論文を出す前に点検(clearance)が必要だったものの、学会は企業研究者とアカデミアとの交流の場だった。
  • 離職率(rate of turnover)は低かったものの、Wheeler Daveyのようにペンシルバニア州立大学へ異動した者もいた。このことは、GE研究所が期待していた場所ではなかったと感じる研究者が存在していたことを示唆している。
  • 1920sまでにGE研究所は、本書で定義した「研究所」= (1)物理現象を深く理解する人間が配属され、(2)工学、製造部門とは分離され、(3)企業の短期的な要求から遮蔽された「研究」をする場所になった。それは企業環境の中で科学者としてのアイデンティティを失わないように注意を払ったホイットニーの工夫によって形成された。研究所の運営は、「組織化されつつ組織化されない(both organized and disorganized)」ものとして特徴付けられる。つまり、研究者は自由に研究をしていながらも、巧妙に方向づけられていた。官僚的なコントロールを最小化しつつも、明確化された価値観や境界は研究者を商業的に価値のある成果に導く生産的な経路へと方向づけた。

 

5-4 Science and technology in the research lab

  • GE研究所における研究・開発過程を理解するために、クーリッジとラングミュアという2人の著名な科学者の仕事を分析する。クーリッジは最初に目標を立て、それを達成するまで困難に立ち向かうという直接的なアプローチで問題に向かったのに対し、ラングミュアは最初に物理過程を完全に理解すべく根本原理の研究から入り、その後技術的な応用へ向かう研究を行った。このように両者は異なるアプローチによって問題を解決していったが、にもかかわらず両者ともに類似した成果をもたらしたのはどうしてだろうか。

5-4-1 クーリッジ

  • クーリッジは優れた器具製作者であり、実験家であった。彼の最もおおきな成果は延性タングステンフィラメント電球の開発である。本来脆い性質を持つタングステンをいかにしてフィラメントの形状にし、電球として実用化できるか?その道は困難を極めた。
  • クーリッジが解決した問題は、当時の科学では説明できないものだった。それゆえ、彼の理論よりも実験を重視するスタイルは、GE研究所で行われる仕事とよく適合していた。彼の方法はある意味1870sにおけるエジソンのそれに似ていた。クーリッジの方法はアメリカの技術において新しいものではなかったが、延性タングステンフィラメントの実用化の成功は、アメリカの会社が、強い商業的関心がある領域で、前もって考えられた飛躍(preconceived)を遂げるために、うまく組織化された進行中の研究計画の中で、膨大な資源を投じた最初の例だった。その成功は、GE研究所の新時代の始まりを告げた。

5-4-2 ラングミュア

  • ラングミュアが研究所に入所したのは1909年である。その背景にはスチーブン工科大学における不満足な環境、科学的名声を得たいと思っていたこと、家庭を支える収入を必要としていたことがあった。
  • 彼が最初に選んだ研究テーマは、真空中における延性タングステンフィラメントの操作だった。当時、延性タングステン電球には、(1)交流で使用するとすぐに落ちる(failed)こと、(2)内側が黒化してしまうといった実用上の問題があった。しかしラングミュアはこれらの問題を直接解決しようとするのではなく、まず電球操作の基本的な原理を理解しようとした。具体的には、電球の中で何が生じているのか? 温度や圧力の変化によってどういった影響が生じるのかを解決しようとした。言い換えれば、彼が行ったのは、真空ないし気体中における放電現象に関する一般的な研究だった。実際彼自身、研究を振り返りつつ、「役に立たない(useless)」、「馬鹿げたとさえ言える(even foolish)」ものだったと書いている。
  • 彼はこの研究を4年間行い、華氏3600度では水素分子が原子の状態へと分離することを発見し、この知識を応用して、限られた範囲を熱するのに使うatomic-hydrogen welding(原子水素溶接)を開発した。さらにその後、黒化の問題はバルブ内に気体を封入することで解決できることを見出した。彼の研究は、フィラメントから放出される光はその表面における機能であること、そしてそのフィラメントの形状が熱の損失に大きく影響することを示した。それゆえ、彼は螺旋状のフィラメントを設計した。それは、光はフィラメントの全表面積から放たれるものの、熱は螺旋の表面からしか失われないものだった。そしてそれらの特許が出願されたのち、学術雑誌に論文を発表した。
  • ラングミュアの研究は、彼を熱電子放射と、真空中における電子の移動に関する研究に導いた。当時、実験結果があまりにも一貫していなかったが故に、熱電子放射の理論には疑義が持たれていた。中には、フィラメントに衝撃を与え(ボンバード)電子を叩き落とす(キックオフ)するためには残留ガスが必要であるから、真空中における電子放射は不可能であると考える者もいた。しかし、ラングミュアは、真空中での熱電子放射は可能であると信じた。というのも、彼は複数のエミッター(フィラメント)を数学的に分析し、フィラメントの周囲の空間に電荷が蓄積された(space charge)がゆえにそれが可能であると主張したからである。1913年に発表された論文は物理学者らの関心を集め、弁護士は硬真空管の特許のプライオリティーを主張するためにこの論文を用いた。
  • 熱電子放射の研究において、ラングミュアは非常に高い真空を必要とした。当時GEには世界でも最も進んだ真空技術を有していたものの、ラングミュアはコンデーセーション(凝縮)ポンプをはじめとするさらに優れた真空技術を開発した。
  • こうして彼は一流の産業研究者となっていく。彼は、技術を直接的に改良するためではなく、特異な現象の根底にある科学的原理を発見するためにこれらの研究を行った
  • ただその一方、技術改良を目指した研究も行なっていた。彼はタングステンのpasteを作る機械など、白熱電球をfabricateする技術開発も行った。さらにアレキサンダーソンと協力して、高周波交流発電機のための変調機の開発を行った。
  • 熱伝送の研究も行った。この分野でも工学コミュニティーとの付き合いを維持し、学会からメダルを授与された。
  • 同時期には、GEの無線・真空管部門において、ラングミュアは大きな役割を果たした。GEが無線市場に乗り出した際に、ラングミュアは同社において先頭にいた。彼の努力を通じて、米政府が1915年に軍事用の注文を始めた際に、GEは最良の無線機を提供することができた。
  • しかし彼が名声を得たのはこの種の成果ではなく、あくまで基礎研究のためだった。ただし彼の基礎研究でのアプローチは、商業的な関心に強い影響を受けていたのも事実である。彼の研究方法は、複雑な実験を行うことよりも、分析能力に依存していた。そのため、彼の分析は丁寧な補正因子(correction factor)を必要とした。
  • 彼がこの方法を選んだのは、GE由来の器具や装置を使うことを好んだからである。電子放射の研究はその際たる例である。彼は、タングステンフィラメント電球と、真空管というGEにとって商業的に重要な2つの装置を使った。彼が得た成果は、製品を改良することに応用された。彼は、フィラメント近傍に空間電荷が蓄積することを理解し、真空管のフィラメント近傍に正バイアスの「空間電荷」グリッドを挿入して、電子放射を増強することに成功した。
  • つまり、彼は(基礎研究を重視しつつも)、絶えず応用を模索していた。そして、適切に立てられた問いは、研究者をもともとの問題を越えさせる結果を生むことがあるということを理解していた。(その問題が最初は科学・技術の言葉で公式化されているかどうかは別であった。)
  • ラングミュアにとって、物理原理を理解することと、技術を改良することは、同じ探究の一部分だった。そして彼の根底にある応用への関心は、実践性への外に向かうことを妨げ、その結果、研究の射程を狭める側面があった。
  • 1932年、産業研究者としては初めて、ラングミュアはノーベル物理学賞を受賞した。それは、白熱フィラメントの表面現象の研究に対して与えられた。その他に、彼は63の特許を取得し、GEに大きな貢献をした。彼は産業的な環境における一流の研究者とは何かを示した。それは、実用主義(utilitarian)と、創造的な知的コミットメントを両方持つことだった。

 

Conclusion

  • 1920年頃までにGE研究所の研究開発はさまざまな形態をとった。クーリッジとラングミュアの事例は研究スタイルを網羅的に説明するものではないものの、これらはホイットニーが、問題それ自体と、研究者の個々人の能力応じた、異質の研究アプローチを鼓舞していたことを示している。さらにホイットニーが、注意深く選ばれた研究者の独立性や発明精神にいかに信頼していたことも同時に示している。
  • 2人は異なった方法を用いていた。しかし、会社のニーズを満たすために仕事をしていた点は同じである。両者は会社の工学・製造部門と連携を維持することに注意を払っていた。両者の関心と方法は、企業との連携を保持しつつも、さまざまなアプローチで課題に取り組む研究所を特徴付けている。そしてそのような幅広い研究スタイルは初期の段階で生まれ、その後の数十年間にわたって、研究所と会社に奉仕した。

 

感想

・研究者なるべく自由を与えつつ、それとなく全体として研究の方向づけをするというのは、リサーチディレクターの重要なスキルではないだろうか。(もちろん、彼自身が自然科学でPh.Dを持っていることが必要不可欠だというのはいうまでもない。)

・産業との緊密な連携ということだと、どうしても理化学研究所の第三代所長を務めた大河内正敏の思想を想起してしまう。大河内とホイットニーの方針には何か似通っている点があるかもしれない。例えば、大河内の主任研究員制度を通じて研究者に研究の独立性を与えるやり方は、ホイットニーの方法と似ているかもしれない。

・20C前半頃の企業内研究所、大学の研究所、軍の研究所における、それぞれの特徴の違いを一度は考えた方が良いかもしれない。大学の研究機関と企業・軍の研究機関の違いとしては、後者は(1)よりプラグマティックであり、(2)研究成果の公表に制限が加わる、といった点は挙げられるかもしれない。研究者の側から見て、それぞれの研究所のどこに魅力を感じるのか(感じないのか)という視点も重要である。例えば、ラングミュアはスチーブン工科大学の環境に満足していなかったという事情がGEへ異動した背景にあった。一方、離職率を見ると、数年後に大学のポストへと異動したものがいたことも事実だった。産業研究者の社会的ステータスみたいな要素もあるように思う。

ただし、日本の場合、むしろ積極的な理由で異動する場合もあったという感じがしている。例えば、海軍技術研究所の技術者で(戦後ではなく戦前において)民間企業や大学へ異動した者は少なくないが、それは海軍の環境に満足していなかったからというよりは、むしろ先端の技術を他のセクターに移転し、産業を促すみたいな意図があったように思う。全体として見れば、そうした異動は知識や技術の波及にとってプラスになるように感じる。

 

 

 

関連書籍

 

 

 

 

 

 

 

L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (4)

Chapter 4 Origins and Early History of the General Electric Research Laboratory (pp.62-96)

 

第四章は、1900年にGEの企業内研究所が設立されてから1920年頃までの歩みが記述される。具体的には、同研究所の役割、経営陣/研究者陣のパワーバランスの変化が、ホイットニー、クーリッジ、ラングミュアらが開発した電球や無線技術(GEM、延性タングステン電球、窒素ガス封入電球、クーリッジ管、硬真空管)の展開と関連づけながら分析される。研究所の役割という社会的文脈と、技術の設計の文脈とがバランスよく記述されており、なおかつクリアで一貫したストーリが示される。

1900年にスタインメッツらの尽力でMITのホイットニーを所長に引っ張り出す形で発足したGE研究所だが、当初経営陣は「金を浪費する機械」となることを懸念するなど、その設置には消極的だった。GEの研究所の意義がはっきりと認められるようになるのは、1911年にクーリッジが延性タングステンフィラメントの開発に成功して以降のことである。この発明によって、欧州における技術革新の脅威に不安を抱いていたGEは、米国の電球市場における独占的地位を確保することに成功し、欧州に対するライセンサー(特許を付与する側)になることができた。さらには研究所における活動が、同社の電球技術の方向性をコントロールすることができるようになったことをも意味していた。

さらに、GE研究所の役割の変化に決定的な影響を及ぼした出来事が第一次世界大戦である。ホイットニーは海軍諮問委員会(Naval Consulting Board)に出入りし、米国海軍に同社の高出力無線システムや音響兵器を売り込むなど、軍との繋がりを深めていった。またクリーヴランドでは軍事用真空管を大量生産する手段が考案され、陸軍に対しても軍用クーリッジ管を大量に納入した。クーリッジ管は複雑かつ高価で、市場規模が小さかったため、軍需の存在は重要だった。

第一次世界大戦は、GE研究所に差し迫った軍事的問題を解決するための、組織化された研究開発を行う力があることを示す機会を与えた。それ以降、GEの研究所は企業にとってのみならず国全体にとっての価値が認識されるようになった。

同時に社内における経営陣/研究者陣との間のパワーバランスも逆転し、1928年に初代研究所所長のホイットニーがGEの副社長にまで上り詰めたとき、研究所の地位は一つの頂点に達した。

 

以下、粗い要約。

 

 

4-1 The need for industrial research

  • 1890sにGEはアメリカの電灯市場を独占していたものの、米国と海外においては、深刻な競合相手=ガス灯が今にも復活しようとしていた。
  • エジソンが1870s末から1880sに電球と電力システムを発明したとき、彼はガス灯が作り出していた大規模な室内照明の需要から恩恵を得ていた。蝋燭やオイルランプは大きな面積を照らすにはコストがかかり、かつ煤が出るという欠点がある。しかし、1850sに入ると、ガス灯がこの問題を解決した。そしてエジソンの電球は、スイッチに触れることで操作できる便利さを付加し、安全性と最新の科学的技術のオーラを与え、フリッカー(明滅)の問題を解決した。
  • 電灯に対抗すべくガス会社はガスの値段を下げ始め、1880s-90sにかけて、事実上ガス灯は電灯のコストを下回った。さらに、オーストリアのCarl Welsbachが発明した”mantle”(メッシュ状のコットンで構成される)が拍車をかけた。ガスの炎はmantleを熱し、明るく、安定して、黄色がかった光を放つ。1893年に米国へ導入されると、従来のガス灯の半分以上コストを下げるといった劇的なコストパフォーマンスを実現した。
  • その間GEの関心は、電球自体の改良に向いていた。GEの炭素フィラメントの問題は、ある批評家の言葉を用いると「小さすぎ、赤すぎ(too red)、熱すぎる」点にあった。すなわち、消費エネルギーの大部分が可視光ではなく赤外線領域で熱を発生させていた
  • エネルギーのうち照明のために消費されるのは5%のみで、残りは熱の発生のために消費されるという熱の発生が最大の関心事だった。可視光スペクトル内でエネルギーを発散させるためには、華氏11000度以上で最大の効率に到達する必要があるが、炭素の場合華氏3000度以上では操作できなかった。したがって、この問題を解決する方法は、
  • 華氏3000度以上で長時間保つフィラメントの開発
  • 選択的に発光する(スペクトル内の狭い可視光帯に放射を集中させる)素材の発明

の2つだった。

  • 1892年にHenri Moissanは電気アークファーネス(electric-arc furnace)を発明し、科学者は白熱に潜在的に応用できる素材の組成や性質を調査できるようになった。
  • 世紀転換期にドイツで発明された2つの新しい白熱電球がGEの関心をひいた。一つはゲッチンゲン大学Walter Nernstによるglower lampだった。米国ではWHがこの特許権を保持した。
  • 二つ目はWelsbachによるオスミウム(Os)から構成されるフィラメントだった(1898年)。それは華氏4000度以上で、選択的に放射する性質を見せた。そしてそれはGEの炭素フィラメントよりも60%効率がよかった。しかしオスミウムは希少で、脆いという欠点があった。しかしこれらの発明は、(1)効率の良いフィラメントが実現可能であるということ、(2)炭素フィラメントは時代遅れであるということに気づかせる役割を果たした。
  • 19C末、イオンや低圧の蒸気を通じて光を放つ、いくつかのランプの開発があった。Peter Cooper-Hewittは水銀蒸気を利用した電球を開発しており、ウェスティングハウスが彼を支援していた。
  • 1890年代末、スタインメッツはHewittの実験室を訪問し、GEも生産と分離された新しい研究所を設立するべきであるという確信を得た。スタインメッツはドイツで研究活動をしていた経験もあり、欧州の動向に精通していた。1897年に彼はGEに研究所を設立し、そのための支援を得るという公式な提案を行った。彼は研究所が電気化学志向であることを望んだ。その理由の一つは、彼がアーク灯に関心を持っていたからだった。
  • 1897年スタインメッツはCoffinや経営陣の態度に不満を抱いた。というのも彼らは経営と結びついた資金拡大を目指していたからである。保守的な体制が決定力のある行動を妨げていた。
  • しかしスタインメッツは諦めず、研究所設立のためにより大きな声を必要とすることを認識した。1899年には弁護士のDavisに接近した。(スタインメッツ、Davis、Rice、Thomson VS Coffinをはじめとする経営陣)
  • Riceへの手紙の中で、水銀蒸気ランプ、アークライトの電極、グロータイプのランプ、オスミウムのような新種のフィラメント素材の作業を含んだ研究所の研究プログラムを述べていた。そして、研究所は、製造関連の仕事・問題から独立したものであることが必須であると提案した。
  • 経営陣は不本意ながらもスタインメッツらの提案に同意した。しかし、それは警告が伴っていた。すなわち、所長には「正しい」人間を配置しなさい、さもなくば研究所は「金を費やす機械」になってしまうというものだった。こうしたコストと成果への強い関心は、初期の研究所の信条となり、所長には大きな重荷を与えた。研究所はとりわけ電灯の分野で、然るべき時間で一定の成果を出さなければならない。ある研究員によれば、経営陣は研究所の設置に後ろ向きで、何人かの経営陣は数年後に、金が浪費されていることを示し、研究所を閉鎖することを考えていたという。

 

4-2 Establishing the Research Laboratory

  • 経営陣から許可が出る前から、スタインメッツは研究所の所長にふさわしい化学者について、トムソンに相談していた。トムソンに具体的な案があったわけではないが、彼は化学者というより一般的な教養と経験を備えた人間がふさわしいと考えていた。
  • トムソンが考えている間、スタインメッツはMIT教授のCharles Crossに接触し、Willis Whitneyを紹介された。
  • ホイットニーは1890年にMITで化学の学位を取得し、その後ドイツのオストワルトの下で博士号をとった。さらにパリに移り、有機化学の研究に従事していた。その後MITに戻ったが、そこで彼はinstructorの地位にとどまっており、1900年秋ごろまでにはMITの環境に不満を抱いていた。そこでGEの研究所に大きな関心を持った。
  • スタインメッツ、クロス、ホイットニーの会合の中で、GEの人間は彼に「彼らは産業家(industrialist)かもしればいが、科学的アイデアも持っている」と述べたが、ホイットニーは難色を示した。そこで彼らはホイットニーに、GEには週2回と夏休みの期間のみフルタイムで働けばよいことや、高額の給料を提案した。
  • GEがホイットニーに接触したことで、同社にMITの化学者・物理学者とのコネができ、商業技術の発展における科学の利用を促進させた
  • そして産業界へコミットすることに曖昧な気持ちを抱きつつも、1900年12月にホイットニーはGEの研究所の所長に就任した。当初の週2回という条件を週3回にすしながらも、あくまでMITに存在感を維持しつつげ、1901年秋までは二重生活を営むことになった。

 

4-3 Early days of the laboratory

  • GEの作業が急速に拡大する中でスペースが不足してたので、ホイットニーはスタインメッツのスケネクタディにある自宅の家の建物にショップを設置し、最初に水銀蒸気ランプの仕事に着手した。さらにホイットニーは磁鉄鉱の分析を開始したが、それはスタインメッツが磁気現象に関心を持っていたことに由来する。
  • 水銀蒸気ランプを商業的に実用化することは容易ではなかった。ホイットニーは目に見える成果を研究所が挙げることを要求されていることを認識していたが、うまく行かなかった。
  • 電灯分野で重要な成果を挙げるのにかなりの時間がかかることがわかると、ホイットニーは研究所の原則である「生産部門との独立」を侵害してでも、研究所のエリアを拡大することへシフトした。
  • 1902年に彼は、アーク電灯の電極の研究において、William Weedonを雇った。当初、彼らは困難に直面し、学術研究を産業研究へ応用することの効能について疑義が持たれるほどであったが、彼らの仕事は数年後にチタニウムカーバイド(heat-resistant alloy titanium carbide)という成果に結実した。
  • ホイットニーの妥協策は、研究所の仕事ラインを増加させ、30以上の計画は、14人以上のメンバーによって遂行された。
  • 1902年初頭、Riceはついに株主に対してGEの研究所が設立されたことを説明しようと決心した。そこでは、「独創研究に奉仕させる研究所を設置することが賢明であると判断された」と説明された。

 

4-4 Shaping the institution

  • 初期における研究所のオペレーションでは、ステインメッツが積極的な役割を演じた。彼は当初、ホイットニーとライスとの間を媒介する役目を果たしていたが、ホイットニーとスタインメッツの仲は好ましくなかった。スタインメッツは問題の目的から逆算して仕事を組み立てるのを好むのに対し、ホイットニーは最初から初めてそのまま進んでいくことを好んだ。
  • しかし1903年に19人の研究者、26人の助手からなる、GEの中でも安全とはいえばいものの、それなりに明確に定義されたニッチな場所として、駆け出しの研究所が稼動し始めた。

 

 

4-5 Research on the incandescent light

  • ホイットニーは1890sにMoissanが発明した電気炉に基づき、電気高音ファーネス(Electric high-temperature furnace)を開発し、これによって従来は不可能だった温度で物質を熱し、物理的性質を調べることが可能になった。彼は予想以上の成果を挙げ、フィラメントの表面の構造を変化させることに成功した。具体的にはフィラメントを固く、丈夫なものにし、温度をあげることで抵抗をあげ、融点を高くし、金属のようにすることに成功した。同社はこれをGEM(GE Metallized)ランプと称し、Harrison Lamp Worksと共同で、1905年に販売を開始した。この新製品は安く販売・製造することができたので、GEはアメリカ電球市場を再び独占した。
  • しかし、GEMの達成感は短命に終わった。というのも、電気の価格が高い欧州では金属フィラメントの研究に集中的に取り組まれており、1902-03年に、ジーメンス・ハルスケ会社の研究所で、タンタムを用いた延性フィラメント(ductile filament)の開発に成功したからだった。これは効率、コストがオスミウム電球よりもよく、GEはこれに注目せざるを得なかった。
  • 1904年にジーメンス・ハルスケはGEに同製品の特許権を申し出たが、交流で使用する場合のパフォーマンスは下がるためGEサイドは拒否した。その代わり同社は独自にアメリカ権を取得し、ドイツからタンタムを供給しつつNational社と共同で延性フィラメント電球の製造を行うことになった。
  • この状況はGE研究室に脅威を与えた。なぜならそもそも研究所の目的が、外国の特許権を購入しなくても済むようにすることになったからである。
  • ホイットニーは金属フィラメントの白熱電球に取り組むために、再び戦力を組織した。電気化学の知識を活用して、効率の良さが期待できる物質を選んで調査を行った。1904年の秋に、彼はWeintraubに、タングステンをワイヤーの形にするためにその構造・特性の調査をやらせた。1904-06年にかけて、Riceの承認もあって、研究者の数は20人から44人に増加し、金属フィラメントの研究が行われた。
  • 1906年初頭、ホイットニーはMITの優秀な実験化学者であるクーリッジ(Coolidge)をスタッフに要求した。彼は電気工学の学士を取ると、ライプツィヒ大学で物理の学位を取得した。そして1900年以降がMITで研究していた。最初クーリッジはホイットニーの提案を拒否したものの、より良いお金と時間の条件を提示されたことで1905年に承諾した。
  • クーリッジが来る前、GEは(1)数多くのヨーロッパの会社が金属フィラメントを実現していること、(2)そのうちのいくつかはまもなく市場に出回るであろうことを学習していた。そこで、RiceはホイットニーとHowellを欧州に派遣し、状況を評価し、特許や製造権を購入するかどうかを考慮させた。その間研究所にはクーリッジが残り、assistant directorとなった。
  • ホイットニーとHowellはドイツのWelsbachの会社であるAuer Gesellschaftsを見学した。そこではオスミウムタングステンを組み合わせた金属フィラメント電球を製造していた。これらに衝撃を受けた2人は、GEにWelsbachの特許を購入することを提案した。交渉の結果、$100,000で購入することが決まった。2人はさらに、JustとHanamanによって開発された中空のタングステンフィラメントの特許権購入をも提案したが、これは購入されなかった。
  • 1906年にホイットニーがGEに戻ったとき、困難に直面した。というのも、彼らが購入したAuer社の技術をそのまま導入できず、アメリカで販売するにはより安く丈夫である必要があり、不満が残る状況になっていたからである。しかし、ホイットニーらが視察に行っていた最中に、クーリッジらは有望な方法を考案していた。彼らは、タングステン粉末を金属ビスマスカドミウム、および水銀のアマルガムと混合してからフィラメントに引き込み、次に熱処理によってアマルガムを追い出した。
  • 金属フィラメントの完全化が、研究所の最先端の課題になった。ホイットニーは自らの判断で購入してしまった責任感からAuerの技術の研究を継続する一方、クーリッジらは新しいプロセスの研究を行った(数年間でタングステンフィラメントを製作する13もの異なったプロセスを試行した)。
  • 大きなプレッシャーは企業マネジメントのサイドから生じた。もしも欧州がこの勝負に勝ってしまったならば、GEは多額の特許権使用料を払わなければならなくなる。ホイットニーもGEが遅れをとることを心配していた。
  • しかし、1907年半ば頃、GEはこの勝負に負けていることがわかりつつあった。というのもGEが特許権の購入を見送ったJustとHanamaの技術の商業化が成功したのである。
  • スタインメッツはホイットニーのマネジメントに不満を持っていた。1908年にスタインメッツがRiceに宛てたメモの中で、GEの研究所は「先駆的な仕事」をすることに失敗したと不満を述べている。
  • この負い目は1907年の不況と相まって研究所に災難をもたらした。CoffinとRiceは研究所の予算を41%削減し、44人中14人を解雇した。そしてホイットニーは心身ともに疲弊し、フロリダで療養することになった。その間、クーリッジが気落ちした研究者への指令を引き継ぐことになった。

 

4-6 Recovery

  • 研究所の復活の源は、1907年におけるクーリッジの研究にある。彼は華氏700°(理論値よりも低い温度)で叩いたり搾ったりすると、その脆さが解消することを発見した。しかしGEが欧州の特許権を購入した後研究の方向性を変え、酸化タングステン粉末の研究に取り組んだ。1908年にホイットニーが所長の地位に復帰した際、Riceはクーリッジを英国出張部門へ派遣し、そこで彼は機械的プロセスの方が化学的プロセスよりも優れていることを信じることになった。
  • スケネクタディに戻った後、クーリッジは、タングステンが脆くなくなったのは、繊維状の内部構造を持つようになったためだということを理解した。彼は熱処理と機械的処理とを適切に組み合わせることで、結晶上のタングステンを引き伸ばし、延性タングスタンを形成することができることを確信した。そして、延性タングスタンフィラメントは、1912年に実現した。
  • 1906-1910年にかけて、3/4のスタッフがこの研究に従事し、予算の半分以上が費やされていた。だが、それは欧州の特許権を購入するよりは安価であり、クーリッジらの研究の価値は大きかった。
  • クーリッジらは酸化チタンを結晶成長の抑制剤として利用することで、商業的なスケールで延性タングステンを作るプロセスを設計した。彼らはハリソンと協働し、1911年末までには商業化に成功していた。延性タングステン電球は、(1)丈夫で、(2)他の白熱電球より25%ほど効率が良い(10ルーメン/W)という利点があった。
  • 延性タングステン電球の商業化は、GEを再び市場の支配的地位に戻し、大きな利益を産んだ。WW2までの年利益の1/3-2/3は、この製品の利益が占めていた。
  • さらに、延性タングスタンの開発成功は、(欧州に対して)GEがlicenseeからlicensorになることを意味していた。これにより欧州の企業がアメリカ市場に参入することを防止し、独占を維持することができた。
  • さらに、裁判絡みでも、GEは独占権を強化することに成功した。1911年に司法省は、GE傘下は「競争的」と表面上謳っているが、実際には協力的な関係にあるとして、GEを独占禁止法違反で起訴した。しかし、GEはむしろ傘下との取り決めを放棄することで市場を独占し、より大きな利益を得る方法を模索した。すなわちGE は司法省が掲げた独占した経済を解体するという「進歩的な」試みを逆手にとって、米国産業で独占を維持する方法を見出した。

 

4-7 Diversifying research

  • 延性タングステンフィラメントを開発したことで、研究所はついに白熱電球の分野において、GEに技術のコントロールを与える(provide GE with controlling technology in incandescent electric lightning)という基本的なミッションを達成した。
  • 企業内研究所が長年その地位を安定化させる戦いは終わり、今や重要な変革が起きていた。それは、企業内の監督委員会の地位が下がり、代わりにホイットニーによる研究の計画や行政のフリーハンドが強化されたという変化である。この要因の一つは、1913年にGeの所長がCoffinからRiceに変わったということがある。彼はスタインメッツがいう、商業的な急務に邪魔されない独創的な研究概念を支持していた。
  • 1900年、研究所の最も著名な科学者になることが約束されたIvring Langmuirがスタッフに加わった。彼はコロンビア大学で金属工学の学士を取得し、ゲッチンゲン大学で物理化学の博士号を取った。指導教官はヴァルター・ネルンストだった。博士論文では、白熱フィラメントの表面における熱の伝達や気体の分離を分析した。それは彼に白熱電球真空管を扱うための格好の準備を与えた。1906年から1909年にかけてStevens Institute of Technologyで化学を教えていたが、教育の負担や生徒のやる気のなさに嫌気がさしていたので、ホイットニーのオファーを快く受け入れ、GEの終身研究者となった。
  • GEでは最初、彼は延性タングステン電球で生じる物理・化学プロセスを評価するための長きにわたる研究を行った。ホイットニーは、電球の操作に関する知識を得ることは電球の改良につながると信じていたので、この明らかに無私的な(disinterested)研究に寛容だった。
  • しかし、1912年になると、彼の研究は電球の黒化を防ぐだけではなく、電球の能率をあげることがわかった。電球内部で生じる熱の伝達と物理的なプロセスの理解に基づき、ラングミュアは気体環境で利用できる特別なフィラメント構成を設計した。タングステン原子の蒸発を抑制することで電球の黒化を防ぎ、高い動作温度を実現することで効率を上げるものだった。そしてその電球の完成のために、25人体制で6ヶ月間研究が行われた。この間研究所は、大量生産可能かどうかを確かめるために、工場と密接に連携していた。1913年に窒素ガス封入電球が発売されると、その高出力、能率の良さ、安さから、それはガス灯を駆逐した。WW1後はより小さな出力(50W)の製品も販売した。
  • 1912年にホイットニーは電球真空委員会(Lamp Vacuum Committee)を設置し、週に一回程度、研究を方向づける会合を開いた。1914年には同委員会のアドヴァイスによって、電球の製造、試験、排気も方法に関する計画が遂行された。これらの計画の多くは電球技術のマイナーな改良を主眼としていた。
  • 研究所設立からの最初の20年間で、電球と並ぶもう一つの活動の主要な領域が、真空管電子工学(vacuum tube electronics)と無線だった。1890年代にマルコーニによって船舶-陸上局間の無線電信が実現され、その後、フェッセンデンやドフォレストらによって音声通信の可能性が模索された。1903年にフェッセンデンはGEに、実験のために搬送波を生成する高周波交流発電機を構築することを申し出た。最初の発電機はスタインメッツが設計したが、その後GEの工学部門のアレクサンダーソンがそれを改良した。1906年にはデフォレストがフレミングの二極真空管を改良し、三極真空管を発明した。しかし、このオーディオンと呼ばれた装置は、十分に組み立てられていたとはいえず、パフォーマンスに一貫性がなく、”blue-haze”という高度にイオン化された状態まで完全に分離される前の低電力しか処理できなかった。(able to handle only very low levels of power before breaking down completely in a highly ionized state called blue haze.) 1912年末、アレクサンダーソンはオーディオンが交流回路における変調器として利用できることを理解し(ただし音声通信のために利用することはなかった)、ラングミュアの注意を引いた。ラングミュアはドフォレストの装置を改良する方法を思いついた。彼はドフォレストが信じていたように残留ガスは不必要で、”blue haze”が発生しない、高い出力で作動できる高い真空度の真空管を設計した。
  • 続く数年間、GE研究所において、ラングミュアは真空管と無線研究の先頭に立った。彼はWilliam White、Albert Hull、Saul Dushmanらと研究を行った。ダッシュマンはケノトロンと呼ばれる装置を開発した。ハルは負性抵抗を利用したダイナトロンという新しい真空管を設計した。これにより無線通信で重要な増幅や発振をより効率よく行うことができるようになった。1914年12月にはダッシュマンが真空管を利用した発振回路を組むことに成功し(500W, 200,000cyc/s)、交流発電機自体は不要なものになった。
  • 研究所はまもなく無線機の製造と設計に参入した。1915年半ばにはホワイトが無線システムのオペレーションを提案し、同年10月にスケネクタディ-ピッツバーグ間の50マイルの通信に成功した。このとき欧州ではWW1が勃発しており、アメリカ軍は戦力の近代化を考慮し始めていた。そしてホイットニーの2隻の戦艦に研究所製の無線システムを搭載して試験を行うという提案は熱烈に迎え入れられた。無線セットを軍に売る見込みはencouragingなものに思われたので、彼は1916年の春に研究所内に小さな製造オペレーションを設立され、そこで一ヶ月で60本の真空管生産が行われた。1917年4月に米国が宣戦布告すると、米国政府は特許権の規制を緩和した。そのため、GEは軍に高出力の無線システムや、航空機、船舶、陸上兵士間の通信のためのシステムを供給することができた。1918年末に終戦すると、GEは無線部門で大きな利益を得ることを見出した。しかし、AT&Tとの複雑な特許の状況は、まだGEが無線市場において支配的ではなかった。
  • ラングミュアが真空管研究に取り組んでいるとき、クーリッジはX線管(X-ray tube)の開発を行っていた。X線は1890sに発見され、物理学者の関心を集めていた。さらにそれには医療における実用性もあった。クーリッジは陽極の白金をタングステンに置き換え、1913年にクーリッジ管が小規模ながら生産された。
  • しかし、これは期待通りのパフォーマンスを見せず、診断にもかろうじて使える程度のものだった。一つの解決策は、ラングミュアが示唆していたように、高真空中で電子放射を実現することだった。こうした新型のクーリッジ管ができたものの、複雑で高価であったため、市場規模が小さく、大量生産を正当化しなかった。しかし、WW1が勃発すると軍需が生じ、クーリッジ管の製造が正当化された。
  • 1911年以降研究所の仕事は多様化した。このとき、ホイットニーは、進行中の研究よりも他部署からの要請を優先する”Trouble Work”という方針を固めた。しかしその中でも無線とX線管は最も重要だった。というのもそれらが研究所に創業者が予見していたもののそれまでほとんど実現されていなかった新しい方向性=GEが新製品分野へ展開するための技術を提供したからである。電灯は同研究所の最も利益を生むサービスだったが、まだポテンシャルを生かしていなかった。
  • 1902年時点でホイットニーが株主に述べていたのは、研究所は科学者の自主性よりも会社への奉仕を優先させるという方針だった。しかし、タングステンフィラメントで成功を収めると、彼の指示の厳格さが低減していった。
  • 同時期には、社内の監督委員会の支配力も低減していった。1916年までにGE研究所はおそらく米国一の研究所になっていた。WW1はGE研究所に、差し迫った軍事的問題を解決するための、組織化された研究開発を行う力があることを示す機会を与えた
  • 海軍諮問委員会(Naval Consulting Board)の要請で、研究所は潜水艦探知の研究にも取り組んだ。ラングミュアとハルはナハントにある海軍の研究施設に出かけていき、クーリッジはスケネクタディでその問題に取り組むべくチームを主導した。そしてGEと海軍の協力関係のもと、C-tubeとK-tubeという2つの音響システムが完成し、1918年までに米国海軍の戦艦に搭載された。研究所の他のグループはクーリッジ管に軍事利用を採用し、陸軍に納入した。さらに、クリーヴランドでは軍事用真空管を大量生産する手段が考案された。
  • このようにして研究所設立から20年後、それはGEにとってのみならず、国全体にとっての価値が認識されるようになったホイットニーは米国化学学会の長として海軍諮問委員会に奉仕し、国家の準備計画の一部としての産業研究を強く推進した。そしてそれがGE研究所を、科学的、進歩的であるといったプラスのイメージを付与することに繋がった。GEは同社の名前を、科学を連想する産業研究の価値と結びつけようとした。

 

 

  • Moving into the 1920s
  • 1922年にGEの社長がRiceからSwope(Swopeは1890sにMITで電気工学の学士を取得し、最初はWHで働き、後にGEに異動した)に変わった時点で、GEの研究所は複数の機能を持つようになっていた。
  • 製造部門に対する技術的サポートを提供する役割。あらゆる種類の問題の解決、製造の方法の改良方法を示す。
  • 会社の重要な特許の保護。特許侵害訴訟にかかわる業務。膨大な記録の作成。会社を特許上有利な立場に置くための調査や論文の執筆。
  • 高品質・最先端の製品と、「進歩的(progressive)」精神を宣伝する手段としての役割。
  • 1920sを通じて研究所の運営はスムーズに進んだ。資金とスタッフも増加し続けた。1928年にはSwopeは(研究担当の)ホイットニーをGEの副社長にさせた。このとき研究所は分割上の(divisional)な地位を与え、スタインメッツの家の離れから始まった研究所の長い「旅」は頂点を迎えた。

 

 

感想

・WW1と米国の科学・技術界との関係の全体像が知りたい。GEと陸海軍の繋がりはその一部に過ぎないからである。

・電球技術と真空管技術は、それぞれ目的は全く異なるものの、(直感的に)かなり密接に関連しているように思われる。フィラメントや排気技術など、製造プロセスの多くは重複しているような感じがするが、実際はどうなのか。

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電球と真空管の発明/欧米と日本(『電子管の歴史』p.44を参考に作成)

・このように時間的ラグを単純に比較することには注意が必要である。発明の時点は、実用化の開始時点を意味しない。例えば、1904年時点でフレミングバルブのポテンシャルを理解していた人間はほとんどいなかったと思われる。真空管の実用化は欧州でもおおよそ1910s以降なので、この12年の「遅れ」は、電球の11年の「遅れ」とはたぶん意味が異なる。

・そういえば、フィラメント素材の研究についてはかなりの分量を割いて説明されるものの、真空・排気の話がほとんど出てきていない。5章以降に登場することを期待する。

 

 

関連文献

 

 

 

yokoken001-note.hatenablog.jp

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toshiba-mirai-kagakukan.jp「1911(明治44)年に米国GE社クーリッジ博士の引線タングステン線の完成が報じられ、当社も引線タングステン線による電球の製造販売を開始した。この引線タングステン線の発明は、材質の強度不足や品質の不均等を根本的に改善すると共に、ガラス球内の排気装置の発達もあり電球製造に革命的な影響を与えた。その後、米国GE社ラングミュア博士は、電球の寿命はタングステン線の蒸発によって左右されることを発見し、この蒸発を少なくすれば寿命を延ばすことができると考え、1913(大正2)年に電球のガラス球内にタングステンと化合しない窒素ガスを封入したガス入りタングステン電球(窒素電球)を発明した。当社は、この発明の報に接して直ちにこれを輸入販売すると同時に、その試作研究に着手。1915(大正4)年に窒素ガス入り電球の製造に成功した。」

 

L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (3)

Chapter 3 The Establishment and Early Growth of General Electric (pp.42-61)

 

第三章のテーマは19C末における米国の電気産業の様子と、GEが誕生する経緯、初期のGEの企業体質についての分析である。

1892年にEGEとT-Hが合併してできたGEの当初の企業体質を一言でいうと、「保守的」ということである。それはGEが古い鉄道会社のように、意思決定を複数の委員会を通す非柔軟的な構造になっていたことだけでなく、GEとWHが特許プールの仕組みを作り米国の電気市場を安定化させていたがゆえに主要な技術革新は起こりにくい仕組みになっていたことに由来している。従って、外国で技術革新が生じて初めて、GEのエンジニアたに何らかの対応が迫られるというあり様だった。当時GEには科学・技術の基礎「研究」を行う研究所はなかったので、主要な技術革新に対しては世界中の特許権を購入するか、外部から専門家を招聘するというやりかたによって対処せざるを得なかった。こうした保守的な体制に変化が生じるのが20Cに入る頃であり、その主要人物がスタインメッツだった。

 

Chapter 3 The Establishment and Early Growth of General Electric (pp.42-61)

  • GEはなぜ研究所を設立したのか、それによって企業の能力や戦略にどのような違いが生じたのか、を理解するために、本章ではGEの経営基盤と、アメリカ電気産業それ自体を把握することを試みる。以下、トマス・エジソンによって着手されたGE、およびGEの競合会社の初期の歴史について述べる。

3-1 Thomas Edison – Combining science, technology, and business

  • 1870-90sに、何人かの個人や企業がアメリカの電気産業を形成した。その中でもエジソンの功績がとりわけ大きい。
  • エジソンは数多くの方法によってアメリカ産業に影響を及ぼした。Menlo ParkやWest Orangeの研究所において彼がチームを活用したことで、ビジネスマンを科学一般の潜在価値をもつ存在、とくに科学者・技術者による共同作業によって利益を生み出す可能性をもたらすものへと変化させた。エジソンの投資が成功したことで、技術開発や制御に使われるお金が存在するということが実証された。
  • オハイオ州ミランに1847年生まれたエジソンは、10代を電信員として過ごした。1868年にボストンに移住し、グラハム・ベルを育成したコミュニティで仕事をする。エジソンの才能は、電気機械システムを概念化することにあった。彼は電信の知識を組み合わせて、メッセージの送信・記録方法を設計した。資金獲得のためニューヨークへ移り、そこでウェスタンユニオン社の後援を得た。そして多重通信電信[1]の開発などを行なった。
  • その後ニュージャーシー州で仲間を集め、メンロパークに研究所を設立した。これは米国初の産業研究所といわれるが、本書で使われる意味(=試験機関ではなく中長期的な基礎研究機関という意味)ではそうではなかった。エジソンは同所で、発明を統率することを期待した。そして実際に多数の特許を出願し、その中には炭素粉末のマイクロフォンや、最も独創的な発明である蓄音機などが含まれていた(1876-79年)。
  • 1878年エジソンは電球の可能性に関心を寄せ、初めて研究チームをフルに活用した。技術的/経済的な観点からうまくいくためには、電球だけではなく、「システム」を開発・促進・販売しなければならなかった。そこには、電気の生成、分配、消費、測定の問題が含まれていた。
  • 彼はショップ[2]とオフィスを付加する形で、メンロパークの設備を拡充した。1879年末、メンロパーク研究所はおそらく世界一充実した電気研究所だった。彼はそこで電球の開発と直流システムの研究をチームで推進した。
  • 室内電灯の需要は高く、エジソンによる低コスト化、明るさの向上は多くの投資家の注目を集めた。
  • 技術史家のトマス・ヒューズが指摘しているように、エジソンは「時代の先端にも後方にもいなかった(he was neither ahead of nor behind his times)」がゆえに、彼は解決すべき問題を達成することができた。つまり、彼の努力は、科学と最先端の技術、そして経営状況との調和を図ることに注がれていた。そして、アメリカにおけるエジソンについての神話は彼を科学には無関心な試行錯誤の発明家として描いているが、実際には彼の仕事の原理を理解するために、科学文献を大いに活用し、科学に精通した人間の配置にも注目していた。さらに、彼はパブリックリレーションと、投資家からの支持の獲得の重要性をも理解していた。いくつかの点で、エジソンの研究・開発・技術革新へのアプローチは、後続の産業研究所の初期の方針を先取りしていた。

 

3-2 Early development of the electrical industry

  • Pearl Street局、その他の中央電力局のための設備の建設のために、エジソンはいくつもの製造会社を設立した。
  • 1883年に彼の注意は、電球と電力の普及(dissemination)に向けられた。自分は経営者であると宣言し、発明に関する仕事を休んだ。そして続く4年間、その宣言通りになった。彼はニューヨークを出て、中央電力送信局や、その他の離れたプラントの設置を支持した。1886年半ばには、エジソン会社は56の中央局と、150,000個の電球を売り、その1年半後には、121局、325,000個にまで増加した。
  • しかし、その電力の分野ではエジソンが一匹狼だったわけではなく、まもなくトムソン・ヒューストン電気会社(T-H)や、交流電力を推進するウエスチング・ハウスが参入してきた。
  • 1888年ウェスチングハウスがテスラのACモーターの権利を手に入れた際、彼のシステムはエジソンの利益に深刻な脅威をもたらした。ACはDCよりも少ない電力損失でもって長距離伝達できる利点を持っていた。1888年に銅線の大幅な値上げ、Chicago World’s FairによるACの採用、ナイアガラの滝における巨大発電計画(1893年)などは、DCの「終わりの始まり」を告げていた。だが、エジソンはDCにコミットし続けた。
  • エジソンシステムの推進者だったHenry Villardは、1889年にエジソンの電球と電力の利益を単一の企業体に再統合した。彼は異なった組織をEdison Electric Company(EGE)としてまとめ上げた。これによりエジソンはビジネスの経営から身を引き、発明に再び従事することになった。
  • その間、T-HはACシステムの能力を開発し、電力界において強力な存在感を示していた。EGEが設立された1889年時点で、T-Hは51,000個の電球で419のシステムを築いていた。
  • T-Hが強力な特許上の位置を占めていたので、実際EGEは特許権に抵触するおそれなしで最新の設備を製造することはできなかった。もちろん、T-HもEGEに対して同様の懸念を抱いていた。EGEがACシステムの導入を熟考した際、T-Hないしウエスチングハウスと何らかの協定を結ぶ必要を感じた。ウェスチングハウスはEGEの利害と対立していたが、EGE の社長であったVillardはCharles Coffinに接触した。
  • 電力の牽引(traction)を除いて、両者の能力と利害は相補的だった。つまり、DCはEGE/ACはT-H、電球はEGE/アーク灯はT-H、広範な製造能力はEGE/販売・管理はT-Hといった具合である。
  • 1891年に両社(GEとT-H)は交渉に身を乗り出した。統合には財政家であったMorganが中心的な役割を果たし、1892年にGE(General Electric)が誕生した。その結果、Edisonの名前が社名から外され、彼はビジネス全体から引退した。

 

3-3 General Electric during the 1890s

  • GEの誕生の実態は、T-HがEGEに吸収されたといっても過言ではない。Charles CoffinがGEの最初の社長になったものの、彼はT-Hの社長だったときと同じ自律性をGEでも維持できたわけではなかった。Coffinを牽制するために執行委員会(executive committee)が設置され、また重要な意思決定を通過する複数の監督委員会(oversight committee)も置かれた。
  • GEの経営構造は、まるで大きな鉄道会社のように、上からの命令が下されるものだった。社長、副社長からなる本社部門があり、そこが特許部門、法律部門、パブリックリレーションズ部門を包含していた。
  • 鉄道会社と同様、外部の投資家の利益が執行委員会をコントロールしていたが、企業方針を決定する上では、執行委員会が重要な役割を果たしていた。このようなコミュニケーションと伝達の厳格な構造が、意思決定を遅く困難にさせることにより、社内事業に制限をかけていたということを理解することは重要である。内部の既得権益(internal vested interest)が製品やプロセスの変革に対して拒否権を持っていたので、GEは元来保守的だった。鉄道会社のような経営方式は、電力のような急成長する産業での競争力を維持するのに必要な革新や多様性を促すことはできなかった。
  • GEは「電気のトラスト(Electric Trust)」といわれるほど産業を独占していたが、1893年恐慌をきっかけに不況に陥った。
  • 恐慌は同社の保守的な体質を一層強化した。Coffinは資産を会計上の最低額で評価し、手元に多くの資金を維持するようにしていたので、EGEとT-Hの合併前よりも技術革新を起こしにくい体制になった。また当時の特許権の関係上、GEは白熱電球自体の大きな前進を図るよりも製造やコストの改善に取り組むのが合理的な判断だった。
  • 経済不況の中、1890年代半ば、GEとウェスチングハウス白熱電球に関するいくつかの領域で特許係争を起こした。1896年までに300以上の訴訟が引き起こされた。両者の間で何らかの調整が取られる必要があった。1896年にGE:WH=5:8(patent value)とする調整が行われた。これにより中小企業に対する両社の地位は強固なものにし、電気市場を安定化させた。この特許プールの仕組みは、両社が電気技術における主要な前進を引き起こす刺激を取り除いた。1890年代においては、ある種の自己満足の感覚がアメリカの電気製造社の中に存在していた。外国における技術的前進があって初めて、素材や方法についての根本的な疑問に通じる研究が必要とされると認識された
  • 1890s、GEとWHは都市鉄道をめぐっても争いを展開していた。両社は通信とモーターの開発に乗り入れた。WHは1890年にモーター事業に参入し、一段減速装置モーター3を開発した。1893年にはGEもそれに対抗し、No.3に相当するモーターを開発した。それはより重く防水仕様だった。
  • さらにGEは電気モーター事業にも参入し、1896年にはブルックリンブリッジに蒸気機関に代わる電車を導入した。
  • 1890年代にGEの経営と利益が回復してくると、いくつもの競合会社を買収した。特に重要だったのは、ジーメンス・ハルスケ社を買収したことだった。これにより、事実上競合会社が消滅し、1903年にStanley電力会社の変圧器の特許権を取得した。1890sにおいてGEはアメリカ電気産業における支配的な地位を固めた。
  • 同時に、GEはスチームエンジンにも関与した。原理的にタービンは巨大なレシプロエンジン(ピストンエンジン)よりも効率が良い。稼動部品が少ないのでメンテナンスの手間も省け、power/wightも大きかった。1895年時点ではGEは英国のParsonsの蒸気タービンの特許権を購入するのを拒否したが、翌年に米国のCharles CurtisがGEに接近し、同社のW. Riceが同意したことを契機に、GEのCoffinらは蒸気ターブンの開発を始めた。しかしCoffinはCurtisではなく、William Emmetというエンジニアに責任を付与した。1901年には500kWのタービンを開発し、1903年には1500kWのそれを実用化した。
  • 同計画は1890sにおけるGEの研究、開発、技術革新について多くのことを示している。既存の製造ラインから大きく逸脱するような変動ということについて言えば、GEはしばしば、方向づけや刺激を与える外部の発展を待っていた。GEは蒸気タービンの潜在能力を理解していたが、アウトサイダー(=Charles Curtis)が有望な見込みを示してくれるまで、計画の開発に着手しようとしなかった。さらに、その計画は当初タービンの知識を持たない科学者・技術者によって遂行された。そのことは、William Emmetが、(タービンについて)正確な知識を得る方法は実験によってのみである、と述べたことに表現されている。
  • GEのエンジニアはグループに分けられ、それぞれのグループは異なった製造オペレーションの責任を負っていた。彼らは会社の製品の設計の改良や、製造過程の変革の実施に従事した。GEのもっとも洗練され巨大な製造能力を持っていたスケネクタディでは、マテリアルの試験がメインで行われ、(絶縁体や磁石などの)改良された構成部品の開発はときどき行う程度だった。
  • 1896年にはスケネクタディに標準化を行う実験所(Standardizing Laboratory)を設立し、Ωなどの電気測定値の較正を行い、全社にわたってそれらの値に確信を持たせるようにした。(当初は1人のスタッフだったのが1900年には16人が雇われることからは、同所の重要性が大きくなったことがわかる。)
  • 1890sにおけるGEの最も重要な研究組織は、計算部(Calculating Department)だった。1893年にGEはNew York electrical manufactureを買収すると、同社のスタインメッツを計算部の部長にさせ、ACシステムの設計に当たらせた。スタインメッツは工学に電気物理を持ち込むという役割を果たした。そして計算部のエンジニアは、彼のコンセプト・方法を活用した。商業的な利害の関係上、成果を自由に発表することはできなかったが、1901年36歳にしてアメリカ電気学会(AIEE)の会長に就任した。
  • GEにとって商業上重要であるが、計算部の範疇を超えているような技術的展開にとっては、会社外部の発明家やコンサルタントがしばしば招聘された。GEはウェスチングハウスがテスラやスタンリーに対して行なった方法と同じやり方を継承した。1890年代半ばには、ロータリーコンバーターの特許と専門知識の導入のために、GEはCharles Bradleyを承継した。さらにACモーターの開発のためには、DanielsenやBellといったエンジニアを招聘した。
  • GEの研究開発計画に対するアプローチが示しているように、同社は継続的な研究には関心がなく、むしろ、(CoffinやRiceらは)主要な技術的発展は大企業の環境では十分に仕事ができない個人によってもたらされると信じていた。それゆえ、GEは一時的に外部の科学者、発明家を招聘するか、もしくは世界中の最新の技術特許権を購入するという方法によって対応していた。
  • 19C末の時点で、成功を持続させるための技術基盤はGE内で保証されていなかった。しかし、20Cに入ることに多くの特許権は失効する運命にあった。技術はより洗練され、かつ科学者によって電気現象についての知識が蓄積されたことで、技術的前進はもはや単純にはもたらされなくなっていた。特許プールによってGEの市場の位置は一時的に安定していたものの、欧州では様々な技術的前進がもたらされ、アメリカ市場を襲い始めていた。ジレンマはGEの研究開発のアプローチにあった。電気技術の基本的形態がそのままであるという条件においてのみ、GEは技術の先端にいることが期待できたが、科学の発展や科学と産業の関係の変化(特にドイツにおけるそれ)は、その可能性をますます低いものにした。20Cまでに、新鮮な研究のアプローチ=科学研究の強い要素を持った研究アプローチが明らかに必要とされており、それを主導することになるのがスタインメッツだった。

 

[1] 複数の発信機からの信号を同時に送信したり、一つの信号線で送信と受信を同時に交わす技術。

[2] 機械職人が様々な機械を改良考案するための工作室を備えた小さな町工場。

 

 

 

関連文献

 

 

 

 

 

L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (1)

Lenard D. Reich, The Making of American Industrial Research: Science and Business at GE and Bell, 1876-1926 (Cambridge: Cambridge University Press, 1985)

 

英語は読みやすくなく、険しい山であるが、無線史をやる上で読まなければならない文献の一つである。一応重要な部分には目を通しておく。

 

本書のテーマは、米国における産業研究所(industrial research laboratory)(ないし企業内研究所)はいかなる背景で生まれ、それが科学・技術・産業の発展にどのような影響を与えたのかというものである。産業研究所は、試験・調査を行う場所ではなく、「研究」を行う場所である。そうした形態のラボは19C末から20C初頭(WW1前)の米国に出現したといわれる。企業研究所においては、科学・技術について深い理解を持つ専門家に、生産の問題と無関係に、膨大なリソースを活用して長期的な課題に取り組むことを可能にした。そして、そこでの仕事は、個々人というよりは、テームで取り組まれる場合が多い。そうした産業研究所の事例として、本書ではGEとAT&Tの2つの企業を取り上げる。両者は共通の問題を扱いながらも、異なった企業構造や見解を持っていたため、これらを比較することで、本書の問いに関して、会社のあり方に由来する要因を導くことができるとされる。

(以下、粗いメモ)

 

Introduction: The importance of Industrial Research (pp.1-11)

  • 産業研究(industrial research)は、アメリカ人がビジネスを行う方法を変化させた。1900年に最初の産業研究所(industrial research laboratory)が現れ、利益と前進の新しい時代を切り開いた、(と言われる)。

⇄こうした文句は、物語の全体を示していない。産業研究所は複雑な制度である。それは、それらを支持する企業のみならず、企業間の競争、科学と技術の関係、産業構造にまで大きな影響を及ぼした。

→本研究は、産業研究所を登場させた要因(力)を調べ、なぜ米国において、産業研究が20Cの世紀転換期からWW1までの時期に根付いたのかを説明しようとするものである。具体的には、GEとAT&R社と、それらの研究プログラムを検討する。

  • 1900年末に設立されたGEの(企業内)研究所は、すでに数十年前からドイツに存在していた研究機関(research institution)のタイプをアメリカに導入した。GEの研究所は、発電機から機関車までさまざまな技術の進展に関心を持っていたが、エジソンの時代から同社と密接に関連し、同社に多くの利益をもたらしてきた電球に期待を集めていた。研究所(の研究員)は、設立後10年以内に、電球市場における支配的地位を維持するためだけではなく、GEにとっての不可欠性を確立するために、懸命に働いた。その成功は、1930s以前の、米国における産業研究所の模範と、それを激励するもの(stimulus)として機能した。
  • AT&Tは、1911年に、同社の有線電話技術の前進と管理を目指すために研究所を設立した。のちにそれは、ベルシステムに、(その利益を維持させながら)商業的な搾取の機会を提供した。GE研究所と同じく、AT&Tの研究所も、後に続く研究所にとっての刺激と模範として機能した。そして実際にその通りになった。
  • しかし、企業内研究所の全てが産業研究のタイプだったわけではなく、ほとんどは試験や工学のラボ(testing or engineering labs)だった。そこでは、科学者・技術者は、製品の一貫性や効率性を確かめるために働いた。そして、製造や試験活動と密接に関連することは、彼らの仕事の射程や、彼らがなしうる貢献の範囲を狭めるのが普通だった。企業が産業研究の利点を認めるためには、(1)研究所が製造能力と分離され、製造について直接の責任を負わなくなること、(2)関連する科学・技術の深い理解の発展に依存する長期的な計画を遂行する目的のために科学者・技術者を雇うこと、(3)研究所が短期的な需要から切り離されるように注意深く組織・管理されることが必要だった。

←20Cまでのアメリカにこのような研究所は存在しなかった。本書で扱う2つの研究所も、それらが産業研究所となるために必要とされる自律性が保障される前に、自らを証明する必要があった。

  • 従って、産業研究所は、以下のように特徴付けられる。

(1)研究所は生産能力と分離されること、(2)企業に関連する科学・技術の深い理解(を得る事)に貢献する科学や応用工学(advanced engineering)の訓練を受けた人々が雇われること、(3)短期的な需要から幾分距離を置くべく組織・管理されること、の3点である。

  • 1920sまでに、数多くのアメリカ企業が、そのような種類の産業研究にコミットするようになったことは明白である。(しかし)研究活動が経済に普及した一方で、産業研究自体は、技術的に高度で、製品が科学分野と密接に関連し、継続的な進歩が期待できる分野に集中的に行われた。(ex 化学、電力、通信、石油精製、写真、ゴムなど。)
  • 産業研究に由来する重要な帰結は、会社が製品やプロセスを改良し、市場から保護し、競合会社の利益を脅かすことを可能にする(1)専門化された知識(specialized knowledge)、(2)技術的専門知(technical expertise)、(3)特許権である。
  • 産業研究が競合環境やアメリカの産業構造に多大な影響を与えたことは驚くに値しない。研究所を持った企業は産業の権力(power)の中心となり、研究所を維持することができない企業を駆逐する。さらに、独立の発明家がその産業において足場を築くことをも困難にさせる。
  • 産業研究が登場したことで、企業は技術の発展の速度や方向を制御し始めることが可能になった。加えて、産業研究は、それを追求する企業に「進歩的な」イメージを与える。それは、企業にとって宣伝上都合が良い。
  • 要するに、新しい製品やプロセスと並んで、特許や、(産業研究を進展させる)技術的な専門知が、企業に対して、市場のコントロール・成長・イノベーションの機会を提供する。

 

科学・技術・産業研究

  • 産業研究は、ビジネスだけではなく、科学と技術に支援と方向性を与えた。また産業研究は科学者・技術者にキャリアの機会をも提供した。20C初頭に最初の産業研究所が現れるまで、ほとんどのアメリカの科学者は、古典的な学びを志向する大学やカレッジで教鞭をとっており、研究を遂行するインセンティブも設備も享受していなかった。州立大学やエンジニアリングカレッジで働く科学者もいたが、彼らにのしかかる教育の負担は大きく、設備は不十分であったので、独創的な研究を行うことはほぼ不可能だった。研究志向の大学院レベルのデパートメントも存在したものの、そこに収容できる人数は極めて少なかった。
  • →産業研究所の登場は、研究志向の科学者・技術者に新しいキャリアパスをもたらした。それ以前にもアメリカ産業において科学者が雇われるケースはあったが、彼らの活動範囲は試験や物質の分析に限定されていた。しかし、産業研究の登場により、彼らは、
  • 科学や技術の深い理解を得ることに向けられた活動に多くの時間を割けるようになり、
  • 十分なリソースを使うことができるようになり、
  • 技術的な日常の研究開発の仕事を行うために、訓練された助手を与えられた。

←産業研究者は、職業的な組織への参加や論文発表といった制約が課せられるものの、(純粋)科学の専門分野の前進よりも(応用的な)科学の方法により関心のあるものは、産業研究に快適な居場所を見出した。産業界にとって重要な課題に専念するために彼らは(純粋)科学の専門分野の問題を傍におかなければならなかったが、それでも多くの人が進んで産業研究に従事した。

  • 産業研究に従事することは、個人(personal)と職業(professional)とのトレードオフの関係を示している。一度研究所に入れば、科学者はアカデミーの環境からの圧迫から解放され、entrepreneursとして振る舞うことなく(新しい技術を)発明することができ、高い給料、そして魅力(allure)を手に入れることができる。彼らは、記録を残し、コンサルティングを行い、特許取得のために働かなくてはならないが、その見返りとして、膨大な研究時間、サポート、大きな金銭的報酬を得る。
  • 産業研究者に求められる需要や、彼らが仕事をする方法は、新しい環境に特有のものだった。彼らはリーダーのもとで集団のプロジェクトとして仕事をし、仕事を終わらせるスケジュールに拘束される。プロジェクトの成功に重要な貢献をなすためには、個々人が輝かしくある必要はない。管理者が、彼らの研究者の補完的な能力を利用し、時には理論家や実験家、抽象的な思想家、そして「ボルトとナット」の人々が一緒に働くように設定する。解決策を発見するそうしたチームの力は、個々人の力の合計より勝っている。
  • 産業研究において、科学と技術は、企業の利害関心の技術を改良するために、同時に追求される。そこでは、科学と技術が共通の目標ももった相互作用する活動であるとみなされる。両者は密接に相互に関連するので、歴史家はそれらを区別することができない。
  • しかし、産業研究の成果は、事前に予測できる形で科学・技術を進展させる。なぜなら、産業研究者や管理者は、研究支援を正当化するために、事前に成果を予測する必要に迫られるからである。それゆえ、その成果が革命的であることは稀有である。商業的・財政的な緊急性は、革命的な変化を追求するのに必要な研究の自由を科学者・技術者に与えることを不可能にさせる。
  • しかしこうしたことを考慮しても、産業研究が科学・技術の発展に及ぼす影響は大きい。研究に投じられる膨大なリソースと、科学・技術を統合したアプローチは、産業研究から自然に関する知識や人工物がもたらされることが保証される。
  • 以下では、19C末から20Cにかけて、いかなる条件が、なぜ産業研究を確立したのかを調査し、その後、GeとBellの研究室を詳細に調べる。さらに、そこで行われた研究計画を調べ、研究の組織や方法、企業内研究所成果の商業的価値との関係を考察する。この目的は、産業研究が科学・技術・産業の発展にどのように影響を与えたのかを理解することにある。そして、企業が新技術をいかに経済に導入したのか、技術変化の速度や方向にどのように影響するのかを示すことを目指す。世紀転換期からWW1の時期に産業研究が出現した背景には、科学・技術の内容の変化、研究者の数や質、商業的な脅威、政治的な力などさまざまな要因がある。
  • それぞれの会社は唯一無二であり、限られた対象しか取り上げない本書の議論は仮説的である。しかし、本書ではGEとBellを事例研究の対象とした。なぜなら両者は科学と技術に関心がある重複する分野を持っていながらも、異なった企業構造、管理方法、市場における位置を有していたからである。それゆえ、両者を取り上げることで、本書の問いについて、科学と技術に関する結論以上に、企業構造、見解(outlook)、機会(opportunity)により深く関係した結論を導くことができる。
  • 二社はアメリカの産業研究の全体を説明するものではない。しかし、両者の研究所はWW1に続く産業研究の動きに影響を与え、多くの企業がそれらを模範としたので、適切な出発点を提供する。
  • 続く第二章では、BEとBellの話をする前にまず、アメリカの企業が産業研究を行うことを導いた19Cの科学・技術・産業の発展を議論する。

 

 

武井彩佳『歴史修正主義』(中公新書、2021年)

 今年最初に読了した本は、武井彩佳『歴史修正主義- ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中公新書、2021年)だった。読みながらため息をついてしまうほど、なかなか素晴らしい本だった。(もちろん、100%満足しているわけではない。)

 

 本書は、主に(1)歴史修正主義とは何であり、それは学術的な歴史研究とどこが違うのか、(2)歴史修正主義はどのような歴史的背景のもと生まれ現在まで続いているのか、(3)歴史修正主義を法律によってガバナンスする取り組みがどのように進められてきたのか、という3つの内容から構成されている。

 歴史家は、膨大な史料を集め、史料批判のプロセスを通じて過去の「事実」を明らかにし、複数の手段によって過去の全体像を把握しようと試みる。もちろん歴史家は、その時代を生きていたわけではなく、過去そのもの、あるいは過去の「真実」を捉えることは究極的には不可能である。また、歴史家が史料を取捨選択する過程や、史料それ自体が保管される過程において、なんらかのバイアスが抱え込まれることを避けることはできない。しかし、そのことは、歴史家が過去を把握することが不可能であることを意味しない。歴史家はさまざまな史料を、さまざまな方法によって検証することで、ある程度、過去の実像に迫ることはできる。無論、100%捉えることは不可能であるし、新しい史料が発見され、学術潮流が変化することで、歴史記述は変更しうる。それゆえ、歴史は永遠に未完である。

 このように歴史が「修正」されることは、学問の世界ではよくあることであり、学術的に許容される行為である。しかし、本書がテーマにする「歴史修正主義」と呼ばれる立場は、学術的に認められない方法で「修正」を試みる。それは、大きく分けて、(1)歴史を現在における政治的な意図によって操作すること、(2)実証を欠いていること、という特徴を持っている。興味深いのは、この本で著者が、歴史修正主義者に類型的に見て取れるいくつかのパターンを抽出している点である。例えば、彼らは、「事実」よりも「真実」を上位に位置付けたり、「正義」という言葉を多用したりすること、体験者の証言を否定する傾向にあること(「歴史の証拠としての証言の否定」)、到底信じられないような主張でもそれを何度も繰り返そうとすること、「ではないだろうか」といった根拠を示さないまま疑問を投げかける形で表現すること、といった態度がしばしば観察されるという。というのも、歴史修正主義者にとっては、歴史の真実に迫るということよりは、何らかの政治的な意図によって、現在の学界や国によってお墨付きを得た「オフィシャル」な歴史への認識に揺さぶりをかけることを目指しているからである。彼らにとって、「証拠」というものは重要にならない。なぜなら、「真の証拠」は正史を唱える人間によって隠蔽されており、(正史を唱える者にとって)不都合な証拠にアクセスすることはできないと頑なに信じているからである。例えば、ホロコースト否定論者は、「AはBである」という事実に対して「AはBでない可能性があると主張する人もいる」という理由で、「AはBではない」と結論づける。こうしたやり方は、全く合理性を欠いた推論であることは明らかである。従って、このような「否定論者」は、本来歴史修正主義の範疇にさえ含まれない。

 確かに、否定論と学術的な歴史研究との境界は比較的明快であるかもしれない。その一方、通常の歴史記述の修正・見直しと歴史修正主義とを区別する際には、やや難しい複雑な問題がある。その点が広く議論されたのが、第四章で紹介される「歴史家論争」である。

 事の発端は、ドイツの思想史家ノルテが「過ぎ去ろうとしない過去」(1986年)において、ナチはソ連のシステムを模倣したに過ぎず、ホロコーストに前例があったと主張したことに対して、哲学者のハーバーマスが同年「一種の損害保障」の中でノルテはナチズムの犯罪を弱めようとしていると批判したことに始まる。ノルテが目指したのは、自分の「修正」への試みを、歴史学の正当な手続きの中に位置付けようとすることだった。そのため、彼はさまざまな歴史家による「修正」の例を挙げた。例えば、テイラー『第二次世界大戦の起源』において、ヒトラーをオポチュニストと捉え彼の対外政策はそれまでのドイツの対外政策と大差がないという歴史が示されたこと、ヒトラーの計画性や主導性を強調する「意図派」に対し、体制内部の組織の相互作用によって政策が急進化した「構造派」による解釈が登場したことなどは、歴史修正主義の例ではないかと主張した。これらは歴史修正主義と言われないのに、なぜ自分の主張だけがそのレッテルを貼られるのかというのである。

 しかし、この論争は結局、歴史の歪曲を認めないという社会的合意を形成することにつながっていく。その理由は、彼の方法に実証性が欠如していたこと、現在に奉仕させる歴史を書くことの問題点が指摘されたことなどがあった。特に、後者は重要である。一見すると、(B.アンダーソンの言うように)恥じる必要のない国民の物語によって国家が統合されているのであれば、国益に合致する、誇り高い国史を持つことは問題ないように思われるかもしれない。しかし、歴史学は可能な限り客観的に、価値中立的に過去を記述することを目指し、また、ある一部の証拠だけに依拠して全体を論じることを厳しく慎む。そうした方法によって初めて、過去の全体像が明らかにされるからである。それは、自国の利益だけに合致する歴史を作ることに反する。さらに、自国中心の歴史記述によって国内の団結は維持できても、長期的に見れば、対立を助長し、将来の選択肢を狭めることになる、と著者は述べている。鋭い指摘である。

 

 加えて本書が優れているのは、過去の「真実」への探究のみによっては、歴史修正主義や否定論の跋扈を抑えることはできないという現実的な視点に立って、欧州で進められる法規制について議論している点である(第6,7章)。このテーマで重要なのは、歴史修正主義の法規制と表現の自由との関係である。ドイツでは1994年に「民衆扇動罪」が制定され、ホロコーストの否定を法律によって取り締まるようになった。同法は「歴史の真実」を守ろうとしているのではない(そもそも歴史の「真実」を法的に定めることは不可能に近い)。そうではなく、それはホロコーストの否定を、個人や集団の尊厳を傷つけ公共の平穏を乱し、暴力を誘発するヘイトスピーチとして規制しようとするものである。「民衆扇動罪」では、ホロコーストを「公知の事実」とし、その存在を証明する必要がないものであると認めた。従って、「自分は一つの歴史解釈を示しているのに過ぎず表現の自由の侵害である」と主張する被告に対して、憲法裁判所は、ホロコースト否定論は「意見」ではなく「虚言(嘘)」であるので、表現の自由の保障の対象にはならない、との見解を示した(1994年)。

 ただし、法による歴史修正主義の規制は、意図的に歴史を否定して論争を起こし、注目を浴びることを戦略としている確信犯に対しては抑止とはならない。のみならず、法による規制を認めることで、歴史が国際政治の道具として利用される可能性を誘発する懸念もある。それを示しているのが、冷静後のソ連や衛星諸国の事例である。バルト三国ポーランドハンガリーなどのソ連の旧衛星国にとって、西欧諸国とともにホロコーストの歴史を記憶・共有していることが、欧州の一部であることの証拠となり、ホロコースト歴史認識が民主主義の尺度とされた。そのため、これらの国においては、共産主義体制による犯罪も否定禁止の対象に含めるべきだという声が大きくなった。(特にポーランドは顕著である。) それに対してロシアは、衛生国の動きに反応して、赤軍による「解放」を「全体主義の支配の開始」といった文脈で語ることを、歴史の歪曲である歴史修正主義だと批判した。そしてその原則は、2014年に「ナチズム復活禁止法」の成立によって具体化した。

 こうした東欧やロシアの動向からは、修正主義の法規制はそれが逆に(修正主義の特徴である)歴史の政治利用を導く危険性を孕んでいるということがわかる。法規制は、司法によって、特定の歴史像にお墨付きを与えることであり、事実認定されていないものについては歴史的に信憑性が低いという印象を与えることにもなりかねない。

 にもかかわらず、(英米法の流れを組むアメリカ・イギリスを除いて)西欧諸国は「歴史の法的ガバナンス」に否定的でない。それは、国が法律で特定の歴史像に枠を設定し、その外側の歴史を処罰することで統治することを意図するものではない。むしろ、歴史像が時代により変化し、政治利用されることを認めた上で、その極端な誇張や先鋭化を防止しようとする考えに基づいている。そしてそうした法的統治は、民主主義と表現の自由が十分に機能していることが前提であると著者は述べる。

 

 本書は歴史修正主義を学術の立場から真摯に議論した素晴らしい本であることは間違いないが、著者の立場がやや曖昧と思われる部分や議論が不足している箇所もあるように感じた。例えば、ニュルンベルク裁判第21条にある「公知の事実 (facts of common knowledge)」についての見解である。「公知の事実」とは、裁判で立証する必要のない、一般の人々が当然知っている事柄であるとされる。しかし著者は、時間がたてば、事実は体験に基づくものではなり、公知の事実に対する認識は時代を超えて普遍的であるとも言い難いことを指摘している(pp.68-69)。この指摘は、ドイツの「民衆扇動罪」にも反省的に適用されるべきであり、もう少し踏み込んだ議論が必要になるように感じる。また、歴史修正主義や否定論といった学術の外での議論とは別に、著者の立場である実証史学と、物語り論との間の深い対立についても、今一度見直す必要があり、それらと合わせて歴史修正主義の問題を議論するとより実りがあるように思う。この問題はもちろん本書の射程を超えるものであり、遅塚氏や野家氏の本と併せて再読したいところである。

 

 

 

 

 

辻哲夫『日本の科学思想』第三章

読書会の予習というよりも復習。

 

(これまでの梗概)

西欧科学・技術を一つのプロトタイプとして、日本はそれにキャッチアップしようとしてきたという歴史観を採用するのならば、明治維新以前の日本に科学はなかったか、少なくとも限定的な形でしか存在しなかったということになる。しかし、著者はそうした歴史記述を採らない。むしろ辻は、日本は日本独自の科学の歩みをたどってきたと考える立場から、明治維新にも「科学」に近い知的活動があったのではないかと考える。そこで、著者は17C後半の古学と古医方の成立に注目し、そこに後に科学(実証的な学)と言われる知的活動へ近づく大きな変革があったことを論じてきた。

本章ではそのうち特に古医方と、「物理之学」を検討する。そして、「実学」のみならず、(日本独自の)「学術」の観念が誕生する契機を見出そうとしている。

 

 

第三章 ……之学 – デカルト貝原益軒・吉益東洞 (pp.52-67)

 

  1. 科学とキリスト教
  • 生活上の必要に応じて経験的に自然と交渉するだけで済ませていた世界から、自然認識をしだいに学問化させるような知性の働きが育ち始める様子に注目する。
  • 近代科学はキリスト教的な世界から生まれた。

:自然現象の中に普遍的な法則が存在するという確信は、キリスト教の理念に支配される長い時代をすごしてきた、西欧文化特有のもの。

  ⇄日本においては、儒教・仏教などを背景にして自然観・学問観からの制約を受けたため、自然の中に普遍法則を想定する発想法がついに育ちえなかった。

 

  1. 古医方の学問理念
  • 17-18C日本の学問(医之学、物理之学)=法則認識の志向が全く含まれておらず、体系的な理論を築きあげようとする意図からは隔たっていた。

Ex: 吉益東洞「医之学は方のみ」←学の理念を、実用技術の視覚から誘導することは、日本的特質をなす。

  • 儒学(=人間の実践倫理の理想型を追求する学)の学問観→自然認識の志向に特別高い学問的価値を与えようとしない。

→医之学にも、このような学の理念に制約される。

Ex :名古屋玄医「仁の究明といったような実践倫理的な探究を、そのまま医の学問的根拠として再把握すべき。」←人を生かすというのは医の根本課題

  • 古医方:聖賢の教えを深く学び、機に応じて適切な治療を行えるようになるべき。

→古きよき時代の医のあり方を再建する。

 

  1. 物理之学
  • 貝原益軒:物理之学を儒学の一環として学問的に位置付けることを望んでいる。

大和本草』=日本人が日常生活で役立てている有用な物に関する経験的知識を、すべて残さず点検し、正確にまた秩序立てて記述するという大事業を手がける。

  • 彼の意図は、「集める」ことを学問的な方法として確立すること。

←人の役に立つこと、儒学

 

  1. 医之学の方法的自立
  • 18Cにもなれば、医之学や物理之学は、儒学との直接の関連が薄れていく。
  • 吉益東洞:「医の学は方のみ」という学問的確信は、どのような認識方法に支えられていたのか?
  • 彼の医説=万病一毒論=「すべての病気は、ただ一つの毒によって起こるものである」

→病毒の所在を見定め、適切な薬方をほどこし、病毒を取り去ることが根本指針。

  • ⇄陰陽医:書物から得た知識、臆見によって理屈をこねるだけ。病気は治せない。

→病名・病因を論じることが無用。

→医における理論的な自然認識への道がまったく断たれることになる。←儒学

  • 実際に施してみて、確証を得た経験的知識のみが、学の根底におかれねばならないとする、明晰な学問観が姿を見せている。

学は術によって裏付けられ、日本特有の「学術」の観念が実を結び始めている。

 

 

 

辻哲夫『日本の科学思想』第二章

読書会の予習です。

 

第二章 実理 – 伊藤仁斎・古医方(こいほう)・加藤弘之

  1. 日本史における近代と近世 (pp.33-35)
  • 通念としての17C=徳川幕府が全国を平定し、鎖国・封建の治世を開始する「近世のはじまり」=「非近代」

※この場合の「近代」とは、日本内部での成熟した変革の結果ではなく、西欧の近代が急激に流入され始めることを目安に考えられている。

→西欧の洗礼を受けていない本来の日本=「非近代」

筆者の立場:17C後半から日本なりの発生過程をとりながら、近代が進み始めたのではないかと考えてみたい。

→近代は西欧だけで始まったのではなく、開国前の日本にも近代の芽が吹いていた。

  • 明治以前には科学が存在しなかったという論じ方をやめる。(=18C以後の「未成熟な」知識について論じるか、あるいは蘭学・洋学をせめてもの議論の対象にする。)
  • 科学の形成過程が、西欧の近代科学のそれと型通り常に同じでなければならないとは考えない。
  • 日本固有の知的活動の歴史的推移を、後の時代からする作為的な解釈によってゆがめてしまわないように、できるだけ地道に辿りなおす。

→日本には日本なりの「のんびりとした科学の開拓の仕方」があった。

  • 17C:日本的儒学の確立=科学の原像

 

  1. 実理と科学 (pp.36-38)
  • さしあたって、科学とは「実証的で、かつ合理的な思考法」のことだと考えて、日本の科学思想の形成過程を跡づける。

→まず、「実理」という言葉に注目。

  • 加藤弘之『人権新説』(1882):「よく天体・地球の運転および宇宙間諸関係現象の実理を発見して、はじめて従来の謬妄を排除するをえたり」

→続いて「進化の実理」の重要性を説き、国体論を展開。

=科学の権威を思想的に援用しようとし、その際の科学の本性を実理という形で特徴づけた

  • ここでは「科学」よりも「実理」の方が、通りがよかった。

実理=「実物の研究」によってえられた理論=実証的な理論という意味で用いている。

←日本人は、科学といえば、実証的な理論のことだと考えがちである。

 

  1. 実理と儒学 (pp.38-41)
  • しかし、実理はもともと科学と関わり合う意味を持っていなかった。

儒学において実理とは、誠=倫理的な規範に関する意味内容だった。

林羅山:「君臣の義、父子の親、男女の別、長幼の序[1]、明友の交り皆実理ならざるはなし。」

→実理=人倫の理を軸にして、(物の理を含む)全ての理を秩序付ける。(人倫→実物の理)

いかにして主客が逆転(実物の理→人倫)し、実理=実物の理となっていったのか?

  • 江戸時代の儒学=中国の朱子学を日本人なりに学び取ることで成立したもの。

朱子学理気二元論→「理」:形而上学の道

朱子自身も、「実理」を説いていた。

朱子の仮想敵=老荘の学・易の理念・仏教の理法

→いかなる逆批判にも耐えられるように、精緻な論旨、厳しい推論構成をめざして論究をすすめ、そこにおのずと「理」の学が提起されるに至った。

とくに朱子が腐心させられた問題=禅の論法=直感的な洞察の法

→仏教のように空理を論ずるのではなく、実理としての学を打ち立てようとする志向。

=空理・空論にはしらず、あくまで実世界を論じることを目指し、志向の精密な尺度を持った実理の学の確立を望んだ。

→空理に対する実理が朱子学の基調の一つになっていた。

 

  1. 実理と古学 (pp.41-47)
  • 17C以降日本に朱子学が普及した理由
  • 徳川幕府が武士階級の政治的秩序を維持しようとしたから(政治的理由)
  • 日本人の思考習慣に適合するものを朱子学の中に探り当てたので、その理説に傾斜していったから。
  • 筆者が注目する点:日本に浸透した朱子学朱子が説いた理学。

=「理気二元論」→「理気一元論」への再構成の仕方に、日本独自の問題意識が織り込まれていた。

  • 17C以降に形成される日本的儒学=古学派

←日本で朱子理学をいかに批判し解体させ、日本人の思考法にあった学問としていかに再構成していくかが示されている。

伊藤仁斎:「実」の意識がはっきり限定された形で使われ、日常経験の世界こそが立論のよりどころとなる。

朱子の理学は根底から解体され、形而上学的な理の観念が拒否される。

→日常的な行為を通じて経験的、実践的に人倫(人徳、仁)を確立することを目指すに至った。

  • 彼は理気二元論を解体し、それをどのように再構成したのか?

気:天地を一大活物とみなす「一元論」として提示される=生命体論的世界像

理:変化の図式・秩序を表すものにすぎなくなる。

朱子の理説に見られた形而上学的な背景は消失し、合理的に限定された意味での理が姿を見せた。「理を究むるは事物に就いて言ふ」。

  • 仁斎は、西欧の近代科学を「窮理」という概念で代用させる道を歩き始めていたと思われるかもしれない。

⇄しかし実際に彼はあくまで儒学者に過ぎず、聖人の教えを解明することのみが学問であり、事物の知識を深めることは聖学への専念をさまたげる余計なこととしてはっきり退けてもいた。

→では、いかにして仁斎の「見聞するところに基づいて実理を説いていたこと」≒伊藤弘之の実理(実証的な学)の原型という類推が成立するか?

儒学と科学の相互作用を考察する必要がある。

 

  1. 古学と古医方 (pp.47-51)
  • 西欧の近代科学の原型=力学→西欧の知性には、原子論・機械論・素朴実在論の発想法が根強い素地となって介在している。

⇄17Cの日本には力学が学問的に成立する可能性が全くなかった。

←近世日本に科学が存在しなかったと言われる所以。

⇄科学へ接近しうる要素を備えていたのは、医・農・暦・算などで、その中でも順調に科学へ育っていったのは医学。

  • 日本は、力学を軸にした近代科学を受容することになったとき、その受け入れの母胎となる学問的基盤が、医学を主軸とするものだった

←日本には医学の観点から自然を見るような学問的条件しかなかった。

→以下、医学と儒学の相関性という問題を論じる。

医学・:李朱医学を日本的に再構成して、古医法として成立

17C後半に、同形の成立過程をたどっている。ここに、中国文化に学び、独自の学問的思考法を構成する典型的姿勢が示されている。

両者の最終的な目的は、日本人が真に納得しうる学問の道をあらたに切り拓くこと。

  • 伊藤仁斎の古学における要点=原典の原意にもとづく論証と、自己をとりまく経験的世界からの確証とを統合してみせたある種の実証論的なもの。

←仁斎の体験を要約した経験論的訓話ではなく、『論語』『孟子』など原典の精神に基づき、古代人の普遍的な知識に照らして、一層の普遍化を目指した。

古医法との相関:

  • 古代人の深い経験的な知識に照らして、あくまでの経験的事実に基づいて正確な認識をうること。
  • 一元気説に関連することで、生命体を論ずるのにきわめて簡明で好都合な自然像ともなりえたこと。→古医法が、李子医学の陰陽論的な思弁を排し、仁斎の一元気説になぞらえた生命機構を合理的に想定する方向に進んだ。
  • 儒学(古学)は、そのまま科学であったわけではないが、いずれ科学を誘導しうるような思考法を育てていた。

 

[1] 年長者と年少者との間で、守るべき順序関係のこと。

 

 

 

感想

・17C日本の学問、儒学や古医法などについて勉強するのは、これがほぼ初めて。おおよその印象としては、この時期の儒学(古学)は、人倫を説くことと(≒倫理)、経験的に自然を観察し、そこに何らかの秩序を見出そうとする合理が渾然一体となっている学問という感じがする。

・西欧科学が18Cに「聖俗革命」つまり、神を否定することによって科学の再編成を試みる過程と、日本の(科学の萌芽を含んだ)儒学から人倫や徳に関する思想が抜け落ちていく過程とは、少し似通っているように思われる。