yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

電子部品について学びながら3石トランジスタラジオを作る

 以前、ゲルマニウムラジオの製作に挑戦したのですが、残念ながら受信することができませんでした。今回は前回に比べてより受信感度が良いと思われる電池を用いたトランジスタキットを購入し、リベンジしました。

製作に際しては、電子部品についても少し調べました。

結論から言うと、今回初めて自作ラジオで関西ラジオの受信に成功しました。

以下では、電子部品、回路構成、組み立て、という流れで簡単に紹介させていただきます。

 

1. 電子部品

 

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図1. 主な電子部品

電子部品は、(1)整流・増幅等を行う能動部品、(2)供給された電力をそのまま消費・蓄積したりする受動部品、(3)電気回路それ自体に寄与しない機構部品に大別されるようです。

左上に3つある部品は、トランジスタ(2SC1815GR)×3で、その隣がラグ版です。

下段は左から、抵抗(22KΩ)×2、抵抗(1MΩ)、リードインダクタ、積層セラミックコンデンサ電解コンデンサー、ポリバリコンとなっています。

先の分類に当てはめると、トランジスタが能動部品、ラグ版は機構部品、その他が受動部品になるかと思います。

 

トランジスタ

2SC1815GRは、調べてみると、東芝製のNPNトランジスタですね。http://www.op316.com/tubes/tips/image/2sc1815.pdf

最初に取り組んだ際に、ベースとエミッタを逆にしてハンダ付けをしてしまったので、向きには注意しなければいけないです。

 

〔抵抗〕

抵抗にはカラーコードがついており、この色によってどのような抵抗であるかを読み取ることができます。

一番左にある2つの抵抗①は上から赤赤橙金、もう一つの抵抗②は上から茶黒緑金となっています。

カラーコードのうち、上から1、2番目は抵抗値の実数部を、上から3番目は乗数を、一番下は誤差を表しています。

今回、①は「赤赤橙金」なので、22×10^3=22K〔Ω〕で誤差が5%であり、②は「茶黒緑金」なので、10×10^5=1M〔Ω〕で誤差が5%です。

これらは炭素皮膜抵抗なので、誤差が比較的大きくなっています。

 

〔インダクタ(コイル)〕

リードインダクタにもカラーコードがついています。

インダクタンス表示

上のサイトによれば、3本式の場合、上の2本が数値、3本目が乗数を示しているようです。

今回の場合、「橙橙茶」なので、33×101^=330μ〔H〕です。

 

コンデンサ

このキットに含まれているコンデンサは3つありました。

(1) 101と書かれているものが積層セラミックコンデンサーです。これはセラミックと金属板を多層にすることで表面積を大きくし、大きな静電容量を得ているみたいです。なお、セラミック(=陶磁器)コンセンデンサは、絶縁体にセラミックを使用しているため、大きな電流を流しても発熱が小さいという特徴があります。

(2)次に、極性のある黒い部品が電解コンデンサです。見たところ、rubyconのアルミ電解コンデンサみたいです。電解コンデンサは、片方の電極にだけ化成処理(=絶縁体を形成させる表面加工)が施されているため、極性を持ちます。この場合、リード線の長い方から短い方へと電流が流れるように使用するので、長い方が陽極、短い方が陰極となります。大きさは4.7μFのようです。

(3)最後はバリコンです。バリコンはVariable condenserの略なので、読んで字の如く可変コンデンサーのことですね。コンデンサの静電容量は、向かいあう金属板の距離に反比例し、面積に比例します(C=ε・S/d)。バリコンは、中心軸にそって可動電極を動かすし、2枚の金属板の距離を変化させることで静電容量の値を変える仕組みになっています。

 

2. 回路構成

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図2. 回路図

回路構成は結構複雑で、よくわかりません。

一応、リードインダクタ=コイルとポリバリコンによって同調回路が構成され、受信した電波をトランジスタで検波を行う、というのが基本的な構造ですが、、。

説明書には、「2石をエミッタフォロアのダーリントン接続して増幅度を稼いでいます」とあります。

ダーリントン接続とは、2つのトランジスタを等価的に1つのトランジスタとして扱える接続方法で、高い電流増幅率を得ることができるそうです。↓

ダーリントントランジスタ

また、「入力インピーダンスの高いエミッタフォロア回路を採用することにより、同調回路のQが上がり感度・選択度が向上します」といった説明もありますが、

エミッタフォロア回路というのがよくわかりません、、。

 

3. 組み立て

半田付けは、複数の端子をまとめてから一気に接合しないと面倒なことになります。(後から追加で接合できなくはないですが、結構難しいです。)

また、リード線どうしが接触しやすいので、全て付け終わった後、入念にチェックをしました。

 

4. 受信

電池を挿入したときに、「ガリッ」という音がしないときは、配線に不備がある可能性が高いということでした。試すと、入れたときにはほとんど音がしませんでしたが、抜くときには確実に音がしました。

バリコンは適当な大きさに合わせ、とにかく家中を歩き回りました。そうすると、大きなノイズを捉えることができたので、そのまま受信できる地点を探し続けると、5分後くらいにはっきりと音声が聞こえてきました。

バリコンをいじって、聞こえやすい電波を探してみると、ついにラジオ関西のこちらの番組を受信できました。↓

jocr.jp

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図3. ラジオ関西を受信中のラジオ

神戸や徳島などの近畿・中国地方の県境を訪れ、現地の人々を取材し、その後、歴史家の田辺眞人が解説をするという番組でした。音声は明瞭に聞こえました。

 

一つ一つの部品が相互に繋がり機能することで本物のラジオ受信機になる、というのは感動でした。今度は回路についても学んでいこうと思います。

 

使用したキット↓ こちらはアマゾンでも購入できます。

www.shamtecdenshi.jp

参考文献: 松本光春『電子部品が一番わかる』(技術評論社、2013年)。

https://www.amazon.co.jp/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%83%A8%E5%93%81%E3%81%8C%E4%B8%80%E7%95%AA%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B-%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E5%85%89%E6%98%A5/dp/4774158046/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=25S8YKD4VVQNT&dchild=1&keywords=%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%83%A8%E5%93%81%E3%81%8C%E4%B8%80%E7%95%AA%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B&qid=1616321553&sprefix=%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%83%A8%E5%93%81%E3%81%8C%2Ctoys%2C151&sr=8-1

 

推し、燃ゆ

 第164回芥川賞を受賞した宇佐美りん氏の『推し、燃ゆ』を読んだ。

 16歳の少女あかりが、彼女の推しである上野真幸というアイドルに心酔し、自身の身体や生活を、彼のために捧げる生活を丹念に描写した作品。

 言うまでもなく、idolには「偶像」という意味がある。その言葉の通り、推しの写真を崇め奉る対象として自室に飾り、その他もろもろのグッズを収集し、彼の言葉をまるで神からのお告げであるかのように逐一ノートに書き取り、彼のトークの文字起こしをブログで公表したり、、など、推していない人々から見れば、気が狂っているのではないかと疑うような「オタク」の言動が緻密に描かれている。

 授賞式のインタビューで筆者が答えていたように、宇佐美氏自身にも実際、長年「推し」てきたアイドルが存在するのだという。ただ、この作品の特徴は、そういったアイドルオタクの生活に自らも浸った状態で内側から湧き出る言葉を書くというのではなく、いったん書き手が「オタク」という人間の性質を分解し、それを効果的に組み立てていくような書き方をしている点にあると感じた。茂木健一郎のレビューでは、そうした作業は「メタ認知」そのものであって、その結果、「現象学的な解像度が高い描写」という成果につながっていると評価されている(※1)。また、なしちゃんも、「推す」というこれまで取り上げられてこなかった新しい概念を、言葉で丁寧に説明している点を評価しているようだ(※2)。

 だが、僕の読書体験としては、そうしたオタクという存在を客観的に描写したときの細部が、正直、物語の世界観にコミットするのを妨げていたところがあった。特に、主人公のあかりが綴る丁寧なブログの記述には、ある意味リアリティがなく、頁を閉じてしまうことが何度もあった。

 

 最初に推しが女性を「殴って」炎上するというシーンから始まっていることからもわかるが、身体に関する描写が目を引いた。背骨や遺骨、爪、汗、白髪、吐瀉物、体液などなど、生の身体が本作品の重要な構成要素になっていて、それらが随所で結びついているように思えた。特に、遺骨の描写からの最後の綿棒を拾うシーンへ移行する箇所は、圧巻だった。そして、なぜこうした身体が重要かといえば、やはり、idolである真幸(=身体のない空想上の偶像)と、腐敗し、退廃していくリアルな世界との対比を明確にさせようとしたからなのではないかと想像した。

 また、アイドルがいる世界/あかりがいるリアルな世界との対比という点において、示唆的な文章があったので、少し引用する。

 携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。(62頁。)

 アイドルとあかりとの関係は一方向であるから、双方向の関係の中で、アイドルから憎まれたり、嫌な思いをさせられたり、アイドルにイラつくということがない。また、2人で長い散歩をすることで呼吸が合ったり、微妙な体の動きに反応するといった身体的なつながりも全くない。だからこそ感じる「安らぎ」が、「推す」という行為の背後にはあるのかもしれない。

 

 全体的に、「推す」という流行語や、twitterやブログ文化、インスタライブの記述など、現代に根ざした生活感覚をふんだんに取り入れ、かつ21歳という若さにも関わらずしっかりとした筆致でこれだけの物語を作り上げたということはすごいことだと思う。

 ただ、前回受賞した遠野遥の『破壊』では物語に完全に没入してしまうような強い磁力があったように思ったが、そのようなエネルギーを感じることはなく、本当に面白い作品とは言い難かった、というのが正直な感想だ。

 また物語の構成要素も、必要十分な量の記述が過不足なく盛り込まれているというわけではなく、父親の隠れた趣味についてや、友達の整形についての話題など、うまく処理し切れていない場面がいくつかあるという印象を抱いた。

 

 最後に、一言だけ。

 アマゾンのレビューを見てると、これは「発達障害」の人物を描いた作品である、みたいなコメントがあり、それなりの共感を読んでいるようだ。しかし、僕はその読解には反対である。確かに、主人公は何らかの病気を抱えているということは書かれているし(91頁など)、保健室登校していて進級できなかったり、漢字の練習をどれだけこなしてもすぐに忘れてしまうといったシーンもあって、彼女を「発達障害」だと言うレビューが出てくるのはあり得ないことではないと思う。ただ、作者はあかりに対して決してそのようなラベルを貼っているわけではない。ましてや小説が人間をそのようなラベリングを通じて何らかの線引き(例えば正常と異常との線引きなど)をし、人間を狭隘な存在に押し込めるようなことをすることがあって良いとは思えない。むしろ、あかりのような言動の幾らかの部分は自分にも当てはまるし、仮に当てはまらなくてもそのような言動は理解できるよね、というように登場人物に接近するべきであって、「発達障害」だというレッテルを貼って、「正常」である自分との間に線を引く読みは間違っていると思う。(ただ、あのレビューでは、「発達障害」の人間にもスポットを当ててくれたというような書き方をしているので、自分自身を「正常」な人間だと必ずしも見做していないかもしれないが。)

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 ※1 

www.youtube.com

※2

https://www.youtube.com/watch?v=RY5qBLBnuDg

 

Gary L. Frost(2010), Conclusion

Conclusion (pp.135-142)

  終章では、社会構成主義/技術決定論の是非、イノベーションにおける自然法則の意味、アクターネットワーク理論に関する議論、FMラジオの将来など、(序章で設定された)技術史における主要なトピックと関連付ながら、やや俯瞰的な立場から検討が加えられる。

 本書の基本的なスタンスは、技術決定論と社会構成主義はどちらも正しい面があるとしつつも、技術は社会・経済・文化的コンテクストの中で捉えられるべきであり、従って、技術が社会に影響を及ぼすだけではなく、その逆にも注目すべきだというものである。Thomas Misaの論文を引いて、ミクロとマクロな視点による両者の違いに関する議論が参照されていたが、これは佐藤靖『科学技術の現代史』の最後の方で触れられていたトピック(ミクロには技術決定論は成立しないように見えるが、マクロには成立するといった議論)のソースかもしれない。

 本書についてのコメントを一言だけ。本研究は、約50年前に書かれたレッシングによるアームストロングの評伝における説を、アームストロングペーパーをはじめとする新しい公開資料に依拠しながら丹念に検証した上で新たな歴史を提示しており、無線技術史上の重要な仕事を成し遂げている。

 だが、本書で見落とされている点は、周波数の割り当ての背後に、真空管(あるいはマグネトロン)の改良によって利用できる周波数が拡張させていったというプロセスではないだろうか。ダニエル・ヘッドリクが『インヴィジブル・ウェポン』において指摘しているように、1920年代に起きた短波の普及は、「革命」と呼べるほどの大きな出来事だった。しかし本書では、短波が利用できるようになったことや、その後超短波の利用も始まるという事実に力点をおかず、あたかもそれらは元々利用できる状態にあったというような書き方をしているような印象を受けた。RCACの放送事業における目標を理解するためには、変調方式も重要だが、そもそも当時短波や超短波がどのような応用可能性を持つ技術として捉えられていたかといった説明が必要だったように思われる。

 

以下は要約。

 

 本書は、FMの技術史を、(1)FMラジオは社会的に構成されたものなのか(社会構成主義)、(2)それは自然法則によって決定されるのか(Was it determined by natural low?) という二つの問いの間に位置付けた。これらはともに正しいものの、技術の社会的な起源は、自然(nature)以上に大きな影響を行使するといえる。私たちが耳にするFMは唯一の可能性でもなければ、最も蓋然性の高い選択の結果でもなかった。FCCが決定した周波数の割り当てにおいて、技術的な理由は存在していない。私たちが今日耳にするFMが1939年にアームストロングやその他の先駆者らによって標準化されたものと一致しているのは、FCCが1940年に彼らの判断を承認したからという理由だけに基づいている。

 社会的要因といえば、アマチュアラジオ家らの存在が重要だった。第一次世界大戦以前に少年たちを教育したのはアマチュアラジオコミュニティーの存在があり、彼らがちょうど大人になった1930-40年代に、彼らはFM技術の形成に大きな役割を演じた。またラジオクラブは、公的な実践家・技術者らにとってスキルを磨く場を作っていた。さらに、ラジオクラブは、秘匿性を重視する企業とは異なり、情報を無償で交換することにも励んでいた。ラジオクラブのおかげで無線工学は社会共同的な職業(communal profession)になっていた。

 また、AMラジオにおける混信という問題がスペクトルパラダイムへの移行を促し、いかにして無線を制御すべきかについて議論するきっかけになった。そして混信の問題とスペクトルパラダイムは、なぜ技術者が1920年代初頭にFM技術を見直そうとしたのかを説明する。当初、狭帯域FMが混信を避けることができる技術だと考えられたが、それは決してうまくいかないということがわかった。そしてそのことは、WHやRCACの技術者らがFMの背後にあるより数学的な理論を発展させるよう鼓舞した。

 FM技術の展開にとって、商業的な文脈も重要だった。1920年代の前半は、各会社は独立してFMを調査していたが、1928年にサーノフが統合を図ったことで、各社の情報がRCACへ、さらにはアームストロングへと集められるようになった。それは、RCACにとっては、膨大な作業を免じることを意味していた。

 もしもアームストロング偉大な技術者だとすれば、それは天才(genius)だったからではない。平衡増幅回路についての誤った理解や、FMは空電の影響に関係ないという思い込みは、彼がハードウェアの設計においては、むしろ周辺的な存在であったことを表している。彼の技術的達成の独自性は、社会・経済・文化的なコンテクストの中に存在していた。これは彼の業績を過小評価するということではなく、彼の広帯域FMの発明は、直接・間接に様々な支援(特にRCAの支援)を受けていたということである。

 本研究はまた、過去50年間にわたって信じられていた説、つまり、アームストロングが広帯域FMに関するRCAの後援を獲得し損なったことの説明を覆すものである。RCAが広帯域FMの権利を獲得する機会を逃したのには様々な理由があるが、同社がAM技術への投資を保護するためだったというのは間違いである。なぜなら同社にとってAMへの投資はわずかな割合しか存在しなかったからだ。RCAはむしろ、最初はまだ理論的に難解だったFMを理解していなかった。そして同社が行った試験も、FMの利点を確かめるようにデザインされていなかった。その代わり、RCAが確かめようとしていたのは(アームストロングの特許に記されていたように)、短波通信の通信距離(service range)を拡張できるかどうかという点だった。

 アームストロングとRCA及び他の先駆者との関係は、「アクターネットワーク理論」の観点から理解することができる。1920年代から30年代までは、彼はRCA組織の”pre-existing network”に参与していた。そして彼がRCAの支援を得られなくなったとき(1937年-)彼は、広帯域FMを改良し販売する手助けを得る先駆者らを取り込む(enrolling)ことで、新しいネットワークを創造した。そうして彼は、「献身的なネットワークの構築者”dedicated network builder”」となった。さらに、シェパードもまだネットワークの構築者だった。彼の戦略のおかげで、FMはFCCから承認を与えられることになった。

 ここ20年ほど、技術はその内的論理に従って進化し、外的な要素を過小評価する技術決定論は衰微してきたが、技術と社会的な文脈を無視する書き手のために、それはいまだ死んではいない。Thomas Misaによれば、技術決定論に陥る書き手は、次の様な視点を採用しがちであるという。つまり、マクロな視点を採用する歴史家は、歴史的な変化における技術の因果的な役割を認める。だが、本書は、機械論的な因果律は存在しないし、不可能であるというミクロな視点を採用した。そして我々は、技術が社会に影響を与えるということだけではなく、社会が技術に影響を与えるということを心に留めなければならない。

 最後に本書は、イノベーションにおける自然(nature)の役割という、STSにおいて長らく議論されてきた問題にも貢献する。FM技術の歴史を扱った本書は、自然は技術ができることとできないこととの限界を課す(nature imposes limitation on what technology can and cannot do)ということの膨大な証拠を与えた。Walter Vincentiは、1877年-1882年におけるエジソンの電気システムにおいて、オームの法則とジュールの法則が、現実世界”real world”における制限を課していたことを主張した。彼は、これらの法則は人工物であり、修正されうるものであることを認めつつも、これらの法則より明らかに優れたものがない場合、電力技術者はこれらの式を現実の世界と同等のものとして捉える他なかったことを述べた。もちろん、「式」は「現実世界」そのものではない。しかし、そうすべきだという社会的・経済的・技術的インセンティブが存在していても、自然法則に反する記録を残さなかったという事実は、我々は自然法則に制約されることがあるという説得力のある証拠を構成している。(1)狭帯域FMの支持者は電波の過密を和らげることができると願っていたこと、(2)アームストロングは、平衡増幅回路は空電の雑音を軽減しうると信じていたこと、(3)彼は、FMは空電の雑音を抑制することはできず、広帯域FMはむしろ雑音を増やすということは確かであると思っていたがゆえに、1933年の特許においてそのような確信を書いていた、という3つの事実は、発明者らは自分自身が感じていた未知の法則に制約されていたということを示している。

 広帯域FMは初めての高い忠実度を備えたメディアであり、FCCは伝統的にその質を向上されることを促進してきた。だが戦後はアメリカよりもヨーロッパやソ連での普及率が高かった。欧州では政府が放送を管理していたので、聴取者は多くの番組を聴くことができなかったという事情が背景にある。1950年代にドイツで最も人気があったのは、American Armed Forces Radio Serviceが放送していたジャズやポップス、ロックだった。それに対して米国におけるFMは、教育番組やクラシック音楽などの高尚な文化を連想させるラジオになっていった。(ウッディアレンの『アニー・ホール』では、主人公が彼女の前で現代美術に関する衒学的なコメントを披露した後、「なんてこった、僕はまるでFMラジオのようだ(Christ, I sound like FM radio!」と自分に向かって言うシーンがある。)

 FMの将来を予測することはできるだろうか?アームストロングが述べたように、「将来を見る最善の方法は過去を見ることだ」というのは事実である。だが、FMラジオの歴史は、技術の未来を予測するのはまやかし(tricky)であることを示している。1940年10月に米国ラジオクラブの技師長であったJohn Poppeleは「薔薇色の現在から見て、FMラジオが輝かしい経歴を辿ることは必然である。進化の過程によって、10年前の既存のラジオシステムを凌駕するのは当然である」と述べたが、その後に起きた出来事は、彼の発言が間違いだったことを表している。21世紀の現在、デジタル変調は(アナログ)FMとAMを旧式の技術に追いやり、FCCが取り組んでいる低出力FMは、何千もの短距離・小電力の送信局を生み出し、地域放送を復活させるだろう。だが実際は、FM技術の将来を予測することができないということが、本書で示した原理である。つまり、技術を不断に形成する歴史的出来事が必然的でないのと同様に、技術もまた必然的ではないのだ( a technology is no more inevitable than the historical events that continually shape it.)。 

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Gary L. Frost(2010), Chapter 5

Chapter 5   FM Pioneers, RCA, and the Reshaping of Wideband FM Radio, 1935-1940 (pp.116-134)

 

 第五章では、1935年から1940年までのFM技術の展開が扱われる。1935年にニューヨークで行ったアームストロングによる広帯域FMの演示の後においてさえも、RCAはその技術を無視した。そしてその結果、アームストロングが自ら連邦通信委員会(FCC)に正式な認定を要求するように動き出すきっかけとなるという意味で、節目の出来事だった。

 FCCの議論において、FMの周波数帯が割り当てられていく過程を明らかにしている点は興味深い。資料としては、FCCの議事録というよりは、雑誌や新聞、そしてアームストロングペーパーに依拠しているようである。著者は、RCAが広帯域FMに対していかに無頓着であったかを暴いている。RCAには、Bealに代表されるように、頭の硬い保守的な人間がいた。彼らがFMを採用しなかったのは、前章で見た様に、エンパイアステートビルでの実験デザインも得られる数量的データも不十分であったがゆえに、その技術の潜在能力を認識することができなかったからである。

 それにしても、RCAの無頓着さは、それだけでは説明できない側面があるような気がしてしまう。レッシングは、RCAはAMの既得権益に対抗する必要があったため、FMの承認をしたがらなかったという説明をしていた。そしてその説は本書で完全に否定されたが、そのような説が長い間受容されていたということにも納得できる部分がある。

 なお、文章のレベルはかなり難しく感じた。難解な文法や語彙はもちろん、比喩表現も頻出しており、文の意味がなかなか読み取れなかった。ただし、最低限、おおよその骨子は掴めたと思う。

 

以下は(半ばヤケクソになって作成した)粗いメモ。

 

   1935年10月に、アームストロングは自分自身でFMラジオの積極的な開示を始めた。最初の公の場での演示実験は、同年11月にInstitute of Radio Engineersのニューヨーク支部で行われた。彼は事前にRCAの経営者やエンジニアらに手紙を送っていたが、そこから、同社はファクシミリの送信を行なっていたということを宣伝するために、その機会(=演示)を利用しようとしていたことが示唆される。アームストロングはまだ、RCAの人間を説得して演示に参加させようとしていた。演説の最初で、彼はRCAの社員らに謝辞を述べていたことからも、こうしたことは窺える。

 この演示についての現存するほとんど全ての資料が、多くの聴衆がこのとき生まれて初めてFM技術による受信を目の当たりにしたということを指し示している。また彼を手助けしていたのは、彼と長年の友人であったPaul Gadleyであったという。

 新技術についての効果的な演示はわざとらしく(theatricality)なる傾向にある。アームストロングはFMとAMの受信を比較するために、RCAのエンジニアらがmotion picture filmを制作する際に録音した音源を用いた。その結果、FMの優位性について、聴衆に強い印象を残した。

 アームストロングのパフォーマンスに関する最も有名な説明は、その演示に立ち合っていなかった人物=レッシングによって書かれたものだった。レッシングの引用は、演示から2年後に書かれた新聞や雑誌記事からである。しかし、当日に演示に参加した人は誰も(レッシングが記述したように)、東洋風の歌やギター、ピアノの音、スーザのマーチ(「星条旗よ永遠なれ」)の録音を聞いたなどという報告をしていない。1935年時点で、アームストロングは「高い忠実度 high-fidelity」回路を彼のシステムに統合していなかったため、聴衆はそのような音を聞くことはできなかった。(※本当は録音した音源を聴いていただけなのに、まるで忠実なライブ音源を聴いていたかのように伝えられたということ?このあたりの文章が理解できない。)

  確かに、アームストロングがいずれは全ての周波数(30から16000サイクル)の変調波を送信することができるシステムに統合することを願っていた。しかし、1936年までに彼がそのような回路を用いていたという証拠はなく、1935年の演示に参加した誰もがそのような回路が必要とされる音を聞いたという報告をしていない。聴衆が感じたのは、せいぜいAMに比べてFMの方が空電による雑音が少ないということだった。

 1956年のレッシングの説明がどれほど疑わしいものであっても、1935年の演示が重要であったことには変わりがない。というもの、このデモの後に、アームストロングはRCA以外にFMラジオを売る戦略をとり始めたからである。そのためには、世界中でもっとも大きな企業の一つであったRCAが技術的な見地からFMラジオを拒絶したとする同社の疑念に挑戦する必要があった。だが実際には、それは、同社の知的怠慢さと十分な試験を行わなかったことによって、広帯域FMの本当の可能性を理解できなかったことに原因があった。RCAは10月の試験の後、広帯域FMに対して納得を示さなかった。

 この演示は、以下の点でFM技術史におけるマイルストーン(節目)になった。第一に、本試験はアームストロングがRCAにFM技術を売り込もうとした最後の試みとなった。そして、第二に、これ以降RCAはFM技術に関心を抱かなくなり、RCA以外のコミュニティーへとFM技術が普及していくことになった。

 他のコミュティーへのFM技術の浸透過程において重要な役割を演じたのは、シェパード(John Shepard)と、デマーズ(Paul DeMars)だった。シェパードは1923年に国立放送協会のトップに就任していた人物であり、20世紀を代表する企業家である。シェパードがなぜFMを擁護したのかは、連邦通信委員会(Federal Communication Commission=FCC)がどのようにしてAMを規制していたのかによって説明される。FCCは、電波の複雑な階層構造を作ることによって、田舎の地域へと通信範囲を拡大する方針を取っていた。すなわち、最下層は比較的短距離の通信を担い、数百もの250-1000W級の送信局によって主に日中に通信が認められた。その上には、5-50kW級のやや長い距離の通信局が存在していた。そして、最上層には50kW級の「最もクリア」な、24h稼働の送信局が存在していた。このような三層構造を作ることによって、各放送局どうしの混信を防ぐように工夫されていた。しかし、夜間に放送を行うことができる少数の高出力放送局を設ける代わりに、FCCはほとんどの局を低い地位に貶めて(relegate)いた。

 当時シェパードは、少数の最も特権的な送信局に苛立っていた中間レベルの送信局の代表者だった。低い地位に置かれた送信局が、最上位の放送局に反発したのは、主に経済的な理由からだった。というのも、商業的な通信局は主に広告を放送することによって収入を得ていた。そのため聴衆の数が増えれば、その分収入も増えることになった。そして、潜在的な聴衆の数は、FCCによって割り当てられたその放送局の階級に大きく依存していた。また、中間層以下の局はお互いに混信する場合もあり、それらの局は必然的に最上位局に比べて低い収入しか得られなかった。さらに悪いことに、最上位の放送局はそのライセンスを手放そうとはしなかった。そうした中、シェパードは1938年に特権的な放送局のライセンスを最小化することを目標に、地方放送局のNational Associationの初代会長に任命された。

  FMはシェパードのような下位の放送局に、ほとんど重要ではないW数とクリアなチャネルを与えた。(FM provided non-clear broadcasters like Shepard the hope of rendering wattage and clear channels all but irrelevant.) 高出力・高周波の局でさえ、水平線(?) を超えた 23-36マイルに限られていたため、FMの局はローカルなものに限られていた。(=つまり、アームストロングの広帯域FMが普及する以前のFM放送においても依然として田舎は何らかの制約が課されていたということ???) だが、シェパードはFCCの階級性を打開する技術的な基盤が与えられれば、放送産業は民主化し、ローカルなラジオも息を吹き返すということに気がついていた。

  1935年の初頭にThe Yankee Netwark’s associationが形成され始めた。アームストロングはニューヨークでの演示2-3週間後に、すぐにデマーズを説得して引き入れ(won over)、今度はデマーズがシェパードを陣営に招き入れた。そして1936年の4月に、デマーズはアームストロングがFCCに対して広帯域FMに実験的なスペクトル部分を割り当てる許可を得る行動を手助けしたことで、アームストロングは42.5-43.5メガサイクル、117、118メガサイクルの周波数帯を得ることができた。それは10のチャンネルが放送を行うのに十分な幅だった。

 シェパードやデマーズといったパイオニアらが、FM技術の社会的・技術的進化を加速されたことの重要性は決して誇張ではない(そういっても過言ではない)。1935年の時点で、エンパイアステートビルを除いて、アームストロングの実験室、そしてYonkerにあった局の2つの局のみが広帯域FMを実装していた。そして1937年以降、Doolittle、Noble、Hoganらによって、広帯域FMが次第に普及していった。そしてアームストロング本人も、1936年の4月に独立した放送者となり、実験的な高出力のFM送信機を制作することを宣言し、6月にFCCから許可を得た。

  1930年代の後半になると、アームストロングやその他のエンジニアらは、広帯域FMの新しい利点を理解していった。まず、アームストロングは、15000cpsまでの可聴周波数の音を再生することができる回路に中へ統合することによって、FMの忠実度の全体を改良した。彼はこの標準を採用するようになった理由を説明していないが、比較的高い可聴周波数の音を再生することが容易になったことと、改良の結果音質が明らかに向上したことを理解したためと考えられる。そして、1938年3月(ラジオクラブ)、1938年5月(ボストン)に新しいシステムを公の場で公開した。

 さらに1939年にはGEのエンジニアは、広帯域FMの方がAMよりも送信局どうしの干渉を抑制できることを発表した。この知らせの含意は、国立の放送システムの未来にとって、幸運だった。今やGEはFMが干渉に強いことを証明し、FCCは地理的にも電磁波スペクトル的にもお互いの局をより緊密に置くことができた。

  1930年代後半から1940年にかけて行われたほとんどの演示が、広帯域FMの利用可能性を証明するものだった。1938年1月に、アームストロングとシェパードは、50万ドルを中継局のネットワークに共同で投資することを発表した。この計画の目的は、1923年に構築されたAMネットワークに代わる、chain broadcastsという新技術の基盤を作ることにあった。古いシステムでは、CBSNBCは、電話線を借りて全国に生放送を発信していたが、それはaudio bandwidthにおいて4,5キロサイクルしか搬送することができず、それはFMのキャパシティーの1/3に過ぎなかった。それゆえ、アームストロングとシェパードとデマーズは、点対点のフルチャンネルのプログラムをFMで発信することを提案した。そしてそれは1939年の12月と1940年の1月に実際された。3つの中継地を介しての信号は無視できないほど歪んでしまっていたが、受信感度は予想を超えた質だった。

 勝利に支えられて、シェパードの動きは政治へと移行し、多くの団体がFM放送を促進することに奉仕するようになった。アームストロングのこの新システムが多様なコミュニティーを生んだという事実にもかかわらず、FMBI(FM Broadcasters Incorporated)の会合の調和を損なわせたのは、2,3の口論に過ぎなかった。最も深刻な問いは、FMは44メガサイクル以上のバンドに割り当てられるべきかどうかという問題で、そこはFCCが当時テレビのチャンネルを1つ割り当てていた帯域だった。テレビの推進者は、否と答えた。

 しかし、そうした意見の不一致は少しの動揺をもたらしただけだった。メンバーは満場一致でFM局に対して、単に実験的なライセンスではなく、「規則的」な権利の発行を始めことをFCCに求める決議を可決した。シェパードは10月に、FCCにYankee chainに対して規則的なライセンスを与えるように申請していた。FCCの技師長であったE.K. Jettは、アームストロングに出会い、FMとAMとを比較する研究を行うことを注文した。そして12月にFCCは、Yankee局の言い分を聞くことを決めた(?)(※”Yankee would get its hearing”とあるが、意味不明。) FMBIやその他の利害関係者らに世論調査を行った結果、一同は、(実験日を)1940年の3月18日に設定した。

 FMBIの会合においてRCAの代表者が参列したことは、アームストロングが特許を取得してからの4年間に、RCAはFMについて何をしていたのかという問いを投げかけた。その答えは、Crosbyの記事を別とすれば、RCAは1937年から1939年にかけてアームストロングが現代的なFMラジオについて頭を使って考えていた時期に、一つのFM特許も取得していなかったということである。

 アームストロングがRCAからFMを分離させようとした一つの兆候は、1937年にGEに対してFM受信機の制作を依頼していたということである。コストの面からすれば、RCAよりGEの方が高かったが、それでもアームストロングはRCAとともに仕事をすることを我慢できなかった。

 Bealのように、RCAの中にはFM技術に疑問を呈する人間がいたが、FM技術の支持者がいたことも事実である。例えばSandenwaterは、同社がFM技術を無視しているとして、上司を叱るということに果敢に挑んだ。1938年にPollackという仲間を得るまでは、彼は事実上RCAの内部で孤立していた。PollackはもともとFMに懐疑的な人物だったが、GEがFMラジオに乗り出すと、その支持者となった。FM技術に懐疑的だった保守主義者らも、ついに間違いを認め始めたが、それでもその過程はゆっくりであり、SandenwaterやPollackが指摘した技術的な理由に基づいていたわけでもなかった。彼らの考え方の変更にとって重みがあったのは、アームストロングやシェパード、デマーズの公の場での達成だった。Bealは1939年1月に会合を予定した。その会合において、Pollackはエンパイアステートビルでの実験で、聴取者の数の少なさ、測定時間の短さ、出力の低さなどを批判した。

  1939年末にRCAガ広帯域FMの現実を受け入れ始めたときでさえ、組織の傲慢さが変換を遅らせた。ハンセルのように、RCAの支援がなければFMシステムは経済的に生き残ることはできないと信じる人間もいた。このような自己満足は、FMはRCAにとって経済的な恐怖にはならないといった普遍的な信念に起因していた。子会社であるNBCを通じてもRCAの利益は、放送の番組を搬送する技術の種類ではなく、ラジオ番組のネットワークの中に聴取者が参入するかどうか、つまり番組の素材自体に依存していると考えられていた。

  RCAのマネージャーはついにFMについて神経質になったが、それはRCAがWH、GE、Stromberg-Carlson、Zenithといった会社に遅れをとるまでに落ちるかもしれないことを理解し始めたからである。1939年の春、RCAは、先駆者らはかつてその価値が疑わしかったFMの価値をあらわにしたことを認め、無関心の層を何枚か脱ぎ捨てた(sloughed off a few layers of this indifference, 要するに徐々に関心を寄せたと言いたいのだろう)。BealはFMを採用する報告書にサインをした。しかし、同社は永久的な技術基準が確立される前に、FMというメディアにRCAの足跡(stamp)を残したいと考えていた。RCA以外の実践家らはアームストロングのいう150キロサイクルを受け入れていたが、BealはRCAにおいてはそのような合意は得られていないと宣言した。

 FMに関する問題をRCAが把握し損ねていたもう一つの例は、同社が実践的で、商業的な質を満たす器具を製造する能力がなかったということである。O.B.Hasnonは、RCA組織の全体では旧式の受信機をたった一台しか製造できないため、GEとRadio Engineering Laboratoryに7セットのFMを製造することを依頼した。

  1939年9月に、FCCNBCに対してエンパイアステートビルに1kWの送信局を設置することを許可した。しかしHansonはFMが空電を抑制するという主張に反駁する機会を得るために、12000ドルの支出を正当化した。だが、既にFMが高い忠実度を得ること、干渉の影響が少ないということは明らかだった。しかし、HansonはそうしたFMの特徴について言及しなかった。1940年に商業的なFMラジオサービスが開始したとき、その配信にRCAはほとんど関与していなかった。

  1940年3月18日に、(1939年)10月以来シェパードとFMBIが模索していた商業的なFMサービスを作るためのFCC公聴会が開催された。議長のFlyは、FMの「法定の日 day in court」と宣言して公聴会を始めた。公聴会に参加した人々にとって最も驚いたことは、会において悪意がなかったということだった。公聴会が始まる前は、それがアームストロングとRCAとの「戦い」になることを予測する言説があった。しかしそのような見解は鎮静化した。さらに、委員会はすぐにFMの開拓者たちに有利な結論を出すだろうという兆しも見えてきた。アームストロングがハドンフィールドでのAMとFMの受信について映画フィルムに刻まれた録音を演奏したとき、エレクトリシャン誌はFMの優位性は明らかであると述べた(?)。アームストロングはなだめるような余裕を見せた一方で、彼はFMは人工のノイズに対しては秀でていることを主張することを忘れなかった。

 続く2週間で、聴衆はさらなる口論が起こることを予期し、エレクトリシャン誌もRCA側からの反対があることを予測した。しかし、RCAの代表であったW.WozencraftはFCCに定期的なFMサービスを承認する(give green light)ように促し、FMの支持者らを驚かせた。Wozencraftは、テレビのNo.1以外のチャンネルをFMに与えることなどを要求したが、それらの支持を得ることはなかった。アームストロングの門人(disciples)にとって、広帯域FMの支持/不支持をめぐる争いは、ほとんど容易いこと(cakewalk)だった。

 実際にはこの会合は法廷というよりも学会(コロキウム)に近い性質のものだった。そしてそのことは、FCCが最初に広帯域FMを制御した代理人であったということを考慮すれば自然なことだった。パネリストからの最も鋭い質問は、15000サイクルのオーディオ帯域が必要かどうかということだった。議長は10000,11000で十分かとアームストロングに聞いたが、彼は15000サイクルが自然であると答えた。Jettの前任者であったCravenは、バンドを狭めることを提案したが、アームストロングはそうすることには意味がないと答えた。どのコミッショナーも、アームストロングや他の支持者の技術的判断を否定することはなかった。

 FCCの決定はあっけないものだった。1940年5月20日、パネルは40チャンネルに相当する42-50メガサイクル帯を商業用の(広帯域FMの)サービスに与えることを決めた。そしてそのうちの42-43メガサイル内の5つのチャンネルは教育用に当てられ、それが今日の非商業的なFMラジオ帯になっている。200キロサイクルのチャネルは維持され、テレビ用の1チャンネルは削除された。パネルはRCAの要求を全く受け入れることはなかった。過去70年近く、FM放送は進化し続けているが、FCCはその技術の本質的な基準を維持することに怠ったことは一度もなかった。そしてその標準とは、1930年代にアームストロングやその他の先駆者らが考案したものだった。

 

 

 

 

 

 

夏目漱石『草枕』

 大学1年生くらいの頃から今まで、おそらくは4、5回くらい『草枕』に挑戦したが、毎回途中で挫折してしまった。そして、25歳の今、漸く初めて通読することができた。

 それにしても、他の漱石の作品に比べて、『草枕』は言葉が圧倒的に難しい(ように感じる)。にもかかわらず、グレングールドや宮崎駿の愛読書であることはよく知られているし、『読んでない本について堂々と語る方法』の著者であるピエール・バイヤールも絶賛していたように記憶している。世界中の読者に愛され続ける名作であることは疑いないだろう。

 30歳の洋画家である主人公が、那古井と呼ばれる架空の温泉街へと旅をし、那美という蠱惑的な女性をはじめとする現地の人々と、次第に関係を深めていくというただそれだけの話だ。主人公は、旅先で出会うこうした人々を、まるで絵画の中の世界にいる人物のように観察し、絵の中に収めようとしたり、ときどき俳句を読んだりする。青年画家の教養は圧倒的で、彼の緻密な思考回路を追いかけていくだけでも充分面白い。なお、地震が起きるシーンが一箇所あるが、妙にリアリティを感じてしまった。

 本作品は1906年(明治39年)、漱石が39歳のときに発表されたが、物語の設定も日露戦争下ということになっており、戦争に関する話題が何度か登場する。戦争へ従軍する那美の従兄弟である久一を駅まで見送るシーンがラストに置かれている。

 「汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。(中略) 人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りに手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付け様とする。(174-175頁。)」

  漱石は、二十世紀を代表する汽車という技術に、個性を蹂躙することで成立する偽物の「平和」を見て取る。事の本質は、それから100年以上たった今でも変わっていないように思える。まるで、満員電車の中で揺られる今日の人々を予見していたかのようだ。

 

文献:夏目漱石草枕』(新潮文庫)。

 

草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)

 

 

Gary L. Frost(2010), Chapter 4

Chapter 4 The Serendipitous Discovery of Staticless Radio, 1915-1935 (pp.77-115)

 

 第四章では、アームストロングがコロンビア大学の学生であった時期まで遡って、空電の影響を抑制するFM技術がいかに発見されたのかが述べられる。技術的な細部についてはあまり理解できなかったが、アームストロングによる広帯域FMのアイデアは、平衡増幅回路にまで遡るという。当初彼の狙いは、空電の影響を抑制するということではなく、真空管から発せられる雑音(tube hiss)を減らすことや、通信距離を伸ばすことにあったらしい。1934年にRCAの最新の実験室においてFMの試験が行われたが、RCAのエンジニアの中にも、FMが空電の影響を抑制するという特性に注目した人間はいなかった。技術史では、しばしば発明者本人でさえ技術の潜在能力を認識しておらず、あとになってその有用性が明らかになっていくということがよくある。広帯域FM技術についても同じことが言える。

 RCAとアームストロングが決裂していく背景には、アームストロングがデフォレストとの特許係争で負け疑心暗鬼になっていた事情もあっただろうが、やはり、1934年の試験のあと、同社がFM技術のプロモーションを行わなかったことに彼が苛立っていたことが大きい。それもそのはず、RCAの実験の主眼もあくまで通信距離にあった。(それに対して1934年になると、アームストロングは広帯域FMの方が狭帯域FMに比べて雑音が少なくなることに気がついていたという。) また、実験記録は定性的な記述が中心で、検証可能なデータは記録されていなかったことも問題だった。

 なお、再生・発振回路の発明の優先権をめぐって、デフォレストとアームストロングの間で特許係争が起きたことはよく知られている。そして裁判の判決とは反対に、通常はアームストロングにそのプライオリティーを与えられることが多く、本書もそのような立場をとっている。当該箇所には裁判の経緯について詳しく書かれており、興味深く読んだ。ちなみに日本海軍のエンジニアらは発振回路について、主にデフォレストのウルトラ・オーディオンから学んでおり、アームストロングについて言及していた文書はまだ見たことがない。もしかしたら当時は、裁判の判決がそれなりに効いていたのかもしれないが、詳しいことはわからない。

 

以下、粗い要約。

 

 本章では、アームストロングがどのようにして広帯域FMの機能を偶然発見したのか、その幸運(serendipitous)を詳しく見てみたい。ここでいうSerendipitousとは、今日の辞書的な意味、すなわち「偶然の出来事」といった意味ではなく、1754年にWalpoleがお伽話を書いた際に、最初に用いられた意味を持つ言葉として使用している。そのお伽話において、Serendipitousという言葉は単なる偶然の出来事(accident)という意味だけではなく、偶然に出来事に遭遇した人間の賢さ(sagacity)という意味をも併せ持っていた。アームストロングは、確かに当初、広帯域FMの潜在的な可能性について理解していなかった。しかし彼はその後、自分に理解が間違っていたことを認め、FMの能力について理解していった。つまり、広帯域FMは、そうした偶然の出来事とアームストロングの賢さとが合わさることで初めて発見された技術であった。以下では、上記の内容を、FMラジオの技術的な進化と、アームストロングとRCAとの間の競争-競合関係との間の相互作用に注目しながら論じていくことになるだろう。

 1920年代から30年代にかけてアームストロングが行った仕事を評価することは難しい。レッシングが述べているように、アームストロングは自身の関心事を秘匿する傾向があり、また継続的に実験ノートを書き残すタイプの人間ではなく、特許などで技術が公表されるまでは、全てを頭の中に保持しておくことを好んでいた。しかし、彼の特許、論文、書簡などからは、彼が長い試行錯誤の結果広帯域FMに到達していたことがわかる。1931年にCrosby、Hansell、Beverageがコロンビア大学の実験室に集まったときには、まだアームストロングは周波数スウィングを広げるというアイデアを持っていなかった。だが彼は同時期に平衡増幅(balanced amplifier)という雑音を抑制する技術を探究しており、広帯域FMの方向へ進んでいたと言うことはできる。

 平衡増幅回路とは、二つの鏡像関係にある信号経路によってブーストされる回路である。それぞれの経路には別々の入力/出力の接続を与え、のちにそれらを統合するのが普通である。平衡増幅回路の利点は、その直進性(linearity)(※何がリニアなのかは不明)にあった。そして平衡増幅は、カーソンやハンセルもすでに特許に採用していた技術だった。それはどうして単一経路の増幅回路に比べてきれいな信号を生成するのかは誰も理解していなかったが、1920年代にまでに無線工学者らはプラグマティックにその回路を組むことが慣習になっていた。アームストロングはコロンビア大学を卒業してまもなく発表した論文(1915年)において、すでに平衡増幅に言及していた。

 アームストロングはしばしば、彼が発明・設計に接近する方法は理論的なものではなく、純粋な実践家であったという誤った描写がなされることがある。だが実際には彼は実践家ではなく理論家だった(とくにこの平衡増幅については大胆な理論を紡いでいた)。彼は大学4年次に、audionについての理論的な考察を含んだ論文を書き、その発明者であったデフォレストのあてにならない主張に反論をしていた。

  だが、アームストロングは理論家としての条件を満たしていなかった側面があった。それは数式をほとんど用いないという点である。彼の論文において、高校以上のレベルの数学を見出すことは滅多にない。彼が直感に依存し数学を軽視していたことは、平衡増幅に関する貧弱な発想しか持てなかったことを説明するのに十分である。彼は直感と希望的観測に依拠して、平衡増幅回路は高い忠実度を維持する技術というよりは、ランダムな雑音を減らす技術であると考えていた。彼は、空電を運ぶ電波は雑音のそれとは異なった振る舞いをすること、そして大きな増幅の空電は局部周波数と相互作用しない(?) という思い込みに基づいていた。(今日から見ると、前者については正しい場合があるものの、後者は間違っていた。)平衡増幅がアームストロングの想像力を駆り立てていたということは、1915年から1933年に至る多くの特許や論文からも伺うことができる。

  1927年と1928年は、アームストロングが平衡増幅回路が空電をいかに抑制するかを説明する理論について最も熟考した時期である。1927年に空電の影響が少ない無線電信システム(a low-static radiotelegraph system)の特許を出願し、翌年にはそれについての論文を発表している。彼は、空電のエネルギーは時間によって著しく変化するが、周波数によってはほとんど変化しないことを主張した。そして、(信号+雑音)−雑音=信号という理論に基づいて、平衡増幅は純粋な信号を取り出せると主張した。彼の理論はジョン・カーソンの目に止まり、1928年7月より彼に対して反論を加えた。カーソン曰く、あらゆる時点においてチャネルは根本的に異なる雑音を含んでいるため、平衡増幅は雑音をマイナスすることによって信号を取り出すことはできない((信号+雑音1)−雑音2≠信号、みたいな感じ?)。その結果、1927年以降、アームストロングは平衡増幅が空電の影響を少なくするという主張をすることはなくなった。

 アームストロングはカーソンの議論に数学的な見地から反論しなかったが、彼は自らの工学的な直感を信用し続けた。1927年時点で、彼はまだ狭帯域FMは電磁波スペクトルを保持することができ、それゆえ空電の影響を減らすことができると信じていた。

 それに対して447特許では、5年後にアームストロングが再び利用することになる広帯域FMのアイデアが含まれていた。空電による歪みは、(1)とても大きなAMの送信電力によって空電の振幅による歪みを打ち負かす方法、(2)FM送信の周波数のスウィングを最大化することによって周波数の歪みを埋める(swamp)方法の2種類がある。そしてアームストロングが1933年に2番目の方法を発見することになるが、1927年の時点では広いスウィングを採用する理由を見出すことはなく、狭帯域FMが空電を抑制するというアイデアを信じていた。

 1927年特許を改良したものが1930年に出願された。これは1931年7月にコロンビア大学の実験室でハンセル、クロスビー、ベバレッジらに見せたそれと似ていた。そして1931年の9月にクロスビーはそれに類似したphase modulation receiverの特許を出願した。

 最後に、1933年7月、アームストロングは2つの特許を出願し(第1941068号、1941069号)、20世紀後半を支配することになる高い忠実度のFM放送の基礎を築いた。ここには物質的なものと概念的なものの2つの革新が含まれていた。一つ目は、送信波の周波数に対して大きな振幅を採用することの利点を主張していた点(?)。第二に、単純な変調・復調回路を放棄し、平衡増幅を変調器として採用した点である。

新しい送信機を用いて、アームストロングは今日のFMラジオと同じようなシステムを作り上げた。しかしながら、彼自身は現代のFM技術がより高い忠実度を持つ2つの特徴、つまり、より広いaudio bandwidthや、全ての空電雑音を消去することができるといった特徴を、特許の中で記述していなかった。彼はまたAMに比べてFMの方が送信パターンを制御しやすいということや、FMのみが局間の干渉を消去することができるということを知らなかった。彼はむしろこの技術がテレビやファクシミリの信号を送信することにとって有効であることを宣言していただけだった。

 068特許には理論的な考察が含まれていないが、069には含まれている。重要なことは、彼は発明の第一の目的を、超短波信号でカバーできる通信距離を伸ばすことであると考えていた点である。そしてこのことが、彼がFMをRCAに売り込むことに失敗した主な原因だった。彼は空電による雑音は特定の周波数では受信に影響しないということを信じていた。彼は高周波では空電の影響がないといった誤解をしていた。

 1927年特許において彼は狭帯域FMこそが空電の影響を減らせると主張していた。だがカーソンは5年前にそれが無益であることを述べていた。1930年にアームストロングは新たな平衡増幅の特許を出願したが、FMが空電の影響を減らせるかどうかは述べていなかった。今や従来の主張は、180度転換された。

 彼の真意は、周波数の幅を広げることによってtube noise(真空管のフィラメントから放射される電子の不規則性に起因する雑音)(≒ホワイトノイズ)の影響を減らすことができるというところにあった。彼は周波数と空電の関係を正確に理解していなかった。

 1933年12月に彼が特許を出願した前後の時期に、誰に対してか不明であるが、(ベバレッジに先行して、)サーノフやRCAの一部のエンジニアらに彼のシステムを開示していたようである。1934年1月にアームストロングの実験室を訪問したRCAのエンジニアらの反応は悲観的なものから楽観的なものまであった。しかし重要なのは、アームストロングも含めて誰もが現代のFMラジオに近い何かを聞いたということを記録していないということである。1934年1月3日に、クロスビーはノートに「ベバレッジ、ペーターソン、ハンセル、そして私はアームストロングの特許069のシステムの彼自身による演示のために、ニューヨークへ向かった」と書いている。当時はFMについて最も理論的に精通していたクロスビーは、FMはtube hissを軽減するというアームストロングの主張を支持することも、それに反対することもなかった。しかし、彼はノートに、「アームストロングは高周波振動と広帯域の受信機を用いることで、出力においてより多くの雑音を消去できると主張していた」と書いていた。

 これらの演示実験は、まもなくRCAの広帯域FMラジオの展開における最も直接的な貢献を導くことになった。RCAはアームストロングに当時もっとも充実した設備があるエンパイア・ステート・ビルのテレビ実験室を貸与したからである。ただし、そこはラジオだけではなく、ファクシミリなどの他の技術に関する実験をも行う施設だった。

 この実験室において中心的な役割を演じたのは、ベバレッジだった。1932年4月には彼はヤング(RCAのシニアエンジニア)とホーン(NBCのシェフエンジニア)に、「周波数もしくはパルス変調を超短波送信機に適応した高品質の放送の可能性」について書簡を出している。彼は、FMは平衡増幅とともに空電を抑制することを示唆していた。だが、1932年の時点では(おそらく経済的な理由で)、このラボでFMの実験が行われることはなかった。ホーンが同意をし、エンパイアステートビルの広帯域FMの放送機が設置されたのは、2年後の1934年の3-6月のことだった。

 FMラジオの展開において最も望みあるこの段階において、彼の人生の中で最も不平等かつ個人的な挫折を背負うことを余儀なくされたというのは、アームストロングの不運だった。物語は、彼が再生回路を発明した1912年にまで遡る。当時彼は大学生でありお金がなく、特許を出願するための150ドルを捻出する必要があった。そして資金をかき集め、翌年に特許を出願したときには既にデフォレストが同じ再生回路の特許を取得していた。両者は特許係争を起こし、上訴の階段を登った。しかし、高等裁判所の裁判官であるBenjamin Cardozoは、(不可解なことに)デフォレストの記録にはあくまで低周波(音声)信号においてのみ再生を確認していただけだったのに、それを高周波における再生と混同したために、デフォレストに有利な判決を下した。アームストロングはその後、Institute of Radio Engineerの年会において、再生回路の発明に対して与えられた名誉メダルを返却することを申し出た。役員の多くは、デフォトの特許権を持つ会社の人間であったにもかかわらず、彼らはアームストロングの申し出を拒否した。

 1934年以降、アームストロングは信頼する身内の輪を狭くしていった。そして彼の残りの人生はシニカルな世界観を肥やしていき、そのことがFMラジオの展開・促進の方法に影響した。彼にとって敵の範囲は、法律家、Federal Communication Commission、議会、RCA、そしてサーノフまで拡大していった。

 このような中で、アームストロングはエンパイアステートビルに彼のシステムを設置するハードワークに耐えた。この数月間が、彼にとって最も幸運な(serendipitous)な瞬間だった。彼は(特許に記載していたこととは反対に)、広帯域FMが空電による雑音を増やすのではなくむしろ抑制することに気がつき始めたからである。

 レッシングをはじめとするFMラジオの歴史家は、Westhampton Beachの演示実験こそが、アームストロングのシステムの優位性を決定付けた証拠であるとみなしている。だが、この試験は、実際、FMは空電の影響を抑制することができることを隠すような、曖昧な結果しか得られていなかった。というのも、アームストロングの特許が主張しているように、彼のシステムの利点は通信距離の拡大というところにあったため、本試験は主に聴取可能な範囲を確認するテストだったからだ。しかし、1936年にアームストロングはWesthampton Beachの演示実験の成功について述べた演説を行い、これがのちの歴史における正典となっていった。本当のところ、ベバレッジをのぞいて、RCAのエンジニアらは決して楽観的な態度であったわけではない。ハンセルは、彼のFMに関する理論的な理解がアームストロングの新しい理解を飲み込むことを妨げていたこともあり、煮え切らない反応を示していた。また彼は、ベバレッジは試験に参加していなかったとして、彼の楽観的な態度に疑問を抱いた。

 ハンセルの懐疑主義にもかかわらず、アームストロングは徐々に仲間を増やしていった。RCAは1934年10月に実験を行なったが、その実験こそが同社がFM技術を拒否するきっかけになった。その試験では、あくまで通信距離の調査に比重が置かれており、全般的に問いが狭かった。そのため、FMにおける短い距離で雑音を減らすといった特性が見えなかったのである。さらに、実験報告は主に定性的な記述が中心であり、再現可能・分析可能な定量的なデータから構成されるものではなかった。

 レッシングによれば、FMは新しい送信局やネットワークを配置し、これまで力を持っていたAMシステムを抑制するものであった。つまり、RCAはFMによってAMラジオという古い既得権益を奪われることを恐れて彼の特許を買わなかったという。しかし、これは以下理由で間違っている。第一に、RCAは従来、AM技術に対してそこまで投資していなかった。したがってRCAがFMラジオの普及を遅らせたからといって得られるものは少なかった。第二に、AMという古い既得権益が侵害されることを恐れてFM技術を購入しなかったというレッシングの説は、同社が同時期に同じく革命的であったテレビに多額の投資をしていた理由を説明することができない。RCAは成功する見通しを得ることができるような証拠があれば、むしろ新しい技術を歓迎する文化を持っていた。同社がFM技術を受け入れなかったのは、むしろ、RCAもアームストロング自身も、1935年の時点で、FMが空電の影響を抑制するという将来性について十分に理解していなかったからである。そしてこうした無知は、同社が1934年から1935年にかけて行なった実験において、数量的なデータを残していなかったことに起因している。

 アームストロングはRCAが新たに行動を起こさないことに苛立ち、ジャーナリストを募ってFMラジオのタネを植え付けようとした。1935年より、広帯域FMについての記事が発表されるようになった。が、記事の中には、従来のFMは全て狭帯域FMであるといった誤った事実も含まれていた。新聞は、また、RCAやその他の会社がFMについて研究を行なっていたことにも言及しなかった。彼がFMシステムを公に発表し始めたことは、彼が戦略を大きく転換したことを意味する。従来彼は秘密主義で、自身の発明について部外者に漏らすことをしなかった。しかし、今や彼は、RCAの優柔不断さに苛立ち、不満を発散するために、マスコミにFMについて公言するようになった。このようなアームストロングの働きかけに対してRCAの経営者は反応を示さなかったため、両者の関係は危うくなっていった。

 現代のFMラジオの展開を取り巻く皮肉を、我々は無視することができない。アームストロングは、FMと平衡増幅に関する誤った理論に基づいて、tube hissを軽減するだけと思われていたそのシステムを発明した。彼は特許において、FMが空電に何らかの影響を与えることを否定していた。しかし、同じ特許は現代の放送FMラジオの基盤を構成し、それが空電を抑制する能力は、彼自身の理解が間違っていたということを証明した。1936年以降、FMラジオには、より広いaudio bandwidthがあることや、送信局間の干渉に強いといった更なる利点があることが明らかになっていった。しかし、最初は自らが発明した技術の潜在能力に気がつかない発明家というのは、決して珍しいわけではない(ex デフォレストのaudion)。アームストロングにおいて特に特別なことは、FM技術が進化していくその社会的・技術的な文脈である。周波数変調の仕組みを理解することは難しいことではないが、実際のシステムを構築するためには、アームストロングのような一流の発明家や、RCACの仲間の存在が必要だった。彼は長年経験してきた平衡増幅と周波数変調をFMシステムに統合したが、それはAM以上に安定した回路が要求された。FMの展開は、知的な作業と、試験のための物質的な設備との両方を必要とした。彼が大きなアンテナを持つ送信局の建設のためにコストを出すことを望まない限り、彼はRCAを頼る他はなかった。そしてRCAの関心は、超短波通信における通信距離を伸ばすことにあった。

 1930年代には、FMシステムが最終的に達成する全てのことを予測できた人はいなかった。アームストロングは自分が間違っていたことを認め、当初の予想を超えた有用な技術ができてしまったことを認識することができる知的な開放心=賢明さを持っていたという点において、評価するに値する。

 

 

 

すばらしき新世界

 Aldous Huxley著のBRAVE  NEW WORLD(1932年)の全訳。訳者は大森望で、「めっぽう面白いSFを訳すつもりで日本語化」することを目指したという。ちなみに祖父のトマス・ヘンリー・ハックスリーはチャールズ・ダーウィンの犬として知られる、進化論を支持した生物学者

 あまりにも滑稽で思わず笑ってしまうという意味で、カフカの『変身』に通じるような、面白い小説だった。訳のせいなのか分からないが、テーマの深刻さとは対照的に、描写そのものはとても明るく感じた。文学的な仕掛けもある。

 描かれる世界は、2540年らしい。確かに、「T型フォードの登場した年が」、「新たな紀元の始まりに選ばれた(p.73)」とあり、フォードのモデルTが発売された年=1908年が「AF」元年とされている。この世界では、人間そのものが人工授精によって「大量生産」されるようになっている。そして、各人はアルファ、ベータ、ガンマ、、と厳密に社会階級が割り振られており、人工授精が始まった瞬間から、それぞれの階級に適した条件付けが行われる。各人はそれぞれの階級の中で幸福を感じるように設計されているため、完全な「ユートピア」が実現しているように見える。父親や母親といった言葉は卑猥な言葉である認識するように条件づけされているのがとても滑稽で、物語の中間で野人ジョンがリンダのことを自分の母親だというシーンでは、周りの文明人らが爆笑する様子が描かれており、おかしくて笑ってしまった。

 作中人物に登場するヘルムホルツマルクスらは、あのヘルムホルツや、あのマルクスを連想させる部分も興味深い。マルクスが嫌われ者だというのもなんとも示唆的。(1932年頃にイギリスで思想統制が始まっていたのか知らないが。)

 このような世界が作られるきっかけとなったのは「9年戦争」であるという設定である。これは著者が第二次世界大戦を予見していたかのようだ。世界統制官のモンドが語るところによれば、「九年戦争を境に、空気が一変した。まわりじゅうで炭疽菌爆弾が爆発しているとき、真実や美や知識になんの意味がある?九年戦争後、科学研究は初めて制限されるようになった(317頁)」らしい。だが、第二次世界大戦で実際に使われたのは炭疽菌爆弾というよりは原子爆弾であり、科学研究は制限されるどころか、むしろバネヴァー・ブッシュの演説に見られるように戦後も国家による基礎科学の振興が訴えられた。

 著者の解説には伊藤計劃の『ハーモニー』からの引用がエピグラフに記されている。それは、幸福を選ぶか真理を選ぶか?という選択で、人類は幸福を選んだため、後戻りできなくなったという趣旨の文章である。これは、この作品のテーマを一言で言い表しているかのように思える。

 面白い作品だったので、また別の訳も読んでみたい。