yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

内田, 1992

内田星美「近代技術者の生成」『日本機械学会会誌』第95巻第881号(1992年)、284-288頁。(ここからDL可。)

 

日本と西欧の技術者の歴史を概観した短い論考。

 

  • 現在、技術者≒大学工学部卒業者と考えられているが、工学系教育機関が誕生したのは日本でも欧米でも100-200年前のことである。しかし「エンジニア」という言葉はその前からすでに存在していた。
  • 西ヨーロッパにおいては、15-16Cにエンジニアと呼ばれる人が登場した。当時は技師と職人と芸術家が未分化で、その中で(建築設計、彫刻、兵器の発明、都市計画など)何でも屋的に優れた仕事をする人がエンジニアと呼ばれた。Engineerとingeniousは語源的に同じであるのはそのためである。
  • 17-18Cになると技術者と建築家・芸術家が分化していき、当時中心的な存在だったMilitary Engineerに加えてCivil Engineerが育ってきた。前者は宮廷官僚の地位を持っていたが、後者は当初、職人層と区別がなかった。しかし18C-19C前半に起きた産業革命で中心的な役割を担ったのはこうした職人出身の技術者たちだった。彼らは徒弟制の中で実地を通じて技術を身につけていった。尤も彼らの中でも数学や幾何の基礎教養を持っている者もいて、ワット、モーズレー、ハンツマンらの発明の結果、Mechanical Engineerという職人が生まれたと言われる。
  • 職人出身の彼らはしかし、19Cに入ると職人とは社会的に区別されるエンジニア集団を形成していった。1818年にInstitution of Civil Engineerが、1847年にはInstitution of Mechanical Engineerがそれぞれ発足している。

 

  • 教育による技術者養成において先鞭をつけたのはフランスで、1689年にはすでに軍事技術者養成のための砲兵学校があり、1749年にはその卒業生を対象とした高等技術学校で応用数学的な工学教育が開始された。1793年にエコール・ポリテクニクが設立されたが、それは現在でも同国の最高学府として存在している。
  • 諸外国の技術者教育機関を俯瞰すると、1870年までは日本だけではなく欧米でも制度の整備は遅れており、一国内でも学校名に統一性がなかった。しかし、中世以来の学術伝統に根ざした伝統的な大学の外で技術教育が発生した点はおおよそ共通している。
  • ただし、技術教育の制度化が産業発展に遅れたのはやむを得ない側面もある。というのも、産業革命期の新技術のほとんどは経験的に発明された、後から理論づけがなされていった。19C中までには熱力学・冶金学など工学の体系ができ始め、それらの教科書が出来始めた。日本の工部大学校が発足した1876年(?)は、ちょうど体系化されたばかりの工学を最新の教科書によって学ぶことができる時期に相当した。
  • 工学系の学校に電気・化学専攻が設置されるのは19C末以降で、これらの新産業が中心となって大企業が設立し、20Cには企業内技術者が登場する。

 

  • では日本における技術者形成過程はどのような具合だったのか。幕末から工部大学校卒業生が出る1880年までの時期に西欧技術を導入した担い手は、(1)蘭学者、(2)長崎・横須賀などの官営事業で外国人から教えを受けた人々、(3)幕府のオランダ留学生等の初期留学生、の約50名である。その後、工部大学校と東京大学が統合され帝国大学工科大学となるが、これは大学としては世界でも稀有な高等技術者教育機関だった。加えてもう一つの特色は1898年に高等工業学校=大学に準ずる技術者養成機関を設置した点にあり、その後は帝国大学を上回る数の技術者を輩出していくことになる。西欧とは異なり、初めから職人層と断絶した学校卒技術者が中心だった点に日本の特徴があると述べられる。

 

コメント

Engineerと ingenious(天才的)の語源が同じというのはなるほどと思った。(本当かどうかは知らないが。) 高等工業学校の存在と役割はよく知らないが大事なのか。あとは、Engineering Scienceの歴史について論文集(https://www.springerprofessional.de/en/the-rise-of-engineering-science/15943144)がありフォローしたい。

辻哲夫『日本の科学思想』第一章

辻哲夫『日本の科学思想』(こぶし文庫、2013年)

 

読書会の予習です。

非常にthought-provoking。議論が丁寧で面白い。

序章で説かれているのは、ある種の多元主義(pluralism )と言って良いのではないだろうか。科学が「普遍である」とよく言うが、時間的にも(例えば17Cの科学と19Cの科学)空間的にも(例えば18Cのフランス科学とイギリス科学)、共通点を探す方が難しいとも言えるのかもしれない。そうだとすれば、明治維新以降日本に導入された科学(それは専ら概念体系の翻訳によって移植された)も、日本の言葉・思考法にそって再構成されたものであるはずである。ハイゼンベルクが看破していたように、変革期の科学(量子論)の分野で優れた適応力を示したのも、そうした何らかの日本「文化」に根ざしているか、あるいは少なくとも、西欧の唯物論的な頑強な思考パターンとは違う何かが効いていたと考えることもできるかもしれない。

 

序章

  1. 科学・技術 – 言葉と概念
  • 言葉の有無だけを問題にすれば(つまり、言葉がなければそれによって表現される観念も、あからさまな形では存在しないので)、明治維新の頃まで遡れば、科学・技術といった言葉は存在しない。

→表向き無から有への変動をみせているなりゆきで、何が起きていたか?

(1)科学・技術というはっきりとした言葉が存在しない場合にも、それらをとりめぐる類似概念がまったく欠如しているわけではない。

→潜在する未成熟で意味のはっきりしない観念が、どのように明確な言葉へと成長・分化していくか?

(2)科学・技術という言葉があっても、その意味内容が一義的でない場合がある。

→誰が、どのような状況で、どんな目的を持ってその言葉を使っているのか?

  • 言葉とそれを表す観念の交錯関係の複雑さ

日本人なりの理解の方法、外国語で表現された科学・技術との照応の仕方。

 

  1. 概念の翻訳
  • 科学・技術は翻訳文化として日本に成立した。→概念の翻訳

=それらを支えている理論の枠組みまでを考える。日本語だけで体系的な理論を説明できるようにする。

→この概念の翻訳過程で、どのような困難を克服しなければならなかったか。

Ex: 科学の強い方法、理論構造、概念構成、推論の手続きなどを、日本語でいかにして文意を構成するか?

  • 未知の科学的な抽象概念を日本語で表していくには、日本の学術用語の転用、転釈が必要になる。→科学の翻訳=日本語の思考法に従った学問的知識の再構成

→日本語によって科学を理解可能なものに再構成しうるのであれば、日本の伝統文化が潜在的にその可能性を秘めていた。

  • 移植される前の西洋科学と、移植後の科学は同じものか?=異質性

科学が伝達することによって、その内容が変質することはないか?科学も変容しうるのではないか?

  1. 日本の科学とその文化的異質性 – バナールの場合
  • バナールによる日本の科学についての観察:「凝りすぎており、衒学的で、想像力にとぼしい」=文化的特質

→普遍性の典型とみなされている科学でさえ、伝統文化から影響をうけて変容せずにはすまない。

  1. ハイゼンベルクの場合

「素朴な唯物論的思考法を通ってこなかった人たちの方が、量子論的なリアリティの概念に適応することがかえって容易であるかもしれない」『現代物理学の思想』

→極東における哲学思想と量子論の哲学的実態との間に関係があるのではないか?

=伝統的な科学の素地を持たない日本の方が、むしろ容易に現代物理学を理解し得た。

  • 科学は異質の文化圏に伝播可能であるのみならず、伝播することでその発展が促進されることもある。特に理論の変革期には、異質の伝統文化の方が早く適応することもありうる。(1)古い理論に固執するか、(2)新理論を受け入れるか

のどちらの論拠を取るかによって、何を科学の普遍性とみなすかも変わってくる。

→変革されたものを理解しうるような思考法がとれるかどうか?

ハイゼンベルクは、西欧科学の背後にある頑固な伝統文化と、変革期に適応性を示した日本の科学を支える伝統文化との、その異質性を思いやった。

 

  1. 科学・技術と西欧文化
  • 科学・技術が伝播可能であるとはどういうことか?

→科学は伝播可能な形をとってはじめて、異質文化圏にも伝えうるようになった。

=西洋の伝統文化(キリスト教ギリシャ的思弁など)に根差す思弁的性格を拭い去り、合理的な実用知としての形式的整備を経た、18C以降の科学。

  • 17,18Cに自然哲学と言われたものと、19Cにサイエンスと呼ばれたものでは、一言で近代科学といっても大きな違いがある。あるいは同時代の科学でも、国によってあり方が違う。

→こうした多様性=ある制約された形態をとりながら、どのように普遍化をめざしてすすんでいるのかを克明に確認する必要がある。それぞれの伝統文化に照応しながら、いかなる普遍化の道をたどっているか?

  • 日本の言葉で表現し、日本の思考法にそって再構成される科学・技術は、いったい何をめざし、どのような理想を掲げて進んできたか?
  • 陰陽の理を捨て、わずか百年たらずの間に西欧の2000年あまりの歴史的蓄積を導入しなければならなかった特異な事情。

 

 

 

高瀬隼子『水たまりで息をする』

小説好きとして、芸術を愛する者として、芥川賞受賞作はなるべく読むようにしている。2021年度上半期の受賞作は石沢麻依『貝に続く場所にて』だが、聞くところによると難解で読みづらいということだった。そこで代わりに、ラジオで選考委員の一人である平野啓一郎が絶賛していた高瀬隼子『水たまりで息をする』の方を読むことにした。もちろん、立ち読みをしてみて、こちらの方が読みやすそうだったことが直接の要因である。

 

結論から言うと、なかなか面白い小説だった。しかし、どこがどうよかったのか、うまく説明できない。それどころか、この小説は何をテーマにしているのか、小説の核となる主題さえもよく分からない。ただ、ページをめくらせる強さに圧倒され、気がつくと読み終えていた。

とはいえ、大雑把に言うと、

(1)都市的なもの/田舎的・原始的なもの→都市的な「清潔感」への批評的(?)観察、

(2)夫婦で2人で一緒に生きていくということ=第三者からは決して理解できない関係を生きるということ。

本作の主題は、この2点に要約できるのではないかと考えた次第である。

 

主人公は35歳の妻、衣津実。運輸業の事務の仕事をしている。夫はたしか1歳年下で、営業マン(?)だったはず。二人は特に裕福というわけではないが、なんとか不自由なく暮らしていける、平凡な夫婦である。子どもを産もうと何度か試みたものの、現在は半ば諦めている状況である。なお、ここで重要なのは、夫は東京出身だが、妻は地方出身であるというプロフィールである。都市/田舎という対比が、まずここで示されている。

 

 あるとき、夫は突然水道水に違和感を覚え始め、風呂に入らなくなってしまう。食欲がなくなるわけでも、会話ができなくなるわけでも、どこか体に異変が生じるわけでもない。ただ、お風呂に入らなくなるという「非常識」な事態が起こる。当然、夫の体は垢まみれになり、異臭を放ち始める。水道水がダメなのだからといって、妻はミネラルウォーターを買ってきて、なんとか夫の体を綺麗にしようと試みるものの、あまり効果はなく依然として悪臭は治らない。

ただ、夫は雨が降る日に外に出て、雨水に打たれることで、自分の体を洗い流そうとする。このあたりからも、都市的な暮らし/田舎の原始的な暮らしという二項対立がなんとなく見えるような気がしてくる。結局、夫は匂いのせいで「ハラスメント」加害者の認定をされ解雇され、妻の田舎にある祖母の山小屋で暮らすようになる。

都会は、汚いものを見ないようにする習慣がある。もう少し広く別の言い方をすると、組織を乱す「ノイズ」は徹底的に排除される。だから、異臭を放つ夫は、会社では「ハラスメント」扱いにされるのだろう。

(ところで、話が脱線するが、僕も衣津実や筆者(愛媛出身らしい)と同じく田舎から東京に出てきた人間なので、この東京/地元という2世界に生きている感覚というのは手にとるようにわかった。特に、個人情報保護もあったものでもない、地元の濃密なネットワークの中で、東京に出て行った人がどのように扱われるか、東京での噂話がささやかれる雰囲気など、読んでいてなんともいえない感覚になった。)

さて、二つ目の主題、夫婦間の関係ということについて言うと、この小説で何度も繰り返される「ままごとみたいな生活」というフレーズがヒントになりそうである。衣津実は夫の異常を知りながらも病院に連れていくこともせず、かといって離婚をするわけでもない。そうこうしているうちに義母から電話がかかるようになり、夫を「放置」していることを咎められるようになる。そこで出てくるのが、この言葉である。

 

もう絶対に嫌だ。この世にままごとみたいな生活がひとつでもあると思っているような人と話をするのは。(p.73)

夫は家族の次に、いや、もしかすると家族よりも近い存在なのかもしれない。しかし、所詮は他者である。究極的には、突然お風呂に入らなくなるといった、自分の常識に照らし合わせても「理解できない」他者であるのかもしれない。

衣津実は、夫が人生の全てだとは思わない。けれど、夫がいてくれたらそれでいい、とは思っている。この二つのことは、似ているようで違う。夫にとって自分もそうであったら良かった。(p.99)

この文章は、衣津実が考える二人の関係を端的に表現していると思う。

三者から見れば、夫婦間の暮らしは、精神的にもお互いがお互いを支え合い、幸せで円満な暮らしを営んでいることが理想とされるかもしれない。しかし、もしかすると、赤の他人と一緒に暮らすというのは、乗り越えられない「非常識」、納得できない「異常」とともに生きていくことを意味するのかもしれない。そんなこともわからないで、絵に描いたような夫婦を想像しているような事態を「ままごとみたいな生活」と書いているような気がした。もっとも僕は他人と長い時間生活したことがないのでなんとも言えないが。

 

まあ、ともあれ、何を書いた小説なのか、結局のところはよく分からないし、ラストシーンは全く理解不能である。おそらく審査員もあまりよくわからなかったのではないだろうか。しかし、非常に読みやすく、一つ一つのシーンに魅力があるなかなか良い作品だったことは確かである。

 

 

 

 

 

 

橋本、2002

英国の雑誌記事に基づき、外国からみた明治時代の技術事情を紹介した興味深い論文である。

 

橋本毅彦「英国からの視線 - 『エンジニア』誌に見る明治日本の技術事情 (鈴木淳編『工部省とその時代』(山川出版社、2002年)、83-94頁。)

 

  • 明治政府は主に英国からお雇外国人を招聘し、各種施設の建設・運用を進めた。本稿では本国イギリスの技術者の目からみた日本の近代国家建設を、The Engineerという雑誌に依拠しながら明らかにしたものである。この雑誌は1856年に創刊された週刊誌で、学術雑誌というよりかは業界の情報誌という性格を持つ。そこでは、日本びいきのお雇い外国人の視点とは異なる現実的な視点を見てとることができるという。
  • 幕末の1863年に現れた「日本人」という記事では、模倣が得意で手先の器用な国民性が紹介されるとともに、日本における資源(北海道の木材や石炭など)に関心が向けられていたことに特徴がある。また近代国家のインフラの中で特に重要な鉄道建設については、中山道線というヴィカース=ボイルが提案した路線の合理性が説かれていた。ここでいう合理性というのは、日本各地から主な港に容易にアクセスでき、国内の産業発展と貿易場の利益につながる計画だったという意味である。
  • 明治6年から学生を募り始めた工部大学校の教育については、教頭だったダイアーの説明、すなわち、大陸の理論重視教育と、英国の実践重視教育とを総合した教育であるという説明とは異なり、雑誌の編集者は、例えばフランスのエコール=サントラルなどにおいても実習や卒業制作にかなりの力点が置かれていると指摘している。ただし、日本において先端的な技術者教育が行われているということも同時に指摘されているという。
  • 1887(明治20)年に上野で観業博覧会が報告されると、日本への市場を拡大する上での注意点が現れるようになる。具体的には、日本人利用者の慣行に適応した製品を製作する必要があるといった具合である。
  • 日清戦争後は、ランサムという人物が同誌からの依頼を受け、「近代日本 - その産業と科学」と題された20回にわたる連載が組まれることになった。彼が最初に取り上げたのは、デットコピーつまり模造品の無断製造の問題だった。特に他国で特許が取得された機械が日本に持ち込まれた場合、それを分解して模造品が作られてしまう虞があることに対して注意を喚起している。その後特許問題は、1899年にパリ条約に加盟することで国際的なルールに従うことになった。
  • また、ランサムは政府による輸入品検査の厳しさという点を取り上げた。そしてこうした厳格な検査が行われる背景には技術教育と技術者養成の欠陥があると指摘した。つまり、技術に対する迅速で正確な検査を行うのに十分な実践的な知識が不足しているという指摘である。その結果、不良品の輸入を防ぐというよりも、むしろ良質の製品を返品してしまっているといった批判が記された。
  • またランサムの連載では、工部大学校-帝国大学工科大学の教育についても述べられる。そこでは(科学史技術史でよく言われるような)実践重視の教育とは裏腹に、実地での経験に乏しい理論偏重の教育であるという観察が述べられた。彼はそれを「手袋をしながら物をいじっている」と表現している。これは、実習などで取り扱う対象の数や種類が少なく、実践に応用する能力が十分でない状態を指していると思われる。
  • 記事からは、全般的に、日本の技術レベルを探り、潜在的なイギリス製品の市場とみなす視線が見て取れるという。また明治時代の技術者教育については、英国人からは理論偏重に見え、それがさまざまな弊害や損失を生み出していると分析されていた。

 

 

感想

  • 当時の日本の検査偏重体制についての観察は非常に興味深かった。いずれ、実際に記事を読んでみたいと思うが、試験機関が整備されていく過程との関わりや、「検査好き」の国民性(例えば病院にあるCTの数は世界一らしく、人間ドックを受診する割合も世界的に多いらしい)のルーツがあるような気がしたからである。

     

高橋,1994

電信修技校(学校)とは何か。気になったので、調べてみた次第である。本筋とは関係ないが、幸田露伴が修技学校出身だったのは意外だった。電信に関心があるわけではなく立身出世の手段として電信員のキャリアをパスした例としては、実業家カーネギーもそうだったのだろうか。

 

高橋雄造「明治の人々を育てた電信修技学校と工部大学校」『電気学会雑誌』第114巻(1994年)、300-305頁。(ここからDL可)

 

  • 概観

電気技術の教育は、日本でも世界でも電信教育として開始された。1870(明治2,旧暦)年に東京-横浜間で電信線が架設され、電信サービスがスタートして以降、電信員の養成が必要となった。工部省は訓練学校である電信修技学校(修技校)を設置し、オペレータや技術者を生成した。他方、明治6年技術幹部の養成を図る目的で工部大学校が設置され、同校電信科は世界最初の電気工学関係学科であった。

 

  • 電信修技校のルーツ

電信教育は、修文館で御雇外国人教師ギルバートから寺崎遜(ゆずる)、田中源之助らが電信をOJT方式で学んだのが最初である。明治4年に導入されたモールス電信機の操作には、符号の打電をはじめとする技術の習得が求められたため、工部省電信寮に修技教場を設けて生徒を募集した。明治6年には汐留に修技学校が設置され、東京電信学校、東京郵便電信学校、通信官吏練習所(1905年,日露戦争後の財政困難のため規模を縮小)、逓信省官吏練習所、NTT電気通信学園となっていった。同年には大阪にも電信修技校の分校が設置されている。なお、明治20年には東京電信学校の官制が制定され、学府としての地位も確立している。

 

  • 教育内容

通信技術:印字、指字、単針の3機について学ぶ。その他英語と仏語、数学、1884年以降は電機学が追加された。

 

  • 卒業生

電信電話、逓信の幹部になった者の他、日本の電気工業界を背負って立つ人たちが輩出された。『日本電気事業発達史』の著者である加藤木重教、三吉工場(日本初の重電機製造会社)の創設者三吉正一、無線技術の先駆者松代松之助、TYK電話の発明者の一人北村政次郎、安中電機製作所の経営者である青山禄郎などはその例である。電信修技校に集まった生徒は欧米流の技術・学問を身につけて立身出世したいと願っていた人々が多く、電信技術自体を必ずしも志望していたわけではなかった。枢密院の伊東巳代治や、文豪の幸田露伴などはそうした例である。

 

  • 工部大学校電信科の沿革

明治6年に技術幹部養成のために工部大学校が創設され、都検ダイアーの計画に従って、7つの学科が設置された(明治15年には造船科が加わった)。高等教育機関で電気工学を専門とする電信科を備えたのは世界でも工部大学校が最初であり、過去の仕組みに囚われずに政府主導で技術移転をした明治日本だからこそ可能だった。(イギリスでは明治18年1885年にロンドンのユニバーシティ・カレッジに電気工学科が設けられた)。なお、電信科は明治17年に電気工学科と改称されている。工部省の廃止に伴い明治19年に工部大学校と帝国大学工科大学に統合された。これは現在の東大工学部の起源である。なぜなら工部大学校と同時代に存在した東京大学には電気学科が存在していないからである。どうして工部大学校に電信科が設けられたのかは不明だが、政府が電信員の教育だけでは不十分で、高等教育レベルの電信技術教育が必要だと判断したのだと推測される。電信科ではエアトンが教授となり、その後任者はThomas Grayだった。グレイは明治14(1861)年に解任され、後、日本人教師だけとなる。

 

  • 卒業生

第1回卒業生は志田林三郎で、日本で最初の電信科教授となる。第3回卒業生の藤岡一助は明治16年に東京電燈技師長となる。同じく第3回生の浅野応輔は電気試験所の初代所長となる。中野初音(男性である)は終生母校の教授として後任の指導にあたった。

和田, 2018

和田正法「工部大学校の終焉と帝国大学への移行をめぐる評価」『科学史研究』第57巻(2018年)、186-199頁。

 

  • 明治4年に設けられられた工部寮は明治6年に工部大学校と名称を変え、同年初めての入学生を受け入れた。工部大学校は明治18年に文部省に移管され、翌年に「帝国大学令」が発布されたことで東京大学工芸学部と併合されて帝国大学工科大学となった。先行研究では、工部大学校の終焉について、実地を重視する独自の教育を終わらせるものであったという否定的な見解が通説となっている。それに対して本稿では、工部大学校を設立・維持したことで引き起こされた教育問題への対処に注目することで、同校が閉鎖されたことに対する新しい解釈を試みている。

 

  • 工部大学校は実地教育を重視したところに特徴があったとよく言われる。しかし、工部省内の修技校を閉鎖して留学のための選抜期間としての役割を持った工部寮を建設したのは、工部省が実地よりもむしろ学理を重視したためであった、と著者はこれまで主張してきた(※1)。
  • 工部省は主にイギリスの御雇外国人教師を雇ったが、その背景には藩閥の政治力学があったと指摘する。というのも、新政府で伊藤博文が自身と英国との強みを生かして、工部省内での長州派閥の勢力拡大を図ったという。明治6年には英国人の雇用を進めるとともに、他藩出身の官僚が他省に異動していた。工部大学校が英国人を中心に雇った傾向は、長州派が牛耳る工部省の英国人を積極的に雇用するという政治的方針を踏襲したものにすぎないと解釈することも可能である。
  • また、カリキュラムの詳細はダイアーに任せていたことは事実であるとしつつも、留学の際する方針は工部省とダイアー側でスタンスが異なり、結局は工部省側の要求を押し通し、卒業生11名を英国留学させた形をとった。このことから、教育方針は実地教育重視の英国人教師に、丸投げしていたわけでは必ずしもなく、工部省側の主体性を見てとることができる。

 

  • ところで、明治6年以降工部大学校を運用していく中で、筆者は(1)初等・中等レベルの教育に混乱をきたしたこと、(2)中級レベルの技術教育が後回しにされたことの2つの問題が露呈したと見ている。

 

  • (1):明治5年の学制においては、あくまで高等教育機関の設置がfirst priorityとなり、初等・中等レベルの教育との連絡がsecondaryとなった。高等教育機関に接続するための教育制度が未熟であったゆえ、各専門学校は自前で予備教育課程を設置しなければならなかった。結局、ダイアーは入学候補者に対する準備教育が行き届いていない現状に苦言を呈し、彼の提案で明治7年に工部寮小学校が設立された。しかし、同校は経費削減のため明治10年には早くも閉校となった。従って受験生は手探りで入学試験に備える必要があった。(第6回土木科入学生の古川阪次郎は、入学準備に7年を費やし、かつ教科ごとに先生・学校を変えていた。) 入学後にも修技校と呼ばれる速成教育機関において外国人教師のもとで学んだものは成績が良く、それ以外の教育機関で学んだものと差があったと言われており、政府はあまり教育的な効果に目を向けず、高等教育機関としての体裁やそこで学術的な水準を維持することを最優先にしていたと言える。

 

  • (2):技師、技手、職工という知識・技能レベルが異なる人材を産業界の需要に応じてバランスよく育成するシステムの欠如という問題である。(電信修技教場を除いて)修技校は学理を重視する工部寮の建設のため、廃止・統合され、文部省の製作学教場も明治10年には廃止された。要するに、明治期日本の技術教育の構造は、高級な技術者の妖精を政府が担い、中級以下の技術者や職工の養成は民間に委ねるというものだった。明治政府が組織化を行なったのは、工部大学校をはじめとする指導的地位に就く技術者(技術幹部、工業士官、技術官僚)を育成する教育機関であり、技手、職工の育成に関しては一貫した政策がなかった。言い換えれば、中等専門教育制度が未熟でありながら、少数のエリートを育成することに固執していた。こうした政策がとられた背景には、高等教育には没落士族を救済する意味があったからではないかと著者は指摘する(あるいは科学史家の中山茂もそれに近いことを述べている)。

 

  • 工部省が工部寮を設置したのは、お雇い外国人の代替となる日本人の育成であり、この目的は開校後10年程度の期間(明治16年前後)でおおよそ達成され、同校を維持させる積極的な理由が消滅した。また技術士官・技術官僚を育成するという目標が完了するのもこの時期であり、帝国大学工科大学へ移行したことで、工部大学校の当初の目的を損なうことにはならないという状況だった。むしろ工科大学への統合は、(不明な点が多いとしつつも、)各省の直轄学校を統合することで財政的な合理化を図る行政面での措置であるという『東京大学百年史』の見解を採用している(※2)。

 

  • 以上まとめると、次のようになる。従来工部大学校はその実地教育が最大の特徴であり、帝国大学へ移管されたことでその特質が失われたことを否定的に評価する研究が多かった。しかし本研究では、実地教育重視の考え方は工部省の方針ではなく、藩閥力学の中で偶然選択された英国人教師の方針にすぎなかったことを強調した。むしろ工部省の狙いはあくまで学理重視の高等教育制度の導入にあり、(ダイアーらの主張に反して)卒業後は生徒を留学させる方針を貫徹した。その一方、明治の教育制度には、初頭・中等教育との接続や、技手・職工といった中級技術者の教育機関を軽視するという側面があった。とはいえ、ポストお雇い外国人教師、技術官僚、技術士官の供給という同校の目的は明治15年以降の数年間でひとまずは達成された。このことにより、工部省は同校を存続させる積極的な目的を失った。従って、工部大学校の帝国大学への移行措置は、財政的な理由に基づく順当な措置だったといえる。

 

 

 

※1:和田「工部大学校創設再考」。

※2:明治14(1881)年まで、日本は西南戦争(1877年)の戦費調達を背景としたインフレに見舞われており、その対応策として緊縮財政=貨幣の量を減らしていった結果、1881年から1885,6年まで松方デフレという深刻な不況が生じていた。この松方財政下では殖産興業の目標が達成できないとの危機感から、1884年あたりから各省庁が計画を一、その省が主導権を握るか争いが起きた。1885年に内閣制度が導入され、工部省が廃止されたことで(工部省の提案は採用しないとすることで)省庁間の対立が解消されたとの見方もある。(山口輝臣『はじめての明治史』(ちくま新書、2018年)、136頁。)

和田,2016

 

科学史学校での講演をまとめた「科学史入門」のシリーズから。著者による既出の複数の論文を俯瞰的な視点からまとめ、一貫したストーリーに落とし込まれている。

 

和田正法「工部大学校と日本の工学形成」『科学史研究』第55巻(2016年)、178-182頁。(ここからDL可)

  • 著者の基本的な立場は、工部大学校(の教育)が日本の工学の形成に影響したと言えるが、工業(自然の原料を加工して生活に必要なものを作る産業、industry)に果たした役割はまだ十分にわかっていないというものである。工部大学校の卒業生の中から工業の発展に寄与した業績を集めれば、上記の命題を示すことができるとは限らない。というのも吉本亀三郎のように、工部大学校の教育に不満を持ち、個人の努力によって活躍したというケースもありうるからである。
  • 加えて、明治10年以降私費制を認めた後でも卒業生が民間に就職することが容易ではなかったことも、上の命題にとっての反例になる。当時はまだ高給を払えるほど産業が成熟していなかった。明治18年入学の門野重九郎は就職口がなかったため留学し、明治29年に帰国するころには誘い口が3つもあるほど産業が発達していたと証言している。つまり、門野の例からは、工部大学校出身者が工業を作り上げたというよりも、発達した工業の中で同校の出身者が活躍したと考えることができる。もし工業の発達と教育との関係を論じるならば、技術者集団を総合的に把握した上で、工部大学校の役割を明らかにしなければならない。例えば、明治18年までに1200人を超える人材を輩出いた電信修技校の成果を丹念に検討することは必須である。日本の工業化の原点を工部大学校に帰するのは過大評価になりかねない。
  • 一方、工部大学校は日本に工学(体系化された技術、学問としての技術)という分野を導入した、と著者は主張する。その理由としては、(1)帝国大学工科大学(工学部)の成立の基盤になったこと、(2)工学会という学術団体を誕生させるきかっけになったことの2つが挙げられる。(1)について補足すると、確かに『東京大学百年史』には工学部の源流として東京大学の方を求めているものの、人数から見ても、あるいは帝国大学が工部大学校の施設をしばらく利用していた点からみても、実質的には同校が帝国大学工科大学の成立の基盤にあった。石橋絢彦は、明治6年に配布された工部大学校の募集要項の中にあった「工学」という言葉がよく分からず、「大工の学問」くらいのイメージを持っていたという。それが13年後には高尚な学問として定着するまでになった。
  • 海外との比較でいうと、技術教育が大学での地位を確立するケースは稀であり、このことから日本の最高学府に設立当初から工学部があるというのは、日本に特徴的な工学の形成過程である。