yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

SHOT 2022 Annual Meeting

 

  I was in New Orleans, U.S. to attend the SHOT Annual Meeting and present my research from November 10 to 13. This is my first time going abroad by myself, so I was very worried about it.

During my trip, several miracles occurred. I was met by a very helpful staff at the hotel check-in counter. She originally lived in Singapore and grew up with a father who spoke Japanese. She walked around the city of New Orleans (NOLA) with me. She also took me to a delicious Asian restaurant and showed me how to buy drinks at a nearby pharmacy and how to use Lift etc. Without a doubt, it was the biggest miracle for me to meet such a kind person during my trip! I cannot even imagine coming across as such a kind person in the future.

In the hotel, I could not sleep well because of jet lag. When I was taking a nap on the couch, a man sat down next to me. And that man was an English researcher I had met a few days earlier on Twitter who was researching the history of the telegraph. It happened by chance. He informed me about the "schools" of telegraphic history and his research. It was interesting.

One of my surprises during the workshop was that everyone mentioned “materiality”. My friend whose I met at the dinner party taught me the implication of “materiality” as follows. In the field of history of technology (as well as the history of science), researchers have had a tendency to focus on only some ideas or concepts about technology (or science). In recent years, however, researchers have turned their attention to "materiality" as an integration of ideas and concepts. And according to him, the discussion about materiality is one of the ontologies.  

Another unexpecting matter is the image of Japan for the foreign people. When it comes to the history of Japan, everyone said “The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins” is the most famous book in recent literature. I have not read it yet.

It took more than one week after returning to Japan. I am once again absorbed into the Japanese culture and my opportunities to speak English are rapidly disappearing. This is the biggest problem for me. I would like to have more chances to talk to foreign people in Japan.

I heard that NOLA is a dangerous place, but I could go back to Japan safely. This trip was very enjoyable thanks to the support of many people. I really appreciate their kindness.

 

At the dawn of NOLA with Mississippi River

 

 

 

 

 

明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』

 ジョージ・ワシントンからバラク・オバマまで、歴代の大統領の紹介を通じてアメリカ史をコンパクトにまとめた新書。冒頭では著者が唱えている36年周期説についても述べられる。「ボストン茶会 (Tea Party)」、「奴隷解放宣言( the Emancipation Proclamation )」といった具合に、重要なキーワードには原語も合わせて表記されるのでとても親切である。また文章もわかりやすく、初学者にとってとても良い本だと感じた。

 著者曰く、アメリカ史上最も尊敬されている大統領は一位がリンカーン、二位がワシントン、三位がフランクリン・ルーズベルトであるという。個人的に興味を抱いた大統領は、(1)1933年から1945年4月までという20C前半の重要な時期に大統領を務めていたフランクリン・ルーズベルト、(2)学者出身で、共和党優勢時代にただ一人民主党出身で、国際連盟の提唱に重要な役割を果たしたウッドロー・ウィルソン、(3)ノルマンディー上陸作戦を成功させた軍人出身でありながら「軍産学複合体」に警鐘を鳴らしたドワイト・アイゼンアワーの三人だった。また、WW2終戦直後に大統領を引き継ぎ、戦後体制の構築に大きな役割を果たしたトルーマンにも関心がある。

 

 

 

Douglas, 1987, Intro~Chapter1

Susan Douglas, Inventing American broadcasting, 1899-1922, (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1987)

 

ラジオの歴史における必読書の一つである。本書は無線電信が放送というメディアへと変化するプロセスを「社会構成主義」のアプローチから分析するもののようである。すでに第一章でもその性格が見て取れるが、中には「そうかもしれないが、ほとんど実証不可能」だと思われる記述もあり、首肯できない部分も多々ある。

 

Introduction

  • 本書は、無線電信が無線放送(radio broadcasting)という20C社会の基盤をなす技術へと変容する過程(1899-1922年)を調査し、無線の初期の歴史を分析するによって、アメリカの放送制度が最終的にどのような構造と役割を持つに至ったかを理解することは非常に重要だ、ということを示すことを目指している。
  • 本書は、無線の社会的構成(social construction of radio)についての研究である。
  • 本書は、アイデアのパターンや、ラジオどのように用いられるべきであり、誰が操作するのかといった信念を形成する出版物(press)の役割に着目し、どういった定義や解釈が、(電信が放送になる変容する時期に)役割を果たし卓越性を獲得したかを調べることを目的とする。
  • 言い換ええれば、いかにして放送メディアそれ自体が、既存の印刷メディアの価値観や信念によって形成されたのかを明らかにする。
  • しかし、本書は出版物が決定論的に無線技術を形成したということを暗示するのでない。むしろ、(1)いかにして発明は設計・改良されたか、(2)発明家や組織はいかにしてその発明を利用することに成功/失敗したか、(3)出版がカバーした(しなかった)物語の側面とは何であったか、という3つのストーリが、無線の技術的同一化・正当化のプロセスを理解する上で絡み合っているのである。
  • 本書が先行研究と異なる点は、初期の展開(1899-1922)に着目していること、そして解釈学的視点(interpretive perspective)を持っている点である。例えばAitkenは、放送や「連続波」を生み出した科学的・技術的なアイデアの思想史(intellectual history)に着目した。それに対して本書は技術の詳細を描くのではなく、Aitkenが扱わなかった主題、つまり、いかにして出版物がラジオを覆っていたか、アメリカ海軍はいかにしてその発明に反応したかといったものを論じる。

 

 

Chapter 1 Marconi and the America’s Cap – The Making of a Inventor-Hero

 

1-1

  • 英雄崇拝と自己肯定は互いに手を取り合っている。そして、英雄はしばしばアメリカがどこにいたのか、そしてどこに向かいつつあるのかを体現する。
  • 1899年末、2人の英雄がニューヨークにたどり着いた。
  • George Dewey (デューイ):アジア艦隊の指揮官で、マニラ海戦で勝利に導いた人物。彼がアメリカに1899年9月に帰国したとき、英雄として拍手喝采で迎え入れられ、当時ニューヨーク市長だったテオドア・ルーズベルトは2日間の祝日を宣言したほどだった。そして、当時の新聞・雑誌は、パレードの様子を報道し、彼を賞賛した。

→報道官や編集者にとって、デューイはステレオタイプ的な英雄であり、ドラマや神話の必要条件に貢献できるものだった。

→彼の人間性や多くのアメリカ人が信じていた利他主義を捉えた優しさは、キューバやフィリピンを「解放」することを動機付けた。

→デューイは、アメリカが「世界の将来において新しい位置」にいることをアメリカ人に理解させることを手助けした。アメリカのミッションは、民主主義を広げることであり、それは技術の応用を通じて実現される。1899年の出版物(ex: Scientific American, Popular Science Monthly)において、技術と社会の進歩が絡み合いながら進んでいくといった確信が流行していた。一面ではそれらは「技術決定論」に与するものでもあった。

→さらに、デューイは、自然(女性)を征服する男性の優位性を強めることにも一躍を買った。

  • Guglielmo Marconi(マルコーニ):アイルランド人とイタリア人の混血で25歳の若者が、デューイが帰国する5日前にニューヨークに到着した。

→もしも彼が出版界に、彼は無心で彼の発明は自由企業、民主主義、利他主義に奉仕するものであろうということを確信させたならば、彼もまたジャーナリズムのアリーナにおいて勝利を得ることができただろう。

←彼はすでにJames Bennett(ニューヨークヘラルド紙の創始者)と知己であった。

:1899年初頭に、マルコーニはヨットレースの実況を無線電信で送信する申し出をしており、それをベネットはヨットレースの5000$を賄うという条件で認めていた。

  • ベネットにとって、無線電信は、移動と通信技術の進歩のギャップを埋める可能性があるものだった。(船舶で遠くに移動できても、有線通信網から外れてしまう。)
  • マルコーニが到着したタイミングはこれほど良いものはなかった。:彼が到着したのは9/30日であり、ヨットレースは10/3だった。デューイの帰国は、楽観的、畏怖、新しい発明の熱烈な需要にとって必要な進歩への信念を想起させ、ムードを作り出すことを手助けした。またヘラルド紙は、発明の民主的利益についても強調した。=「ヘラルドは科学だけでなく、アメシカのヨットレース(cap)の歴史の中で最も多くの関心を集めているコンテストの結果を待ち望んでいる何百万人もの人々にとっても有益なものとなるであろう。」

 

1-2

  • なぜ、モールス、エジソン、ベルを生み出したアメリカが電気通信における最新技術を導入しようとしている外国人に目を向けたのか。マルコーニはいかにして無線電信の「発明家」になったのだろうか。
  • 空間を隔てた信号の送信というアイデアは、数十年前にすでに存在していた。Joseph Henry(ヘンリー)とMichael Faraday(ファラデー)は、1829-30sにかけて電磁誘導の法則を発見した。これは、磁場を変化させることで電流が流れるという法則であり、物理的に離れている場所で電流を誘導することができることを示していた。
  • 1938年にはすでにconduction transmissionの発明があった。これは電磁誘導を電信に応用する試み(wireless telegraphy by induction)であったが、通信距離が数マイルに限られており、この方法は潰えてしまう。技術が前進するためには、さらなる理論的・経験的作業が必要であった。そしてそれを行なったのが、マックスウェルとヘルツである。
  • マックスウェルは、1865年に「電磁場の動的理論」を発表し、電場・磁場における加速された変化は、有限な速度で空間に(エーテルという媒質を通じて)広がる波をつくること、そして光はその波の一種であることを論じた。
  • マックスウェルの論文が発表されると、英国だけではなくドイツにおいても注目が集まり、特に大学において組織的な研究体制や実験室が整備されつつあったドイツではヘルムホルツらが中心となってヘルツの実験に取り組まれた。そしてヘルツは1878年から彼のもとで研究を行うようになり、1886-1888年にかけての実験を経て、電磁波は光と同じ速度で移動するということを実験的に証明した。
  • ヘルツの装置は、ライデン瓶、誘導コイル、火花間隙、ループアンテナなどを使用するものであったが、その後ブランリーの発明したコヒーラーを改良したロッジのそれ(デコヒーラーを含む)が使用されるようになる。
  • 1894年時点での最新技術はそういったものであったが、大学のネットワークにおいて、ヘルツの実験を商業的に応用するといったことにはほとんど関心が持たれなかった。学者にとって、それは下品(vulgar)なところがあったのである。科学と商業、さらには大衆のイメージの領域を繋いだのは、マルコーニであった。
  • イタリア人の父とアイルランド人の母の元に生まれたグリエルモは、13歳までは公式な教育を受けていない。しかし、幼少期から機械をいじり、フランクリンやファラデーの仕事に基づいた実験を自分で行なっていた。そして、Technical Institute in Leghornに入学すると物理学に関心を示したため、母親は家庭教師を雇った。そしてボローニャに戻ると、彼はリーギ(Righi)の実験室で非公式の教育を受けるようになった。彼はマルコーニに、マックスウェルやヘルムホルツ、ヘルツらの仕事を教授した。
  • マルコーニの成長にとって、母親の存在は極めて重要である。彼女はしばしばマルコーニの事業をよく思っていなかった父親との良好な関係を犠牲にしてでも、グリエルモの挑戦を支援した。なによりも、母親が流暢な英語をグリエルモに仕込んだことは大切だった。英語能力がなければ、彼が英国や米国で成功することはなかっただろうと想像されるからである。
  • マルコーニの目標ははっきりしていた。それは無線通信を商業化することである。そのためには、長距離通信を達成しなければならなかった。彼は(生涯にわたっての特徴である)試行錯誤の熾烈な努力(painstaking process of trial and error)を通じて、垂直接地アンテナを利用して長距離通信を実現できることを発見した。
  • 母親は息子の達成の可能性を確信すると、顧客を探し始めた。最初はイタリアの郵政庁に問い合わせたが、利点を認めてもらえず支持を得ることはできなかった。イタリア海軍は関心を示したものの、結局待つことができず、1896年2月に彼女の親戚がいる英国へ移動した。英国では海洋通信の改良に対して大きな関心が持たれている場でもあった。
  • 彼らは早速ウィリアム・プリース(郵政庁の技師長)の知己を得た。さらに、彼のいとこのDavisの示唆に基づき、自らの特許を管理する会社(1900年に「マルコーニ無線電信会社」となる)を1897年に設立した。ここで、科学-学会のセクターから市場へと無線通信は移行することになった。
  • マルコーニは、その技術を大衆化し、その効果を実証しなければならなかった。1899年には英国海峡を隔てて、英国-仏国間の長距離通信に成功した。
  • マルコーニは宣伝(promotion)についての素晴らしい才能があった。そしてそれは何よりも、彼が当時愛国主義が高まっていたアメリカにおいて同国の報道(press)や大衆の心を惹きつけたことに表れていた。

1-3

  • ヨットレースでは、PonceとGrande Duchesseという2つのボートにマルコーニの無線装置が装備された。そして、レースの進行状況をNavesink Highlandsとニューヨークにある受信局へと中継する。そしてそこにいる報道官は最新の情報を、有線を通じて都市の掲示板へ送信した。
  • ヨットレースは、デューイのパレードと同じくらいの景観を呈していた。何千もの人々が掲示板の前に集まり、レースの進捗を聞き入っていた。
  • 10月4日、ヘラルド紙は「マルコーニの無線電信の勝利」や「無線掲示板は魔法のようだ」と持ち上げた。マルコーニ自身が回想しているように、大衆を最も強く印象づけたのは、そのシステムの並外れたスピードだった。都市部で見守る人々は75秒以内、場合によっては30秒以内に実況に接することができた。
  • レースが終わると、マルコーニ公の恩人としてラベル付されるようになる。ボートが沈没したなどといった虚偽の情報が流れた際、それを修正し、「何千もの人々を不安から」救ったのもマルコーニの電信から送信された情報だった。
  • デューイの熱狂がマルコーニの素地としてどれだけ機能していたかは不明だが、報道における扱いはデューイのそれに匹敵していた。報道は、彼の科目で控えめな性格を描いた。彼は自分の仕事が先人の仕事に負っていることを絶えず述べた。また彼は聴衆にアメリカを称える気持ちを表現し、それは英国以上にsupportiveだった。
  • マルコーニは彼の実際の姿と、報道陣が期待した姿との間の不一致を記憶していた。彼はまた発明家=英雄モデル(inventor=hero model)として形成されていた。彼は大学で教育を受けた理論家ではなく、教授ができなかったようなことを達成した実験家だった。アメリカの人々は、誰が最初に何かを考えたのかということを気にしなかった。むしろ彼らはそれをやったのは誰なのかを気にしており、マルコーニが無線の仕事を成したのであった。
  • これはメディア研究でいわれる「技術的展示(technological display)」というバイヤスがかかった現象であった。それはドラマと公(public)に関係する現象である。それはまた、新しい視覚的・聴覚的な経験にも関わっている。このバイヤスは、公(public)やドラマ(drama)を好み、反対に私的なこと、漸進的で小さなこと、理論的なことを軽視するものである。
  • また発明の神秘的な性格も、またジャーナリスティックな想像力を掻き立てた。無線はテレパシーを想起させた。多くの人にとって無線は、科学と形而上学との間を、既知と未知との間を、そして実際の達成と無限の可能性との間を橋渡しするものであった。
  • 無線が最も初期に「日常業務」へ応用されたのは、船舶と陸上基地との間の通信であり、それにより災害を防ぐことができた。(また軍事的応用についても多くのことが書かれた。) 無線は、民主的な利益(democratic benefit)をもたらし、より平和な世界に近づくといった倫理的な力を持っていた。というのも、当時のアメリカには、ウェスタンユニオンとベルテレフォンという、有線通信を独占していた2つの会社が存在しており、通信料金も高額だった。マルコーニの無線は、この体制を打破するチャネルとして期待されたのである。無線は、人々が憧れていた民主的で非中央集権的な通信技術であった。そして、彼らが望むときにはいつでも操作・使用できる装置でもあった。
  • マルコーニはただちに電信を拡張することだけではなく、ますます柔軟性がなくなっており人気がなくなっている有線への代替物の可能性を提示しつつあるということを理解し始めた。
  • 1899年に報道は無線の意味を構築し始めた。無線は孤独になった個人を社会的なレベルでつながる手段を提供し、共同体意識を取り戻すものであると。
  • 彼のジャーナリスティックなアリーナにおける成功は、彼自身のプロモーターとしての能力と、当時確立されていたジャーナリスティックな慣習とのダイナミックな相互作用の結果であった。
  • 彼が知ることができなかったことは、アメリカ人の中には、無線技術のビジョンを自分自身のものの代用としようとする人がいたということである。マルコーニがヨットレースで成功したときでさえ、熱烈な競合者は、彼の特許を避ける方法を考慮していたのである。

 

 

 

Gooding, 2010

 

David Gooding, “Visualizing Scientific Inference,” Topics in Cognitive Science, 2 (2010) pp.15-35.

 

マイケル・ファラデーの研究で有名なグッディングによる最後の論文。図像に関するこれまでの研究の集大成といった感があり、(決して易しくはないが)読み応えがある。

 

Ⅰ 要約

  1. Introduction
  • 視覚表現(visual representations)を製作・操作する能力は、科学者によって(特定のドメインを定義する手法に熟達するにつれて)獲得される認知能力である。
  • 表現(representation)の重要な特徴は、(それが「私的な」知的イメージであるか「公的な」表現であるかということではなく、) その可塑性(plasticity)と統合力(integrative power)にある。

 

  • Imaging and perception across the sciences (pp.16-21)
  • 本稿では、ドメイン知識(事実、理論、問題解決方法)、社会的制約(画像化の慣習)、物質的なリソース(画像化の技術)の文脈において、視覚表現の適応性(adaptability)を活用する方法を説明する
 
   

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1756-8765.2009.01048.x

 

           
     
   
 
 
     

 

  • 「視覚表現(visual representation)」は、「解釈された画像(interpreted image)」である。

Ex: ラウエのX線写真 (ラウエ斑点) (図1)は画像(image)⇄ブラッグのラベリングされたダイアグラム(図2)は表現(representation)

  • 視覚表現は、ハイブリッドである。

情報を伝えるための視覚的、言語的、数値的、象徴的なモードを組み合わせている

Ex: ラベリングされたカメラルシダのダイアグラム(図6)→数量データ、プロット、等高線を含んでいる。

  • ラベルやキャプションを与えることで、画像は「科学的なモノ(scientific object)」になる。

Ex: 図1,5は科学的なモノではない。⇄図3(点投影ダイアグラム),図6(カメラ・ルシダ)

→ダイアグラムは、情報源を解釈・説明するのに関係のある特徴を選択し、ラベリングを行う。

→ダイアグラムによる抽象化は、目や意識(mind)を、ほとんど解釈されていない視覚的な情報源から、写真、言語、数値、象徴的形態を組み合わせて構成された意味のある「言葉=イメージ(word-image)」へと移動させる。

←そうした「移動」は、2つの科学の目標によって動機づけられる:

  • 理解したいという要望
  • 理解したことを伝えたいという要望
  • 表現(representation)は、視覚化や視覚的推論にとって本質的なものである。また画像化の技術は、これらの推論を支える。

本論文では、

(1)進化に根ざした生物的な能力としての視覚的知覚(visual perception)(ex:顔やパターンなどを自動的に認識する)、

(2)組み立てれ表現されたものとしての視覚化(visualization)(ex ダイアグラム、データプロット)、

(3)特徴を表現したイメージを操作することにとって推論(inference)を行う能動的で熟慮のプロセス、との間の相互作用に焦点を当てる。

(1)→進化のメカニズム、ないし、生物学的メカニズムを引き起こす(社会的に)学習された能力によって生じるという意味で、自動的に現れる。

(ex 図1を陰影の規則的な列として見る(seeing as)、図5を生物が化石化したものとして見る、樹形図をより大きな〔進化論的な〕プロセスとして見る)

 

  • Gregory & Zeki:知覚(perception)は感覚器の知覚を理解と結びつけた一種の推論(inference)である。

=(推論と知覚を類似的なものとして捉える)全体論的見解(holistic view)

→科学的な問題化解決において、より複雑な種類の推論がどのように機能しているのかを示さない。

→本稿で示される答え=科学者は、複数の表現(representation)を能動的に分析し操作することで推論を行なっているというもの。

(→知覚作用の過程と推論との類比的な理解を超えている。)

→視覚化の重要な特徴を扱うための図式的なモデルを提案する。

 

  • Simontonの問い:
  • 科学的な発見に貢献する知的なプロセスとは何であるか?
  • それは、万能な(one-size fits-all)な創造的手続きなのか、それとも領域が限定された(domain-specific)なものなのか?

(1):本稿は、一連の知的プロセスを特定し、多くの領域に見出される視覚化の戦略を特定する。→様々な種類の視覚表現において認めることができる視覚推論の一般的な特徴があるということを示す。

本稿の議論は、これらの一般的な特徴が、科学者が領域の現象学(phenomenology of a domain)を発展・解釈するために、そして問題を定義し解決するために用いる画像に基づいた戦略を特定する。

→こうした視覚的実践は、パターン認識、心的回転(mental rotation)などの生物学的に備わった人間の認知能力、2D,3D,4Dの表現の間を移動する習得されたスキルを呼び出すということを示唆する。

  • 表現(representation)へのアクセスのしやすさと情報量の間には逆の関係ある。

情報多:(単一モデルへと知を統合するといった)高次元の操作にとって有益。

情報少:一般性と伝達のしやすさを支持する。

→変化(variation)は、表現の複雑性と、その伝達・生成・コミュニケーションの能力との間でバランスをとる必要性によって駆動される。

  • (2):本稿では、視覚的方法は決して万能ではないということを示す。=科学者は、領域の概念的・物質的な生態系や、問題解決過程の各段階に応じて、能動的な視覚的プロセスや方法を採用する。

→筆者は、モノとしての画像や画像化の技術よりも、表現の能動的な操作に焦点を当てる。

  • 筆者の調査は、多くの民族誌的ないし歴史研究に依拠している。ケーススタディーからは視覚的推論の一般的な特徴を確立することはできず、科学全般を通じた戦略やプロセスの存在を実証することはできなという議論もありうる。

⇄少量の事例研究において同定された特徴を比較する事で、それらの特徴についてのさらなる調査のための一応の(prima facie)説明をすることができる。

 

 

  1. How do scientists vary their images? (pp.22-24)
  • 異なった科学分野の事例研究は、科学者が2D(パターンやダイアグラム)、3D(構造)、4D(プロセス)の間で変換させることで、表現を変化させることを示している。

 

  • (1)W.L.ブラッグによるX線回析の研究:

:彼は、結晶格子によって光線が影響されるのと同じようにX線も回折すると考えた。結晶格子(crystal lattice)を3Dの回折格子(diffraction granting)として扱うことで、光の干渉の表現をX線に適用することができた。

→ステレオ投影(stereographic projection)を用いることで(図2,3)、光線を回折する原子が存在する結晶格子の面を特定できる。

=初期のX線回折画像の斑点や汚れの分布を、結晶構造という観点から説明した。

→ブラッグはその後、投影の軸を変化させることができるアナログ装置を開発した(図4)。

 

 

 

光源に対する軸の位置を変化させることで、スクリーンの投影されるパターンが変化し、回折線の構造が図2,3によって抽象される特徴を生み出すということを示した。

 

  • (2)Morris, Bruton, Whittingtonらによる化石の痕跡についての研究:
       
       

 

  • 影投影(shadow projection)を利用して、抽象された特徴を解釈するものとしての3D構造を作った。このモデルは、可能性のある生物、習慣、生態系、地質学的プロセスなど、広範囲にわたる領域の知識を利用している。
  • まず、3Dの構築は、非公式に心的に(mentally)行われるが、特に3D構造を心的に回転させることで得られる2Dの部分は難しい。

⇄図7のように、紙、ワイヤーフレームのモデルから光学的に投影する方法が、3Dモデルの部分的な2Dの影を作る認知的な苦労を軽減させ、より信頼性が高まる。

構造モデル(図7,8)がダイアグラム(図6)の特徴と適合する2Dの投影を作り出し、これらの形態の対応(correspondences of forms)は、元の痕跡(図5)の説明の基礎となる証拠を与える。

  • これらの事例で記すべき特徴は、スケッチやダイアグラムを通じた抽象化と、2D⇄3Dを支える物理的なモデルの使用である。

:物理モデルはダイアグラムと対応するイメージの投影を可能にし、これらのイメージを変化させることを可能にする

形態との対応を探す作業は科学全般に見出される。

→「形態(forms)」はいくつかの方法によって生み出される。(Ex 数量データの視覚化、写真からの特徴の抽象化など)

 

  • (3)Klugによる電子顕微鏡を用いたポリオウイルスの研究:

彼は、ウイルス粒子の構造が表面の特徴パターンから読み取れる可能性を信じた。

←パターンは、ウイルスの生成・再生成の過程を理解する上で決定的だが、そのためには、ウイルス粒子の構造の理解が必要である。(パターン→構造→プロセス)

電子顕微鏡では、近くと遠くにある特徴が崩れ、3D(球)であるべきものが平らになってしまう。

→3D構造に関する視覚的情報が、顕微鏡平面上にどのように現れるのかを理解するために、絵画的表現(pictorial representation)の研究を始めた。

①顕微鏡内の異なった位置に置かれた物体の立体画像を作り、②ウイルス粒子の候補の影を撮影し、その影の特徴を顕微鏡写真の特徴の一致を確認する

X線解析と電子顕微鏡技術を組みあわせて結晶学的電子顕微鏡(crystallographic electron microscopy)という新しい画像化の方法を考案した。

→物理的なモデルが2Dの画像を、3Dの断面として解釈する認知プロセスを支持した。(→コンピュータツールへ)

 

(4)Faradayによるワムシの繊毛の研究:

ファラデーは、顕微鏡下でワムシの繊毛の回転構造の出現(回転しているように見えるもの)を分析した。彼は、単一の回転構造の同じ経験を生み出しうる、定常はないし干渉のパターンを決定することを望んでいた。そこで彼はストロボ装置を開発し、回転が出現するパラメーターを変化させることを可能にした。

(←彼の個人的な知覚(personal percept)を経験の公的なモノ(public object of experience)へと変化させた。)

→回転しているように見えるものは、固定された繊毛の輪が人間の目が見分ける事ができるものより高い周波数で振動しているためであり、実際にはプロペラを持っていないことを明らかにした。

 

  1. Visualizing inference (pp.25-27)
  • 知覚的推論を生成・モデル化・検証する必要性

←科学の目的が、変化の単純かつ不変の特徴を通じて、複雑な過程を捉えることにあるということに由来する。

不変の特徴(invariant feature)は、複雑な過程を解決する鍵である。(cf: 等加速度)

  • KlugやFaradayの例が示すように、これらの不変の特徴は、媒介のない人間の知覚がいつもアクセスできるとは限らない。

←心理学者は、特定の知的タスク(ex パターンの適合、心的回転)及び視覚問題解決(visual problem solving)の両方にとって「不変」が重要であることを記している。

→Gruberは、表現の様相を変化させることが、不変の特徴を発見する手段であることを論じた。

→新しい現象ないし変則的な現象を解釈するために、科学者はプロットや状態記述といった静的で印刷された表現(「スナップショット」)の限界を抜け出さなければならない。→プロセスや構造を伝える表現を生成することで、これを行う。

  • ブラッグのアナログモデル(図4)は、プロセス表現の単純な例である。

時間の中で展開するプロセスを、変化のパターンとその変化の原因/制約の両方を特定する方法にとって表現する。ある状態が次の段階でどうなるかを示唆する一連の説明を組み合わせる。≠時間軸に沿ったデータプロットといった2D表現

  • 2D→3D→4Dへと変化する(=単純な表現から複雑な表現へ)につれて、情報の内容が増え、モデルはより多くの領域知識を取り込むことができる。(20s半ば以降~動画)
  • 図9における矢印は、単純ないし複雑な推論プロセスを表している。

Ex A(元の画像)→B(プロットないしダイアグラム)→C(構造の表現)→D(プロセスモデル) ※CからDは非視覚的に(数式などによって)行われることもある。また、CDの移動は、それらが広範囲の技術に依存し、いくつかの領域の知識を取り込んでいるので最も複雑である。

 

  1. Why do scientists vary their images? (pp.27-28)
  • 科学者は以下の理由で複雑なものから単純な視覚的モノ(visual object)へと移動する。
  • 構造から2Dパターンを導き出すことは、形態と特徴の対応を確認することによって、モデルを検証・試験することを可能にする。
  • より複雑な構造、プロセスモデルを用いると認知的な需要が増加することに関わる。領域知識が蓄積されればされるほど、それを理解し利用することは難しくなる。この複雑性をやりくりするために、科学者は(ファインマンダイアグラムなどの)よく知られた抽象的な表現システムを発展させてきた。(←厳密な変換規則にしたがうシンボル操作)
  • B,C,D間を双方向に移動すること←表現の情報量や複雑性を減らす/増やす要求が存在しているかどうかに依存している。

:パターンから構造、構造からプロセスへの移動(BからC、CからD)は、情報量や説明力が増える。CDは説明能力のポテンシャルは高いが、理解するのが難しい可能性がある。

⇄未解決の現象やデータから一連の特徴や関係への移動(AからB)、もしくは、構造・プロセスからパターンへの移動(CからB、DからB)は、より単純で新しい視覚を生み出す。

 

  • 表現(representation)は、統合する機能を持つ。

←C,Dにおけるモデルは、異なった様相において表現された異なった種類の情報を有しており、多くの表現を統合している。

→Bで要求されるものよりも情報の密度が高い。

  • Bにおけるダイアグラムやデータプロットは、C,Dにおけるモデルを通じた解釈を要求するだけではなく、それらのモデルにとっての「証拠」(=Aから抽象されたBにおける特徴の存在を説明するもの)提供する。

 

  • 異なったタイプの表象と複雑性は、広範囲の認知能力を呼び起こす。

Ex 暗算、そろばん、紙と鉛筆、計算機を使って計算する

→それぞれの技術は、表現形態と手続きを組み合わせている。そしてそれぞれは、異なった認知能力の組み合わせを呼び起こす。それぞれの計算能力にも限界がある。

→図9,10で示したイメージの変化は、視覚的モノの複雑性の変化を生み出す。この複雑性は、これらの視覚化が持っている役割の変化を反映している。

A→B→Cは、仮説を導く(ボトムアップ)

C→BないしD→Bは、経験的な検証(トップダウン)

統合されたDのモデルが構築されると、これらの移動は「説明」を生み出す。

そして最後に、C→D→Eは、新しい現象の予測を行い、検証を可能にする。

 

  1. Investigating visual inference (pp.28-32)
  • 第二節で説明した事例は、科学者の視覚的戦略は、生物的に備わった認知能力の容量と限界によって動機づけられ制約される、ということを示唆している。
  • これらの事例は、知覚的推論は、心的、物質的、視覚的モノ(object)を変換させる一連の動きに関係しているということを示している。

≒科学的推論は、生物学的に授かった認知過程を利用する抽象的な思考であるという広く受け入れられた見解とも符号する。

(ex 複雑で熟慮的な推論は、重力の存在によって垂直方向が強調される3D世界での不変な特徴(invariant features)によって制約される、生得的で進化した運動学的理解に基づいている。)

⇄知覚と推論の類比がしばしば強調されすぎるので、視覚的知覚(visual perception)と解釈(interpretation)とが混同される。

→こうした視覚的全体論は、どのようにして科学的方法が基本的な知覚プロセスを拡張・利用するのかを調査する方法も、それらの間の関係〔科学的方法と基本的な知覚プロセスとの関係〕をどのように解きほぐすのかも説明しない。

→図10によって、これらの違いを表現できる。

→Cにおける3D構造は、Dに頼って解釈し説明する必要性に動機づけられており、Bの妥当性は、既存のデータやEの予測と適合しているかに関係している。

  • このアプローチは、視覚的推論は、非線形(nonlinear)であり反復的(recursive)であるという事実を伝えている。

認知科学の理論:複雑さや抽象度によって秩序だったイメージを考える傾向にある。(ex: Marrの視覚のマルチレベル理論, Shepardの理論)

⇄感覚入力から3Dのモデルへと一方向的につながるのではなく、科学者が生物学的に備わった知覚プロセスと、学習された専門的な知覚スキルの間、個人的な想像プロセスと公的な表現の間、個人的な見解と仲間の見解との間を絶えず移動する際の、視覚的推測の多様性・再帰性を捉える。

  • Newellの統一された認知理論(認知階層):認知過程を以下の4つの区別されるバンドに割り当てる。
  • 生物学的 (biological)
  • 認知的 (cognitive)
  • 合理的 (rational)
  • 社会的 (social)

→画像が、新しい概念を作るために(2)、それらを評価するために(3)、それらの存在・解釈を支持を得るために(3)(4)用いられる。

→科学的な発見を、自動的な生物学的プロセスから複雑な社会バンドのプロセスへと再構築して調査することを必要とする。

⇄しかし、もし私たちは類似性の知覚を、生物学的に生じるパターン適合として「直接」に行なっているとすれば、説明した事例は、(1)、(2)、(3)の過程が同時に起こっているということを示唆する。

同様に、C,Dにおける構造・プロセスの表現は、Newellの認知的、合理的、社会的バンドにおけるプロセスの相互作用を示唆している。

 

  • 図10は、ゴールとサブゴールの階層で動作するものとして表現しない視覚推論のコンピュータ志向のモデルと似ている。

階層化したアブダクションモデル(layered abduction model)

→仮説の喚起(evocation)は、A→B→C、C→Bに沿った推論に関係している。

モデルの潜在的な説明力の具体化・評価は、D→C→B、D→B、C→D→Eに沿った動きに関係している。

  • 図9,10に示した過程は、生物学的・社会的な認知プロセス要素のダイナミックで、非階層的な関係を示すことを意図している。

→科学者が用いる画像は、(1)と(2)の弁証法的な動きの一部であるという事実を表現している。

  • 解釈学的で創造的な発見の段階(A→B、B→C)→表現(representation)は可塑的(plastic)(=変化できる)である。
  • 熟慮的で合理的な段階(B→C、C→D、C→B、D→B)

→変換の規則や評価の基準が形態の対応に適用される。

  • 視覚的知覚や推論は、頭の中もしくは機械の中の認知に位置しているわけではない。

⇄科学に於ける認知は具体化・ネットワーク化されていること(being embodied and networked)に依存しているので、具体化された脳の「中」とそれを超えたものの両方で生じる物理的・社会的プロセスに関係している。

←科学者が想像し思考し信じているものは、それらがより大きな集団的な営みに貢献する限りにおいて、重要性を持ち興味深いものである。

→その営みの共通の貨幣(currency= 言説、画像、議論、論文、ソフトウェア、技術、数学的手続き)外的なものであり分配される(distributed)ということはよくある。

  • 視覚推論のモデルは、知を持った表現(knowledge-bearing representation)が分配されるということはどういうことなのかを明確にし得る。

→×主観的(内的)/集団的(外部化)の二元論

→知識は実際のモノと創造されたモノとの相互作用から生じる。そこでは、知識は心(mind)と機械(machines)の間で分配される。(ex コンピュータのディスプレイ、fMRIが生成した数値データを共有すること)

  • コンピュターが幅広く使われるようになったことで、知的プロセスは重要ではなくなったのか?

→コンピュータが第二節で説明した骨の折れるような知的物質的プロセスの必要性を消去することは考えにくい。

コンピュター技術は科学的イメージの生産や室において大きな前進をしてきたが、図9,10で説明したダイナミックな解釈や評価を行うことはまだ不可能である。これらは機械によって外部化できない種類の専門知識を必要とする。

  • 表現がアナログな手法によって行われるかあるいはコンピュター技術によって行われるかということは、これらの表現がどのようにして問題解決するために利用できる認知能力を活用しているかということほど重要ではない。画像が人間の心よりもコンピュータにおいて生成され操作されるということは、心に基づいた(mind-bases)表現の重要性を少なくするわけではない

 

  1. Conclusion (pp.32-33)
  • 視覚化の事例は、科学における画像使用に共有のアプローチがあることを示した。
  • また、元データの解釈、モデルの構築、モデルの拡張、モデルの検証・試験といった複数の種類の問題解決を特定した。
  • イメージに基づいた思想と外的表現とは相互依存な関係にあり、これを図9,10で示した。これは、科学の発見に存在する推論の特徴に基づいた経験的な仮説(empirical hypothesis)を示している。またそれらは視覚表現によって科学者らが多様な認知的プロセスを組み合わせることを可能しているということを示すことで、視覚思考のダイナミックな構造を特定している。

 

 

 

Ⅱ 議論・感想

  • 図9,10は、本稿で検討された事例以外のテーマや専門領域にも当てはまるのか?(ex 流体力学の場合は、3Dを通過しないで、2Dと4Dとの間を行き来することがあり得るのではないだろうか?)
  • 図9,10で示されるモデルは、いつの時代の科学にも当てはまるのか?
  • イアン・ハッキングは、このグッディングのモデルを高く評価しているという。
  • なお、グッディングは2009年に逝去しているので、本稿は死後出版されたもので、彼の遺作である。

山中、2021

山中千尋日本学術振興会の設立: 組織形成と事業展開」『科学史研究』第60巻298号(2021年)、131-149頁。

 

  1. はじめに
  • 本稿は、学振の組織形成と黎明期における事業展開の特徴を解明することを目的としている。
  • 『科学の社会史』の中で学振について扱った広重徹は、同制度の設立について共同研究を通じて研究水準を上げ、産業的・軍事的研究の増強を図ったことに意義があることを論じている。⇄本稿では学振設立の初期の経過を丹念に追いかけることで、学振の当初の目的とは何であったのかを確認し、その上でその後の成果について評価を与えるとしている。また、そのほかに、沢井、水沢、森脇らが学振について触れているが、1931-32年頃についての検討はまだ十分に行われていない。

 

  1. 学振の設立経過

2-1 学術振興運動の開始と「日本学術研究振興会」構想

  • ここでは、「学振所蔵資料」をはじめとする未検討の資料を参照しつつ、学振設立過程が一日単位で詳しく論じられる。まず、1931年1月14日に当時帝国学士院長、学術研究会議長であった桜井錠二が帝国学士院に101名の代表者を集め、学術進行の方策について協議を行なった。そこでは、学術振興のために政府は金の工面をするべき(桜井)という提案に対して、金よりも割拠主義をやめて共同研究を促進すべき(姉崎)、問題は研究能力のある人間を養成すべきであり金は二の次である(長岡)といった多様な意見が出たが、学術振興の必要性は共通に理解されていた。
  • その後小委員会が選定され、複数回会議を通じて具体的な方策について協議された。また同年(1931年)2月13日には、貴族院で数学者の藤澤利喜太郎がドイツと英国の例を挙げて学術振興の重要性を訴えてもいた。さらに、学術研究会議でも4月に学術振興に関して議論を行い、5月に建議を提出した。
  • これらの動きの中では、経済不況を克服するために、諸外国の例にならって少ない財源を学術振興に投資せよという主張が共通して見られた[1]。言い換えれば、「経済不況の挽回策」として学振が必要とされていた。

 

2-2 設立推進のための櫻井の政治力

  • 1931年5月の桜井の帝国学士院第21回授賞式における演説:学術研究に対する予算の必要性を訴えている。=授賞式という晴の席で窮状を訴えていた。
  • 1931年4月30日の御進講「学術振興ニ就テ」:明治時代の模倣万能主義の影響が残り、帝国大学や官公庁管轄の研究所において、独創的研究とそれを行うことができる経費と人材が不足していると指摘。

←「学術のためにはカネが必要」という主張。

  • 実行委員は、1932年度予算要求で、財団法人「日本学術研究振興会」の創設と、初期事業として120万円を要求。

 

2-3 海軍大将財部の参入と「学術産業振興院」構想

  • 1931年10月に海軍大将の財部彪が、軍部としても学術研究振興に注力する必要があるとして、連携の相談を申し出ていた。

→1932年に「学振会」、「財部会」が開催。財部の登場以降、「産業」という言葉が下案に追加されたので、彼の意向は学術振興によって産業の活性化を図ることであったと想像される。

 

2-4 下賜金(かしきん)御沙汰による急展開

  • 1932年8月20日昭和天皇から150万円もの私費が下賜されることになり、政府(特に文部省)は積極的に動かざるを得なくなった。

 

3 学振の組織デザイン

3-1 理念と実現形態としての財団法人

  • 学振の理念:「学術を振興する」の一点に収束。
  • 方法:財成法人:機動力がある。会計の柔軟性を保つことにより研究効率をあげる。

 

3-2 組織体制

  • 理事が運営の中心。産業界6名、軍部5名、政界・官公庁4名とパワーバランスに配慮。
  • 常置委員会(=個人研究と総合研究の審査機関) が重点化。

 

3-3 法人の原資とドイツ類似例の参照

  • 桜井らは1931年の有志総会で配布した資料からも窺えるように、海外の類似事例について調べていた。そして、中でも1911年に創設された皇帝学術促進協会と、1920年に創設された獨逸学術研究維持振興会が参考にされたという。(1)学術全般への助成を行う点、(2)総裁が王室メンバーであった点、(3)各分野の委員会の設置、(4)総合研究のための特別委員会を設けた点、(5)政府や議会との連絡を密にする(=事務所を文部省内に設置していることなど)は、ドイツのこれらの類似組織を模倣した可能性がある。

3-4 組織形成の特徴

  • 桜井は、経済不況だからこそ学振興が必要であるという主張を通じて、運用開始時からイニシアチブをとり、組織の骨格作りに関与した[2]
  • 桜井はまら帝国学士院授賞式などの席でも資金窮乏を訴えた。
  • 天皇からの補助をきっかけに、政府補助金や民間からの寄付金を得ることができた。
  • 経済不況の克服という命題は、彼にとっては関係者を巻き込むロジックであったと考えられる[3]。∵学術財成の貧困は明治期から慢性的なものであり、かつ桜井は政府が経済不況の打開策を渇望していたことをよく知る立場にいた。

 

4 初期の事業展開

4-1 研究助成第一

  • 当初の事業構想=(1)研究機関の充実、(2)研究者養成
  • 実際には、資金配分機能と研究機能に収束していった。

 

4-2 研究助成の実際

  • 研究の進捗・結果を把握するために、研究機関中で審議を行い、研究期間終了後に視察者を派遣する。
  • 採択課題については、経過報告書と終了報告書を提出する
  • 審査は、推薦者を得た研究課題の提案について、常置委員会が審査方針に基づき審議・採択する。

←「最も慎重にして重大なる審査を経て之れを行ふ方針でありまして資金の総花的分配に類する如き事は断じて行はざる考であります」と審査を重視していた。

  • 分野は人文社会科学を含めた12類38区分。
  • 広い層への助成
  • 初期の研究助成は、基礎研究に主眼が置かれていた[4]

 

4-3 研究機能

  • 常置委員会は審査だけではなく、研究も行なった。→小委員会と特別委員会。
  • 「研究の能率を上ぐるため」
  • 総合研究では、所属によらず各方面の研究者がそれぞれの課題にあたった後、それら研究成果を持ち寄って討議を行うというスタイル。

 

4-4 寄付金募集とその成果

  • 天皇からの寄付により、政府民間からまとまった資金が得られた。

 

4-5 事業展開の特徴

  • 学振の機能は、研究助成と調査研究の2事業に収束していった。黎明期においては、基礎か応用かという議論よりも、まずは研究ができること=研究にカネをつけることが最優先であった可能性がある。
  • また幅広い分野を対象にしながらも、審査により研究成果のための効率化を図っていた。これにより、学振をより実利的な活動を行う組織へ昇華させた。

 

 

感想・議論

  • 学振の初期の設立過程について、未検討の資料を発掘・分析しながら、一日単位で丹念に再構成した論文。特に多数の一次資料をつなぎ合わせて、表1=タイムテーブルを作成するに要した時間は察するに余りある。
  • 広重は学振における「総合研究」を重視する傾向があったが、初期過程の分析の結果、当初は総合研究というよりもむしろ個人研究への助成が主眼であることが明らかにされた。
  • さらに、昭和天皇の下賜金によって政府・民間からの資金集めに拍車がかかったという発見は非常に興味深い。昭和天皇はかなり学者気質なところがあるといった話を聞いたことがあるが、昭和天皇という存在に一層関心を持った。
  • 加えて、学振のモデルとしてドイルの類似機関が参考にされていたという指摘、経済不況のための学術振興という主張は桜井の一種のレトリックであったかもしれないという指摘も重要であると思われる。
  • 評者は、学振の設立やその後の研究助成・研究活動が広重の「体制化」を体現するものであったかどうかに大きな関心を抱いている。その観点からすると、本稿で指摘された「審査」機能の重視という論点は極めて重要であると思われる。というもの、審査員の審査を通じた「選択と集中」によって、(総花的ではなく)研究全体の方向づけを行うことができるからである。その意味で、科学研究を国家のために奉仕させるようになるという「体制化」の進行にとって、学振の持つ意味はやはり小さくないという気がしてくる。

 

[1] この点は広重も指摘している。しかしよく考えると、学術振興を行うことでなぜ経済不況が打開されるのか不明確である。直感的には、リニアモデル的な発想すなわち、基礎研究が応用研究≒技術開発を導き、ひいては産業全体が活性化するといった考え方があると思われるが、本稿ではこの点について特に説明がない。

[2] こうしてみると学振の設立に桜井が重要な役割を果たしていたことは疑いないが、桜井のみが関与していたわけでもない。記述が桜井主体になりすぎている感がどうしてもある。著者は桜井についての研究を継続してきた方であるが、桜井という人物の重要性は、関係者の記述を通じてその「外堀を埋める」ことで初めて見えてくることであると評者は考える。

[3] 学術振興→経済復興というのはそれほど自明な流れではないので、この主張には一定の説得力があるように思われる。

[4] 個人研究であることは言えると思うが、なぜ「基礎」研究であると言えるのか。また、基礎か応用かにかかわらず、黎明期においてはとにかくカネをつけることが重要であるといった指摘(p.144)とも一貫していないように読めてしまう。

 

 

 

 

山中、2022

山中千尋日本学術振興会黎明期における軍産学の共同研究 – 特殊鋼製造のための第19小委員会の発足 (昭和9年)に注目して」『化学史研究』第49巻(2022年)、1-16頁。

 

  1. はじめに
  • 本稿では、1934年に特殊鋼製造を目的として設置された日本学術振興会(学振)第19小委員会に焦点を当て、すでにある程度の鉄鋼研究の基盤があった日本において、なぜ新たに第19委員会が設置されたのかを明らかにし、この小委員会の歴史的な意義について論じるものである。

 

  1. 先行文献と本研究の位置付け
  • 広重徹は、学振の中で行われた主要な研究として、宇宙線、無線、鉄鋼を上位3項目に挙げている。そして、学振の内部に小委員会や特別委員会を設け、「国家重要課題」に向けて、研究体制を合理化しまとまった資金を提供したことを科学史上の意義であったと論じている。
  • 沢井、青木、水沢らも同じく学振を対象とした研究を行なっているが、これらが学術研究体制のマクロな流れを論じているのであり、(ミクロなレベルでの)事例研究ではない。
  • 学振小委員会を対象としたケーススタディとしては、第37小委員会による電子顕微鏡を取り扱った先行研究がある[1]。本稿では同じ試みを第19小委員会に対して行うものである。
  • 第19小委員会についてはすでに研究報告が存在しているが、本稿ではとくに黎明期に着目し、設置の背景を探ることに重点を置くとされる。

 

  1. 日本学術振興会小委員会の役割
  • 学振の組織構成は、「学術部」に対して12の常置委員会が設置されるというものである(常置委員会は研究援助のための審査などを行う機関である)。そして常置委員会のもとに研究活動の形態としての「小委員会」(=単一分野)、「特別委員会」(=複数分野)が置かれた。なお、これらに軍産学が関与していたので、「総合研究」と呼ばれた。ただし、学振発足当初(1932年12月)においてはこれらの委員会は存在しておらず、最初の形成されたのは1933年度中であった。
  • 第19小委員会は広く工学分野を包摂する第9常置委員会のもとに置かれていた。この常置委員会のもとで結成された委員会としては4番目である。なお、委員会の結成時には、常置委員会委員長から理事会への説明が必要となる。第8,9常置委員会の下に多くの小委員会が集中していることから、小委員会の結成に際しては常置委員長の発言力が一つの重要な要素であった可能性があると指摘される。そして第9常置委員会の長は本多光太郎であった。

 

  1. 国家重要研究事項の指定と学術研究会議工学研究委員会
  • 鉄鋼分野は、すでに日本では明治・大正期に一定の成果を挙げていたにもかかわらず、なぜ1934年に研究グループが新たに組織されたのか。筆者はその理由として、以下の3つを挙げている。
  • 内閣公示第4号:総理大臣の斎藤実が出した文書であり、「国家重要研究事項」として40が列挙されるもの。特殊鋼(ニッケル、クロムシリコン、タングステン、コバルトなど[2])研究は一番目に上がっている。) =「兵器、航空機、機械器具等ノ構成材料トシテ必須モノ
  • 第4号に至るまでの研究の合理化に関する答申:1930年3月28日に決定された答申。ここでは答申の四番目の項目として、「国として最も発達を必要とする研究事項の調査公表」が挙がっている。→資源局が大学や研究所の専門家の意見を集め、かつ、陸海軍などの意向も踏まえた上で[3]、内閣公示という形で(1)を公表するに至った。なお、国家重要研究事項を「公示」することによって、官庁/民間ともに研究助成を行う場合には、これらの事項に優先的に奨励するように勧めてもいる[4]

(なお、その後学術研究会議の工学研究委員会が日本特殊鉄鋼株式会社を見学しており、これは第4号を踏まえた企画であった可能性があると指摘される。)

 

  1. 研究の高度化におけるステークホルダーの存在
  • 鉄鋼研究の高度化[5]本多光太郎(KS鋼の発明者)と俵国一の存在。両者は学振発起人であった。→第19小委員会は、俵の主導によって発足し、彼が東大を退職したあとの主たる活動であった[6]。(本多は中核的なメンバーではなかった[7]。)

ただし、学術部委員長は長岡半太郎で、第九常置員界の委員長はその弟子である本多光太郎であった点が重要。→委員会は学界のステイクホルダーの存在という素地のもとで発足した。

 

  1. 第19小委員会の発足
  • 1934年度前期には、第9常置委員会に22件の研究課題が当てられていた(うち「国家重要研究事項」は9件)。

:「特殊鋼材ノ製造ニ関スル研究」;本多光太郎の名前で4500円の配分→のちに小委員会へと発展した可能性がある。

:「鉄鋼中ノ含有瓦斯ニ関スル研究」は個人研究で400円。小委員会のメンバー

→桁違い。

←第19小委員会は、「個人研究が大型化したような格好」であり[8]ボトムアップ(俵の主導)でもあり、トップダウン(国家重要研究事項)でもある

  • 第19小委員会は、特殊鋼は「国防上ノ兵器即チ造兵、造機、航空機等ノ主要ナル材料タルノミナラズ、一般ノ機械構造上又必要」であるという理由で設置。

→国防と産業上の必要という「デュアルユース」を掲げていた[9]

 

  1. 第19小委員会の組織構成
  • メンバー構成:大学教員5人、陸海軍関係が4人、民間が6人の15名。(※本多はメンバーとして加わっているだけ)→その後、22人、23人とメンバーが増えていった。
  • 研究費の申請額は1934年後期で4500円、1935年は9500円。
  • 鉄鋼全般について3年間で行う。

初年度:情報収集と研究の方向性の立案、緊急性の高いテーマを開始。

次年度:対象材料についての欠点の原因追求や克服、使用上の条件の特定

最終年度:研究成果に基づき良質な鋼材を作る。

※分科会も編成された。

 

  1. 初期活動とその成果
  • 実際の研究活動と成果はどのようなものだったか。
  • 小委員会の研究は、普段はそれぞれの所属機関で行い、その研究結果を数ヶ月ごとに持ち寄って討議するという方法[10]。合計8回の会議を開いた。会議には委員以外にも海軍の関係者も出席していた。
  • 第一分科会では、計80名の研究者が技術者と協力し、水素分析方法の研究を確立するまでに3年をかけた。=鋼中ガス標準分析法の研究・開発は共同研究によって確立された。→宗宮は学士院賞を受賞。
  • 俵という中心人物のもと、そして国家重要研究事項というお墨付きのもと、外部への資金配分である個人研究と比較して、まとまった資金や人材を確保し、異なる機関のメンバーが連携して共同研究が進められた。

⇄工学研究にとって個人研究というスタイルが合わなかった結果、小委員会が活発になっていったという可能性もある。(初めから共同研究を志向していたわけではない可能性がある。)

 

  1. 第19小委員会とは何だったのか
  • 本多光太郎という中心人物の存在に伴って、軍産学が個別に行っていた特殊鋼材研究を一箇所に集約することに成功し、まとまった研究費を得ることができた。

斎藤実(もと海軍大臣でもある)の存在も重要。

  • 広重は航空、無線、宇宙線といった当時最先端のテーマが学振では重視されたと論じている。鉄鋼が明治・大正から続く伝統的な分野であるが、第一次大戦度「国防のための重要材料」という意義が加わった。航空や無線に比肩する重要性を持っていたと推測される。
  • 第19小委員会は、内部研究とはいえ、学振本体が行う事業とは独立しているユニットであった。
  • ≠桜井錠二の意図:彼の意図は「諸分野を連携させて効率化させる」ことではなく、研究費の配分にあった。桜井はあくまで純粋な学術研究を志向していたが、実際には学振とは独立性の高いこうしたユニット=小委員会が純粋研究にとどまらない応用研究=「総合研究」を駆動させていったのではないかと推測される。

 

  1. 本研究の意義と今後の課題
  • 本稿は、(1)第19小委員会は、俵のリーダーシップによって軍産学にわたる分野横断的な研究計画を実行したこと、(2)桜井の想定を超える活発な取り組みに転じていったことを明らかにした。
  • 今後の課題:
  • 研究そのものの学説的評価
  • 研究成果の実用化
  • 戦後への継承

 

 

感想・コメント

  • 本論文は、学振第19小委員会の活動に焦点を当てた研究であり、近年研究が進んでいる学振のケーススタディーの一環として見なすことができ、第19小委員会というあまり検討されてこなかった活動を多くの資料を駆使して解明した貴重な論文である。また、鉄鋼という伝統的な分野であるにもかかわらず、なぜ1930sに委員会が組織されたのかという問いに対しても、戦争(主にWW1)との関わりから議論が展開されており興味深い。
  • また、その他の類似研究と異なって、小委員会の初期の形成段階(1933-34年頃)について詳しく検討している点、そして本多や俵、斎藤といった人物のイニシアティブに着眼した議論を展開している点が特徴的である。
  • そして、全体として、広重が学振について主張したこととは別の主張を打ち出そうとする姿勢が強いように感じる。そのことを説明するためには、まず広重が主張したことを確認する必要がある。広重が『科学の社会史』で論じたことは、次のようなことである。
  • 学振の設立は、それまでバラバラに行われていた研究を「国家重要研究」のもとに「総合研究」として能率的・合理的に組織させ、そこに従来とは桁違いのお金を流すことで、国家が大規模に科学研究の方向づけを行う(=科学を国家に奉仕する)「体制」が形成していく重要な一歩となった。
  • それに対し、本稿で著者が述べていることは、次のようなことである。
  • 学振は(広重が言うように)最初から「総合研究」を目指していたわけではない。むしろ、常置委員会で行われていた研究が次第に膨張していき、だんだん小委員会に発展していった。学振設立者の一人である桜井錠二も、最初から研究の連携・能率化を最優先していたわけではなく、まずは研究費の配分を行うことに主眼があった。つまり、学振は結果として「体制化」したかもしれないが、最初から「体制」であったわけではない。

 

  • 筆者が指摘するように、広重はやや論点先取的なところがあったかもしれない。広重も初めから(1933-34年頃は)総合研究がさかんであったわけではないことはちゃんと述べている。しかし、1930s以降総合研究の割合が拡大していったことを受けて、「総合研究の促進こそ、学振の主目的だった」と結論づけるところは、やや急ぎすぎていたのかもしれない。そのclarificationは重要であることは否定しない。しかし、結果としては、官民の研究助成の優先度のバロメーターでもありそれゆえに「公示」された「国家重要研究」のもとに「総合研究」が発展していったことの重要性は変わらないと思われる。
  • むしろ問われるべきことは、(学振が最初から「体制化」を目指していたかということもさることながら、) 1930sの総合研究の展開が、広重がいう「体制化(=国家の産業的・軍事的要望に科学を奉仕させ方向づける)」とどれほど適合するものであったかという点であると思われる。
  • 例えば、安田裕「戦時期日本における合成ゴムの共同研究開発」では、小委員会の活動は厳密な意味での「統制」ではなく、さまざまな可能性を同時進行で認めるもっと緩いものだったと指摘される。
  • 本稿でも、小委員会がトップダウンであると同時にボトムアップでもあるという論点を提示しており、このあたりが特に重要であると考える。
  • そしてこの点は、19Cにすでに科学は「体制化」していたのであるから、1930sに「体制化」というプロセスは見出せないといったもう一つの重要な議論にも接続してくる。

 

  • その他、細かい点については註に示した通り。

タイトルに「軍」という言葉が入っているにもかかわらず、陸海軍関係の資料があまり参照されていない点、そして(筆者の述べているように)学説史的な検討が不十分である点が本稿の最大の限界点であると思われる

 

[1] 本稿では言及がないが、安田裕「戦時期日本における合成ゴムの共同研究開発」『技術と文明』第22巻2号(2019年)や、広重徹『科学と歴史』(みすず書房、1965年)第5章も学振小委員会の事例研究である。

[2] 鉄と炭素の合金で熱処理をしない「普通鋼」の対義語のようである。特殊な金属を添加したり成分を調整するもの。

[3] この点は広重も指摘しており、「当時としては考えうるかぎりの入念な手続きをふんでいる」(p.149)という言葉で表している。本稿では、この各方面から集められた意見については分析がない。「なぜ1934年時点で第19小委員会が設置されたのか」という問いに答えるためには、こうした分析があるとより実りある議論につながると思われる。

[4] 同じく、広重もこの点を指摘している。ただし、広重は資源局の松井春生の同様の趣旨の発言を参照している。

[5] これは鉄鋼研究というインターナルな視点からの議論であり、特に重要であると思われる。しかし、残念ながら両者の研究の中身についてはあまり言及が少なく、彼らの研究プログラムにとっての小委員会での活動の位置付けも不明確である。

[6] 「主たる活動」というのは、あくまで学振の組織形成のことなのか。それとも彼の研究にも関わることだったのか。1934年前後の彼らの研究とはどういったもので、学振小委員会で取り組まれた課題とどのように連続していたのか(していなかったのか)を明らかにすることで、より学説史的な議論に近づき内容も深まると思われる。

[7] 第三節の指摘と矛盾しているように読める。本多光太郎の「発言」は小委員会の形成に重要な役割を果たしていたといいつつ、「中核的な」メンバーではなかったというのは理解しづらい。

[8] 矢島が小委員会のメンバーであればこういった言い方ができるかもしれないが、そういうわけでもないのでやや誇張された表現である。

[9] 鉄鋼が「デュアルユース」であるのは当たり前なので、評者はむしろ、これがいわゆる産業動員(=総力戦に備えて平時の国民的生産力を増強する施策)とどの程度関係しているのかという点が重要であると考える。

[10] この方法は、第21小委員会と同じである。

Declan Fahy and Bruce Lowenstein, 2021

Declan Fahy and Bruce Lowenstein, “Scientists in popular culture – The making of celebrities” Routledge Handbook of Public Communication of Science and Technology (2021), Chapter 3.

 

Ⅰ. Summary

 

3-1 Introduction (pp.33-34)

  • The aim of this chapter: To explore how the presence of scientists in popular culture has increased over the last century, as well as the effect of popular culture on the scientists themselves and their own image as scientists.

→A key aspect = to understand the functions of celebrity in science.

 

3-2 Historical perspective (pp.34-38)

  • It is not new that scientists are present in public culture.

Ex: The book about Isaac Newton for children (1700s~), Thomas Edison and his competitor Sebastian Ferranti’s biography, and Microbe Hunters (1926) which became a best-seller book etc.

→ In the second half of the 20C, the growing relevance of science in public life led to new relationships between scientist and popular culture (in U.S and England).

→The author’s goal = To identify the feature that move scientists past being publicity ‘visible’ and into a broader role as full participants in modern celebrity culture.

  • Scientists has had a growing role as a social authority in popular culture throughout the 20th century, with an especially evident increase near the end of the century.
  • Carl Sagan demonstrated an increasingly important phenomenon; the photogenic, and media-savvy scientists as object of public worship.

→Sagan marked the shift from ‘visible’ scientists to ‘celebrity’ scientists.

 

  • LaFollette augured that television tended to feature scientists who conformed to its demand for the revelation of personal details and its emphasis on personal appearance(※1).

→A television trivialized scientists by portraying them as celebrities akin to other figures in popular entertainment.

 

3-3 Scientists in celebrity culture (pp.38-40)

  • The variety of media forms (in the final decade of 20C) has meant that celebrities are now a ubiquitous aspect of contemporary Western culture.
  • Journalists and writers labelled individual scientists in this milieu as celebrities.
  • Ex: Neil deGrasse’s Tyson (astrophysicist) was described as “a space-savvy celebrity” in New York Times.

Susan Greenfield (neuroscientists) was described as “celebrity neuroscientists” in popular books.

  • A notable aspect of these celebrities is the over-representation of males.

→ Women were not prominently featured in dramas, documentaries, news reports and talk shows, suffering as a result a form of “cultural invisibility”.

⇄The female scientists who did appear were portrayed largely as stereotypical superwoman consumed by their careers or as ‘romantic’ adventurous celebrities.

→1990s~: This representation became change but half of the profiles of women scientists in British newspapers referred to their appearance, clothing, physique(※3).

  • The transformation of scientists into celebrities reflects an intensification in the cultural role and reach of the media.

Cf: mediatization of science

Historical shift from ‘visible scientists’ to ‘celebrity scientists’.

  • Graeme Turner defined celebrity as a genre of representation and a discursive effect.

And a genre of representation means that there is an intense personalization in an individual’s media portrayal. = He or she is represented as a distinctive individual.

  • The idea that famous figures have a social function is important to understanding celebrity.

∵ Celebrity helps audiences make sense of the social worlds, as famous figures articulate and represent values and beliefs that are often implicit.

←The process through which a public figure becomes a celebrity has been called new words ‘celebrification’ or ‘celebritisation’.

 

3-4 Framework for analyzing scientists as cabriites (pp.40-44)

  • The authors categorized the characteristics comprising scientists who became famous in popular culture after WW2 into the following six categories.

 

  • The scientist’s represented image features a blurring of his or her public and private lives

:Celebrification occurs when media coverage moves from reporting a scientist’s public life to reporting his or her private life.

Ex: Dawkins is described charismatic and messianic with the “fierce, hawkish good look of a forties film star by The Guardian.

Ex: Tyson Twitter feed has merged his public and private lives(※2).

 

  • The scientist is a tradable cultural commodity

:Interacting with a large audience through books and television has to do with branding and marketing scientists as writers and presenters. And it often involving synergies where variations of the same products are sold across different media formats.

Ex: A Brief History of Time as the book and the film.

“Hawking’s name was used as a proportional booster” .

 

  • The scientist’s public image is constructed around discourses of truth, reason, and rationality

:The celebrity scientists is associated with discourses of truth, reason and rationality (+ progress).

Ex: A recurring pattern of representation of Hawking presents his mind as existing outside his body. His idea changed conceptions of the universe while his body failed.

→The media coverage systematically created an image that supported ‘reason’ as the base of his celebrity, effacing the larger social system that sustained him.

 

  • The scientist has a structural relationship with the ideological tensions of their times

:Famous figures who have lasting popularity are emblematic of the social, cultural and political tensions of their times.

Ex: Tyson wrote in his autobiography how he became astrophysics in spite of the space agency NASA, which in its early years was sending white astronauts into space while poverty grew in inner-city black communities.

 

  • The scientists’ representations feature the tensions and contradictions inherent in fame

: There is a tension between their scientific status and public renown.

Ex: Some physicists argued that Hawking’s popular fame far exceeded his reputation within the field.

(6) The scientists’ celebrity status allows them to comment on areas outside their realm of expertise

Ex:  Some people pointed out that Dawkins did not give a fair account of the intellectual and theological positions he challenged.

 

 

Conclusion (p.44-47)

  • Scientists have played an increasing role in popular culture over the 20C, as public culture has become a celebrity culture.
  • The shift from visible scientists of the mid 20C to celebrity scientists of the 21C marks the increasing integration of science into popular culture.
  • Science is increasingly embedded in popular culture and, by looking at celebrity, we can see how popular culture affects the production of knowledge itself.
  • The concept of celebrity is fruitful and applicable to variety of studies (such as Novel Laureates).
  • Remaining issues: (1)the nature of female scientists, (2)comparative analysis looking beyond North America and Europe(※4).

 

 

 

Ⅱ. Discussion

 

  • About Media Types:
  • My major concern is about the role of radio (p.37). Radio broadcasting was started from 1920 in U.S (and 1925 in Japan) and it is still widely used today. But as LaFollette said, television may be more important than radio in the rise of celebrity of scientists because TV directly conveys the visual image of the individual.
  • I think the relationship between Twitter and the celebrity of scientists is interesting topic(※2). As the authors wrote in p.41, Twitter may allow them to merge public and private lives. At the same time, having a large number of followers may help them be famous.

 

  • About Gender
  • The authors said that half of the profiles of women scientists in British newspapers referred to their appearance, clothing, physique during 1990s (p.39). In Japan, the accident of STAP cell (2014) is related to this topic. In this case, I think the image of women’s scientists were abused for the sake of team’s interests.
  • I think that the team of researchers prioritized promoting the unique aspect of being a "female scientist" rather than publishing a paper based on strict procedures.

 

  • About the comparative analysis
  • I don't think there are any scientists in Japan who appear frequently in movies or on TV. Of course, there are many scientists who write enlightening books for the general public (ex: Fukuoka Shinichi, Ikeuchi Satoru, Nakamura Keiko etc.), but I’m not sure if they can be called "celebrities".