yokoken001’s diary

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L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (4)

Chapter 4 Origins and Early History of the General Electric Research Laboratory (pp.62-96)

 

第四章は、1900年にGEの企業内研究所が設立されてから1920年頃までの歩みが記述される。具体的には、同研究所の役割、経営陣/研究者陣のパワーバランスの変化が、ホイットニー、クーリッジ、ラングミュアらが開発した電球や無線技術(GEM、延性タングステン電球、窒素ガス封入電球、クーリッジ管、硬真空管)の展開と関連づけながら分析される。研究所の役割という社会的文脈と、技術の設計の文脈とがバランスよく記述されており、なおかつクリアで一貫したストーリが示される。

1900年にスタインメッツらの尽力でMITのホイットニーを所長に引っ張り出す形で発足したGE研究所だが、当初経営陣は「金を浪費する機械」となることを懸念するなど、その設置には消極的だった。GEの研究所の意義がはっきりと認められるようになるのは、1911年にクーリッジが延性タングステンフィラメントの開発に成功して以降のことである。この発明によって、欧州における技術革新の脅威に不安を抱いていたGEは、米国の電球市場における独占的地位を確保することに成功し、欧州に対するライセンサー(特許を付与する側)になることができた。さらには研究所における活動が、同社の電球技術の方向性をコントロールすることができるようになったことをも意味していた。

さらに、GE研究所の役割の変化に決定的な影響を及ぼした出来事が第一次世界大戦である。ホイットニーは海軍諮問委員会(Naval Consulting Board)に出入りし、米国海軍に同社の高出力無線システムや音響兵器を売り込むなど、軍との繋がりを深めていった。またクリーヴランドでは軍事用真空管を大量生産する手段が考案され、陸軍に対しても軍用クーリッジ管を大量に納入した。クーリッジ管は複雑かつ高価で、市場規模が小さかったため、軍需の存在は重要だった。

第一次世界大戦は、GE研究所に差し迫った軍事的問題を解決するための、組織化された研究開発を行う力があることを示す機会を与えた。それ以降、GEの研究所は企業にとってのみならず国全体にとっての価値が認識されるようになった。

同時に社内における経営陣/研究者陣との間のパワーバランスも逆転し、1928年に初代研究所所長のホイットニーがGEの副社長にまで上り詰めたとき、研究所の地位は一つの頂点に達した。

 

以下、粗い要約。

 

 

4-1 The need for industrial research

  • 1890sにGEはアメリカの電灯市場を独占していたものの、米国と海外においては、深刻な競合相手=ガス灯が今にも復活しようとしていた。
  • エジソンが1870s末から1880sに電球と電力システムを発明したとき、彼はガス灯が作り出していた大規模な室内照明の需要から恩恵を得ていた。蝋燭やオイルランプは大きな面積を照らすにはコストがかかり、かつ煤が出るという欠点がある。しかし、1850sに入ると、ガス灯がこの問題を解決した。そしてエジソンの電球は、スイッチに触れることで操作できる便利さを付加し、安全性と最新の科学的技術のオーラを与え、フリッカー(明滅)の問題を解決した。
  • 電灯に対抗すべくガス会社はガスの値段を下げ始め、1880s-90sにかけて、事実上ガス灯は電灯のコストを下回った。さらに、オーストリアのCarl Welsbachが発明した”mantle”(メッシュ状のコットンで構成される)が拍車をかけた。ガスの炎はmantleを熱し、明るく、安定して、黄色がかった光を放つ。1893年に米国へ導入されると、従来のガス灯の半分以上コストを下げるといった劇的なコストパフォーマンスを実現した。
  • その間GEの関心は、電球自体の改良に向いていた。GEの炭素フィラメントの問題は、ある批評家の言葉を用いると「小さすぎ、赤すぎ(too red)、熱すぎる」点にあった。すなわち、消費エネルギーの大部分が可視光ではなく赤外線領域で熱を発生させていた
  • エネルギーのうち照明のために消費されるのは5%のみで、残りは熱の発生のために消費されるという熱の発生が最大の関心事だった。可視光スペクトル内でエネルギーを発散させるためには、華氏11000度以上で最大の効率に到達する必要があるが、炭素の場合華氏3000度以上では操作できなかった。したがって、この問題を解決する方法は、
  • 華氏3000度以上で長時間保つフィラメントの開発
  • 選択的に発光する(スペクトル内の狭い可視光帯に放射を集中させる)素材の発明

の2つだった。

  • 1892年にHenri Moissanは電気アークファーネス(electric-arc furnace)を発明し、科学者は白熱に潜在的に応用できる素材の組成や性質を調査できるようになった。
  • 世紀転換期にドイツで発明された2つの新しい白熱電球がGEの関心をひいた。一つはゲッチンゲン大学Walter Nernstによるglower lampだった。米国ではWHがこの特許権を保持した。
  • 二つ目はWelsbachによるオスミウム(Os)から構成されるフィラメントだった(1898年)。それは華氏4000度以上で、選択的に放射する性質を見せた。そしてそれはGEの炭素フィラメントよりも60%効率がよかった。しかしオスミウムは希少で、脆いという欠点があった。しかしこれらの発明は、(1)効率の良いフィラメントが実現可能であるということ、(2)炭素フィラメントは時代遅れであるということに気づかせる役割を果たした。
  • 19C末、イオンや低圧の蒸気を通じて光を放つ、いくつかのランプの開発があった。Peter Cooper-Hewittは水銀蒸気を利用した電球を開発しており、ウェスティングハウスが彼を支援していた。
  • 1890年代末、スタインメッツはHewittの実験室を訪問し、GEも生産と分離された新しい研究所を設立するべきであるという確信を得た。スタインメッツはドイツで研究活動をしていた経験もあり、欧州の動向に精通していた。1897年に彼はGEに研究所を設立し、そのための支援を得るという公式な提案を行った。彼は研究所が電気化学志向であることを望んだ。その理由の一つは、彼がアーク灯に関心を持っていたからだった。
  • 1897年スタインメッツはCoffinや経営陣の態度に不満を抱いた。というのも彼らは経営と結びついた資金拡大を目指していたからである。保守的な体制が決定力のある行動を妨げていた。
  • しかしスタインメッツは諦めず、研究所設立のためにより大きな声を必要とすることを認識した。1899年には弁護士のDavisに接近した。(スタインメッツ、Davis、Rice、Thomson VS Coffinをはじめとする経営陣)
  • Riceへの手紙の中で、水銀蒸気ランプ、アークライトの電極、グロータイプのランプ、オスミウムのような新種のフィラメント素材の作業を含んだ研究所の研究プログラムを述べていた。そして、研究所は、製造関連の仕事・問題から独立したものであることが必須であると提案した。
  • 経営陣は不本意ながらもスタインメッツらの提案に同意した。しかし、それは警告が伴っていた。すなわち、所長には「正しい」人間を配置しなさい、さもなくば研究所は「金を費やす機械」になってしまうというものだった。こうしたコストと成果への強い関心は、初期の研究所の信条となり、所長には大きな重荷を与えた。研究所はとりわけ電灯の分野で、然るべき時間で一定の成果を出さなければならない。ある研究員によれば、経営陣は研究所の設置に後ろ向きで、何人かの経営陣は数年後に、金が浪費されていることを示し、研究所を閉鎖することを考えていたという。

 

4-2 Establishing the Research Laboratory

  • 経営陣から許可が出る前から、スタインメッツは研究所の所長にふさわしい化学者について、トムソンに相談していた。トムソンに具体的な案があったわけではないが、彼は化学者というより一般的な教養と経験を備えた人間がふさわしいと考えていた。
  • トムソンが考えている間、スタインメッツはMIT教授のCharles Crossに接触し、Willis Whitneyを紹介された。
  • ホイットニーは1890年にMITで化学の学位を取得し、その後ドイツのオストワルトの下で博士号をとった。さらにパリに移り、有機化学の研究に従事していた。その後MITに戻ったが、そこで彼はinstructorの地位にとどまっており、1900年秋ごろまでにはMITの環境に不満を抱いていた。そこでGEの研究所に大きな関心を持った。
  • スタインメッツ、クロス、ホイットニーの会合の中で、GEの人間は彼に「彼らは産業家(industrialist)かもしればいが、科学的アイデアも持っている」と述べたが、ホイットニーは難色を示した。そこで彼らはホイットニーに、GEには週2回と夏休みの期間のみフルタイムで働けばよいことや、高額の給料を提案した。
  • GEがホイットニーに接触したことで、同社にMITの化学者・物理学者とのコネができ、商業技術の発展における科学の利用を促進させた
  • そして産業界へコミットすることに曖昧な気持ちを抱きつつも、1900年12月にホイットニーはGEの研究所の所長に就任した。当初の週2回という条件を週3回にすしながらも、あくまでMITに存在感を維持しつつげ、1901年秋までは二重生活を営むことになった。

 

4-3 Early days of the laboratory

  • GEの作業が急速に拡大する中でスペースが不足してたので、ホイットニーはスタインメッツのスケネクタディにある自宅の家の建物にショップを設置し、最初に水銀蒸気ランプの仕事に着手した。さらにホイットニーは磁鉄鉱の分析を開始したが、それはスタインメッツが磁気現象に関心を持っていたことに由来する。
  • 水銀蒸気ランプを商業的に実用化することは容易ではなかった。ホイットニーは目に見える成果を研究所が挙げることを要求されていることを認識していたが、うまく行かなかった。
  • 電灯分野で重要な成果を挙げるのにかなりの時間がかかることがわかると、ホイットニーは研究所の原則である「生産部門との独立」を侵害してでも、研究所のエリアを拡大することへシフトした。
  • 1902年に彼は、アーク電灯の電極の研究において、William Weedonを雇った。当初、彼らは困難に直面し、学術研究を産業研究へ応用することの効能について疑義が持たれるほどであったが、彼らの仕事は数年後にチタニウムカーバイド(heat-resistant alloy titanium carbide)という成果に結実した。
  • ホイットニーの妥協策は、研究所の仕事ラインを増加させ、30以上の計画は、14人以上のメンバーによって遂行された。
  • 1902年初頭、Riceはついに株主に対してGEの研究所が設立されたことを説明しようと決心した。そこでは、「独創研究に奉仕させる研究所を設置することが賢明であると判断された」と説明された。

 

4-4 Shaping the institution

  • 初期における研究所のオペレーションでは、ステインメッツが積極的な役割を演じた。彼は当初、ホイットニーとライスとの間を媒介する役目を果たしていたが、ホイットニーとスタインメッツの仲は好ましくなかった。スタインメッツは問題の目的から逆算して仕事を組み立てるのを好むのに対し、ホイットニーは最初から初めてそのまま進んでいくことを好んだ。
  • しかし1903年に19人の研究者、26人の助手からなる、GEの中でも安全とはいえばいものの、それなりに明確に定義されたニッチな場所として、駆け出しの研究所が稼動し始めた。

 

 

4-5 Research on the incandescent light

  • ホイットニーは1890sにMoissanが発明した電気炉に基づき、電気高音ファーネス(Electric high-temperature furnace)を開発し、これによって従来は不可能だった温度で物質を熱し、物理的性質を調べることが可能になった。彼は予想以上の成果を挙げ、フィラメントの表面の構造を変化させることに成功した。具体的にはフィラメントを固く、丈夫なものにし、温度をあげることで抵抗をあげ、融点を高くし、金属のようにすることに成功した。同社はこれをGEM(GE Metallized)ランプと称し、Harrison Lamp Worksと共同で、1905年に販売を開始した。この新製品は安く販売・製造することができたので、GEはアメリカ電球市場を再び独占した。
  • しかし、GEMの達成感は短命に終わった。というのも、電気の価格が高い欧州では金属フィラメントの研究に集中的に取り組まれており、1902-03年に、ジーメンス・ハルスケ会社の研究所で、タンタムを用いた延性フィラメント(ductile filament)の開発に成功したからだった。これは効率、コストがオスミウム電球よりもよく、GEはこれに注目せざるを得なかった。
  • 1904年にジーメンス・ハルスケはGEに同製品の特許権を申し出たが、交流で使用する場合のパフォーマンスは下がるためGEサイドは拒否した。その代わり同社は独自にアメリカ権を取得し、ドイツからタンタムを供給しつつNational社と共同で延性フィラメント電球の製造を行うことになった。
  • この状況はGE研究室に脅威を与えた。なぜならそもそも研究所の目的が、外国の特許権を購入しなくても済むようにすることになったからである。
  • ホイットニーは金属フィラメントの白熱電球に取り組むために、再び戦力を組織した。電気化学の知識を活用して、効率の良さが期待できる物質を選んで調査を行った。1904年の秋に、彼はWeintraubに、タングステンをワイヤーの形にするためにその構造・特性の調査をやらせた。1904-06年にかけて、Riceの承認もあって、研究者の数は20人から44人に増加し、金属フィラメントの研究が行われた。
  • 1906年初頭、ホイットニーはMITの優秀な実験化学者であるクーリッジ(Coolidge)をスタッフに要求した。彼は電気工学の学士を取ると、ライプツィヒ大学で物理の学位を取得した。そして1900年以降がMITで研究していた。最初クーリッジはホイットニーの提案を拒否したものの、より良いお金と時間の条件を提示されたことで1905年に承諾した。
  • クーリッジが来る前、GEは(1)数多くのヨーロッパの会社が金属フィラメントを実現していること、(2)そのうちのいくつかはまもなく市場に出回るであろうことを学習していた。そこで、RiceはホイットニーとHowellを欧州に派遣し、状況を評価し、特許や製造権を購入するかどうかを考慮させた。その間研究所にはクーリッジが残り、assistant directorとなった。
  • ホイットニーとHowellはドイツのWelsbachの会社であるAuer Gesellschaftsを見学した。そこではオスミウムタングステンを組み合わせた金属フィラメント電球を製造していた。これらに衝撃を受けた2人は、GEにWelsbachの特許を購入することを提案した。交渉の結果、$100,000で購入することが決まった。2人はさらに、JustとHanamanによって開発された中空のタングステンフィラメントの特許権購入をも提案したが、これは購入されなかった。
  • 1906年にホイットニーがGEに戻ったとき、困難に直面した。というのも、彼らが購入したAuer社の技術をそのまま導入できず、アメリカで販売するにはより安く丈夫である必要があり、不満が残る状況になっていたからである。しかし、ホイットニーらが視察に行っていた最中に、クーリッジらは有望な方法を考案していた。彼らは、タングステン粉末を金属ビスマスカドミウム、および水銀のアマルガムと混合してからフィラメントに引き込み、次に熱処理によってアマルガムを追い出した。
  • 金属フィラメントの完全化が、研究所の最先端の課題になった。ホイットニーは自らの判断で購入してしまった責任感からAuerの技術の研究を継続する一方、クーリッジらは新しいプロセスの研究を行った(数年間でタングステンフィラメントを製作する13もの異なったプロセスを試行した)。
  • 大きなプレッシャーは企業マネジメントのサイドから生じた。もしも欧州がこの勝負に勝ってしまったならば、GEは多額の特許権使用料を払わなければならなくなる。ホイットニーもGEが遅れをとることを心配していた。
  • しかし、1907年半ば頃、GEはこの勝負に負けていることがわかりつつあった。というのもGEが特許権の購入を見送ったJustとHanamaの技術の商業化が成功したのである。
  • スタインメッツはホイットニーのマネジメントに不満を持っていた。1908年にスタインメッツがRiceに宛てたメモの中で、GEの研究所は「先駆的な仕事」をすることに失敗したと不満を述べている。
  • この負い目は1907年の不況と相まって研究所に災難をもたらした。CoffinとRiceは研究所の予算を41%削減し、44人中14人を解雇した。そしてホイットニーは心身ともに疲弊し、フロリダで療養することになった。その間、クーリッジが気落ちした研究者への指令を引き継ぐことになった。

 

4-6 Recovery

  • 研究所の復活の源は、1907年におけるクーリッジの研究にある。彼は華氏700°(理論値よりも低い温度)で叩いたり搾ったりすると、その脆さが解消することを発見した。しかしGEが欧州の特許権を購入した後研究の方向性を変え、酸化タングステン粉末の研究に取り組んだ。1908年にホイットニーが所長の地位に復帰した際、Riceはクーリッジを英国出張部門へ派遣し、そこで彼は機械的プロセスの方が化学的プロセスよりも優れていることを信じることになった。
  • スケネクタディに戻った後、クーリッジは、タングステンが脆くなくなったのは、繊維状の内部構造を持つようになったためだということを理解した。彼は熱処理と機械的処理とを適切に組み合わせることで、結晶上のタングステンを引き伸ばし、延性タングスタンを形成することができることを確信した。そして、延性タングスタンフィラメントは、1912年に実現した。
  • 1906-1910年にかけて、3/4のスタッフがこの研究に従事し、予算の半分以上が費やされていた。だが、それは欧州の特許権を購入するよりは安価であり、クーリッジらの研究の価値は大きかった。
  • クーリッジらは酸化チタンを結晶成長の抑制剤として利用することで、商業的なスケールで延性タングステンを作るプロセスを設計した。彼らはハリソンと協働し、1911年末までには商業化に成功していた。延性タングステン電球は、(1)丈夫で、(2)他の白熱電球より25%ほど効率が良い(10ルーメン/W)という利点があった。
  • 延性タングステン電球の商業化は、GEを再び市場の支配的地位に戻し、大きな利益を産んだ。WW2までの年利益の1/3-2/3は、この製品の利益が占めていた。
  • さらに、延性タングスタンの開発成功は、(欧州に対して)GEがlicenseeからlicensorになることを意味していた。これにより欧州の企業がアメリカ市場に参入することを防止し、独占を維持することができた。
  • さらに、裁判絡みでも、GEは独占権を強化することに成功した。1911年に司法省は、GE傘下は「競争的」と表面上謳っているが、実際には協力的な関係にあるとして、GEを独占禁止法違反で起訴した。しかし、GEはむしろ傘下との取り決めを放棄することで市場を独占し、より大きな利益を得る方法を模索した。すなわちGE は司法省が掲げた独占した経済を解体するという「進歩的な」試みを逆手にとって、米国産業で独占を維持する方法を見出した。

 

4-7 Diversifying research

  • 延性タングステンフィラメントを開発したことで、研究所はついに白熱電球の分野において、GEに技術のコントロールを与える(provide GE with controlling technology in incandescent electric lightning)という基本的なミッションを達成した。
  • 企業内研究所が長年その地位を安定化させる戦いは終わり、今や重要な変革が起きていた。それは、企業内の監督委員会の地位が下がり、代わりにホイットニーによる研究の計画や行政のフリーハンドが強化されたという変化である。この要因の一つは、1913年にGeの所長がCoffinからRiceに変わったということがある。彼はスタインメッツがいう、商業的な急務に邪魔されない独創的な研究概念を支持していた。
  • 1900年、研究所の最も著名な科学者になることが約束されたIvring Langmuirがスタッフに加わった。彼はコロンビア大学で金属工学の学士を取得し、ゲッチンゲン大学で物理化学の博士号を取った。指導教官はヴァルター・ネルンストだった。博士論文では、白熱フィラメントの表面における熱の伝達や気体の分離を分析した。それは彼に白熱電球真空管を扱うための格好の準備を与えた。1906年から1909年にかけてStevens Institute of Technologyで化学を教えていたが、教育の負担や生徒のやる気のなさに嫌気がさしていたので、ホイットニーのオファーを快く受け入れ、GEの終身研究者となった。
  • GEでは最初、彼は延性タングステン電球で生じる物理・化学プロセスを評価するための長きにわたる研究を行った。ホイットニーは、電球の操作に関する知識を得ることは電球の改良につながると信じていたので、この明らかに無私的な(disinterested)研究に寛容だった。
  • しかし、1912年になると、彼の研究は電球の黒化を防ぐだけではなく、電球の能率をあげることがわかった。電球内部で生じる熱の伝達と物理的なプロセスの理解に基づき、ラングミュアは気体環境で利用できる特別なフィラメント構成を設計した。タングステン原子の蒸発を抑制することで電球の黒化を防ぎ、高い動作温度を実現することで効率を上げるものだった。そしてその電球の完成のために、25人体制で6ヶ月間研究が行われた。この間研究所は、大量生産可能かどうかを確かめるために、工場と密接に連携していた。1913年に窒素ガス封入電球が発売されると、その高出力、能率の良さ、安さから、それはガス灯を駆逐した。WW1後はより小さな出力(50W)の製品も販売した。
  • 1912年にホイットニーは電球真空委員会(Lamp Vacuum Committee)を設置し、週に一回程度、研究を方向づける会合を開いた。1914年には同委員会のアドヴァイスによって、電球の製造、試験、排気も方法に関する計画が遂行された。これらの計画の多くは電球技術のマイナーな改良を主眼としていた。
  • 研究所設立からの最初の20年間で、電球と並ぶもう一つの活動の主要な領域が、真空管電子工学(vacuum tube electronics)と無線だった。1890年代にマルコーニによって船舶-陸上局間の無線電信が実現され、その後、フェッセンデンやドフォレストらによって音声通信の可能性が模索された。1903年にフェッセンデンはGEに、実験のために搬送波を生成する高周波交流発電機を構築することを申し出た。最初の発電機はスタインメッツが設計したが、その後GEの工学部門のアレクサンダーソンがそれを改良した。1906年にはデフォレストがフレミングの二極真空管を改良し、三極真空管を発明した。しかし、このオーディオンと呼ばれた装置は、十分に組み立てられていたとはいえず、パフォーマンスに一貫性がなく、”blue-haze”という高度にイオン化された状態まで完全に分離される前の低電力しか処理できなかった。(able to handle only very low levels of power before breaking down completely in a highly ionized state called blue haze.) 1912年末、アレクサンダーソンはオーディオンが交流回路における変調器として利用できることを理解し(ただし音声通信のために利用することはなかった)、ラングミュアの注意を引いた。ラングミュアはドフォレストの装置を改良する方法を思いついた。彼はドフォレストが信じていたように残留ガスは不必要で、”blue haze”が発生しない、高い出力で作動できる高い真空度の真空管を設計した。
  • 続く数年間、GE研究所において、ラングミュアは真空管と無線研究の先頭に立った。彼はWilliam White、Albert Hull、Saul Dushmanらと研究を行った。ダッシュマンはケノトロンと呼ばれる装置を開発した。ハルは負性抵抗を利用したダイナトロンという新しい真空管を設計した。これにより無線通信で重要な増幅や発振をより効率よく行うことができるようになった。1914年12月にはダッシュマンが真空管を利用した発振回路を組むことに成功し(500W, 200,000cyc/s)、交流発電機自体は不要なものになった。
  • 研究所はまもなく無線機の製造と設計に参入した。1915年半ばにはホワイトが無線システムのオペレーションを提案し、同年10月にスケネクタディ-ピッツバーグ間の50マイルの通信に成功した。このとき欧州ではWW1が勃発しており、アメリカ軍は戦力の近代化を考慮し始めていた。そしてホイットニーの2隻の戦艦に研究所製の無線システムを搭載して試験を行うという提案は熱烈に迎え入れられた。無線セットを軍に売る見込みはencouragingなものに思われたので、彼は1916年の春に研究所内に小さな製造オペレーションを設立され、そこで一ヶ月で60本の真空管生産が行われた。1917年4月に米国が宣戦布告すると、米国政府は特許権の規制を緩和した。そのため、GEは軍に高出力の無線システムや、航空機、船舶、陸上兵士間の通信のためのシステムを供給することができた。1918年末に終戦すると、GEは無線部門で大きな利益を得ることを見出した。しかし、AT&Tとの複雑な特許の状況は、まだGEが無線市場において支配的ではなかった。
  • ラングミュアが真空管研究に取り組んでいるとき、クーリッジはX線管(X-ray tube)の開発を行っていた。X線は1890sに発見され、物理学者の関心を集めていた。さらにそれには医療における実用性もあった。クーリッジは陽極の白金をタングステンに置き換え、1913年にクーリッジ管が小規模ながら生産された。
  • しかし、これは期待通りのパフォーマンスを見せず、診断にもかろうじて使える程度のものだった。一つの解決策は、ラングミュアが示唆していたように、高真空中で電子放射を実現することだった。こうした新型のクーリッジ管ができたものの、複雑で高価であったため、市場規模が小さく、大量生産を正当化しなかった。しかし、WW1が勃発すると軍需が生じ、クーリッジ管の製造が正当化された。
  • 1911年以降研究所の仕事は多様化した。このとき、ホイットニーは、進行中の研究よりも他部署からの要請を優先する”Trouble Work”という方針を固めた。しかしその中でも無線とX線管は最も重要だった。というのもそれらが研究所に創業者が予見していたもののそれまでほとんど実現されていなかった新しい方向性=GEが新製品分野へ展開するための技術を提供したからである。電灯は同研究所の最も利益を生むサービスだったが、まだポテンシャルを生かしていなかった。
  • 1902年時点でホイットニーが株主に述べていたのは、研究所は科学者の自主性よりも会社への奉仕を優先させるという方針だった。しかし、タングステンフィラメントで成功を収めると、彼の指示の厳格さが低減していった。
  • 同時期には、社内の監督委員会の支配力も低減していった。1916年までにGE研究所はおそらく米国一の研究所になっていた。WW1はGE研究所に、差し迫った軍事的問題を解決するための、組織化された研究開発を行う力があることを示す機会を与えた
  • 海軍諮問委員会(Naval Consulting Board)の要請で、研究所は潜水艦探知の研究にも取り組んだ。ラングミュアとハルはナハントにある海軍の研究施設に出かけていき、クーリッジはスケネクタディでその問題に取り組むべくチームを主導した。そしてGEと海軍の協力関係のもと、C-tubeとK-tubeという2つの音響システムが完成し、1918年までに米国海軍の戦艦に搭載された。研究所の他のグループはクーリッジ管に軍事利用を採用し、陸軍に納入した。さらに、クリーヴランドでは軍事用真空管を大量生産する手段が考案された。
  • このようにして研究所設立から20年後、それはGEにとってのみならず、国全体にとっての価値が認識されるようになったホイットニーは米国化学学会の長として海軍諮問委員会に奉仕し、国家の準備計画の一部としての産業研究を強く推進した。そしてそれがGE研究所を、科学的、進歩的であるといったプラスのイメージを付与することに繋がった。GEは同社の名前を、科学を連想する産業研究の価値と結びつけようとした。

 

 

  • Moving into the 1920s
  • 1922年にGEの社長がRiceからSwope(Swopeは1890sにMITで電気工学の学士を取得し、最初はWHで働き、後にGEに異動した)に変わった時点で、GEの研究所は複数の機能を持つようになっていた。
  • 製造部門に対する技術的サポートを提供する役割。あらゆる種類の問題の解決、製造の方法の改良方法を示す。
  • 会社の重要な特許の保護。特許侵害訴訟にかかわる業務。膨大な記録の作成。会社を特許上有利な立場に置くための調査や論文の執筆。
  • 高品質・最先端の製品と、「進歩的(progressive)」精神を宣伝する手段としての役割。
  • 1920sを通じて研究所の運営はスムーズに進んだ。資金とスタッフも増加し続けた。1928年にはSwopeは(研究担当の)ホイットニーをGEの副社長にさせた。このとき研究所は分割上の(divisional)な地位を与え、スタインメッツの家の離れから始まった研究所の長い「旅」は頂点を迎えた。

 

 

感想

・WW1と米国の科学・技術界との関係の全体像が知りたい。GEと陸海軍の繋がりはその一部に過ぎないからである。

・電球技術と真空管技術は、それぞれ目的は全く異なるものの、(直感的に)かなり密接に関連しているように思われる。フィラメントや排気技術など、製造プロセスの多くは重複しているような感じがするが、実際はどうなのか。

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電球と真空管の発明/欧米と日本(『電子管の歴史』p.44を参考に作成)

・このように時間的ラグを単純に比較することには注意が必要である。発明の時点は、実用化の開始時点を意味しない。例えば、1904年時点でフレミングバルブのポテンシャルを理解していた人間はほとんどいなかったと思われる。真空管の実用化は欧州でもおおよそ1910s以降なので、この12年の「遅れ」は、電球の11年の「遅れ」とはたぶん意味が異なる。

・そういえば、フィラメント素材の研究についてはかなりの分量を割いて説明されるものの、真空・排気の話がほとんど出てきていない。5章以降に登場することを期待する。

 

 

関連文献

 

 

 

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toshiba-mirai-kagakukan.jp「1911(明治44)年に米国GE社クーリッジ博士の引線タングステン線の完成が報じられ、当社も引線タングステン線による電球の製造販売を開始した。この引線タングステン線の発明は、材質の強度不足や品質の不均等を根本的に改善すると共に、ガラス球内の排気装置の発達もあり電球製造に革命的な影響を与えた。その後、米国GE社ラングミュア博士は、電球の寿命はタングステン線の蒸発によって左右されることを発見し、この蒸発を少なくすれば寿命を延ばすことができると考え、1913(大正2)年に電球のガラス球内にタングステンと化合しない窒素ガスを封入したガス入りタングステン電球(窒素電球)を発明した。当社は、この発明の報に接して直ちにこれを輸入販売すると同時に、その試作研究に着手。1915(大正4)年に窒素ガス入り電球の製造に成功した。」