yokoken001’s diary

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L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (1)

Lenard D. Reich, The Making of American Industrial Research: Science and Business at GE and Bell, 1876-1926 (Cambridge: Cambridge University Press, 1985)

 

英語は読みやすくなく、険しい山であるが、無線史をやる上で読まなければならない文献の一つである。一応重要な部分には目を通しておく。

 

本書のテーマは、米国における産業研究所(industrial research laboratory)(ないし企業内研究所)はいかなる背景で生まれ、それが科学・技術・産業の発展にどのような影響を与えたのかというものである。産業研究所は、試験・調査を行う場所ではなく、「研究」を行う場所である。そうした形態のラボは19C末から20C初頭(WW1前)の米国に出現したといわれる。企業研究所においては、科学・技術について深い理解を持つ専門家に、生産の問題と無関係に、膨大なリソースを活用して長期的な課題に取り組むことを可能にした。そして、そこでの仕事は、個々人というよりは、テームで取り組まれる場合が多い。そうした産業研究所の事例として、本書ではGEとAT&Tの2つの企業を取り上げる。両者は共通の問題を扱いながらも、異なった企業構造や見解を持っていたため、これらを比較することで、本書の問いに関して、会社のあり方に由来する要因を導くことができるとされる。

(以下、粗いメモ)

 

Introduction: The importance of Industrial Research (pp.1-11)

  • 産業研究(industrial research)は、アメリカ人がビジネスを行う方法を変化させた。1900年に最初の産業研究所(industrial research laboratory)が現れ、利益と前進の新しい時代を切り開いた、(と言われる)。

⇄こうした文句は、物語の全体を示していない。産業研究所は複雑な制度である。それは、それらを支持する企業のみならず、企業間の競争、科学と技術の関係、産業構造にまで大きな影響を及ぼした。

→本研究は、産業研究所を登場させた要因(力)を調べ、なぜ米国において、産業研究が20Cの世紀転換期からWW1までの時期に根付いたのかを説明しようとするものである。具体的には、GEとAT&R社と、それらの研究プログラムを検討する。

  • 1900年末に設立されたGEの(企業内)研究所は、すでに数十年前からドイツに存在していた研究機関(research institution)のタイプをアメリカに導入した。GEの研究所は、発電機から機関車までさまざまな技術の進展に関心を持っていたが、エジソンの時代から同社と密接に関連し、同社に多くの利益をもたらしてきた電球に期待を集めていた。研究所(の研究員)は、設立後10年以内に、電球市場における支配的地位を維持するためだけではなく、GEにとっての不可欠性を確立するために、懸命に働いた。その成功は、1930s以前の、米国における産業研究所の模範と、それを激励するもの(stimulus)として機能した。
  • AT&Tは、1911年に、同社の有線電話技術の前進と管理を目指すために研究所を設立した。のちにそれは、ベルシステムに、(その利益を維持させながら)商業的な搾取の機会を提供した。GE研究所と同じく、AT&Tの研究所も、後に続く研究所にとっての刺激と模範として機能した。そして実際にその通りになった。
  • しかし、企業内研究所の全てが産業研究のタイプだったわけではなく、ほとんどは試験や工学のラボ(testing or engineering labs)だった。そこでは、科学者・技術者は、製品の一貫性や効率性を確かめるために働いた。そして、製造や試験活動と密接に関連することは、彼らの仕事の射程や、彼らがなしうる貢献の範囲を狭めるのが普通だった。企業が産業研究の利点を認めるためには、(1)研究所が製造能力と分離され、製造について直接の責任を負わなくなること、(2)関連する科学・技術の深い理解の発展に依存する長期的な計画を遂行する目的のために科学者・技術者を雇うこと、(3)研究所が短期的な需要から切り離されるように注意深く組織・管理されることが必要だった。

←20Cまでのアメリカにこのような研究所は存在しなかった。本書で扱う2つの研究所も、それらが産業研究所となるために必要とされる自律性が保障される前に、自らを証明する必要があった。

  • 従って、産業研究所は、以下のように特徴付けられる。

(1)研究所は生産能力と分離されること、(2)企業に関連する科学・技術の深い理解(を得る事)に貢献する科学や応用工学(advanced engineering)の訓練を受けた人々が雇われること、(3)短期的な需要から幾分距離を置くべく組織・管理されること、の3点である。

  • 1920sまでに、数多くのアメリカ企業が、そのような種類の産業研究にコミットするようになったことは明白である。(しかし)研究活動が経済に普及した一方で、産業研究自体は、技術的に高度で、製品が科学分野と密接に関連し、継続的な進歩が期待できる分野に集中的に行われた。(ex 化学、電力、通信、石油精製、写真、ゴムなど。)
  • 産業研究に由来する重要な帰結は、会社が製品やプロセスを改良し、市場から保護し、競合会社の利益を脅かすことを可能にする(1)専門化された知識(specialized knowledge)、(2)技術的専門知(technical expertise)、(3)特許権である。
  • 産業研究が競合環境やアメリカの産業構造に多大な影響を与えたことは驚くに値しない。研究所を持った企業は産業の権力(power)の中心となり、研究所を維持することができない企業を駆逐する。さらに、独立の発明家がその産業において足場を築くことをも困難にさせる。
  • 産業研究が登場したことで、企業は技術の発展の速度や方向を制御し始めることが可能になった。加えて、産業研究は、それを追求する企業に「進歩的な」イメージを与える。それは、企業にとって宣伝上都合が良い。
  • 要するに、新しい製品やプロセスと並んで、特許や、(産業研究を進展させる)技術的な専門知が、企業に対して、市場のコントロール・成長・イノベーションの機会を提供する。

 

科学・技術・産業研究

  • 産業研究は、ビジネスだけではなく、科学と技術に支援と方向性を与えた。また産業研究は科学者・技術者にキャリアの機会をも提供した。20C初頭に最初の産業研究所が現れるまで、ほとんどのアメリカの科学者は、古典的な学びを志向する大学やカレッジで教鞭をとっており、研究を遂行するインセンティブも設備も享受していなかった。州立大学やエンジニアリングカレッジで働く科学者もいたが、彼らにのしかかる教育の負担は大きく、設備は不十分であったので、独創的な研究を行うことはほぼ不可能だった。研究志向の大学院レベルのデパートメントも存在したものの、そこに収容できる人数は極めて少なかった。
  • →産業研究所の登場は、研究志向の科学者・技術者に新しいキャリアパスをもたらした。それ以前にもアメリカ産業において科学者が雇われるケースはあったが、彼らの活動範囲は試験や物質の分析に限定されていた。しかし、産業研究の登場により、彼らは、
  • 科学や技術の深い理解を得ることに向けられた活動に多くの時間を割けるようになり、
  • 十分なリソースを使うことができるようになり、
  • 技術的な日常の研究開発の仕事を行うために、訓練された助手を与えられた。

←産業研究者は、職業的な組織への参加や論文発表といった制約が課せられるものの、(純粋)科学の専門分野の前進よりも(応用的な)科学の方法により関心のあるものは、産業研究に快適な居場所を見出した。産業界にとって重要な課題に専念するために彼らは(純粋)科学の専門分野の問題を傍におかなければならなかったが、それでも多くの人が進んで産業研究に従事した。

  • 産業研究に従事することは、個人(personal)と職業(professional)とのトレードオフの関係を示している。一度研究所に入れば、科学者はアカデミーの環境からの圧迫から解放され、entrepreneursとして振る舞うことなく(新しい技術を)発明することができ、高い給料、そして魅力(allure)を手に入れることができる。彼らは、記録を残し、コンサルティングを行い、特許取得のために働かなくてはならないが、その見返りとして、膨大な研究時間、サポート、大きな金銭的報酬を得る。
  • 産業研究者に求められる需要や、彼らが仕事をする方法は、新しい環境に特有のものだった。彼らはリーダーのもとで集団のプロジェクトとして仕事をし、仕事を終わらせるスケジュールに拘束される。プロジェクトの成功に重要な貢献をなすためには、個々人が輝かしくある必要はない。管理者が、彼らの研究者の補完的な能力を利用し、時には理論家や実験家、抽象的な思想家、そして「ボルトとナット」の人々が一緒に働くように設定する。解決策を発見するそうしたチームの力は、個々人の力の合計より勝っている。
  • 産業研究において、科学と技術は、企業の利害関心の技術を改良するために、同時に追求される。そこでは、科学と技術が共通の目標ももった相互作用する活動であるとみなされる。両者は密接に相互に関連するので、歴史家はそれらを区別することができない。
  • しかし、産業研究の成果は、事前に予測できる形で科学・技術を進展させる。なぜなら、産業研究者や管理者は、研究支援を正当化するために、事前に成果を予測する必要に迫られるからである。それゆえ、その成果が革命的であることは稀有である。商業的・財政的な緊急性は、革命的な変化を追求するのに必要な研究の自由を科学者・技術者に与えることを不可能にさせる。
  • しかしこうしたことを考慮しても、産業研究が科学・技術の発展に及ぼす影響は大きい。研究に投じられる膨大なリソースと、科学・技術を統合したアプローチは、産業研究から自然に関する知識や人工物がもたらされることが保証される。
  • 以下では、19C末から20Cにかけて、いかなる条件が、なぜ産業研究を確立したのかを調査し、その後、GeとBellの研究室を詳細に調べる。さらに、そこで行われた研究計画を調べ、研究の組織や方法、企業内研究所成果の商業的価値との関係を考察する。この目的は、産業研究が科学・技術・産業の発展にどのように影響を与えたのかを理解することにある。そして、企業が新技術をいかに経済に導入したのか、技術変化の速度や方向にどのように影響するのかを示すことを目指す。世紀転換期からWW1の時期に産業研究が出現した背景には、科学・技術の内容の変化、研究者の数や質、商業的な脅威、政治的な力などさまざまな要因がある。
  • それぞれの会社は唯一無二であり、限られた対象しか取り上げない本書の議論は仮説的である。しかし、本書ではGEとBellを事例研究の対象とした。なぜなら両者は科学と技術に関心がある重複する分野を持っていながらも、異なった企業構造、管理方法、市場における位置を有していたからである。それゆえ、両者を取り上げることで、本書の問いについて、科学と技術に関する結論以上に、企業構造、見解(outlook)、機会(opportunity)により深く関係した結論を導くことができる。
  • 二社はアメリカの産業研究の全体を説明するものではない。しかし、両者の研究所はWW1に続く産業研究の動きに影響を与え、多くの企業がそれらを模範としたので、適切な出発点を提供する。
  • 続く第二章では、BEとBellの話をする前にまず、アメリカの企業が産業研究を行うことを導いた19Cの科学・技術・産業の発展を議論する。