yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

論文レビュー (菊池論文 その2)

 菊池慶彦「日露戦後の電球産業の成長」『経営史学』第47巻第2号(2012年)、3-29頁。

 ↓以下からDL可。

www.jstage.jst.go.jp

 本論文では、前著「日本における電球産業の形成」(2007年)で扱われなかった1907年以降の電球産業の様子が描かれる。ポイントは、(1)GEと東京電気との技術資本提携とそのインパクト、(2)1907年の長距離高電圧送電事業の本格化を背景とした関連企業の形成、(3)タングスタンフィラメントという技術革新とその導入、などが挙げられる。

 

1905年、GEと東京電気との間に資本・技術提携が結ばれたことにより、GEは同社の株式の51%を取得し、GEの子会社として存続・成長を図ることになる。GEと提携を結んだことで、電球の量産能力を強化させることに成功した。具体的には、茎製造機械(フィラメントを設置する茎=ステムを製造するため、ガラス管を加熱し、導入線と支持線を密閉する機械)、封入機械、頭継機械、排気機械等が導入された。さらに、ガラス製造については深川硝子工場を新設し、内製化した。1907年には口金組み立て機械と炭素フィラメント制作機もGEから購入していた。特に、フィラメントの量産は技術的な壁だったため、この機械の導入により量産体制が大きく改善されたと推測できる。電灯会社との大口の取引においては、定額燭光性が主要な形態であったから、GEとの提携の締結後も、長寿命使用の電球を製造し続けた。1907年にはGE代理店のバグナル社とも販売契約を結んでおり、販売販路の拡大も円滑に進められた。実際、1907年以降、深刻だった在庫問題を解消させ、東京電気は高収益と結びつくように発展していった。

 

  • 中小メーカーの拡大

1907年東京電燈駒橋発電所が運営を開始するなど、長距離電送事業が始まるとともに、電球の需要は激増し、第一次世界大戦期までに、中小メーカーや関連企業が現れ始めた。1902年には錦商会が設立され、1907年に大阪電灯が買収し、大阪電球株式会社が創業した。また、1903年には電光舎を創業し、1909年に帝国電球株式会社に改組設立された。さらに、1905-06年に日本電球製作所、1908年に東京電球製作所、1911年に江東電球合資会社が設立された。こうして1908年以降は、東京電気以外の企業が国内市場の約4割を占めるようになった。これらも東京電気と同様に、大口需要家との取引を背景とした、市場条件にあった低能率・高寿命の電球を製造した。なお、錦商会の創業者である難波守はもと白熱舎の職工で、電光舎の創業者である川勝倉之助は東京電気の技術者であり、新しい中小メーカーは既存の企業のから移動した技術者や職工らによって組織されていた点は注目される。

 

 GEは1900年に企業内研究所を新設し多くの科学者を雇用した。同研究所の所長のホイットニーは、1904年に金属化炭素フィラメント電球(GEM電球)を開発した。1910年にクーリッジは綿密な温度管理のもと、延性タングステン線を製造することに成功し、1911年には引線タングステン電球を発売した。(タングステンは融点が約3380℃と当時はもっとも高く、能率は発光体の温度によって上昇することから、この新素材のフィラメントは高能率の電球にとって最適な素材だった。) 技術提携を結んでいた東京電気は、1911年には早速、引線タングステン電球を発売している。その後、GEと東京電気は市場再編に着手し、様々な経過を経たあと、結局、1912年に大阪電球が東京電気の子会社となった。日露戦争後の1914年までは、「GE-東京電気-大阪電球」の主要メーカーに、中小メーカーが加わるという産業構造になっていた。