読書会の予習です。
- 日本史における近代と近世 (pp.33-35)
※この場合の「近代」とは、日本内部での成熟した変革の結果ではなく、西欧の近代が急激に流入され始めることを目安に考えられている。
→西欧の洗礼を受けていない本来の日本=「非近代」
筆者の立場:17C後半から日本なりの発生過程をとりながら、近代が進み始めたのではないかと考えてみたい。
→近代は西欧だけで始まったのではなく、開国前の日本にも近代の芽が吹いていた。
- 明治以前には科学が存在しなかったという論じ方をやめる。(=18C以後の「未成熟な」知識について論じるか、あるいは蘭学・洋学をせめてもの議論の対象にする。)
- 科学の形成過程が、西欧の近代科学のそれと型通り常に同じでなければならないとは考えない。
- 日本固有の知的活動の歴史的推移を、後の時代からする作為的な解釈によってゆがめてしまわないように、できるだけ地道に辿りなおす。
→日本には日本なりの「のんびりとした科学の開拓の仕方」があった。
- 17C:日本的儒学の確立=科学の原像
- 実理と科学 (pp.36-38)
- さしあたって、科学とは「実証的で、かつ合理的な思考法」のことだと考えて、日本の科学思想の形成過程を跡づける。
→まず、「実理」という言葉に注目。
- 加藤弘之『人権新説』(1882):「よく天体・地球の運転および宇宙間諸関係現象の実理を発見して、はじめて従来の謬妄を排除するをえたり」
→続いて「進化の実理」の重要性を説き、国体論を展開。
=科学の権威を思想的に援用しようとし、その際の科学の本性を実理という形で特徴づけた。
- ここでは「科学」よりも「実理」の方が、通りがよかった。
実理=「実物の研究」によってえられた理論=実証的な理論という意味で用いている。
←日本人は、科学といえば、実証的な理論のことだと考えがちである。
- 実理と儒学 (pp.38-41)
- しかし、実理はもともと科学と関わり合う意味を持っていなかった。
儒学において実理とは、誠=倫理的な規範に関する意味内容だった。
林羅山:「君臣の義、父子の親、男女の別、長幼の序[1]、明友の交り皆実理ならざるはなし。」
→実理=人倫の理を軸にして、(物の理を含む)全ての理を秩序付ける。(人倫→実物の理)
いかにして主客が逆転(実物の理→人倫)し、実理=実物の理となっていったのか?
朱子自身も、「実理」を説いていた。
→いかなる逆批判にも耐えられるように、精緻な論旨、厳しい推論構成をめざして論究をすすめ、そこにおのずと「理」の学が提起されるに至った。
とくに朱子が腐心させられた問題=禅の論法=直感的な洞察の法
→仏教のように空理を論ずるのではなく、実理としての学を打ち立てようとする志向。
=空理・空論にはしらず、あくまで実世界を論じることを目指し、志向の精密な尺度を持った実理の学の確立を望んだ。
→空理に対する実理が朱子学の基調の一つになっていた。
- 実理と古学 (pp.41-47)
- 17C以降日本に朱子学が普及した理由
- 徳川幕府が武士階級の政治的秩序を維持しようとしたから(政治的理由)
- 日本人の思考習慣に適合するものを朱子学の中に探り当てたので、その理説に傾斜していったから。
- 筆者が注目する点:日本に浸透した朱子学≠朱子が説いた理学。
=「理気二元論」→「理気一元論」への再構成の仕方に、日本独自の問題意識が織り込まれていた。
- 17C以降に形成される日本的儒学=古学派
←日本で朱子理学をいかに批判し解体させ、日本人の思考法にあった学問としていかに再構成していくかが示されている。
伊藤仁斎:「実」の意識がはっきり限定された形で使われ、日常経験の世界こそが立論のよりどころとなる。
→朱子の理学は根底から解体され、形而上学的な理の観念が拒否される。
→日常的な行為を通じて経験的、実践的に人倫(人徳、仁)を確立することを目指すに至った。
- 彼は理気二元論を解体し、それをどのように再構成したのか?
気:天地を一大活物とみなす「一元論」として提示される=生命体論的世界像
理:変化の図式・秩序を表すものにすぎなくなる。
→朱子の理説に見られた形而上学的な背景は消失し、合理的に限定された意味での理が姿を見せた。「理を究むるは事物に就いて言ふ」。
- 仁斎は、西欧の近代科学を「窮理」という概念で代用させる道を歩き始めていたと思われるかもしれない。
⇄しかし実際に彼はあくまで儒学者に過ぎず、聖人の教えを解明することのみが学問であり、事物の知識を深めることは聖学への専念をさまたげる余計なこととしてはっきり退けてもいた。
→では、いかにして仁斎の「見聞するところに基づいて実理を説いていたこと」≒伊藤弘之の実理(実証的な学)の原型という類推が成立するか?
→儒学と科学の相互作用を考察する必要がある。
- 古学と古医方 (pp.47-51)
- 西欧の近代科学の原型=力学→西欧の知性には、原子論・機械論・素朴実在論の発想法が根強い素地となって介在している。
⇄17Cの日本には力学が学問的に成立する可能性が全くなかった。
←近世日本に科学が存在しなかったと言われる所以。
⇄科学へ接近しうる要素を備えていたのは、医・農・暦・算などで、その中でも順調に科学へ育っていったのは医学。
- 日本は、力学を軸にした近代科学を受容することになったとき、その受け入れの母胎となる学問的基盤が、医学を主軸とするものだった。
←日本には医学の観点から自然を見るような学問的条件しかなかった。
→以下、医学と儒学の相関性という問題を論じる。
医学・:李朱医学を日本的に再構成して、古医法として成立
→17C後半に、同形の成立過程をたどっている。ここに、中国文化に学び、独自の学問的思考法を構成する典型的姿勢が示されている。
両者の最終的な目的は、日本人が真に納得しうる学問の道をあらたに切り拓くこと。
- 伊藤仁斎の古学における要点=原典の原意にもとづく論証と、自己をとりまく経験的世界からの確証とを統合してみせたある種の実証論的なもの。
←仁斎の体験を要約した経験論的訓話ではなく、『論語』『孟子』など原典の精神に基づき、古代人の普遍的な知識に照らして、一層の普遍化を目指した。
古医法との相関:
- 古代人の深い経験的な知識に照らして、あくまでの経験的事実に基づいて正確な認識をうること。
- 一元気説に関連することで、生命体を論ずるのにきわめて簡明で好都合な自然像ともなりえたこと。→古医法が、李子医学の陰陽論的な思弁を排し、仁斎の一元気説になぞらえた生命機構を合理的に想定する方向に進んだ。
- ←儒学(古学)は、そのまま科学であったわけではないが、いずれ科学を誘導しうるような思考法を育てていた。
[1] 年長者と年少者との間で、守るべき順序関係のこと。
感想
・17C日本の学問、儒学や古医法などについて勉強するのは、これがほぼ初めて。おおよその印象としては、この時期の儒学(古学)は、人倫を説くことと(≒倫理)、経験的に自然を観察し、そこに何らかの秩序を見出そうとする合理が渾然一体となっている学問という感じがする。
・西欧科学が18Cに「聖俗革命」つまり、神を否定することによって科学の再編成を試みる過程と、日本の(科学の萌芽を含んだ)儒学から人倫や徳に関する思想が抜け落ちていく過程とは、少し似通っているように思われる。