yokoken001’s diary

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武井彩佳『歴史修正主義』(中公新書、2021年)

 今年最初に読了した本は、武井彩佳『歴史修正主義- ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中公新書、2021年)だった。読みながらため息をついてしまうほど、なかなか素晴らしい本だった。(もちろん、100%満足しているわけではない。)

 

 本書は、主に(1)歴史修正主義とは何であり、それは学術的な歴史研究とどこが違うのか、(2)歴史修正主義はどのような歴史的背景のもと生まれ現在まで続いているのか、(3)歴史修正主義を法律によってガバナンスする取り組みがどのように進められてきたのか、という3つの内容から構成されている。

 歴史家は、膨大な史料を集め、史料批判のプロセスを通じて過去の「事実」を明らかにし、複数の手段によって過去の全体像を把握しようと試みる。もちろん歴史家は、その時代を生きていたわけではなく、過去そのもの、あるいは過去の「真実」を捉えることは究極的には不可能である。また、歴史家が史料を取捨選択する過程や、史料それ自体が保管される過程において、なんらかのバイアスが抱え込まれることを避けることはできない。しかし、そのことは、歴史家が過去を把握することが不可能であることを意味しない。歴史家はさまざまな史料を、さまざまな方法によって検証することで、ある程度、過去の実像に迫ることはできる。無論、100%捉えることは不可能であるし、新しい史料が発見され、学術潮流が変化することで、歴史記述は変更しうる。それゆえ、歴史は永遠に未完である。

 このように歴史が「修正」されることは、学問の世界ではよくあることであり、学術的に許容される行為である。しかし、本書がテーマにする「歴史修正主義」と呼ばれる立場は、学術的に認められない方法で「修正」を試みる。それは、大きく分けて、(1)歴史を現在における政治的な意図によって操作すること、(2)実証を欠いていること、という特徴を持っている。興味深いのは、この本で著者が、歴史修正主義者に類型的に見て取れるいくつかのパターンを抽出している点である。例えば、彼らは、「事実」よりも「真実」を上位に位置付けたり、「正義」という言葉を多用したりすること、体験者の証言を否定する傾向にあること(「歴史の証拠としての証言の否定」)、到底信じられないような主張でもそれを何度も繰り返そうとすること、「ではないだろうか」といった根拠を示さないまま疑問を投げかける形で表現すること、といった態度がしばしば観察されるという。というのも、歴史修正主義者にとっては、歴史の真実に迫るということよりは、何らかの政治的な意図によって、現在の学界や国によってお墨付きを得た「オフィシャル」な歴史への認識に揺さぶりをかけることを目指しているからである。彼らにとって、「証拠」というものは重要にならない。なぜなら、「真の証拠」は正史を唱える人間によって隠蔽されており、(正史を唱える者にとって)不都合な証拠にアクセスすることはできないと頑なに信じているからである。例えば、ホロコースト否定論者は、「AはBである」という事実に対して「AはBでない可能性があると主張する人もいる」という理由で、「AはBではない」と結論づける。こうしたやり方は、全く合理性を欠いた推論であることは明らかである。従って、このような「否定論者」は、本来歴史修正主義の範疇にさえ含まれない。

 確かに、否定論と学術的な歴史研究との境界は比較的明快であるかもしれない。その一方、通常の歴史記述の修正・見直しと歴史修正主義とを区別する際には、やや難しい複雑な問題がある。その点が広く議論されたのが、第四章で紹介される「歴史家論争」である。

 事の発端は、ドイツの思想史家ノルテが「過ぎ去ろうとしない過去」(1986年)において、ナチはソ連のシステムを模倣したに過ぎず、ホロコーストに前例があったと主張したことに対して、哲学者のハーバーマスが同年「一種の損害保障」の中でノルテはナチズムの犯罪を弱めようとしていると批判したことに始まる。ノルテが目指したのは、自分の「修正」への試みを、歴史学の正当な手続きの中に位置付けようとすることだった。そのため、彼はさまざまな歴史家による「修正」の例を挙げた。例えば、テイラー『第二次世界大戦の起源』において、ヒトラーをオポチュニストと捉え彼の対外政策はそれまでのドイツの対外政策と大差がないという歴史が示されたこと、ヒトラーの計画性や主導性を強調する「意図派」に対し、体制内部の組織の相互作用によって政策が急進化した「構造派」による解釈が登場したことなどは、歴史修正主義の例ではないかと主張した。これらは歴史修正主義と言われないのに、なぜ自分の主張だけがそのレッテルを貼られるのかというのである。

 しかし、この論争は結局、歴史の歪曲を認めないという社会的合意を形成することにつながっていく。その理由は、彼の方法に実証性が欠如していたこと、現在に奉仕させる歴史を書くことの問題点が指摘されたことなどがあった。特に、後者は重要である。一見すると、(B.アンダーソンの言うように)恥じる必要のない国民の物語によって国家が統合されているのであれば、国益に合致する、誇り高い国史を持つことは問題ないように思われるかもしれない。しかし、歴史学は可能な限り客観的に、価値中立的に過去を記述することを目指し、また、ある一部の証拠だけに依拠して全体を論じることを厳しく慎む。そうした方法によって初めて、過去の全体像が明らかにされるからである。それは、自国の利益だけに合致する歴史を作ることに反する。さらに、自国中心の歴史記述によって国内の団結は維持できても、長期的に見れば、対立を助長し、将来の選択肢を狭めることになる、と著者は述べている。鋭い指摘である。

 

 加えて本書が優れているのは、過去の「真実」への探究のみによっては、歴史修正主義や否定論の跋扈を抑えることはできないという現実的な視点に立って、欧州で進められる法規制について議論している点である(第6,7章)。このテーマで重要なのは、歴史修正主義の法規制と表現の自由との関係である。ドイツでは1994年に「民衆扇動罪」が制定され、ホロコーストの否定を法律によって取り締まるようになった。同法は「歴史の真実」を守ろうとしているのではない(そもそも歴史の「真実」を法的に定めることは不可能に近い)。そうではなく、それはホロコーストの否定を、個人や集団の尊厳を傷つけ公共の平穏を乱し、暴力を誘発するヘイトスピーチとして規制しようとするものである。「民衆扇動罪」では、ホロコーストを「公知の事実」とし、その存在を証明する必要がないものであると認めた。従って、「自分は一つの歴史解釈を示しているのに過ぎず表現の自由の侵害である」と主張する被告に対して、憲法裁判所は、ホロコースト否定論は「意見」ではなく「虚言(嘘)」であるので、表現の自由の保障の対象にはならない、との見解を示した(1994年)。

 ただし、法による歴史修正主義の規制は、意図的に歴史を否定して論争を起こし、注目を浴びることを戦略としている確信犯に対しては抑止とはならない。のみならず、法による規制を認めることで、歴史が国際政治の道具として利用される可能性を誘発する懸念もある。それを示しているのが、冷静後のソ連や衛星諸国の事例である。バルト三国ポーランドハンガリーなどのソ連の旧衛星国にとって、西欧諸国とともにホロコーストの歴史を記憶・共有していることが、欧州の一部であることの証拠となり、ホロコースト歴史認識が民主主義の尺度とされた。そのため、これらの国においては、共産主義体制による犯罪も否定禁止の対象に含めるべきだという声が大きくなった。(特にポーランドは顕著である。) それに対してロシアは、衛生国の動きに反応して、赤軍による「解放」を「全体主義の支配の開始」といった文脈で語ることを、歴史の歪曲である歴史修正主義だと批判した。そしてその原則は、2014年に「ナチズム復活禁止法」の成立によって具体化した。

 こうした東欧やロシアの動向からは、修正主義の法規制はそれが逆に(修正主義の特徴である)歴史の政治利用を導く危険性を孕んでいるということがわかる。法規制は、司法によって、特定の歴史像にお墨付きを与えることであり、事実認定されていないものについては歴史的に信憑性が低いという印象を与えることにもなりかねない。

 にもかかわらず、(英米法の流れを組むアメリカ・イギリスを除いて)西欧諸国は「歴史の法的ガバナンス」に否定的でない。それは、国が法律で特定の歴史像に枠を設定し、その外側の歴史を処罰することで統治することを意図するものではない。むしろ、歴史像が時代により変化し、政治利用されることを認めた上で、その極端な誇張や先鋭化を防止しようとする考えに基づいている。そしてそうした法的統治は、民主主義と表現の自由が十分に機能していることが前提であると著者は述べる。

 

 本書は歴史修正主義を学術の立場から真摯に議論した素晴らしい本であることは間違いないが、著者の立場がやや曖昧と思われる部分や議論が不足している箇所もあるように感じた。例えば、ニュルンベルク裁判第21条にある「公知の事実 (facts of common knowledge)」についての見解である。「公知の事実」とは、裁判で立証する必要のない、一般の人々が当然知っている事柄であるとされる。しかし著者は、時間がたてば、事実は体験に基づくものではなり、公知の事実に対する認識は時代を超えて普遍的であるとも言い難いことを指摘している(pp.68-69)。この指摘は、ドイツの「民衆扇動罪」にも反省的に適用されるべきであり、もう少し踏み込んだ議論が必要になるように感じる。また、歴史修正主義や否定論といった学術の外での議論とは別に、著者の立場である実証史学と、物語り論との間の深い対立についても、今一度見直す必要があり、それらと合わせて歴史修正主義の問題を議論するとより実りがあるように思う。この問題はもちろん本書の射程を超えるものであり、遅塚氏や野家氏の本と併せて再読したいところである。