yokoken001’s diary

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辻哲夫『日本の科学思想』第一章

辻哲夫『日本の科学思想』(こぶし文庫、2013年)

 

読書会の予習です。

非常にthought-provoking。議論が丁寧で面白い。

序章で説かれているのは、ある種の多元主義(pluralism )と言って良いのではないだろうか。科学が「普遍である」とよく言うが、時間的にも(例えば17Cの科学と19Cの科学)空間的にも(例えば18Cのフランス科学とイギリス科学)、共通点を探す方が難しいとも言えるのかもしれない。そうだとすれば、明治維新以降日本に導入された科学(それは専ら概念体系の翻訳によって移植された)も、日本の言葉・思考法にそって再構成されたものであるはずである。ハイゼンベルクが看破していたように、変革期の科学(量子論)の分野で優れた適応力を示したのも、そうした何らかの日本「文化」に根ざしているか、あるいは少なくとも、西欧の唯物論的な頑強な思考パターンとは違う何かが効いていたと考えることもできるかもしれない。

 

序章

  1. 科学・技術 – 言葉と概念
  • 言葉の有無だけを問題にすれば(つまり、言葉がなければそれによって表現される観念も、あからさまな形では存在しないので)、明治維新の頃まで遡れば、科学・技術といった言葉は存在しない。

→表向き無から有への変動をみせているなりゆきで、何が起きていたか?

(1)科学・技術というはっきりとした言葉が存在しない場合にも、それらをとりめぐる類似概念がまったく欠如しているわけではない。

→潜在する未成熟で意味のはっきりしない観念が、どのように明確な言葉へと成長・分化していくか?

(2)科学・技術という言葉があっても、その意味内容が一義的でない場合がある。

→誰が、どのような状況で、どんな目的を持ってその言葉を使っているのか?

  • 言葉とそれを表す観念の交錯関係の複雑さ

日本人なりの理解の方法、外国語で表現された科学・技術との照応の仕方。

 

  1. 概念の翻訳
  • 科学・技術は翻訳文化として日本に成立した。→概念の翻訳

=それらを支えている理論の枠組みまでを考える。日本語だけで体系的な理論を説明できるようにする。

→この概念の翻訳過程で、どのような困難を克服しなければならなかったか。

Ex: 科学の強い方法、理論構造、概念構成、推論の手続きなどを、日本語でいかにして文意を構成するか?

  • 未知の科学的な抽象概念を日本語で表していくには、日本の学術用語の転用、転釈が必要になる。→科学の翻訳=日本語の思考法に従った学問的知識の再構成

→日本語によって科学を理解可能なものに再構成しうるのであれば、日本の伝統文化が潜在的にその可能性を秘めていた。

  • 移植される前の西洋科学と、移植後の科学は同じものか?=異質性

科学が伝達することによって、その内容が変質することはないか?科学も変容しうるのではないか?

  1. 日本の科学とその文化的異質性 – バナールの場合
  • バナールによる日本の科学についての観察:「凝りすぎており、衒学的で、想像力にとぼしい」=文化的特質

→普遍性の典型とみなされている科学でさえ、伝統文化から影響をうけて変容せずにはすまない。

  1. ハイゼンベルクの場合

「素朴な唯物論的思考法を通ってこなかった人たちの方が、量子論的なリアリティの概念に適応することがかえって容易であるかもしれない」『現代物理学の思想』

→極東における哲学思想と量子論の哲学的実態との間に関係があるのではないか?

=伝統的な科学の素地を持たない日本の方が、むしろ容易に現代物理学を理解し得た。

  • 科学は異質の文化圏に伝播可能であるのみならず、伝播することでその発展が促進されることもある。特に理論の変革期には、異質の伝統文化の方が早く適応することもありうる。(1)古い理論に固執するか、(2)新理論を受け入れるか

のどちらの論拠を取るかによって、何を科学の普遍性とみなすかも変わってくる。

→変革されたものを理解しうるような思考法がとれるかどうか?

ハイゼンベルクは、西欧科学の背後にある頑固な伝統文化と、変革期に適応性を示した日本の科学を支える伝統文化との、その異質性を思いやった。

 

  1. 科学・技術と西欧文化
  • 科学・技術が伝播可能であるとはどういうことか?

→科学は伝播可能な形をとってはじめて、異質文化圏にも伝えうるようになった。

=西洋の伝統文化(キリスト教ギリシャ的思弁など)に根差す思弁的性格を拭い去り、合理的な実用知としての形式的整備を経た、18C以降の科学。

  • 17,18Cに自然哲学と言われたものと、19Cにサイエンスと呼ばれたものでは、一言で近代科学といっても大きな違いがある。あるいは同時代の科学でも、国によってあり方が違う。

→こうした多様性=ある制約された形態をとりながら、どのように普遍化をめざしてすすんでいるのかを克明に確認する必要がある。それぞれの伝統文化に照応しながら、いかなる普遍化の道をたどっているか?

  • 日本の言葉で表現し、日本の思考法にそって再構成される科学・技術は、いったい何をめざし、どのような理想を掲げて進んできたか?
  • 陰陽の理を捨て、わずか百年たらずの間に西欧の2000年あまりの歴史的蓄積を導入しなければならなかった特異な事情。

 

 

 

和田, 2018

和田正法「工部大学校の終焉と帝国大学への移行をめぐる評価」『科学史研究』第57巻(2018年)、186-199頁。

 

  • 明治4年に設けられられた工部寮は明治10年に工部大学校と名称を変え、同年初めての入学生を受け入れた。工部大学校は明治18年に文部省に移管され、翌年に「帝国大学令」が発布されたことで東京大学工芸学部と併合されて帝国大学工科大学となった。先行研究では、工部大学校の終焉について、実地を重視する独自の教育を終わらせるものであったという否定的な見解が通説となっている。それに対して本稿では、工部大学校を設立・維持したことで引き起こされた教育問題への対処に注目することで、同校が閉鎖されたことに対する新しい解釈を試みている。

 

  • 工部大学校は実地教育を重視したところに特徴があったとよく言われる。しかし、工部省内の修技校を閉鎖して留学のための選抜期間としての役割を持った工部寮を建設したのは、工部省が実地よりもむしろ学理を重視したためであった、と著者はこれまで主張してきた(※1)。
  • 工部省は主にイギリスの御雇外国人教師を雇ったが、その背景には藩閥の政治力学があったと指摘する。というのも、新政府で伊藤博文が自身と英国との強みを生かして、工部省内での長州派閥の勢力拡大を図ったという。明治6年には英国人の雇用を進めるとともに、他藩出身の官僚が他省に異動していた。工部大学校が英国人を中心に雇った傾向は、長州派が牛耳る工部省の英国人を積極的に雇用するという政治的方針を踏襲したものにすぎないと解釈することも可能である。
  • また、カリキュラムの詳細はダイアーに任せていたことは事実であるとしつつも、留学の際する方針は工部省とダイアー側でスタンスが異なり、結局は工部省側の要求を押し通し、卒業生11名を英国留学させた形をとった。このことから、教育方針は実地教育重視の英国人教師に、丸投げしていたわけでは必ずしもなく、工部省側の主体性を見てとることができる。

 

  • ところで、明治6年以降工部大学校を運用していく中で、筆者は(1)初等・中等レベルの教育に混乱をきたしたこと、(2)中級レベルの技術教育が後回しにされたことの2つの問題が露呈したと見ている。

 

  • (1):明治5年の学制においては、あくまで高等教育機関の設置がfirst priorityとなり、初等・中等レベルの教育との連絡がsecondaryとなった。高等教育機関に接続するための教育制度が未熟であったゆえ、各専門学校は自前で予備教育課程を設置しなければならなかった。結局、ダイアーは入学候補者に対する準備教育が行き届いていない現状に苦言を呈し、彼の提案で明治7年に工部寮小学校が設立された。しかし、同校は経費削減のため明治10年には早くも閉校となった。従って受験生は手探りで入学試験に備える必要があった。(第6回土木科入学生の古川阪次郎は、入学準備に7年を費やし、かつ教科ごとに先生・学校を変えていた。) 入学後にも修技校と呼ばれる速成教育機関において外国人教師のもとで学んだものは成績が良く、それ以外の教育機関で学んだものと差があったと言われており、政府はあまり教育的な効果に目を向けず、高等教育機関としての体裁やそこで学術的な水準を維持することを最優先にしていたと言える。

 

  • (2):技師、技手、職工という知識・技能レベルが異なる人材を産業界の需要に応じてバランスよく育成するシステムの欠如という問題である。(電信修技教場を除いて)修技校は学理を重視する工部寮の建設のため、廃止・統合され、文部省の製作学教場も明治10年には廃止された。要するに、明治期日本の技術教育の構造は、高級な技術者の妖精を政府が担い、中級以下の技術者や職工の養成は民間に委ねるというものだった。明治政府が組織化を行なったのは、工部大学校をはじめとする指導的地位に就く技術者(技術幹部、工業士官、技術官僚)を育成する教育機関であり、技手、職工の育成に関しては一貫した政策がなかった。言い換えれば、中等専門教育制度が未熟でありながら、少数のエリートを育成することに固執していた。こうした政策がとられた背景には、高等教育には没落士族を救済する意味があったからではないかと著者は指摘する(あるいは科学史家の中山茂もそれに近いことを述べている)。

 

  • 工部省が工部寮を設置したのは、お雇い外国人の代替となる日本人の育成であり、この目的は開校後10年程度の期間(明治16年前後)でおおよそ達成され、同校を維持させる積極的な理由が消滅した。また技術士官・技術官僚を育成するという目標が完了するのもこの時期であり、帝国大学工科大学へ移行したことで、工部大学校の当初の目的を損なうことにはならないという状況だった。むしろ工科大学への統合は、(不明な点が多いとしつつも、)各省の直轄学校を統合することで財政的な合理化を図る行政面での措置であるという『東京大学百年史』の見解を採用している(※2)。

 

  • 以上まとめると、次のようになる。従来工部大学校はその実地教育が最大の特徴であり、帝国大学へ移管されたことでその特質が失われたことを否定的に評価する研究が多かった。しかし本研究では、実地教育重視の考え方は工部省の方針ではなく、藩閥力学の中で偶然選択された英国人教師の方針にすぎなかったことを強調した。むしろ工部省の狙いはあくまで学理重視の高等教育制度の導入にあり、(ダイアーらの主張に反して)卒業後は生徒を留学させる方針を貫徹した。その一方、明治の教育制度には、初頭・中等教育との接続や、技手・職工といった中級技術者の教育機関を軽視するという側面があった。とはいえ、ポストお雇い外国人教師、技術官僚、技術士官の供給という同校の目的は明治15年以降の数年間でひとまずは達成された。このことにより、工部省は同校を存続させる積極的な目的を失った。従って、工部大学校の帝国大学への移行措置は、財政的な理由に基づく順当な措置だったといえる。

 

 

 

※1:和田「工部大学校創設再考」。

※2:明治14(1881)年まで、日本は西南戦争(1877年)の戦費調達を背景としたインフレに見舞われており、その対応策として緊縮財政=貨幣の量を減らしていった結果、1881年から1885,6年まで松方デフレという深刻な不況が生じていた。この松方財政下では殖産興業の目標が達成できないとの危機感から、1884年あたりから各省庁が計画を一、その省が主導権を握るか争いが起きた。1885年に内閣制度が導入され、工部省が廃止されたことで(工部省の提案は採用しないとすることで)省庁間の対立が解消されたとの見方もある。(山口輝臣『はじめての明治史』(ちくま新書、2018年)、136頁。)

和田,2016

 

科学史学校での講演をまとめた「科学史入門」のシリーズから。著者による既出の複数の論文を俯瞰的な視点からまとめ、一貫したストーリーに落とし込まれている。

 

和田正法「工部大学校と日本の工学形成」『科学史研究』第55巻(2016年)、178-182頁。(ここからDL可)

  • 著者の基本的な立場は、工部大学校(の教育)が日本の工学の形成に影響したと言えるが、工業(自然の原料を加工して生活に必要なものを作る産業、industry)に果たした役割はまだ十分にわかっていないというものである。工部大学校の卒業生の中から工業の発展に寄与した業績を集めれば、上記の命題を示すことができるとは限らない。というのも吉本亀三郎のように、工部大学校の教育に不満を持ち、個人の努力によって活躍したというケースもありうるからである。
  • 加えて、明治10年以降私費制を認めた後でも卒業生が民間に就職することが容易ではなかったことも、上の命題にとっての反例になる。当時はまだ高給を払えるほど産業が成熟していなかった。明治18年入学の門野重九郎は就職口がなかったため留学し、明治29年に帰国するころには誘い口が3つもあるほど産業が発達していたと証言している。つまり、門野の例からは、工部大学校出身者が工業を作り上げたというよりも、発達した工業の中で同校の出身者が活躍したと考えることができる。もし工業の発達と教育との関係を論じるならば、技術者集団を総合的に把握した上で、工部大学校の役割を明らかにしなければならない。例えば、明治18年までに1200人を超える人材を輩出いた電信修技校の成果を丹念に検討することは必須である。日本の工業化の原点を工部大学校に帰するのは過大評価になりかねない。
  • 一方、工部大学校は日本に工学(体系化された技術、学問としての技術)という分野を導入した、と著者は主張する。その理由としては、(1)帝国大学工科大学(工学部)の成立の基盤になったこと、(2)工学会という学術団体を誕生させるきかっけになったことの2つが挙げられる。(1)について補足すると、確かに『東京大学百年史』には工学部の源流として東京大学の方を求めているものの、人数から見ても、あるいは帝国大学が工部大学校の施設をしばらく利用していた点からみても、実質的には同校が帝国大学工科大学の成立の基盤にあった。石橋絢彦は、明治6年に配布された工部大学校の募集要項の中にあった「工学」という言葉がよく分からず、「大工の学問」くらいのイメージを持っていたという。それが13年後には高尚な学問として定着するまでになった。
  • 海外との比較でいうと、技術教育が大学での地位を確立するケースは稀であり、このことから日本の最高学府に設立当初から工学部があるというのは、日本に特徴的な工学の形成過程である。

和田,2014

工部大学校の学科の全卒業生211人のうち最も多かったのは鉱山科(48人)であり、その次が土木科(45人)だった。その意味で土木科は同校の主要な学科であると言え、本科での実地教育の内実を明らかにすることは重要な課題だろう。

 

和田正法「工部大学校土木科の実地教育 -石橋絢彦の回想録から」『科学史研究』第53号(2014年)、49-65頁。(ここからDL可)

 

  • 従来、工部大学校の実地教育については、卒業論文・実習報告書の一覧の作成や、カリキュラムに注目した分析がなされてきたものの、実習の内実まで検討したものがなかった。そこで本稿では同校で鉱山科の次に卒業生が多かった、中心的な学科である土木科で行われた実習教育の実態を解明する。史料は第一回卒業生である石橋絢彦の回顧録を基本ソースとしている。
  • 石橋は明治6年に第一回生として工部大学校に入学し、明治12年に卒業したが第二等及第であり学位は得られなかった。しかし卒業後にイギリス派遣学生11名の中に選ばれ、ロンドンで海上工事や灯台工事に従事した。
  • 工部大学校開校当時は6年中4年(2/3)を実地作業に宛てることが構想されていたが、明治10年に実地は3年次以降に行われることになった。それでも1000日以上が実地に費やされるはずだったが、実際に石橋が経験した期間は240日程度であり(平均は214日)、予定よりも圧倒的に少なかった。従って、実地教育が時間とともに減少したという量的変化は土木科には当てはまらないという。
  • 石橋は、川崎、横浜、千葉、茨城、横須賀、秋田、長崎、そして工部省所轄の機械製作工場であった赤羽工作分局で実地を行なっていた。このうち、川崎、横浜、千葉、横須賀は土木科教師ジョン・ペリーが引率した。ここで興味深いのは、石橋が書き残しているペリーの「変つて居つた」教育方針である。川崎での出張で、あるとき電信の針金がブーブ鳴っていた。そこでペリーは生徒(※工部大学校は優れた卒業生には学位を出したが、同校入学者は慣習的に「学生」ではなく「生徒」と呼ばれていたらしい)にこの理由を問いただし、「自然科学ならなんでも持つて来ひ」と実地問題に答えさせ、その度ごとに自問自答の練習させた。こういった現場で臨機応変に出題するペリーの方法は、石橋らにとってよほど変わった方法だったが、教育的だった。またペリー自身も、生徒らが集めてくる情報は歴史的・工学的に興味深いものだったという感想を残している。

和田,2012b

 どうして工部大学校が日本の工学の形成に影響を与えたと言えるかと問われれば、それが工学会を設立したからである。工学会は、日本における工学分野の学協会の先駆けである。「工学」とは「学問的に体系化された技術」であるとすれば、その工学の形成にとって、技術者らが互いに知識を共有し合う場(学会や学協会)や媒体(学会誌など)を持つこと、かつそこで前近代的な徒弟制における暗黙知の伝達ではなく、言葉で記述する=形式知を公の場で発表し、第三者がそれらを吟味できるような活動(これを研究というかどうかは微妙だが)が行われることが必要であると思われる。こうした意味での「技術の制度化」を主導した全てではないにせよその一部は、工部大学校だったと言える。本稿は、そうした先駆的学協会=工学会の形成を論じた論文である。

 

和田正法「工学会の成立 -工部大学校同窓会から学会へ」『科学史研究』第51巻(2012年)、148-159頁。(ここからDL可)

  • 本論文は、明治12年に工部大学校を卒業した第一期生23名によって設立された工学会(現在、100以上の工学系・理学系の団体が加盟する日本工学会の前身)が、日本の工学の発展に及ぼした影響を調べることを目的にしている。特に、同会が同窓会といった私的な性格から公共的性格を担い、一般の工業・工学関係者に開かれた団体に移行する過程に注目される。

 

  • 明治6年に工部寮に入校した32名のうち、23名が6年後の明治12年に同校を卒業した。工学会の公式記録によると、卒業後もときどき会合を開いて顔を合わせるのがよいという意見が共有され、同年11月に会の規則草案を討議し「仮規則」が作成されたという。幹事、主記、会計、「工学会」の名称もこのとき決まった。

 

  • 仮規則の原本は発見されていないが、筆者は会務報告にある改正記録をもとに内容を辿っている。第一条である設立の趣旨の内容としては、友情が変わらないように、親睦を深めるため、学術交流や知識の交換を促すといったことが盛り込まれていた。こうした趣旨はダイアーが提案していた、欧米の工学系学協会=立場や友情に拠るべきではなく技術者の地位向上を目指し(当時英国ではengineerがlearned professionの一つとして認められていなかった)、技術者の能力だけで評価される学術機関の設置とは大きくことなっている。加えて会務記事ではダイアーの原案への言及は皆無であり、工学会の設立にダイアーの主張が影響を及ぼしたとは考えられないと述べられる。

 

  • 第一回卒業生=工学会会員23名のうち11名が留学し、その他東京外に赴任する者も多く、同会の当初の仕事は会費を受け入れる程度の事務作業だったが、翌年(明治13年)に40名が会員に加わったことで会の勢いは確かなものになっていった。
  • 同年には『工学叢誌』が発刊された。これは大正11年まで全452巻が発刊されることになり、工学会の成り立ちのみならず、日本の近代化・工業化の過程を知る上で貴重な資料である。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/index.html
  • 明治13年6月に開かれた臨時集会において、幹事の杉山が会誌を発行することを呼びかけたことがきっかけである。その背景には、会員相互の連絡がないという危機感があった。しかし当初編集作業は順調に進まず、明治14年に体裁をあらためた会誌が第一号第一巻として発行され始めた。そしてこのとき、会誌を公刊する運びとなった。この方針転換については、外部から公刊の要望が寄せられていたためであるとしている、
  • 会誌が一般発売されるのに合わせて、工学会は同窓会という位置付けを解消し、学術団体として新出発することになった。但し工学会は当初から必ずしも閉じた性格の機関であったわけではない。例えば明治13年にはすでに卒業生ではない金子精一が準員として同会に加入していた。しかし明治14年には100名を超える団体に成長し、その発展に応じて新たな会則が必要とされるようになった。そして明治15年に全役員を改選した新体制が発足し、同年2月に卒業生以外のメンバーが正員として承認された。この年を境にし、同窓会という私的性格から学術団体として公共的役割を担うようになったと著者は主張している。
  • ここで重要な役割を果たしたのは、明治15年から35年にわたって同会会長を務めた山尾庸三であった。彼は会の運営にはほとんど関与していなかったが、出身者は彼を崇拝しており、彼を会長に置くことで会の権威が高められ、正当性を保証する上で大きな役割を果たしていたと分析される。山尾は明治13年に政府において工業・工学を司る工部卿に就任している。
  • 以上、本稿では工学会形成の初期段階が検討された。なお、大正11年以降は個人会員制から12 の工学系学協会を会員とし、学協会間の調整的存在として新たな役割を担っていくと述べられ、この過程の解明は今後の課題とされている。

和田,2012a

最近は和田氏の工部大学校関連の論文をフォローしている。これは『化学史研究』に投稿された、工部大学校化学科にフォーカスした論文。非常に実証レベルが高く、推論過程も精緻。以下は要約とコメント。

 

和田正法「工部大学校における化学科の位置付け- 実地教育の分析から」『化学史研究』第39号(2012年)、55-78頁。

 

  • 先行研究では、工部大学校の教育に関して日本における近代技術教育の先鞭をつけるものとして顕彰的に扱われ、「成功」したと評価されてきた。その一方、工部大学校の教育の意義について、批判的立場からの研究はほとんどなく、検討の余地が残されている。本論文は工部大学校化学科のとくに実地教育に着目し、困難や矛盾に目を向けながら、同校における位置付けを行っている。加えて教員ダイバースの教育方針を検討したのち、化学科卒業生をプロソポグラフィの方法を用いて出自・就職状況が分析される。

 

  • 明治3年山尾庸三によって理論の教育に力を入れた工学寮構想が示され、翌年には工部省から太政官に「工部学校建設ノ建議」が提出された。そこでは日本が外国人の力を借りずに事業を行う人材教育の必要性が説かれていた。工部寮(工部大学校)はイギリスの技術・文化を導入する方針を採り、明治6年には英国から9人の教師が招聘された。同年最初の32人が入学し、明治12年に初めての卒業式が行われる。同校が文部省に移管される明治18年までに総勢493人が入学し、211人が卒業した。6年間の課程は予科、専門科、実地科と2年ずつ充てられ、最初の四年間は半年ごとに修学と実地を交互に行い、最後の2年は全て実地に従事することが定められており、実地に重点を置くことが最大の特徴だった。

 

  • 工部大学校では多くの専門分野が配置されたが、それらが同等に位置付けられていたわけではない、と著者は指摘する。ダイアーは工部省の部局で「エンジニア」という言葉が通常よりも広い意味で(=土木・機械だけでなく製造業まで含めて)使われていると述べ、そうした日本の状況に対応せざるを得ない側面があった。例えば彼が重視した図学を一様に導入する際に、「化学や電信といった、製図がそれほど重視されない分野においても、すべての生徒は、器具の図を書き…」と「歯切れの悪い」弁明をしながら一様に導入した。要するに、化学科はダイアーにとっては教育的注意が届きにくい付加的な学科として設置されたと筆者は主張する。

 

  • 工部大学校化学科での教育を担当したのはダイバースであった。彼は実地に応用できる知識を獲得することではなく、体系的な知識を身につけ「独創的な研究」を行うことを重視する教育方針を掲げていた。従って、工部大学校が重視する実地偏重に従順である生徒の姿勢を彼は快く思わなかった。さらに著者は当事者の複数の回想録の記述を拾い集め、ダイバースの研究志向は工学的というより理学的であったことを示している。

 

  • そのような化学科にはどのような生徒が在籍していたのか。著者は、まず化学科卒業生25名のうち大多数は生没年すら判明していないことを強調し、高峰譲吉などの後世に名を残し広く知られる者は例外であったと論じている。それでも本稿で判明した情報からは、帝国大学へ移管される直前に明治17,18年においては7割を超える人員が士族出身であったことが明らかにされる。士族主流の傾向は、化学科だけをとっても同じである。
  • 次に、工部大学校入学前の学歴を見てみると、第4回以降の卒業生には工学寮小学校に在籍した記録が残っている者がいた。同小学校には328人が在籍し72名(28%)が工部寮・工部大学校に入学した。この数字は決して高くないが、そのほかには(吉川阪次郎のように)7年間の受験準備期間の間に科目ごとに学校を変えるなど、手探りで入試に備えていた者もいた。
  • 卒業後の進路を見てみると、88% の化学科卒業生が公官吏になっていることがわかる。官費生の場合卒業後7年間の奉職規定があるが、私費生にとっても公官庁が有力な就職先だった。明治15年には政府への人材供給の過剰を受け、官費生の7年間の奉職規定を外したが、卒業生がすぐに民間に移れたわけではなく、就職難への対策として「非職技手」の規定が策定された。卒業生が民間へ就職することが難しかったのは、民間の産業が未発達であったことに由来し、その傾向は明治20s後半まで続いた(そのことは、門野重九郎の回想に顕著に記されている)。しかしこうした卒業生の困難は工部大学校設立前から予測されていた。山尾は産業の未発達を指摘する反対論に対して「人作レバ其人工業ヲ見出ヘシ」と断行していたのであり、むしろ工部大学校の設立は民間をはじめとする国内産業全体を育成するための端緒とみることができると筆者は主張している。
  • なお、東京大学と工部大学校の間で学士の称号について統一した基準が設けられていなかったため、後者の厳格な卒業基準が災いして、就職時に不利な立場に置かれる(工学士の称号が与えられないケースが多かったから)という現象も生じた。
  • 化学科には第1等卒業生が少なかったが、その理由は予科課程の成績が比較的よくない者が同学科に集まったからではなく(予科課程の順位と進級先の学科との間に相関はないことを実証している)、化学科が特に他の科に比べて厳しい基準が課されていたからである。そしてそのことは、生徒を卒業後不利な立場に置かせることにつながった。

 

  • 後半では、化学科の実地教育について分析される。筆者は『工部省年報』や「工部大学校報告」に依拠し、学科別の出張先件数と一人当たりに課せられた日数を表にまとめている(但し、記録に残っていない赤羽工作分局での実習も含めれば、表に示された日数以上になると推測されることを付け加えている)。化学科の派遣先については、東京都では板橋火薬製造所、王子製紙場、品川工作分局、近畿では大阪鉄道、大阪造幣局などが挙げられる。明治18年頃になると、規模は小さいものの、群馬や栃木など北関東への派遣も行われるようになった。化学科において複数年にわたって継続的に派遣が行われたのは東京を中心として、限られた工場だけだった。

 

  • 化学科の生徒が派遣された工部省管轄の工場は、品川工作分局のみである。同局は明治9年にガラス製造会社の興業社を買収して創設されたが明治18年に民間払い下げとなっている。そこでの実習では、紅色ガラスの原料である赤鉛や炭酸カリを化学実験所で製造してする作業を「実地」と称して生徒に充てていた。しかし製造業への関心が低かったダイバースは、生徒をこうした工場へ派遣させることには消極的だった。
  • 従来、工部大学校では工部省所轄の工場で実地が行われていたことが強調されてきたが、実際には学科によって研修場所や期間は多様であり、内容にもかなりの幅があった。言い換えれば、「実地」、「出張」と表現しても、その活動内容は「見学」から「研鑽」、「遂行」まで幅広い意味で用いられていた。

 

  • さらに実地の内容は、6年次の1-3月にかけて執筆されることになっていた卒業論文(以下、卒論と略記)の内容からも推察される。そこでは実地において行った作業に基づいて論文・意匠・仕様書をまとめることになっていたからである。残念ながら化学科の卒論は現存しないが、残された表題一覧からは一つの化学物質をテーマにした論文が多いことが読み取れ、かつそれは当時の産業と密接な関係を持っていたことがわかる。例えば、第一回卒業生の深堀芳樹が卒論の内容に基づき『工学叢誌』に投稿した論文「内国製石鹸試験」では、同時代に国内で製造された石鹸と外国製との比較を行って、より良い製品(水溶性、洗浄力が高いもの)を作る方法を考察していた。ここでは調査研究的なものを超え、卒論の執筆に際して実験が行われていたことも窺い知れる。これは実験室での作業を重視したダイバースの指導によるものであると指摘される。

 

  • 以上、本稿の分析からは、(1)化学科は工部省事業との関連が低いこと、(2)地方を含めた公官庁に就職する者が多かったこと、(3)化学科における学位取得率が低く、このことはダイバースによって難易度の高い教育が行われたことに由来し、卒業生の立場を低くする現象につながったことが明らかになった。特に(2)は民間産業が未熟だったことに起因しており、国内産業の状況に応じて技術教育が発展したのではなく、人材を育成してから彼らに産業の発展を任せようという山尾の意図が背景にあった。

 

 

感想

本論文には120を超える註があり、多種多様な資料を駆使して化学科の位置付け、卒業生の進路、実地内容を細かく描き出している。それだけではなく、推論プロセスも厳密であり、見習うべき点が多い優れた論文であると感じた。工部省というと鉄道・電信や土木といったインフラ事業を想起しやすい。対して化学科に焦点を充てた本稿によって、工部大学校の従来の記述が偏っていたことが明らかにされたように思われる。 (例えば、実地は必ずしも工部省所属の工場で行われていたわけではないことなど。)

 ただし、ダイアーの「エンジニア」概念と、日本でより広い文脈で使われる「エンジニア」概念との違いについては、もう少し説明がほしいところだった。引用されているのは彼による図学の導入に関する弁明であるが、やや主張と資料との間に飛躍がある、というか結論が先にある感がある。

和田, 2010

和田正法「工部大学校創設再考 – 工部省による工部寮構想とその実施」『科学史研究』256号(2010年)、86-96頁。(ここからDL可)

 

 以前或る学会で、海外の研究者から日本の電気工学教育の歴史について(いつ始まり、どんな特徴があるのかなど)質問を受け、面食らってしまった。その反省もあり、とりあえず工部大学校からおさらいしたいと思っていたら、2ヶ月も経ってしまった。以下概要と感想。

 

 

  • 工部寮は行政組織として明治4(1871)年工部省に設置され、明治6(1873)年7月に工部寮が学校の名称として用いられ始める。同年10月に工部大学校と名称を変え、明治19(1886)年に「帝国大学令」の発布とともに帝国大学工科大学に引き継がれた。従って、工部大学校の研究=帝国大学工科大学の成立の前史の研究であり、高等工業教育史上重要なテーマとなる。
  • 工部大学校に関する従来の研究では、お雇い外国人教師のヘンリ・ダイヤーに「一切の権限」が与えられ、「白紙の状態」から理想の教育機関を実現したなどといったストーリが語られてきた。それに対し本稿は、ダイヤーの教育計画のみならず、出自の異なる日本側の工部大学校構想のせめぎ合いを視野に入れ、その構想の大枠はダイアー以前の工部省案ですでに決定されていたと主張する。

 

  • 最初に検討されるのは、明治政府における初代Engineer-in-chiefエドモンド・モレルが1870年5月に提出した「建築局」創設建議の中にある技術教育案である。ここでは1/5を学理に残りの大部分を実地研修に教師リソースを割くという内容が示されており、工部省修技校の形式に近いもので、工部大学校の直接のモデルになった可能性は低いという。
  • 同年9月には大島高任が「坑学寮新設に関する意見書」を上申し、鉱山開発に必要とされる学理・技術を教授することを提案している。ここでは外国人教師7人を雇い、全体は数十名規模で、一般的な課程期間は5-6年を基準にしていた。また藩閥に限らず全国から人材を集めることを想定しており、講義内容を出版し学外に啓蒙する案も示されている。さらに、実地教育を「西洋の学術」をいち早く現場に導入する手段とみなしていたことも窺い知れるという。なお、伊藤博文は大島の上司であり、大島の構想について伊藤の念頭にあった可能性があると指摘される。
  • 1871年に工部省(おそらく山尾庸三が作成したと推測される)は「工部学校建設ノ建議」を出しており、それは、工部寮建設は日本人の手で諸事業を運営したいという自立の精神に基づいていた。この建議に依拠し、「工部学校建設概要」、「定即ノ概略」が布告された。伊藤博文はこの後者の策定に山尾とともに関わっていた可能性が高いとしている。伊藤は明治5年2月にワシントンから一時帰国するが、再出発してロンドンのマセトン商会に教師の人選を依頼する時点で、「工部学校建設概要」と「定即ノ概略」にいたるまでの工部寮構想案を完全に把握できる状況にあった。従って、これらの全てを伊藤はマセトンに提示したのではないかと著者は述べている。
  • 工部省案と大島案を比較すると、(1)教師は全て西洋人にすること、(2)洋学を積極的に導入しようとしたこと、(3)学理とともに実地の研修を行うとした点が共通している。一方、大島案では通訳を使うことを想定していたのに対し、工部省案では外国人教師から直接授業を受けるために語学の習得を必須としていた点に違いが見られる。

 

  • 1872年岩倉具視使節団がロンドンに到着してから、伊藤はマセトン商会に教師の人選を依頼し、翌年1月にはダイヤーを雇うことが決まりつつあった。ダイアーの『大日本』によれば、日本に向かう船中で「カレンダー」(教育課程)の作成を行い、山尾に提出すると「修正されることなく受け入れられた」と書かれている。ダイヤーが来日以前に工部省の工部寮構想を知り得た可能性としては、林とマセトン、ダイヤーとの接点が挙げられるという。林は交渉に当たった人物だが、林の証言からは、依頼はすでに伊藤が済ませており、林は教師の同伴者としての任務に当たっていた(彼は語学が非常によくできたからである)。そしてダイヤーの回想には、同行した林から日本の歴史について最初のレッスンを1873年に受けたとあり、この際工部省による工学寮構想を伝えられていた可能性があると推察している(※この点は裏付ける資料がないので、若干微妙な気がする、というか確言はできないだろう)。
  • ダイアーのカレンダと工部省案とを比較すると、(1)入試を行うこと、(2)教育期間を4年間→6年間にすること、(3)その2年間を用いて実地教育を増加させたこと、という3点で彼の独自性が認められるとも著者は指摘している。その一方で学理と実地の接合という案は、工部省案や大島案にもすでに表れており、ダイヤーのみに帰せられるわけではない。あくまで課程期間内での実地教育を重視した点に彼のオリジナリティがあるという。
  • そして、カレンダーで設定された土木、機械、電信、建築、化学、鉱山、冶金の7科は、工部寮の観工、鉱山、鉄道、土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作の部局に対応したものと見ることもでき、実際彼の教育課程の計画では、日本の状況に対応せざるを得なかったことが窺い知れる証言もある(※このあたりの推理もやや無理がある気がする)。加えて、ダイアーが山尾に提出したカレンダーと「工学寮入学式並学課略則」を比較すると、いくつかの点で相違があり(衣食住の経費を官費でまかなうこと、50名中30名を官費入寮生、20名を私費通学生とすることなどはカレンダーに書かれていない)、「どのような修正をされることなく政府に受け入れられた」というダイアーの記述は事実に反し、山尾が追加修正を行っていたことを明らかにしている。また修業後5年の奉職義務も工部省原案にあったものをダイアー案が採用したと考えるのが妥当であるとする。
  • 工部寮建設の目的も、工部省が学理を重視したそれを意図したのに対して、ダイアーは現場を重視した厳格なエンジニア教育を目指した点で異なっていた。それは留学に対する態度にも反映されていた。前者は学理の習得に重点を置きつつ当初より留学重視の姿勢が一貫していたのに対し、後者はあくまで国内の教育で完結すべきであるという考えが強かったという(「我大学校ノ教育ハ英蘇両国尋常ノ大学ニ比スレハ遥カニ其右ニ出ルト云ヘリ」Dyer『工学叢誌』1881年)。要するに、ダイヤーは教育の実質を重視した一方、工部省は留学という形式に拘っていたという相違があった。

 

  • 以上まとめると、工部大学校の教育の大枠はダイアー来日以前にはすでに決まっており、彼のカレンダーも独断で作成したものではなく、工部省案を受け入れつつ作成した。工部省が留学制度を重視し、第一回卒業生のうち優秀な11名を1880年にイギリスに留学させたことに加え、第二回以降の卒業生が工部大学校の教師に着任した後も留学させていたという事実が、あくまで国内の6年間課程で教育が完結するものとみなすダイアー案に反して、工部省が主体的に参与していたことを示している。すなわち、恋部大学校の設計・運営の基本的性格は、ダイヤーというよりはむしろ工部省が規定していたということになる。

 

感想

工部大学校はダイヤーの構想がほとんど修正されることなく実現されたものであるという従来の説に対して、日本側の工部寮(工部大学校)構想案を検討し、ダイヤーがそれらを参考にして日本の条件に合わせつつ構想を練ったこと、教育内容においても留学重視の工部省案が(ダイアー案に反して)採用されていたことを明らかにし、工部大学校創設における日本側の主体性を主張している。先行研究の対比が鮮やかで、非常に興味深い論文である。一方、事実を裏付ける資料が必ずしも十分であるとは言えない箇所もあり、やや長めの補助線が引かれていると思われる部分もあったように思う。のちに発表されている論文も読む必要がある。