yokoken001’s diary

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L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (3)

Chapter 3 The Establishment and Early Growth of General Electric (pp.42-61)

 

第三章のテーマは19C末における米国の電気産業の様子と、GEが誕生する経緯、初期のGEの企業体質についての分析である。

1892年にEGEとT-Hが合併してできたGEの当初の企業体質を一言でいうと、「保守的」ということである。それはGEが古い鉄道会社のように、意思決定を複数の委員会を通す非柔軟的な構造になっていたことだけでなく、GEとWHが特許プールの仕組みを作り米国の電気市場を安定化させていたがゆえに主要な技術革新は起こりにくい仕組みになっていたことに由来している。従って、外国で技術革新が生じて初めて、GEのエンジニアたに何らかの対応が迫られるというあり様だった。当時GEには科学・技術の基礎「研究」を行う研究所はなかったので、主要な技術革新に対しては世界中の特許権を購入するか、外部から専門家を招聘するというやりかたによって対処せざるを得なかった。こうした保守的な体制に変化が生じるのが20Cに入る頃であり、その主要人物がスタインメッツだった。

 

Chapter 3 The Establishment and Early Growth of General Electric (pp.42-61)

  • GEはなぜ研究所を設立したのか、それによって企業の能力や戦略にどのような違いが生じたのか、を理解するために、本章ではGEの経営基盤と、アメリカ電気産業それ自体を把握することを試みる。以下、トマス・エジソンによって着手されたGE、およびGEの競合会社の初期の歴史について述べる。

3-1 Thomas Edison – Combining science, technology, and business

  • 1870-90sに、何人かの個人や企業がアメリカの電気産業を形成した。その中でもエジソンの功績がとりわけ大きい。
  • エジソンは数多くの方法によってアメリカ産業に影響を及ぼした。Menlo ParkやWest Orangeの研究所において彼がチームを活用したことで、ビジネスマンを科学一般の潜在価値をもつ存在、とくに科学者・技術者による共同作業によって利益を生み出す可能性をもたらすものへと変化させた。エジソンの投資が成功したことで、技術開発や制御に使われるお金が存在するということが実証された。
  • オハイオ州ミランに1847年生まれたエジソンは、10代を電信員として過ごした。1868年にボストンに移住し、グラハム・ベルを育成したコミュニティで仕事をする。エジソンの才能は、電気機械システムを概念化することにあった。彼は電信の知識を組み合わせて、メッセージの送信・記録方法を設計した。資金獲得のためニューヨークへ移り、そこでウェスタンユニオン社の後援を得た。そして多重通信電信[1]の開発などを行なった。
  • その後ニュージャーシー州で仲間を集め、メンロパークに研究所を設立した。これは米国初の産業研究所といわれるが、本書で使われる意味(=試験機関ではなく中長期的な基礎研究機関という意味)ではそうではなかった。エジソンは同所で、発明を統率することを期待した。そして実際に多数の特許を出願し、その中には炭素粉末のマイクロフォンや、最も独創的な発明である蓄音機などが含まれていた(1876-79年)。
  • 1878年エジソンは電球の可能性に関心を寄せ、初めて研究チームをフルに活用した。技術的/経済的な観点からうまくいくためには、電球だけではなく、「システム」を開発・促進・販売しなければならなかった。そこには、電気の生成、分配、消費、測定の問題が含まれていた。
  • 彼はショップ[2]とオフィスを付加する形で、メンロパークの設備を拡充した。1879年末、メンロパーク研究所はおそらく世界一充実した電気研究所だった。彼はそこで電球の開発と直流システムの研究をチームで推進した。
  • 室内電灯の需要は高く、エジソンによる低コスト化、明るさの向上は多くの投資家の注目を集めた。
  • 技術史家のトマス・ヒューズが指摘しているように、エジソンは「時代の先端にも後方にもいなかった(he was neither ahead of nor behind his times)」がゆえに、彼は解決すべき問題を達成することができた。つまり、彼の努力は、科学と最先端の技術、そして経営状況との調和を図ることに注がれていた。そして、アメリカにおけるエジソンについての神話は彼を科学には無関心な試行錯誤の発明家として描いているが、実際には彼の仕事の原理を理解するために、科学文献を大いに活用し、科学に精通した人間の配置にも注目していた。さらに、彼はパブリックリレーションと、投資家からの支持の獲得の重要性をも理解していた。いくつかの点で、エジソンの研究・開発・技術革新へのアプローチは、後続の産業研究所の初期の方針を先取りしていた。

 

3-2 Early development of the electrical industry

  • Pearl Street局、その他の中央電力局のための設備の建設のために、エジソンはいくつもの製造会社を設立した。
  • 1883年に彼の注意は、電球と電力の普及(dissemination)に向けられた。自分は経営者であると宣言し、発明に関する仕事を休んだ。そして続く4年間、その宣言通りになった。彼はニューヨークを出て、中央電力送信局や、その他の離れたプラントの設置を支持した。1886年半ばには、エジソン会社は56の中央局と、150,000個の電球を売り、その1年半後には、121局、325,000個にまで増加した。
  • しかし、その電力の分野ではエジソンが一匹狼だったわけではなく、まもなくトムソン・ヒューストン電気会社(T-H)や、交流電力を推進するウエスチング・ハウスが参入してきた。
  • 1888年ウェスチングハウスがテスラのACモーターの権利を手に入れた際、彼のシステムはエジソンの利益に深刻な脅威をもたらした。ACはDCよりも少ない電力損失でもって長距離伝達できる利点を持っていた。1888年に銅線の大幅な値上げ、Chicago World’s FairによるACの採用、ナイアガラの滝における巨大発電計画(1893年)などは、DCの「終わりの始まり」を告げていた。だが、エジソンはDCにコミットし続けた。
  • エジソンシステムの推進者だったHenry Villardは、1889年にエジソンの電球と電力の利益を単一の企業体に再統合した。彼は異なった組織をEdison Electric Company(EGE)としてまとめ上げた。これによりエジソンはビジネスの経営から身を引き、発明に再び従事することになった。
  • その間、T-HはACシステムの能力を開発し、電力界において強力な存在感を示していた。EGEが設立された1889年時点で、T-Hは51,000個の電球で419のシステムを築いていた。
  • T-Hが強力な特許上の位置を占めていたので、実際EGEは特許権に抵触するおそれなしで最新の設備を製造することはできなかった。もちろん、T-HもEGEに対して同様の懸念を抱いていた。EGEがACシステムの導入を熟考した際、T-Hないしウエスチングハウスと何らかの協定を結ぶ必要を感じた。ウェスチングハウスはEGEの利害と対立していたが、EGE の社長であったVillardはCharles Coffinに接触した。
  • 電力の牽引(traction)を除いて、両者の能力と利害は相補的だった。つまり、DCはEGE/ACはT-H、電球はEGE/アーク灯はT-H、広範な製造能力はEGE/販売・管理はT-Hといった具合である。
  • 1891年に両社(GEとT-H)は交渉に身を乗り出した。統合には財政家であったMorganが中心的な役割を果たし、1892年にGE(General Electric)が誕生した。その結果、Edisonの名前が社名から外され、彼はビジネス全体から引退した。

 

3-3 General Electric during the 1890s

  • GEの誕生の実態は、T-HがEGEに吸収されたといっても過言ではない。Charles CoffinがGEの最初の社長になったものの、彼はT-Hの社長だったときと同じ自律性をGEでも維持できたわけではなかった。Coffinを牽制するために執行委員会(executive committee)が設置され、また重要な意思決定を通過する複数の監督委員会(oversight committee)も置かれた。
  • GEの経営構造は、まるで大きな鉄道会社のように、上からの命令が下されるものだった。社長、副社長からなる本社部門があり、そこが特許部門、法律部門、パブリックリレーションズ部門を包含していた。
  • 鉄道会社と同様、外部の投資家の利益が執行委員会をコントロールしていたが、企業方針を決定する上では、執行委員会が重要な役割を果たしていた。このようなコミュニケーションと伝達の厳格な構造が、意思決定を遅く困難にさせることにより、社内事業に制限をかけていたということを理解することは重要である。内部の既得権益(internal vested interest)が製品やプロセスの変革に対して拒否権を持っていたので、GEは元来保守的だった。鉄道会社のような経営方式は、電力のような急成長する産業での競争力を維持するのに必要な革新や多様性を促すことはできなかった。
  • GEは「電気のトラスト(Electric Trust)」といわれるほど産業を独占していたが、1893年恐慌をきっかけに不況に陥った。
  • 恐慌は同社の保守的な体質を一層強化した。Coffinは資産を会計上の最低額で評価し、手元に多くの資金を維持するようにしていたので、EGEとT-Hの合併前よりも技術革新を起こしにくい体制になった。また当時の特許権の関係上、GEは白熱電球自体の大きな前進を図るよりも製造やコストの改善に取り組むのが合理的な判断だった。
  • 経済不況の中、1890年代半ば、GEとウェスチングハウス白熱電球に関するいくつかの領域で特許係争を起こした。1896年までに300以上の訴訟が引き起こされた。両者の間で何らかの調整が取られる必要があった。1896年にGE:WH=5:8(patent value)とする調整が行われた。これにより中小企業に対する両社の地位は強固なものにし、電気市場を安定化させた。この特許プールの仕組みは、両社が電気技術における主要な前進を引き起こす刺激を取り除いた。1890年代においては、ある種の自己満足の感覚がアメリカの電気製造社の中に存在していた。外国における技術的前進があって初めて、素材や方法についての根本的な疑問に通じる研究が必要とされると認識された
  • 1890s、GEとWHは都市鉄道をめぐっても争いを展開していた。両社は通信とモーターの開発に乗り入れた。WHは1890年にモーター事業に参入し、一段減速装置モーター3を開発した。1893年にはGEもそれに対抗し、No.3に相当するモーターを開発した。それはより重く防水仕様だった。
  • さらにGEは電気モーター事業にも参入し、1896年にはブルックリンブリッジに蒸気機関に代わる電車を導入した。
  • 1890年代にGEの経営と利益が回復してくると、いくつもの競合会社を買収した。特に重要だったのは、ジーメンス・ハルスケ社を買収したことだった。これにより、事実上競合会社が消滅し、1903年にStanley電力会社の変圧器の特許権を取得した。1890sにおいてGEはアメリカ電気産業における支配的な地位を固めた。
  • 同時に、GEはスチームエンジンにも関与した。原理的にタービンは巨大なレシプロエンジン(ピストンエンジン)よりも効率が良い。稼動部品が少ないのでメンテナンスの手間も省け、power/wightも大きかった。1895年時点ではGEは英国のParsonsの蒸気タービンの特許権を購入するのを拒否したが、翌年に米国のCharles CurtisがGEに接近し、同社のW. Riceが同意したことを契機に、GEのCoffinらは蒸気ターブンの開発を始めた。しかしCoffinはCurtisではなく、William Emmetというエンジニアに責任を付与した。1901年には500kWのタービンを開発し、1903年には1500kWのそれを実用化した。
  • 同計画は1890sにおけるGEの研究、開発、技術革新について多くのことを示している。既存の製造ラインから大きく逸脱するような変動ということについて言えば、GEはしばしば、方向づけや刺激を与える外部の発展を待っていた。GEは蒸気タービンの潜在能力を理解していたが、アウトサイダー(=Charles Curtis)が有望な見込みを示してくれるまで、計画の開発に着手しようとしなかった。さらに、その計画は当初タービンの知識を持たない科学者・技術者によって遂行された。そのことは、William Emmetが、(タービンについて)正確な知識を得る方法は実験によってのみである、と述べたことに表現されている。
  • GEのエンジニアはグループに分けられ、それぞれのグループは異なった製造オペレーションの責任を負っていた。彼らは会社の製品の設計の改良や、製造過程の変革の実施に従事した。GEのもっとも洗練され巨大な製造能力を持っていたスケネクタディでは、マテリアルの試験がメインで行われ、(絶縁体や磁石などの)改良された構成部品の開発はときどき行う程度だった。
  • 1896年にはスケネクタディに標準化を行う実験所(Standardizing Laboratory)を設立し、Ωなどの電気測定値の較正を行い、全社にわたってそれらの値に確信を持たせるようにした。(当初は1人のスタッフだったのが1900年には16人が雇われることからは、同所の重要性が大きくなったことがわかる。)
  • 1890sにおけるGEの最も重要な研究組織は、計算部(Calculating Department)だった。1893年にGEはNew York electrical manufactureを買収すると、同社のスタインメッツを計算部の部長にさせ、ACシステムの設計に当たらせた。スタインメッツは工学に電気物理を持ち込むという役割を果たした。そして計算部のエンジニアは、彼のコンセプト・方法を活用した。商業的な利害の関係上、成果を自由に発表することはできなかったが、1901年36歳にしてアメリカ電気学会(AIEE)の会長に就任した。
  • GEにとって商業上重要であるが、計算部の範疇を超えているような技術的展開にとっては、会社外部の発明家やコンサルタントがしばしば招聘された。GEはウェスチングハウスがテスラやスタンリーに対して行なった方法と同じやり方を継承した。1890年代半ばには、ロータリーコンバーターの特許と専門知識の導入のために、GEはCharles Bradleyを承継した。さらにACモーターの開発のためには、DanielsenやBellといったエンジニアを招聘した。
  • GEの研究開発計画に対するアプローチが示しているように、同社は継続的な研究には関心がなく、むしろ、(CoffinやRiceらは)主要な技術的発展は大企業の環境では十分に仕事ができない個人によってもたらされると信じていた。それゆえ、GEは一時的に外部の科学者、発明家を招聘するか、もしくは世界中の最新の技術特許権を購入するという方法によって対応していた。
  • 19C末の時点で、成功を持続させるための技術基盤はGE内で保証されていなかった。しかし、20Cに入ることに多くの特許権は失効する運命にあった。技術はより洗練され、かつ科学者によって電気現象についての知識が蓄積されたことで、技術的前進はもはや単純にはもたらされなくなっていた。特許プールによってGEの市場の位置は一時的に安定していたものの、欧州では様々な技術的前進がもたらされ、アメリカ市場を襲い始めていた。ジレンマはGEの研究開発のアプローチにあった。電気技術の基本的形態がそのままであるという条件においてのみ、GEは技術の先端にいることが期待できたが、科学の発展や科学と産業の関係の変化(特にドイツにおけるそれ)は、その可能性をますます低いものにした。20Cまでに、新鮮な研究のアプローチ=科学研究の強い要素を持った研究アプローチが明らかに必要とされており、それを主導することになるのがスタインメッツだった。

 

[1] 複数の発信機からの信号を同時に送信したり、一つの信号線で送信と受信を同時に交わす技術。

[2] 機械職人が様々な機械を改良考案するための工作室を備えた小さな町工場。

 

 

 

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