yokoken001’s diary

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L.D. Reich, The Making of American Industrial Research (5)

 Chapter 5 General Electric: The Research Process

 本書では、「研究所」を、(1)科学・技術の深い理解を持つ訓練された人間によって研究が行われ、(2)生産部門から分離され、(3) 短期的な企業の営利目的ではなく長期的な会社のニーズに対して責任を持つように管理される場所であると特徴づけられた。第5章では、GEの企業内研究所がそうした意味での「研究所」に変革することができたのはなぜかという問いについて、初代所長を務めたホイットニーの哲学や、その下で目覚ましい研究成果を出したクーリッジ、ラングミュアという2人の研究スタイルなどを俯瞰しながら議論される。

ホイットニー自身は当初研究を行う中で、学術的な理論が産業研究においてそのまま通用することは稀であり、理論よりも試行錯誤の実験やセレンディピティを重視する思想を持つようになった。そしてお役所仕事を減らし、研究者になるべく多くの自由を与えるよう研究所を組織化しない(disorganized)方法を模索した。ホイットニーのポリシーは、研究者の自律性を認めつつ、全体としては特許に結びつくような、会社の利益につながるような研究の方向性へと導くことだった。

まず、研究者に自由を与えることについては、ホイットニーは彼らが学術雑誌に論文を投稿し、学会に参加することを勧めた。しかし、彼らはまず特許を取得してからしか論文を発表できず、また企業秘密に関わるようなことは書くことができないという制約が課された。(クーリッジが母親に寄せた手紙には、その心境がリアルに記されている。)

そして、会社の利益につながるような研究の方向性へと導くことについては、ホイットニー自身は、製造・工学部門と緊密な連携を取るようにしていた。その理由は、研究所の支出は会社の売り上げよって回収されるからである。

 ホイットニーのこうした哲学は、彼の下で非常に性格の異なる2人の科学者(クーリッジとラングミュア)が優れた成果を挙げたことに結実している。クーリッジは最初に目標を立て、それを達成するまで困難に立ち向かうというアプローチでタングステンのフィラメント化の問題に向かったのに対し、ラングミュアはまず物理的過程を完全に理解すべく根本原理の研究から入り、その後応用へ向かう研究を行うという具合に、それぞれ異なるスタイルで研究を行った。このことは、ホイットニーが、問題それ自体と、研究者の個々人の能力応じた、異質の研究アプローチを鼓舞していたことを示している。

 

(以下、大雑把な要約)

 

Chapter 5 General Electric: The Research Process (pp.97-128)

  • 1910s末までに、GEの研究所は大学の研究所や先行するその他の産業研究所と異なる特徴を帯びていった。1880sに設立されたドイツの化学産業の企業研究所は、厳密に組織され、秘密主義が貫かれ、ビジネスに応用できない科学研究は大学に残すといった性質の場所だった。また、アメリカのその他の産業研究所は、物質の分析やエンジニアリング志向が強く、技術革新を生み出す基礎的な科学研究という要素がなかった。しかし、GEが白熱電球で成功すると、ようやく研究の方法や視野が多様化し、従来の企業的工学・分析から「研究」する場所へと性格を変えた。この場合、「研究」は、生産部門から分離され、科学・技術の深い理解を持つ訓練された人間によって行われ、短期的な企業の営利目的ではなく、長期的なニーズに対して責任を持つように管理される活動を意味する。本章では、GEのこうした変革とそれを可能にした方針を論じる。

 

5-1 Willis Whitney and the administration of research

  • ホイットニーは最初研究所の主任研究員(chief researcher)として仕事を始めたが、その後スタッフの数や研究が多くなったので、彼は研究よりも多くの時間を行政(アドミニストレーション)に割くことになった。
  • ホイットニーは研究すべき問題の選択、実際の仕事の方向性を支配していたので、彼の方針が強く研究所の運営に影響した。彼の哲学は、17Cにおけるフランシス・ベーコンの実験アプローチにまで遡る。すなわち、実験と経験に基づいてデータを蓄積することであらゆる問題を解決することができるという考えである。しかしホイットニーはGEにその哲学を持ち込んだのではなく、むしろ彼の経験がそのような哲学に導いた。初期において、彼はアークライトに関連する重要な問題を解決することに失敗した。その理由は、電気化学の理論的構築が産業研究においては効果がなかったからだった。彼は学術的なアプローチを産業研究に応用することはできないことを理解し、理論よりも実験を重視するようになったのである。大事なのは、多くの実験を行い、チャンスがくることを待つことである。1920sまで、セレンディピティがGE研究所の思想の一部になっていた。
  • 1908年にホイットニーは行政主任エンジニア(Research Laboratory Executive Engineer)というポジションを作り、彼自身から行政上の仕事を減らし、工学・製造部門との連携を組織化しようとした。最初にそのポジションに就いたのはSamuel Fergusonであり、スタインメッツの研究グループ出身だった。彼は文通や予算の管理、その能力の維持に責任を持った。そして監督委員会(advisory council meeting)での準備のための報告書の要約を書くために、研究者から論文を収集した。1912年にその仕事はLawrence Hawkinsに移り、1945まで務めた。
  • しかし、ホイットニーは、次第に行政の仕事が逆効果なのではないかと思い、組織しすぎることは何もしないことよりも悪いと考えるようになった。そのため、可能な限りadvisory council meetingを無くすようにしていき、研究所の組織をインフォーマルなものにし、役所仕事的ではなく、アドフォックベースで進めるようにした。
  • しかし、研究所を「組織化しない」ということに関しては、彼は思慮深かった。彼は研究者に計画を割り当てるのではなく、軽く提案するといった形で提示した。そして、その方法が効果的だった。彼はそれぞれの研究者のやる気を鼓舞し、能力を引き出すことに長けていた。彼は研究者と3分間話すだけで、3ヶ月分のやる気を与えたと言われている。
  • ただし、ここの研究者から努力を引き出すということだけではなく、工学・製造部門や他の部署との連携を重視していた。成果は特許として出願され、GEという企業を作り上げている工学、製造、財政、法人の内部で実用化される必要があった。この仕事の一部を主任研究員に引き渡したものの、ホイットニーは依然として自分で行う必要もあった。しかし、WW1以降になるとホイットニーは、クーリッジ、ラングミュア、ダッシュマン、ハルらを非公式のリーダーとして信頼するようになった。
  • ホイットニーの研究哲学は、何よりもまず研究者の士気(morale)とモチベーションを高く維持することだった。緻密に組織された研究よりも研究者の熱意が成果を生むと考えていた。彼が直面した問題は、(1)彼らにやる気を与えること、(2)彼が適切だと考える方向に従わせつつもある程度の独立性を認めることだった。このためには、しばしば研究が横道に逸れることも容認した。だがこの種の研究が行き過ぎると、メンバーは軌道修正する必要があった。
  • またホイットニーは、研究所とGEの他の部門との間の情報の流れの制御を維持しようとしていた。例えば、彼は特許部門との相互作用に注意していた。彼は研究者に、仕事の中に特許化できるような技術がないかどうか隈なく探すような報告書を月に一回提出させるようにした。その中に有望なものがあれば、特許部門にメモとオリジナルのレポートと共に送付した。それは特許のプライオリティを確立するための記録となった。
  • 1908年以降、ホイットニーは連続する番号が振られたノートを発行するようになった。これは研究者の独立性と責任を強調するための計画の一部だった。しかし、各人はこのノートを期待通りに書かなかった。1920年までに彼は必ずしもこれを要求しないようにした。それでもなお、全ての報告書は標準化されたシートを用い、そこに方法と結果が記された。また実験器具や部屋の写真を頻繁に撮るようにさせた。
  • その後、1910sの間に、研究所と特許部門との関係は変化した。従来ホイットニーは特許への応用を示唆する手紙を送るべく、研究の報告書をレビューしていた。しかし、次第に特許部は、研究報告書を読むことや研究所を訪問することで研究をフォローするために代理人(attorney)を配属するようになった。例えば、ハルの研究をフォローした特許代理人は電子回路やその商業的価値を理解するのに十分な技術知識を持っており、(研究者本人は本来)商業的応用を志向していない研究から重大な成果が出された。
  • 特許部門は、研究所に会社の特許のニーズを知らせるように維持していた。そして研究者はそれらのニーズを満たすために計画を拡張した。ハルが真空中における電流の磁気的操作を発見したのは、彼はそのアイデアに多くの時間を割いていたときだった。なぜなら、それはGEがAT&Tが保持するデフォレストの三極真空管特許権を巧みに回避する機会を与えるものだと理解していたからである。そしてマグネトロンは、1920年におけるAT&Tとの無線製造協定において同社のポジションを高めることに寄与した。

 

5-2 Laboratory relations within GE

  • 研究所(Research Laboratory)はGEによって運営されたラボのうちの一つに過ぎない。技術の目まぐるしい変化は、競合社に対するアドバンテージを維持するための研究所を創設することを必要とした。リサーチラボ以外には、Standardizing Laboratory、Schenectady Works Testing Laboratory、Institution Laboratory、Consulting Engineering Laboratory、Radio Engineering Departmentなどが存在した。
  • これらのラボの存在は、リサーチラボの日常的な調査や厳格な開発の仕事(strictly developmental work)を軽減した。しかし、その一方で、研究所間のコラボレーションや妬みの問題も生じさせた。例えば、スタインメッツは、リサーチラボと彼自身のConsulting Research Laboratoryとの間の資源配分に違いがあることを好ましく思っていなかった。
  • ある領域に特化した研究所の間での協働は難しかったが、その間を仲介し交流を促したのがexecutive engineerだった。彼は全てラボと製造部門との接触を維持した。また販売部門との関係も維持し、研究者らに市場の認識を与える役割も果たした。リサーチラボは工学(engineering)と製造部門と連携していたので、素材や技術が大量生産に最適化させることができた。リサーチラボが、大量生産の準備として、パイロット・プラントを作ることもあった。ホイットニーが研究所で生産関係の仕事のいくつかを維持したのは、それが研究所の支出を相殺する収入に深く関わっていたからだった。研究所は「利益センター(profit center)」であった。研究計画がそれを実行する当の研究所によって支持されている場合、その成果を市場で販売することで研究費用を回収することができる。それゆえホイットニーは、(生産部門と連携しながら)研究所内で有用な成果を生み出すことに強い関心があった。
  • こうした研究所のための単なる社費から複雑な会計システムへの変貌は、ホイットニーがその他の行政変革を行なっていたのと同時に生じていた。ホイットニーはexecutive engineerに、一年間の論文の報告や、全売り上げの見積もりなどを準備させるようにし始めた。これは、研究所の研究の重要性を示し、会社部門として定期的に「赤字」を出すことを正当化するものであった。
  • 財政的な意味で研究所をGEのその他の部門にしようとすることは、ラボの運営と、工学・製造におけるニーズとを調和させることを手助けした。未回収の支出を最小化すべく、この研究所では常に自分たちの研究が他の企業部門にとってどのような価値があるのかを考えていた。このことは「非生産的な」研究を認めないことを意味していた。自分が思うように研究できる自由があると感じさせつつ、彼らを潜在的に役立つ方向へ向かうように研究させるは、リサーチディレクターとしてのホイットニーの才能だった。

5-3 Researchers and the lab

  • ホイットニーは、やる気があり、企業環境で協力的に働ける研究者を探していたが、後者の条件は当初はさほど重要でなかったように思われる。ドイツのアカデミズムで厳格な教育を受けた人々はホイットニーや他のメンバーと非協力的で、Davisの言葉を借りれば、”(動物園)menagerie”、”(囲い)bear pit”のようだった(=つまり個々人が独立していた)。
  • ホイットニーは、一流の研究者を招聘するために、企業環境で損なわれる研究者の独立性を補償しなければならなかった。その一つが破格の給料を提示することだった。
  • ホイットニーは大学の環境を見習い、1901年秋からは定期的にコロキウムが開催されることになった。そこでは、GEスタッフの成員や部外者から提示された科学・技術の世界における重要な発見・問題を聞くために、ラボの研究者が集められた。会社の研究員や管理者は、GEが直面している問題をコロキウムで扱うことがあった。1908年以降、ホイットニーはグループ全体でプロジェクトについて議論する前に(成果等を)秘匿する習慣を廃止し、チームワークや分野越境的な活性化(cross-fertilization)を促した。
  • 図書館も重要な研究ツールだった。1915年までに1400のコレクション、65の定期刊行物を取り寄せ、フルタイムの司書を雇っていた。しかし、ホイットニーは先行研究を参照することで、(無理だと思って)新しい研究への意欲を阻害することを勧めなかった。
  • 研究者は大学の環境以上に充実した設備や助手などのサポートにアクセスしやすかった。研究所は優れた器具製作者(craftsman)を雇用していたので、最先端の器具が揃っていた。
  • 優れた人材を引っ張るために、ホイットニーはまたGEにいながらも学術雑誌への投稿の自由を与える必要があることも理解していた。しかし、研究者は、(1)最初に特許を取得したのちに初めて論文を投稿できるということ、(2)秘密性の高い技術を完全に開陳することはできないといった制限が課された。従ってGE以外の研究者が先に成果を完全に発表してしまったため、発明におけるクレジットを受け取ることができないこともしばしばあった。それでもなお、(ペーパー数では一流大学に負けていたもの)1920sまでにGE研究所は科学研究機関としての名声を高めた。
  • し時には秘匿が厳しく強制されることもあった。延性タングステンの場合は、クーリッジは外部の人間はもとより、研究所内の人間にさえ情報を漏らしてはいけないという指示が出され、結果的にこの戦略はうまくいった。なぜなら1909年末に演示するまで、欧州で全く知られていないままの状態にできたからである。しかし、クーリッジは1907年12月に母親に宛てた手紙の中で、こうした厳しい企業研究所の環境に不満を漏らしていた。曰く、”scrap heap”, which was “a poor place to look for memorial tablets.”で、成果を公表できる環境をより好んでいた。
  • ホイットニーは、博士号を取得下ばかりで教職に就いていない者、学部を卒業したばかりの人間をリクルートした(特にMITとのつながりは顕著だった)。しかし、中には大学の教授職を放棄してGEに入所した者もいた。その代表がラングミュアである。彼はスティーブン工科大学において、学生のやる気がない、設備が十分でない、研究時間が十分に確保できないといった、アカデミア環境に満足してなかった。それゆえ、彼はGEの研究所により良いポジションを見出した。
  • ホイットニーはさらに、Geの研究員に科学・技術の学会に参加するように勧めた。そしてホイットニーもラングミュアもアメリカ化学学会の会長を務め、アルバート・ハルはアメリ物理学会の会長を務めた。論文を出す前に点検(clearance)が必要だったものの、学会は企業研究者とアカデミアとの交流の場だった。
  • 離職率(rate of turnover)は低かったものの、Wheeler Daveyのようにペンシルバニア州立大学へ異動した者もいた。このことは、GE研究所が期待していた場所ではなかったと感じる研究者が存在していたことを示唆している。
  • 1920sまでにGE研究所は、本書で定義した「研究所」= (1)物理現象を深く理解する人間が配属され、(2)工学、製造部門とは分離され、(3)企業の短期的な要求から遮蔽された「研究」をする場所になった。それは企業環境の中で科学者としてのアイデンティティを失わないように注意を払ったホイットニーの工夫によって形成された。研究所の運営は、「組織化されつつ組織化されない(both organized and disorganized)」ものとして特徴付けられる。つまり、研究者は自由に研究をしていながらも、巧妙に方向づけられていた。官僚的なコントロールを最小化しつつも、明確化された価値観や境界は研究者を商業的に価値のある成果に導く生産的な経路へと方向づけた。

 

5-4 Science and technology in the research lab

  • GE研究所における研究・開発過程を理解するために、クーリッジとラングミュアという2人の著名な科学者の仕事を分析する。クーリッジは最初に目標を立て、それを達成するまで困難に立ち向かうという直接的なアプローチで問題に向かったのに対し、ラングミュアは最初に物理過程を完全に理解すべく根本原理の研究から入り、その後技術的な応用へ向かう研究を行った。このように両者は異なるアプローチによって問題を解決していったが、にもかかわらず両者ともに類似した成果をもたらしたのはどうしてだろうか。

5-4-1 クーリッジ

  • クーリッジは優れた器具製作者であり、実験家であった。彼の最もおおきな成果は延性タングステンフィラメント電球の開発である。本来脆い性質を持つタングステンをいかにしてフィラメントの形状にし、電球として実用化できるか?その道は困難を極めた。
  • クーリッジが解決した問題は、当時の科学では説明できないものだった。それゆえ、彼の理論よりも実験を重視するスタイルは、GE研究所で行われる仕事とよく適合していた。彼の方法はある意味1870sにおけるエジソンのそれに似ていた。クーリッジの方法はアメリカの技術において新しいものではなかったが、延性タングステンフィラメントの実用化の成功は、アメリカの会社が、強い商業的関心がある領域で、前もって考えられた飛躍(preconceived)を遂げるために、うまく組織化された進行中の研究計画の中で、膨大な資源を投じた最初の例だった。その成功は、GE研究所の新時代の始まりを告げた。

5-4-2 ラングミュア

  • ラングミュアが研究所に入所したのは1909年である。その背景にはスチーブン工科大学における不満足な環境、科学的名声を得たいと思っていたこと、家庭を支える収入を必要としていたことがあった。
  • 彼が最初に選んだ研究テーマは、真空中における延性タングステンフィラメントの操作だった。当時、延性タングステン電球には、(1)交流で使用するとすぐに落ちる(failed)こと、(2)内側が黒化してしまうといった実用上の問題があった。しかしラングミュアはこれらの問題を直接解決しようとするのではなく、まず電球操作の基本的な原理を理解しようとした。具体的には、電球の中で何が生じているのか? 温度や圧力の変化によってどういった影響が生じるのかを解決しようとした。言い換えれば、彼が行ったのは、真空ないし気体中における放電現象に関する一般的な研究だった。実際彼自身、研究を振り返りつつ、「役に立たない(useless)」、「馬鹿げたとさえ言える(even foolish)」ものだったと書いている。
  • 彼はこの研究を4年間行い、華氏3600度では水素分子が原子の状態へと分離することを発見し、この知識を応用して、限られた範囲を熱するのに使うatomic-hydrogen welding(原子水素溶接)を開発した。さらにその後、黒化の問題はバルブ内に気体を封入することで解決できることを見出した。彼の研究は、フィラメントから放出される光はその表面における機能であること、そしてそのフィラメントの形状が熱の損失に大きく影響することを示した。それゆえ、彼は螺旋状のフィラメントを設計した。それは、光はフィラメントの全表面積から放たれるものの、熱は螺旋の表面からしか失われないものだった。そしてそれらの特許が出願されたのち、学術雑誌に論文を発表した。
  • ラングミュアの研究は、彼を熱電子放射と、真空中における電子の移動に関する研究に導いた。当時、実験結果があまりにも一貫していなかったが故に、熱電子放射の理論には疑義が持たれていた。中には、フィラメントに衝撃を与え(ボンバード)電子を叩き落とす(キックオフ)するためには残留ガスが必要であるから、真空中における電子放射は不可能であると考える者もいた。しかし、ラングミュアは、真空中での熱電子放射は可能であると信じた。というのも、彼は複数のエミッター(フィラメント)を数学的に分析し、フィラメントの周囲の空間に電荷が蓄積された(space charge)がゆえにそれが可能であると主張したからである。1913年に発表された論文は物理学者らの関心を集め、弁護士は硬真空管の特許のプライオリティーを主張するためにこの論文を用いた。
  • 熱電子放射の研究において、ラングミュアは非常に高い真空を必要とした。当時GEには世界でも最も進んだ真空技術を有していたものの、ラングミュアはコンデーセーション(凝縮)ポンプをはじめとするさらに優れた真空技術を開発した。
  • こうして彼は一流の産業研究者となっていく。彼は、技術を直接的に改良するためではなく、特異な現象の根底にある科学的原理を発見するためにこれらの研究を行った
  • ただその一方、技術改良を目指した研究も行なっていた。彼はタングステンのpasteを作る機械など、白熱電球をfabricateする技術開発も行った。さらにアレキサンダーソンと協力して、高周波交流発電機のための変調機の開発を行った。
  • 熱伝送の研究も行った。この分野でも工学コミュニティーとの付き合いを維持し、学会からメダルを授与された。
  • 同時期には、GEの無線・真空管部門において、ラングミュアは大きな役割を果たした。GEが無線市場に乗り出した際に、ラングミュアは同社において先頭にいた。彼の努力を通じて、米政府が1915年に軍事用の注文を始めた際に、GEは最良の無線機を提供することができた。
  • しかし彼が名声を得たのはこの種の成果ではなく、あくまで基礎研究のためだった。ただし彼の基礎研究でのアプローチは、商業的な関心に強い影響を受けていたのも事実である。彼の研究方法は、複雑な実験を行うことよりも、分析能力に依存していた。そのため、彼の分析は丁寧な補正因子(correction factor)を必要とした。
  • 彼がこの方法を選んだのは、GE由来の器具や装置を使うことを好んだからである。電子放射の研究はその際たる例である。彼は、タングステンフィラメント電球と、真空管というGEにとって商業的に重要な2つの装置を使った。彼が得た成果は、製品を改良することに応用された。彼は、フィラメント近傍に空間電荷が蓄積することを理解し、真空管のフィラメント近傍に正バイアスの「空間電荷」グリッドを挿入して、電子放射を増強することに成功した。
  • つまり、彼は(基礎研究を重視しつつも)、絶えず応用を模索していた。そして、適切に立てられた問いは、研究者をもともとの問題を越えさせる結果を生むことがあるということを理解していた。(その問題が最初は科学・技術の言葉で公式化されているかどうかは別であった。)
  • ラングミュアにとって、物理原理を理解することと、技術を改良することは、同じ探究の一部分だった。そして彼の根底にある応用への関心は、実践性への外に向かうことを妨げ、その結果、研究の射程を狭める側面があった。
  • 1932年、産業研究者としては初めて、ラングミュアはノーベル物理学賞を受賞した。それは、白熱フィラメントの表面現象の研究に対して与えられた。その他に、彼は63の特許を取得し、GEに大きな貢献をした。彼は産業的な環境における一流の研究者とは何かを示した。それは、実用主義(utilitarian)と、創造的な知的コミットメントを両方持つことだった。

 

Conclusion

  • 1920年頃までにGE研究所の研究開発はさまざまな形態をとった。クーリッジとラングミュアの事例は研究スタイルを網羅的に説明するものではないものの、これらはホイットニーが、問題それ自体と、研究者の個々人の能力応じた、異質の研究アプローチを鼓舞していたことを示している。さらにホイットニーが、注意深く選ばれた研究者の独立性や発明精神にいかに信頼していたことも同時に示している。
  • 2人は異なった方法を用いていた。しかし、会社のニーズを満たすために仕事をしていた点は同じである。両者は会社の工学・製造部門と連携を維持することに注意を払っていた。両者の関心と方法は、企業との連携を保持しつつも、さまざまなアプローチで課題に取り組む研究所を特徴付けている。そしてそのような幅広い研究スタイルは初期の段階で生まれ、その後の数十年間にわたって、研究所と会社に奉仕した。

 

感想

・研究者なるべく自由を与えつつ、それとなく全体として研究の方向づけをするというのは、リサーチディレクターの重要なスキルではないだろうか。(もちろん、彼自身が自然科学でPh.Dを持っていることが必要不可欠だというのはいうまでもない。)

・産業との緊密な連携ということだと、どうしても理化学研究所の第三代所長を務めた大河内正敏の思想を想起してしまう。大河内とホイットニーの方針には何か似通っている点があるかもしれない。例えば、大河内の主任研究員制度を通じて研究者に研究の独立性を与えるやり方は、ホイットニーの方法と似ているかもしれない。

・20C前半頃の企業内研究所、大学の研究所、軍の研究所における、それぞれの特徴の違いを一度は考えた方が良いかもしれない。大学の研究機関と企業・軍の研究機関の違いとしては、後者は(1)よりプラグマティックであり、(2)研究成果の公表に制限が加わる、といった点は挙げられるかもしれない。研究者の側から見て、それぞれの研究所のどこに魅力を感じるのか(感じないのか)という視点も重要である。例えば、ラングミュアはスチーブン工科大学の環境に満足していなかったという事情がGEへ異動した背景にあった。一方、離職率を見ると、数年後に大学のポストへと異動したものがいたことも事実だった。産業研究者の社会的ステータスみたいな要素もあるように思う。

ただし、日本の場合、むしろ積極的な理由で異動する場合もあったという感じがしている。例えば、海軍技術研究所の技術者で(戦後ではなく戦前において)民間企業や大学へ異動した者は少なくないが、それは海軍の環境に満足していなかったからというよりは、むしろ先端の技術を他のセクターに移転し、産業を促すみたいな意図があったように思う。全体として見れば、そうした異動は知識や技術の波及にとってプラスになるように感じる。

 

 

 

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