yokoken001’s diary

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Baker(1970), Chapter 21.

Chapter 21 The Post-War Scene (pp.177–182)

 

 第21章では、WW1後における無線通信市場の状況が外観される。WW1は無線技術を大きく促進させる契機になったが、その核は真空管の改良だった。戦後には民生市場に適合するような製品を生み出すことが企図され、Marconi-Osram Valve Companyが発足した。また、WW1によって大きく成長していたアメリカマルコーニ会社とGEが統合し、RCAも発足した。

 

 

  • 1919年6月にベルサイユ条約が締結され、戦争の疲弊した国々は平和産業とリハビリに向けて苦闘し始めた。
  • 目的が仲間の人間存在を破壊することにあるとき、科学知識がよりすばやい速度で進展するということは、残念ながら人間の本性である。WW1もその例外ではなく、無線ほど科学で進展した領域はなかった。無線が単なる「視覚通信の補助」であったものが、陸海空全ての軍が過度に依拠する重要な要素になった。
  • この進展の中で鍵となる構成要素は、真空管であった。1914年時点で、それは手製の、もろく、予測不能な、バラバラな性能を示すものだった。しかし戦時中に多くの研究が行われ、より効率の良いロバスト(頑強)な陰極や、真空技術の進展、製造技術の進展があったことで、1919年時点での真空管は、よりロバストで、能動素子として安定したパフォーマンスを持ち、均一な性能を示す製品を量産できるようになっていた
  • 戦時中に軍の仕事を受けもっていた多くの会社は、民生市場を開拓する仕事を再開することを強調した。民生市場に適する形態に技術と経験を導くような研究が求められた。そしてそれにはお金と時間が必要だった。
  • 資金は特になかった。帝国無線網のスキームは一向に進まなかった。また、会社の貨幣総量の大部分は政府が持っていた(局で受信される敵の通信を傍受するため)。
  • こうした仕事をハンドリングすべく、郵政省は、通信分一語あたり5ペンスの補助を出すという政策を申し出た。
  • 1919年11月以降は、強力な商業的プログラムが始まった。そのことは、多数の子会社や提携会社が内外に出てきたことにも表れていた(1918–23年に19が設立されていた)。
  • 1919年までは、マルコーニ社設計の真空管は商業的には、Ediswan Companyによって製造されていた。そのころまでに、真空管製造は特別な扱いが要求され、需要も大きくなっていたので、マルコーニ社とGEの真空管の利害(interests)をプールするという合意に至った。同年10月20日に、Marconi-Osram Valve Company(のちO. Valve Co.)が発足した。
  • こうした動きは、戦後社会を立て直そうという試みだった。そしてその努力はタイムリーであった。1919年以降は、多くの製造会社が現れ、戦前には小さかった会社も戦後に大きく成長していたからである。
  • 欧州での戦争には、真空管製造の抑圧を緩和する利点があった。この問題の基本は、デフォレストのオーディオンの基本特許が、独自のものか/フレミングバルブの改良にすぎないかという点であった。1911年に訴訟が始まり、両者は莫大な訴訟費用がかかるのにもかかわらず、負けることはできなかった。
  • だが、WW1という緊急事態の勃発により、その下ではお互いの国益のために、民の特許法に関係なく自由に真空管を開発することを何とも思わなかった。しかし当初は中立国であったアメリカは訴訟が継続・拡大し、AT&Tなども巻き込んでいった。
  • しかし、他の点では、アメリカの国益は中立によって促進された。欧州でのWW1は、新しい利益の見込める市場を作り出し、またそれまで欧州の製造業者に独占されていたその市場に参入する機会を提供した。このことは、アメリカの無線製造会社が、小さなサイズからアメリカ・マルコーニ会社にとって深刻な競合相手になるくらいにまで急速に成長することを促した。
  • 1914年まではアメリカマルコーニ会社は海洋の無線機や海を越える局を製造していた。WW1の勃発により、Aldeneに新しい工場を設置した。一夜にしてアメリカマルコーニ会社は巨大な製造会社になった
  • 戦争が終わるまでには、既存のマルコーニの火花式送信方法はアークやalternatorや三極真空管などのCW式によって置き換わりつつあった。そしてこの状況は、CW通信システムを覆う特許が複数の会社に分裂するという危機の前兆だった。
  • 米国海軍の後援のもとで、GEとアメリカマルコーニ社とが合併するということが提案された。これは、アメリカ政府が、新会社は国営であるべきで、外国の組織とは一切関係ない、と主張したためで、両者にとって明らかに有利なものだった。
  • 英国のマルコーニ社はこの提案を払い除ける地位になかった。1919年10月17日に、RCA(Radio Corporation of America)が発足した。
  • しかし、そのほかの重要な特許はライバルの手元にあったので、RCAの発足は問題の終焉を意味しなかった。ここでも米国海軍が仲介役を果たした。最終的には全てのライバル会社が相互に特許権を貢献できるような合意が締結された。このようにして、RCAは、マルコーニ、アレクサンダーソン、デフォレスト、フェッセンデン、アームストロング、ピッカードに関係する特許を所有するに至った。つまり、RCAは、豊富な実務経験を生かした現代的な無線通信システムを保有する立場にあった。
  • サーノフ(David Sarnoff)を参照することなし、RCAへの言及は完了しない。サーノフは1900年にアメリカに渡り、15歳のときにアメリカ・マルコーニ会社に入社し、1916年に契約マネージャーになった。WW1において無線電話がもたらした進展を目の当たりにして、彼は音楽や音声の放送(broadcasting)を目的とする送信局を建設すべきであると提案した。これは、彼が “radio music box”と呼んだ、エンタメ目的のラジオであった。経営陣は、その息を呑むような意味合いと、莫大なリスク、そして当時のバルブチューブの状況では不可能であったことを考慮し、熟考を重ねた。そしてその計画は1917年に米国が参戦したことでお蔵入りになった。

 

 

 

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