yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Mizuno (2009), Chapter 2

Chapter 2 Technocracy for a Scientific Japan

2-1 The Colonial Landscape of Technocracy (pp. 44–52)

  • 1920sにおける技術官僚の地位の変わらない低さ,統合の失敗によって,工人倶楽部の主導者らは技術官僚の政治にとっての国内の地勢は良くないことを証明し,次第に満州に注目するようになっていく.
  • 日本と満州の関係は,1905年に関東に駐在地を置いたことに始まる.それは1919年に関東軍となり,日露戦争後の1906年に満鉄が設立された.→中国のナショナリズムの勃興によって緊張は高まり1931年に満州事変→傀儡国家「満州国」を建国するにいたった.
  • 工人倶楽部の技術官僚を含めて,ほとんどの日本人は満州事変の性質について疑問視するよりもむしろ「戦時熱war fever」=ユートピア満州という誇大広告に参与していった.1932年に『工人』は満州を特集し,特に宮本武之輔は,満州を法科官僚の優位から自由であり,技術者が地位を向上させ,新しい技術的文化を構築することができる未開拓の土地として認識した.
  • 中には「日支親善」は中国を怒らせ,英米をナーバスにさせるものとして批判しする声はあった.が,それは稀であり,1932年3月『工人』は,満州の植民地化を祝福した.小池も,労働者階級の生き残りにとって満州での経済の自由は必須であり,軍とブルジョワの独占が問題であると主張した.
  • 宮本武之輔も満州の熱心な支持者であった.彼の,中国の長い歴史の傲慢な否定は,天然資源が開拓されていない土地として中国を認識する見解から生じていた.彼は,日本が中国に「組織」と「技術」を提供し,中国が日本に資源を提供するといった互恵的関係が創造できればベストであると主張した.技術官僚にとって満州は,その政治システムの柔軟さ・天然資源ゆえいに,特に魅力的だったのである.
  • 実際,天然資源は日本の「アキレス腱」だった.日本の成長する重化学工業は,天然資源の輸入に依存していた.資源開発は重要な事項だったので,「資源科学(化学)」といった新分野も登場した.満州事変の前は,日本=「持たざる国」であったが,いまや「資源が我々の前に開かれた」のである.
  • 豊かな天然資源と,緩やかな政治システムゆえに,満州は技術官僚にとって「創造」の場所であった.国内での技術者運動の失敗の後,彼らは満州に理想的な場所を見出した.工人倶楽部の技術官僚らは,この創造の目的と手段として技術を主張し,中国の天然資源は創造にとっての材料であった.
  • 「工人」という名さえ,この視点のもと新しい意味を帯びた.元々は「技術をコントロールする人」という意味だったが,満州が創造の場所として出現した後は,より壮大で帝国主義的な役割を意味するようになる.つまり,「工」という字は,上の棒:中国の天然資源=宇宙・自然を意味し,下の棒は人間界:日本人を意味し,それを巧みにつなぐものとして中央の技術者が存在するという説明である.
  • 西洋の帝国主義等同様に,植民地には様々な研究施設が作られた.例えば,満鉄調査部,上海自然科学研究所,大陸科学院などである.そしてここでの研究者の中には,法科系のスタッフよりも高い地位を得て,高い給料をもらっている人もいた.
  • 大陸科学院は,意図的に内地の欠点を繰り返さないようにして設立された.その欠とはつまり,(1)科学・技術の専門知の欠如,(2)科学・技術全体の発展を監督する中央行政の欠如である.同院の設立は,1934年に星野直樹が中央研究機関の必要性を認識したときに始まる.彼の要請で,大河内正敏(理研),藤沢健夫(資源局)が,起草のために満州に招聘された.内地では,680の研究機関が様々な行政に散らばっており,それが交流・柔軟性・効率性を妨げているので,満州では大陸科学院に統合する形でこの欠点を克服しようとした.このスムーズな過程は,戦時中に技術官僚が直面した障害と著しい対照をなしている.
  • 大陸科学院の初代所長=鈴木梅太郎:宮本武之輔と同様,日本の植民地政策が成功するための基本的な要素として科学を強調する.満州の科学・技術は,本家である日本を支えるべく強く・独立していなければならない.=相補的関係.
  • 研究者・テクノクラートは,満州国=開発されるのを待つ「未開の土地」であった.350000人の日本人が移住したが,朝鮮人・中国人の敵対心とぶつかった.実際のところ,「オープン」ではなかったのである.
  • 工人倶楽部のメンバーらも,満州は20年前に移住した技術者らによって,すでに人口過剰であることをまもなく理解した.
  • 彼らはとくに,科学的なバックグラウンドがないまま満州にやってきたビジネスマン・官僚らに苛立ちを覚えた.文系の人々は,資源を効率よく利用する青写真を描けないと思われたからである.
  • 次第に「工人」という名は不適切ではないかと思われるようになった.中国では,工人とは日雇い労働者の意味である.1935年に工人倶楽部は,日本技術協会(NGK)に改組された.そして雑誌も『技術日本』(1936~)へと改名された.

:技術を通じて,国家を主導するというスローガンを打ち立てる.労組組合から国家主義(ナショナリズム)への転向は明白である.(エンジニアの利益から国益へ)

  • しかし,技術官僚の運動は成長しなかった.1920年代末に,すでに会員の4/5近くが失われていた.NGKは,若手エンジニアに働きかけた.若手は,NGKといった組織や,法科官僚の問題に感心がなかった.NGKの存在さえ知らない人もいた.それらによって,シニア世代は「退陣の感覚」さえ抱いた.若手は,技術者の社会的責任は,よりより地位や政治権力を追求するといったことに完全に興味がなかったことは明白だった.
  • こうした感心の低下は,民間部門での変化を反映していたかもしれなかった.1930s初頭において,エンジニアは最終的にビジネスの世界で認められるということに気づかれていた.それは,新興コンテルン(鮎川の日産,日本窒素,理研財閥など)といった企業の台頭を参照していた.
  • 新興財閥:技術によって会社をまとめる.日本の重化学工業化の利点を生かす.資本の94%を重化学へと投資する.

旧財閥:家システムによってまとめる.

→新財閥は,満州における日本の植民地政策の重要な装置になった.

  • このように,民間セクターでは,技術者リーダーの地位は改善されつつあった.しかし,技術官僚は不満が残る状況が続いていた.一つには,文官任用令が技術官僚の政治権力へのアクセスを拒んでいた.工人倶楽部のメンバーらは,本国における大陸科学院の相似形を創設することを夢見ていた.彼らの分析によれば,日本の科学・技術は,専門的なリーダーシップ,一貫した計画,科学者・技術者の間のコミュニケーションが欠如していることが問題だった.そして,技術官僚によって主導される新たな行政ユニットが必要である.(そこには,法科系官僚によって支配される様々な大臣から独立した排他的権利があり,科学・技術の戦略的重要な分野を統率することができる能力がある.)
  • 新しい名前とスローガンをもって,技術官僚らは彼らの運動を復活させ,科学・技術の政策に特化した行政ユニットを作る野望を実現することを望んだ.しかし,既存の階級に加え,若手を動員することに失敗することによってブロックされた.そして,次節でみるように,中国との戦争は,技術官僚の運動に,切実に必要とされていた勢いをもたらしたのである.

 

2-2 Technological Patriotism and a “Uniquely Japanese” Technology (pp. 52–60)

  • 1937年7月7日:盧溝橋事件=技術官僚の地位向上運動の新しい段階の始まり.
  • 3ヶ月後に,NGKは技術者の雇用機会の均等を訴えるべく,様々な大臣や東京市に嘆願書を提出.近衛内閣に対しても技術を扱う部門により多くの技術者を雇用するように意見書を送った:(1)大陸の発展と戦勝に技術は決定的に重要であること,(2)政府は技術者をもっと登用すべきである
  • これらの主張は,「技術報国」というスローガンのもとで唱えられた.技術報国は,法科系官僚の衰微を要求することと同義になっていった.ただし,技術報国の要求の高まりは,宮本武之輔の懸念するところでもあった.というのも,それが利己的な要求で,真面目に受け止められなくなる可能性があったからである.しかし,科学的な日本を作るという過程として,(1)国家的重要性を得た技術,(2)政治権力を持った技術官僚を要求していた点では,宮本武之輔も同じだった.1939年に『技術日本』は,『技術評論』と改名し,戦時期を通じて「技術報国」の要求を継続した.
  • 技術報国は,世界における日本の位置の特定の歴史的理解を含んでいた.それに基づいて技術の発展を計画・統率することが求められたからである.技術官僚らは,資本主義経済のシステムから,新しい統制経済のシステムへと世界は移行しているといった歴史的語りを唱える傾向にある.

資本主義:リベラリズム,自由市場,科学

統制経済:コーポラティズム(corporatism),統制経済技術

Ex 松岡久雄:今や「科学の時代」から「技術の時代」に移行している.ただし,そこでいう技術とは,「科学的」技術である.そしてその先頭にたつのは,技術者である.

  • このような資本主義から新システムへの移行という語りは,大河内正敏の「科学技術工業」においても最も明白に表現されている.1937年から『科学主義工業』の刊行が開始.科学的産業とは,科学と技術を産業に結びつけるアプローチと実践を指している.

:科学主義工業における「科学」=(1)技術のイノベーティブな(革新的な)利用,(2)科学研究の成果の産業化

  • 大河内の科学的産業や,技術官僚によって主張されたテクノクラシーは,ともに知識それ自体の追求ではなく,技術的・実践的な応用の目的のための科学の発展と,そのプロセスを計画・統制する必要性を強調していた.
  • 軍によって要求された国防予算をいかにしてやりくりし拡張するか?1932年恐慌から1936年には概ね回復.しかし1937年の予算は前年比25%増で,そのうち40%が軍事予算.抜本的な方策が取られないかぎり,この予算を満たすことはできない状態.

→経済の国家統制と,様々な物資の計画された配分に基づいた「準戦時体制」を採用することを宣言.

  • 準戦時体制:天然/人間資源を統制的に配分すること,計画経済をより一層強調

→戦時体制のために中央機関=企画院が1937年10月に設立.

→人的資源の動員:国家総動員法(1938年),国民精神総動員運動(1937年)

→近衛内閣:「大東亜新秩序」(「東亜新秩序?」)(1938年,11月):アジアの中心として西洋に変わる地位を日本が占める.最終的には世界の中心になる.

  • 戦争は,技術官僚らを行動に駆り立てた.WW1以来初めて,彼らは技術報国のもとで,一体になり始めた.その運動の中心は,宮本武之輔である.彼らは,松前重義や梶井隆(逓信省),みうらよしお(鉄道省),などと協力し,技術者運動を拡張する.1937年6月に,宮本武之輔は6大臣技術者会議(Six Ministries Engineering Conference)を主催し,翌年には,7大臣技術者会議も主催した.さらに,1937年11月には,民間セクターも含めた全国技術者大会を開催し,1938年9月には,産業技術連盟を組織した.
  • 日中戦争の勃発は,技術報国を加速しただけではなく,政府が技術者の要求を取り上げることを促進もした.1938年に興亜院を設置し,そこに「技術部」が政治部や経済部と並んで置かれた(トップは宮本武之輔).=国家による本格的な科学技術動員がついに始まったことで,政策策定の中心に参画するという宮本武之輔の長年の夢を達成されることになった
  • 技術官僚の技術報国は,しばしば「日本的技術」,「日本的性格の技術」の議論に関わっていた.19Cの経済は,自由取引の原理に基づくもの.⇄20Cの経済は,ブロック経済=国家が地域的な経済圏をつくり,ブロック間での物資,商品,アイデアの流れが統制されるというもの.=「大東亜共栄圏(the Greater East Asia Co-Prosperity Sphere)」は,自給自足されなくてはならない.そのためには,日本の科学と技術が必要である.西洋から独立した科学.日本独自の科学が必要である.
  • 日本的技術とは何なのか?何か具体的な内容があるわけではなく,多くの人々は,西洋の技術に日本の精神を併せるといった空虚なレトリックを用いていた.Ex 八田嘉明「時局と技術」『技術日本』(1937):日本精神は何から構成され,そうした日本精神と技術の融合が,いかにして違った形で技術を生み出すのかについては説明していない.
  • 興亜院技術部長として宮本武之輔は,日本的技術を「興亜技術」と定義した.それは,3つの性格から構成される.

(1)躍進性:中国技術の先に居続ける.中国資源を日本技術に結びつける「大東亜共栄圏」にとって重要な条件.

(2)総合性:様々な分野の科学・技術を効率的するために必要.

(3)立地性:日本特有の環境の中で開発される秘術は中国において最適とは限らない.大陸の現実を満たすように日本技術を修正する必要がある.

  • 宮本武之輔によれば,「日本的技術」とは,中国の資源+日本の頭脳を意味していた.そして日本の技術者の責任は,この日本帝国が立脚する分業を維持することだった.

≠1920sに工人倶楽部が定義した「頭脳労働者」:帰せずして特権的な学位を持ち,その専門知が資本家によって搾取される.

⇄技術者は今や,帝国の技術的階級を根本的に維持する「帝国の頭脳」だった.

  • しかし技術に関する日本的性格は,技術的ではなく規範的であり,現実的ではなく理想的であった.宮本武之輔でさえ,3つの性格をもつ「べき」であると述べている.
  • テクノクラートによる日本技術の特異性は,循環論法(=前提の中に結論が含まれている)である.日本技術は,新しいアジアを構築する(=西洋の影響から自由にする)というところにある.しかし,そのような構築の前に,まずは日本技術というものが存在する必要があるが,日本技術を構築し,西洋からのその独立を維持するためには,日本はアジアの資源(=西洋に依存しないリソース)を必要とする,とも主張している.〔①アジアを西洋から解放するものは「日本技術」であると定義しつつも(=結論),②その解放するはずの当の「日本技術」自体(=前提)が,西洋に依存しないアジアのリソースを必要とするとも主張している.これは前提の中に結論が入っているトートロジーである.〕
  • 結局,テクノクラートの主たる関心は,日本帝国における天然資源の効果的で効率の良い搾取にあった.日本技術とは,技術や科学の様式ではなく,日本の頭脳とアジアの資源の間の分業に関することを指している.科学者・技術者が,新秩序の「頭脳」にとって決定的に重要である.そして,テクノクラートがそれを牽引する.
  • 日中戦争が長期化するにつれて,政治の主導者の目において,科学と技術の重要性は高まっていった.1940年8月に,第二次近衛内閣は,科学の抜本的な促進と,生産合理化を基本国策要綱の中に取り入れた.国策の中に科学の促進をはっきりと歌ったために,近衛内閣はテクノクラートに歓迎された.さらに,近衛は文部大臣に橋田邦彦を採用した.彼は30年間で科学者として文部大臣になった初めての人間(歴史的には2人目)であったので,センセーショナルだった.さらに宮本武之輔も科学動員協会の委員に選出され,次いで企画院次長にまで上り詰めた.ついに彼の政治的野望は達成された.
  • 国家的帝国的行政の中心的な段階に科学がよりおおきな存在を示すにつれて,他の技術官僚らも様々な省庁や組織の間にバラバラになっており研究計画を統一・統率する独立の強力な行政システムを作るという最終的な夢を実現する機会を探した.彼らはそれを「科学技術新体制」と呼んだ.

 

 

2-3 Defining Science for the Empire (pp. 60–68)

  • 1940年以前には,科学と技術,科学及び技術,といった言い方がされており,この場合両者をはっきりと区別している.技術官僚らは,この区別を不必要なものと考え,彼らにとっての科学や,権力の要求を支持するような「科学」を定義する新しい言葉=「科学技術」を作った.企画院の藤沢威雄によれば,「科学技術」は,科学に関わっている技術のみを指している.例えば,社会科学,人文科学志向の科学というのは存在しない.なぜなら,それらは生産と国防という,国家が最も必要としているものに直接関係しないからである.
  • こうした狭義の科学は,(1)マルクス主義における「科学」(≒社会科学)と異なっていた.
  • (2)科学(上)-技術(下)とする,伝統的な知的ヒエラルキーとも異なっている.「科学技術」における「技術」は,科学にとっての単なる道具なのではなく,科学の目的であるとされる.科学成果は,実用的な技術,経済資本に体現された初めて重要性を帯びる.科学は技術を通ってのみ,国家に貢献しうるのである.
  • 1942年までに,「科学技術」は広く用いられるようになる.1942年には『科学技術』という雑誌が刊行された.第二次近衛内閣が,科学技術という言葉を採用して「科学技術新体制確立要綱」を閣議決定したため,1942年までにこの後が定着したことは驚くことではない.この「要綱」は,戦前のテクノクラシーの勝利の絶頂であった.大東亜共栄圏の資源を用いる「科学技術の日本的性格」を確立することが目的であるとされた.
  • (1)科学技術研究の推進,(2)研究の産業化,(3)科学的精神の涵養.
  • (1):ここでいう「科学」とは,産業化や実用的な応用を目的とした,計画され・統合された科学として理解されている.
  • (2):技術発展のための科学.①民間企業への報酬,②産業特許の効果的な利用,③産業の標準化,④総動員のための人員の体系的な訓練・配分
  • (3)科学的精神:人々がシステマティック・合理的に訓練されて初めて科学技術が可能になる.①科学教育の刷新,②技術教育,③設備の拡大,④国民生活の科学化.=人々の技術的・物理的訓練.
  • これらを達成するために,(1)技術院,(2)科学技術研究機関,(3)科学技術審議会を設立することを明記した.これらの機関は,有能な技術官僚らによって方向づけられ,技術官僚らによって配置される.
  • 「要綱」=科学的な帝国の青写真.要綱の最も強力な支持者は,技術者団体であった.ex 全科技連は,主要な新聞上で,要綱を支持する趣旨の見解を発表した.曰く,日本の科学は,西洋のそれに過度に依存し模倣しているので,ひとたび途絶すれば何も残らない.そうした惨めさを回避すべく,日本的性格の科学技術を打ち立てる必要がある.全科技連は,「科学技術」は,(1)日本の影響力が及ぶ圏内の資源を用いること,(2)日本民族に適した環境を作ること,(3)日本民族の力を高めること,(4)日本民族が世界に卓越する文化を作ること,を主張することで「要綱」の論理を一層強化した.
  • 全科技連の声明は,産業界,アカデミアにいる科学者・技術者は,テクノクラートの言語と論理を自分のものとして採用したことを明らかにしている.中には科学を限定的に定義することに反対するものもいたが,全科技連の大多数は科学技術新体制を擁護した.彼らは,技術官僚と法科官僚の間の摩擦に,なんの関心もない.日本独自の科学・技術といった技術官僚の主張を実際に信じていたかどうか,あういは法科官僚/技術官僚のいずれかによって組織が主導されるかどうかを本当に懸念していたかどうかは別として,彼らは科学研究の大きな予算,教育プログラム,研究資源の拡張に関心があった,科学技術プログラムが拡大することで,学生を戦場に送ることを拒否することもできた.科学技術の論理・言語が一度公になれば,自分自身の目的のためにそれを用いる日和見主義者らによっても利用可能なものになった
  • ⇄既存の官僚制度からの批判.「科学技術」は結局のところ,科学なのか,技術なのか?(が,そもそも既存の官庁を超越する組織を作ることが技術官僚の狙いでもあった.)
  • 最も批判的だったセクターの一つは,文部省.しかし文部省は,もともとは義務教育に力点を置いており,科学研究の促進を始めたのは荒木貞夫が文部大臣に就任した1938年からであった.1938年に荒木は科学振興調査会を設置し,1939年には科学部を設置した.要するに,日中戦争が勃発したのちに,技術官僚らが制度上の権力を得てきたことにしたがって,もともと科学政策に怠慢だった文部省が科学の分野に権力を主張することに乗り出してきた.
  • 文部省の理解では,科学は,基礎研究,応用研究,実用研究からなり,科学技術はこのうち実用研究を指す,というものだった.日本技術者協会のメンバーの中でさえ,科学は文部省の所掌であるといった見解を述べるものもいた.
  • 国会で起草案が通過したあとでさえ,対立は継続していた.特に,文部省,財財務,陸海軍の批判が大きかった.「主導者」という言葉は削除.技術院は,部数,人数も削減.結局は「航空省」ともいうべき性格のものになった.それは主導者というよりも,調整者としての性格がより強いものになった.
  • 1942年に設置された科学技術審議会は,国家的・植民地的製作を促進するという意味では,より重要な役割を担った.=西欧に追いつく「特急列車」
  • テクノクラートの主たる役割は,様々な部門・省庁の調整のままであったが,科学技術審議会は,少なくとも最終的には,行政間の障壁,割拠主義を超越し,より効率的・体系的に科学技術を促進するという彼らの目標を達成することができた
  • 技術官僚にとっての「科学的」日本:(1)戦争に勝ち帝国を維持するために必要な技術を能率的に発展させる日本,(2)その目標のために,技術の専門家が,国家的な優先順位や資源配分をやりくりすることができる日本

を意味していた.「科学技術」という言葉の発明は,彼らの法科官僚との闘争における最も重要な部分であった.

 

 

議論

  • ミズノの「あらすじに」は,アジア大陸への侵攻を批判していた技術官僚は含まれなかった.技術官僚も一枚岩ではない.この本では,技術官僚の思想ではなく,「宮本武之輔を中心とした技術官僚」の思想の歴史を扱った本であるというべきである.(本書で捨象された戦前では「マイノリティー」の技術官僚が,戦後に主流になったということもある.) もちろん,影響力の大きさを考えると,宮本武之輔が重要であることは事実.
  • 開発レベルではなく,技術の利用まで考えると,「日本的技術」と言える範囲は広がるのでないか?(ex 特攻機) レーダーを利用しなかったから,「人間の目」が使われた.
  • 「日本的技術の思想」に内実があったかどうかは別として,それがどう機能していたかは分析できる.