yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 16.

Chapter 16 Momentous Events (pp.136–142)

 

 Momentous Eventsとは、(第一義的には)タイタニック号沈没事件のことである。タイタニック号の事故では、無線が人命救出に役立った側面があり、世論一般としては称賛されたようである。だが、その後の調査によって、無線電信員のオペレーションに関する欠陥や、アマチュア無線家による混信の問題などが明らかにされていった。タイタニック号事故の後、国際会議では船舶無線を含めた船舶の安全走航に関する国際的なルールが決められていった。

 

  • 「テレフンケンの壁」に対する戦いと時を同じくして、改革に積極的な新任者であるアイザックがさまざまな変革を行っていた。一つは、”The Marconi Press Agency”株式会社を発足させ、無線関係の公的なアイテムを普及させるプロジェクトを始めた。1911年初頭までには、The Marconigraphという定期刊行物をスタートさせ、その後、1913年4月にThe Wireless Worldというタイトルに変更された。
  • マルコーにはGlace Bayとクリフデンの無線局の改良に忙しかった。1910年9月までに、クリフデンのλは6000mまでになり、ラウンドとともにブエノスアイレスに向かう途上で通信範囲の試験を行なっていた。この頃、マルコーには大西洋横断無線通信サービスという夢が、英国帝国と世界とを結ぶ局の鎖という夢に置き換わっていた。そして、この途上試験では、昼間は4000マイル、夜は6775マイルの範囲で通信できることを示した。
  • 1911年11月19日にはイタリア国王の前でColtanoにある500kw局の演示を行ない、クリフデン、Glace湾と通信できることを示した。翌月にはAnconaにある受信局が、ポルデューとの電信のやりとりを行うことができることもわかった。
  • ブエノスアイレスの途上試験で得られたデータは、帝国無線スキーム(Imperial Wireless Scheme)の提案にとってのベースとなる目に見えるデータを提供した。この計画は、1911年3月に行われた帝国無線会議で議論され、帝国無線システムの構築と、それは国有化されるべきだということが決定された。
  • テレフンケンとの「戦争」は休戦状態に入り、帝国無線スキームはマルコーニ社にとって好ましい方向へ前進させていた。アイザックはさらに従来の工場では生産が間に合わないということで新工場の設立を提案した。1912年6月には国際無線電信会議がロンドンで開催される予定になっており、代表者のツアーに間に合わせるという具合にして取締役会を説得させた。その結果、New Street Works(工場)が新設され、1912年6月22日にはツアーが行われた。6月30日にはポルデュー局でもツアーが行われた。
  • さらにアイザックは、ロンドンに新しい本社を作ることも決めた。1912年3月25日に、ロンドンのストランドに「マルコーニハウスMarconi House」が新設された。
  • 1912年4月14日に起こったタイタニック号沈没事件は、その後の海上無線の組織に影響を与えた。無線電信が712人に命を救ったことも事実だが、(タイタニック号が発する救難信号を傍受せずに事態に気づかなかった)航行していた他の船舶の視界内で起こったにもかかわらず1517名の乗組員が失われたことも同様に議論の余地がない。
  • ほとんどの一般大衆は無線電信を称賛し、マルコーニは救助された人々のメディアとして寛大だったが、海事当局は浮沈と言われたタイタニック号の沈没のさまざまな側面に大きなショックを受け、一連の調査が開始された。そして黙っていられない事情が明らかにされた。
  • 事故当日(日曜部)の午後7時15分、Californianは近くに氷河があるという警告を無線送信していた。そして同じメッセージは同じ領域の少なくとも3隻の船舶によっても送信されていた。タイタニック号はこれらの伝号を認識していたが、高速で進行し続けた。午後10時30分、Californianが、氷河に囲まれ停止したという送信を行なった。タイタニック号はこの伝言も受信していたが、”Shut Up, I am busy with Cape Race”と返信した。そして11時40分にタイタニック号は氷河に衝突した。
  • 皮肉なことに、カリフォルニア号は沈没船を目前にしていたが、16時間連続勤務していた唯一のオペレーターが帰投したため、信号を受信することができなかった。また、2隻の船の間の角度のために、Californianは定期船の光と認識せず、ロケットの発射を報告したが、これは遭難信号とは認識されなかった。タイタニック号が送信したSOSおよびCQDは、ドイツのFrankfurtが受信した。ほぼ同時にCarpathiaの電信員が船長に非常事態を連絡し、タイタニック号の位置を知ることができた。
  • ここでも偶然が作用していたが、今度は幸福な偶然だった。というのもこのときCarpathiaの電信員は公式な任務時間にあったわけではなく、(タイタニックからのものを含めた)交通違反の通報の整理をすべくたまたま無線機の前にいたのである。避難信号を受信したのは午前12時20分だった。
  • 海事当局の調査が明らかにしたもう一つの事情は、夜明けの事件に際して、多くのアマチュア無線家たちが(善意をもって)通信に参加したことで、混信を生じさせ、メッセージの解読を不可能にしていたという側面であった。
  • 1914年1月20日に、ロンドンで国際会議が開かれ、16カ国が船舶の安全走行に関する74項目からなるルールに合意した。その中には無線に関する項目も含まれていた。
  • 50人以上を乗せる全ての商船には無線機の設置が義務化された。また船舶の分類も決められ、無線設備を伴う連続的な監視システム(continuous watch system)を維持しなければならないことになった。
  • “continuous watch system”とは、規定されたカテゴリーの全ての船舶は、少なくとも2人の電信員ないし、「認定された監視員(certified watcher)」を同乗させなければならないということを意味した。しかし、〔規定されたカテゴリーの船舶のみならず(?)〕無線通信機能を持つ船舶には何らかの方法で継続的に監視を行うことが望ましいと認識されており、この問題はタイタニック号の損失に関する貿易委員会の調査でも提起されていた。マルコーニは2つの提案を行なった。第一はクルーメンバーに緊急符号を認識することを可能にし、電信員が勤務時間外のときでもいつでも代理を行えるようにするもの。第二は、自動アラームシステムを開発することだった。
  • さらに、アマチュア無線家たちの混信のカオスをさけるためのより厳格なルールも定められることになった。つまり、特定の周波数の割り当てを行い、無許可での〔別の帯域への〕侵入を認めないとすることだった。
  • 加えて、大西洋における氷河の脅威に対して、アイスパトロール任務が無線サービスとして(米国を中心に)組織化されたことも事故調後の成果であった。これは現在の大西洋気象報告のルーツにあたる。