yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 17.

Chapter 17 “The Marconi Scandal” (pp.143–148)

 

  本章で扱われるのは、1912年に生じた「マルコーニ・スキャンダル」と言われる事件である。帝国無線網(the Imperial Chain of wireless)の入札に不正があったとして保守党から追及されたこの事件により、マルコーニ社の帝国無線スキームは10年ほど遅れることになった。事件の全容を調査すべく特別委員会が設けれたが、同委員会が作成したレポートでは、他の競合会社のシステムよりマルコーニ社のシステムが確かに信頼性があるということを述べていた点は注目される。

 

 

  • 1912年にマルコーニ社は帝国の無線網の契約を受け、3月には入札(tender)がおこなわたものの、深刻な障害物がそれを妨げることになった。というのも帝国の無線網計画は電信に関わるものでもあったので、英国下院によって承認される必要のある「定期注文(Standing Order)」という形になったからである。そしてその承認は、単なる形式的なものではなかった。
  • スキャンダルの背後には、長らく続く保守vsリベラル政党の対立が存在していた。保守党は、帝国の無線網の契約に関係していた3人、すなわち郵便局長のSamuel、検事総長Rufus Isaacs、そしてマルコーニ社の代表で兄弟のGodfreyがマルコーニ社にとって好しい契約を裏で行なったとして、その「政治腐敗」を問いただした。なお、この3人はユダヤ人でもあったので、人種的憎悪(racial hatred)も一つの要因となっていた。
  • スキャンダルは世間にも流布し、帝国無線網の契約はマルコーニ社によって置かれるべきではないという感情が強くなっていった。案件は、Outlookで連載をしていたLawsonによって、その後Eye-Witnessで連載をしていたCecil Chestertonによって公にされた。(「マルコーニ・スキャンダル」と命名したのはChestertonである。)
  • 抗議は深刻になってきたので、特別委員会が任命され、1912年5月25日より全容の調査が行われた。調査の焦点は、この契約が本当にマルコーニ社にとって好ましいものなにかどうか、そしてそのほかの競合会社のシステムは、マルコーニ社のそれよりも優位なパフォーマンスを示しうるかどうかという点だった。
  • 1913年4月30日に報告書が出され、帝国網の要件を満たすことができる確かなものはマルコーニ社でしかないと結論づけた。
  • 一方、次のことも事実であったようである。SamuelはRufus Issacsとともに同意に入った。Rufusの兄弟であるGodfrey は、マルコーニ社の社長(Managing Director)である。そして三人は同社の株をシェアしており、契約が合意され無線網について公になった6週間後に検事総長アメリカマルコーニ社の1000株を売却した。(ただし、スキャンダルの後、株は暴落したので大損失をした。)
  • 結局この状況は英国下院で話合うべきだということになった。結果、政府は78票の多数で勝利し、保守党による決議案(アメリカのマルコーニ社の共有に関する一部の閣僚の取引と、この件に関する閣僚の下院への連絡で示された率直さの欠如を遺憾に思っているという内容のもの)は346票対268票で否決された。
  • 案件が解決し、穏やかな時期が到来したように思えたが、マルコーニ社は無傷ではあり得なかった。さまざまな公聴会によって同社の活動は中止され、その結果大きな損失を生み出していた。加えて、WW1の勃発により、1914年12月には複数の契約が破棄ということになった。
  • マルコーニ・スキャンダルの発生によって、帝国無線のスキームは10年遅れるという運命を辿ったのである。