yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 8.

Chapter 8 Progress and Problems (pp. 85–92)

 

 本章ではやや時代を巻き戻して、世紀転換期におけるマルコーニ社の組織体制や人事について述べられる。同社は、子会社(マルコーニ国際海洋通信社)を抱えていただけではなく、各地に無線局が点在していたため、組織が拡大するにつれて「本社」との統合が難しくなる可能性があった。また、1901年にチェルムスフォードに電信員養成のための「マルコーニ大学(Marconi College)」が設立されたという点も重要である。これはおそらく後に「チェルムスフォード大学」と呼ばれるようになっており、1920sになると同校に日本海軍の技師が留学するというパターンが見られるので、資料の掘り起こしも含めて今後更なる研究が望まれるテーマである。

 

  • 1895年から世紀転換期までは、駆け出しのマルコーニ社における主たる活動は研究と演示であった。このことは、無線装置の能力が限られていて、かつ有線で繋がれた文明世界を説得させるために、そうせざるを得ない面があった。
  • 予算獲得を妨げていたのは、1868–9年に成立した電信法によって英国郵政省に与えられた独占権であった。このため、同社は陸上の伝言サービスを設立することができなかった。もしそれが可能であれば、価値ある「ショーケース」の役割を果たしていただろう。
  • 袋小路の末、同社は船舶無線から収入を得るしか可能性がなかった。すでに述べたように、1900年にマルコーニ国際海洋通信社(MIMC)を発足させていた。だが、子会社を設立することは万能薬ではない。というのも、電信法は陸上でなくとも3マイルの範囲でサービスを制限していたからである。そのため、短い距離での通信に際して、船のオーナーがマルコーニ社の装置を購入し、陸上基地との通信を行うことはできなかった。よって、MIMCは送受信機を「貸与」するというビジネスを展開せざるを得なかった。そこには、メンテナンスだけではなく、航海する電信員のサービスも含まれた。最初のオーダーは、英国のLake Champlainという船だった。
  • 興味深いことに、陸上電信局の最初のオーダーの一つがハワイであり、Inter Island Telegraph Co.が設立された。1901年3月1日には、公的な電信サービスが始まった。さらに同社は電信オペレーターの訓練(モールス振動、電気理論など)の提供も行っていた。ハワイ局の建設においては、Grayが調査を行い、アンテナについて有益な知見を得ることができた。電信員の「一般守則(General Order)」は、やがてパンフレットの形で印刷され、同社の船舶–岸辺間の通信を操作する手続きマニュアルの先駆となった。
  • 米国では、ヘラルド紙が主催するヨットレースに際して、1901年8月に装置が導入された。
  • 当時、エンジニアとオペレーターは同船することが慣習だった。その結果、初期の船舶電信員は無線サークルにおいて著名な人物になった者がいて、その一人がチャールズ・フランクリンだった。
  • 1901年9月26日には、保険会社のロイドとの契約を果たした。1902年11月2日にはフランスのLa Savoieにも導入された(ブリュッセルの支店が注文を受けた)。さらに、英国のPhiladelphiaには、最初に”Tune B”が導入された。Tune Aはλ=100m、Tune Bはλ=270mという違いがあった。
  • 1901–03年にかけて、マルコーニ社は研究方面では、大西洋横断通信に関して、販売方面では船舶無線に力を入れるという状況だった。後者では、70隻、25局の設備を設置・建設した。1903年には、フランスにも子会社(?)を設立し、大陸への足掛かりを得た。
  • 注文数が増加するにつれ、会社のエンジニアや商業担当の組織も成長した。元々は、「兄弟の繋がり」とも言えるエンジニアがマルコーニの元で仕事をするという形だったが、それが1898年にチェルムスフォードの工場が完成して以降、よりフォーマルな組織になっていった。
  • 1900年にはMurrayが退社し、エクレス(Eccles)に引き継がれたが、彼も1901年に退社した。加えて、もともと期間限定で同意していたマルコーニの従兄弟であるデイビスも1899年にPageに仕事を引き継がせた。
  • 同社は著しく拡大しており、単純な管理体制では不十分な状況を呈し始めた。Bullocke、Hall、Pochinなど、人事も次々と入れ替わった。初期の混乱は避けられなかった。特に、創業メンバーからは批判を招いた。さらに、マルコーニ社は、一つの場所に根差すというよりもむしろ地理的にバラバラにならざるを得なかったため、独立精神の強い人たちは、本社の「彼ら」に友好的ではなかった
  • だが、1901年10月に加わったグレイ(Gray)は、新しい職場で存在感を示すのに時間がかからなかった。彼は、技術者が理解できる言葉で話すことができる人であった。
  • 彼の任命の直前に、見習いの訓練所がチェルムスフォードに移管され、1901年10ガチに、Marconi Collegeが設立された。これは、世界初の無線の大学と主張された。会社の成り行きが良くない最中だったが、この訓練所の設立はマルコーニの個人による実現であった。
  • 組織の再編成を背景に、マルコーニ社の基本的な商業的なパターンは同じだった。すなわち、多くの演示と少ない売り上げである。なお、その中には、陸軍の車両無線(移動可能な無線機)関連の仕事も含まれており、後にField Station Departmentと呼ばれる陸軍の要件を遂行することに特化した支部に繋がった。