yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 9.

Chapter 9 The Growing Competition (pp.93–99)

 

  第9章では、1903年に起きた、マルコーニ社にとってのgood news/bad newsが述べられる。後者(bad news)は、ベルリンで開催された国際会議で、同社の独占的方針(=マルコーニ社の無線を装備した船は同じく同社の無線としか通信できない)に批判が寄せられたことである。前者(good news)は、こうした批判にもかかわらず、イギリス海軍をはじめとする顧客から大口の受注を得たということである。 

  ベルリン国際会議は、電波という公共的資源を一私企業が独占している状況を是正しようとする最初の試みであり、かつ無線機の標準化とも関わる重要なトピックである。また、英国海軍の契約によるロイヤリティは総計26600ポンドに達していたという事実も興味深い。というのも、日本海軍が同じく同社の無線を購入した際に多額のロイヤリティを請求されたため、やむなく自国で開発を行わざるを得なかったエピソードが知られているからである。この例は、請求額の高さが国産化を促したことを示す事例なのかもしれない。(逆に言えば、英国海軍はそれだけの財力があったので、内部組織で開発するのではなくマルコーニ社に外注するという方針が定着したのかもしれない。)

 

 

  • 1903年は浮き沈みの激しい年だった。
  • 政治的・商業的な見地から、マルコーニ社はドイツと対立始めた。ドイツ政府は、無線電信は、ドイツ帝国が建設した植民地の愛ででの通信手段として、戦時に際して有用であるということを直ちに理解した。特にドイツの場合は、英国と異なって、本国と植民地の間が有線でつながっていなかったので、無線の意義は大きかった。それに加えて、有線はもし戦争が始まれば、英国によって切断されるという脆弱性があった。それに対して無線の場合は干渉されなかった。しかし、英国は無線において主導的な地位にいて、全ての基本特許(master patent)を握っていたのである。
  • 商業的にもドイツと対立していた。というのも、テレフンケン社は19C末よりスラビーアルコーブラウンシステムを通じて、無線器具の業界において世界市場を捉えようと努力していたからである。マルコーニ社はドイツの商業的利権にも影響を与えようとしていたのである。
  • 争いのもとは、マルコーニ社が同社の機器を設置した船舶は、同じく同社の無線機器を設置した船舶としか通信できないという方針を掲げていたことにあった。1902年にヘンリー女王は、ニューヨークからの帰路、スラビーアルコーブラウン製の無線がマルコーニの他局と通信できないということを目の当たりにしていた。
  • またマルコーニ社が無線の基本特許を取得している以上、ドイツ組織は法的措置に訴えかけられるような、英国製品と類似した送受信方を考案してしまう羽目にあった。マルコーニ社のリソースはそれらに訴訟を起こすほど十分なものではなかったが、そのことは敵意を消失していることを意味しなかった。
  • マルコーニ局とドイツに対する非協力(non-co-operation)は、1903年8月4日にベルリン国際会議(International Wireless Telegraphy Conference)を開催させることになった。そこでは、海岸局は全ての船からの信号の送受信を行うべきであること、その目的のために必要な全ての技術情報をプールすべきこと、などが確認された。そして英国とイタリアの代表者はこのプロトコルに条件付きで同意した。
  • このような商業的「戦争」があったにもかかわらず、マルコーニ社への注文は絶えなかった。1903年1月29日には同社はイタリアの郵政省と、ローマから175マイル離れたColtanoにおいて大電力送信局を建設する注文を受けた。そこでは14年間の独占権が認められた。このことは同社の受注に大きな弾みをつけることになった。
  • 1903年5月1日に、マルコーニはローマのQuirinalの夕食会で、ドイツ皇帝と同席することになった。ドイツ皇帝はマルコーニに、「私はあなたに敵意を持っているとは考えないでくれ、しかし私はあなたの会社の方針には反対だ」と述べたと言われる。
  • 1903年7月24日には、マルコーニ社は英国海軍から、一年間全ての特許の使用を認めてもらい、1日に12分間の大電力送信局の排他的使用権利を多額のロイヤリティと引き換えに提供してもらうという契約を結んだ。(金銭的な条件は、〔特許使用料が?〕合計2万ポンド、既存の32の海岸局の使用料が1600ポンド、11年間にわたって年間5000ポンドが含まれていた。つまり、総計£ 26,6000。)
  • これらの注文は、マルコーニに大西洋横断通信のサービスという夢へのやる気を新たにさせた。経験的に、長波+大電力=長距離通信という法則が確証されていた。ポルデュー局のアンテナは2000mを扱えるように改善された。
  • 1903年8月には3つのミッションを掲げて、マルコーニはニューヨークに向かった。
  • Lucania号での実験
  • ドフォレストの特許訴訟への対応
  • Glace湾でのアンテナの拡張と150kW発電機の設置
  • 彼は(3)に集中したかったが、(2)のためにニューヨークとGlace湾とを往復しなければならなかった。
  • さらに1903年10月には、英国海軍がポルデュー局がGibraltorと確実に通信できるかどうかの試験を行い、昼は600マイル、夜は850マイルでの通信ができることを確認した。加えて、1903年1月のセントルイス号事件、1903年12月8日のKroonland号事件は、それぞれ船舶無線は災害時に有効であっておもちゃではないということを示す次出来事となった。
  • このようにベルリン会議においてマルコーニ社の方針に疑問が呈されたのにもかかわらず、そのことは同社への注文に大きな悪影響を与えることはなかった。またマルコーニの研究、特に磁気検波器の商業化によって、彼の評判は海外の競争相手よりも高く保たれており、息をつく暇もない多忙な状態にあった。