yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 15.

Chapter 15 The Commercial “War” with Germany (pp.129–135)

 

 第15章では、マルコーニ社にとっても最大の競合相手であったテレフンケンとの戦争について述べられる。同社の脅威は「テレフンケンの壁」とも言われた。

 

  • 20Cの最初の10年間にわたって、マルコーニ社の規模は大きくなり、必然的に行政の複雑化を伴った。設立当初は、「発明し、特許をとり、開発し、販売する」という活動が目的だった。販売は「一度きりone-off」ベースで行われていた。しかし無線の有用性が確立し、設備が複雑化すると、エンジニアは一度きりの設置で実施していたような柔軟性は失われざるを得なかった。
  • 20C初頭の今ひとつの重要な変化は、他社との競争の激化である。そして欧州でも強敵はテレフンケンであった。マルコーニ社は何年にもわたって複数の基本特許を取得していたが、他の企業から特許侵害を受けていたということが知られていた。しかし、法的措置は高価であり、同社には延々と続く法的論争を終わらせる余剰資金はなかった。
  • 1908年にHallが社長を辞任した一つの理由も、マルコーニ社の特許に対する態度を巡った意見対立があった。Hallはなるべく特許関連の論争に同社を巻き込まないようにする方針を掲げていた。
  • しかし、1910年に社長(Managing Director)に就任したIsaacsは、あらゆる犠牲を払っても、7777特許を含めたマルコーニ社の特許権を強化することを意図していた。そして彼にとって最も大きな問題は、テレフンケンにどう対処するかであった。困難だったのは、民間資本によって支えられているマルコーニ社と異なり、テレフンケンは、ドイツ政府や銀行の支援を受けていたことである。そのため、マルコーニ社が他国市場に参入しても、すでにそこにテレフンケンが働いていたということがあった。こうした状況は、「テレフンケンの壁 “Telefunken Wall”」と呼ばれた。
  • 1910年にマルコーニ社はスペイン政府の関心を引き寄せようとしたが、すでにフランス政府と無線局の建設の契約をしていた。1910年の後半、マルコーニとアイザックマドリードに行き、テレフンケンの壁を目撃した。スペイン政府はテレフンケン志向で、陸海軍もテレフンケンの製品を装備していた。
  • スペインは巨額のコストがかかることに合意しない方針だったので、マルコーニ社はより寛大な契約を示した。1910年12月に、Compania Nacional De Telegrafia sin Hilosという新しい会社が発足し、18ヶ月で通信局の建設を行うことになった。
  • テレフンケンVS マルコーニの一つの戦場は、船舶無線市場にあった。ドイツの主要な2隻にはマルコーニ社の製品が、そのほかの船にはテレフンケン社の製品が設備されている状況であった。そのため、英国海峡を通過する際に、ドイツの船は英国の無線局と通信できず、逆にドイツの海域では、マルコーニ社の無線機はドイツと通信できないという問題が生じていた。状況は行き詰まっており、何らかの交渉が必要だった。1910年にドイツ政府はこれ以降、外国の無線機はドイツの船舶に設置できないと宣言したときに、危機に達した。
  • 当時、ドイツにおけるマルコーニ社の展開はベルギーの子会社を介して行われていたが、ドイツの宣言は、ドイツ船から同社の無線機を撤去しなければならないということを意味していた。まともな道は、テレフンケンと同意を行う以外に存在しなかった。そこで、1911年1月14日に、ベルギー=マルコーニ社が45%、テレフンケンが55%の利権を持つ新しい会社=DEBEG(1913年にSAITに変更)が発足した。
  • この一連の動きの中で、アイザックが複雑な商業的状況に対して処理できる人物であるということが示された。