yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 14.

Chapter 14 The Transatlantic Service Realized (pp.123–­128)

 

第14章は、1907年から1908年頃に焦点を当てる。マルコーニ社が「帝国無線」に乗り出し、南アフリカに局を建設し始めるのはこの時期からである。(帝国主義と無線というテーマ巨大な問題であり、とても本書ではカバーしきれない。) また1908年にはブラウンとノーベル物理学賞を共同で受賞した。ブラウンとの共同受賞という形には、さまざまな含意があると想像されるが、本書では特に深入りはなされない。ノーベル賞については、こちらの本を参照されたい。

https://books.fupress.com/catalogue/a-wireless-world-one-hundred-years-since-the-nobel-prize-to-guglielmo-marconi/2083

 

 

  • 1907年10月15日に決定的瞬間が訪れた。ClifdenとGlace Bayの間で通信が成功した。通信状況は完全だった。しかし、Glace Bay からN.Yへ送信するケーブルに問題があった。そこで多くの時間がかかってしまったのである。トータルでは、大西洋横断有線通信の方が早かった。
  • マルコーニ社はもはや「兄弟の繋がり」のエンジニア集団ではなく、株主が利益を期待する商業的組織になっていた。
  • 英国下院は、1906年に国際無線電信会議で決定された方針を認め、マルコーニ社の独占体制は崩壊した。
  • 1908年3月にHallは、社長(Managing derector)を辞任し、一時的にマルコーニが引き継ぐことになった。
  • 同時期の会社の財政は厳しかった。大西洋横断通信サービスも(先述の有線の問題があった)、Dalston工場(自動車部品の製造まで手を出していたがモーター市場が縮小していた)もペイしなかった。後者は閉鎖され、Hall Streetの工場を再度オープンした。
  • 外市場への進出が重要であり、1908年には無線電信電話ロシア会社(Russian Company of Wireless Telegraphs and Telephones)が設立された。
  • 同年初頭、マルコーニは、英国と植民地間の無線通信の可能性再度関心を寄せた。ヴィヴィアンは、タイムス紙に「帝国無線通信」を宣伝する手紙を送った。

→ヴィヴィアンは南アフリカに局(DurbanとSlangkop)を建設する仕事に従事した。

  • 1910年4月にGlace Bay 局が再度オープンした。
  • 研究サイドでは、Grayを中心にアンテナへの風の影響についての調査が進められ、分割された管型のアンテナ構造が採用され、風洞試験も行われた。これは”Gray mas”tと呼ばれた。
  • 英国海軍とも、艦船のコントールを目的として、英国海軍本部、Hornsae、Cleethorpesに新たに完全な局を建設する契約を結んだ。
  • 1909年12月に、マルコーニはテレフンケン社のコンサルタントであったブラウンとの共同で、ノーベル物理学賞を受賞し、ストックフォルムで演説を行った。この時期の会社は依然として浮き沈みが激しかったが、決定的な要素は、マルコーニという名前に連想される魔法の中にあった。彼がHallに変わって社長になったということは、株主への説得や同社の将来の進展にとって懸命な選択だった。