yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 13.

Chapter 13 More Inventions and Discoveries (pp.114–122)

 

 第13章では1905年から07年にかけて、連続波や無線電話といった新しいアリーナが開かれていく様子が描かれている。本章で技術的に重要なポイントは、disc dischargerである。だが、なぜ3つの円盤を回転させると連続波が生成されるのか、なぜ中央の円盤にスタッドを取り付けることで受信性能が向上したのは説明されていない。(ただし、放電面を回転させる=絶えず新しい放電面を供給し続けることで、減衰を抑えるという発想は全くおかしなものでもないと思われる。) おそらくは、こうした技術は理論ベースで開発されたのではなく、empiricalで試行錯誤の産物であったと考えられる。この点、鳥潟右一らのT.Y.K無線電話についても同様であろう。

なお、本書によれば、実用的な無線電話の開発は、1913年に真空管が取り入れられたときであると述べられる。T.Y.K無線電話の世界的な位置付けを考える一つの指標になるかもしれないが、T.Y.K無線電話の同時代的な性能の実際の評価はかなり難しいと想像される。同じ時期に他国でも無線電話の試みは行われていたが、質が十分ではなかったという状況にあった。では、この「質」は何を持って評価するべきなのだろうか? 通信距離なのか、音声の明瞭さなのか(どうやって測るのか)、あるいは操作の容易さなのか。

 

 

  • 1905年にフレミングが「サイモメーター(cymometer)」と呼ばれる持ち運びできる測波計器を考案したことで、インダクタンス/キャパシタンスを変えるつまみを調整するという簡単な操作で波長を測定することができるようになった。
  • 1906年マドリードで再び無線電信の国際会議が開催された。この会議では、1903年ベルリン会議の際に決定された、岸の局はその機器の種類に関係なく全ての船舶と無線で送受信することができるというルールを承認することになった。これは、事実上、独占体制を確立していたマルコーニ社から切り札(trump card)を奪ったことを意味していた。従来、船舶はマルコーニ社の機器のレンタル+電信員を提供することが普通であったが、この会議で承認された新ルールによって、特にドイツのテレフンケンがライバルとして現れることになる。
  • この会議では、また非常時の信号をCDQからSOSに変更することが公式に認められた。
  • 一方、Clifden局では次々と改良が行われていた。アンテナは志向性を持つ設計に改められ、送信機のキャパシターの構造も変わり、発電機も300kW(DC)+二次電池という方式になった。これによって、16hの操作が可能になった。
  • 1906年の重要な発明は、円型放電器(disc discharger)と呼ばれるものである。1907年9月に特許が取得された。当時すでに同調技術は実用されていたものの、電波は減衰波であったので、同調を平板化してしまい、不完全にしか機能しなかった。連続波を生成する何らかの方法が求められていた。そうすれば、受信機は希望の波長を、正確に、選択的に、受信することができるようになる。
  • 円型放電器(disc discharger)は、中央に金属の円盤を置き、その両端のスレスレの位置に極円盤(polar discs)と呼ばれる別の円盤を置く。極円盤の端はコンデンサーに繋がれ、そのコンデンサーの自由端の片方はお互いに繋がれ、他方はコイルに繋がれた。中央の金属円盤もLC回路に繋がれ、そのコイルはアンテナ回路とカップリングされた。こうして中央の円盤に高電圧をかけると、極円盤との間でアーク放電が発生する。しかし、これら3つの円盤を高速で回転させながら電圧をかけると、火花でもなくアークでもなく、200kc/s程度の連続波が発生するという結果が得られた。
  • もちろん、連続波の生成はマルコーニが初めて達成したというわけではない、1900年にはDuddellが連続波を作り出すことに成功していたし、ポールセンはさらに実用的な「ポールセンアーク」を考案し、実用的な電話機の開発を試みていた。しかし、連続波の生成は不完全で、かつ適切な変調方法を考案することが打破できなかった(insuperable)。
  • マルコーニが、新しい連続波の発生方法を発見したにもかかわらず、無線電話の実験に乗り出していなかったことは、驚き以外の何物でもない。しかし、ちょっとした騒動がマルコーニを無線電話の研究へ導いた。というのは、彼は連続波の生成を実現できたものの、円型放電器(disc discharger)の初期のバージョンでは、変調されていない搬送波はイヤフォンで聞き取ることができず、モールス信号を介在させてもすぐに認識できる受信を得られなかった。
  • そこで、マルコーニは改良型の円型放電器(disc discharger)を考案した。このバージョンでは、中央のなめらかな金属板の表面に銅のスタッドを一定の間隔で取り付けた。この配置により、連続波は定期的に遮られ(to interrupt the continuous wave periodically)、信号を磁気検波器や二極真空管で聞こえるようにすることができた。
  • ところで1906年末に、アメリカ陸軍のDunwoodieによって、カーボンランダム検波器が考案された。これはのちの鉱石検波器の普及につながる出来事であり、磁気検波器優位に揺さぶりをかける出来事でもあった。しかし、それはロバストでは必ずしもなかった。また、二極真空管も頑強ではなく、鉱石検波器や磁気検波器に比べてそれほど感度が良くもなかったので、マルコーニ社にとっては二軍(second string)だった。そのため、数年間は磁気検波器(Maggie)優位の時代が継続した。
  • 1906年のデフォレストがオーディオンの特許を取得したとき、もう一つの問題が発生した。発明当初のオーディオンは増幅器として十分に機能するものではなかったが、グリッドを追加したこの三極真空管は、〔潜在的に〕増幅・発振器として活用できるものであったことは確かだった。
  • マルコーニ社も第三電極を導入することに関心を持ち始めた。それ自体新型の発明としてではなく、オシレーションバルブのバリアントとして認められるべきだと考えた。またフレミング管の基本特許はすでに米国で成立していた。従って、マルコーニ社とデフォレストの間で特許係争が繰り広げられた。だが、皮肉なことは、この当時はまだ価値のない装置であった真空管をめぐってこうした係争が展開していたという事実である。真空管技術が商業的に価値のある案に変わるのは、1913–14年のことである。
  • 1906–07年頃に、マルコーニ社の中で無線電話の領域に入ったのは、J. ラウンドであった。彼は王立科学大学で名誉ある地位にあり、1902年に同社に入社していた。彼は1908年にアーク送信機を用いて、判別可能なスピーチの受信に成功したが、質は決してよくなかった。無線電話の実用は、1913年に三極真空管と繋いだ根本的に新しい発見がなされるまで待たなければならない。