yokoken001’s diary

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Baker(1970), Chapter 7.

Chapter 7 ‘ A transatlantic Service, but– ‘ (pp.74–84)

 

 第7章が焦点を当てているのは、マルコーニがGlace Bayにて大西洋横断通信サービスを開始する前後の時期である。ただし、疑問点がいくつか残る章でもあった。

この時期においてまず重要なのは、マルコーニが特許の出願をした「磁気検波器」であろう。これは電波が通過することで磁気化した鉄針が元に戻る(非磁気化する)性質を応用した検波器だが、細かいメカニズムは難しく、よくわからなかった。今ひとつは、時間帯によって信号の強さが変わるという事実の発見についてである。マルコーニ自身は太陽活動の影響に懐疑的だったが、ケネリーとヘヴィサイドは電離層の存在を提唱し、1920sに実験的に確証されることになる。しかし、そもそも数千メートルの長波は電離層とはほとんど関係ないのではないだろうか。長波であっても、電離層の状態が通信に影響することもあるのだろうか。

 

 

  • 1902年4月にアメリカから戻った後、Nitonで行った実験に基づき、同年6月12日に王立協会で「磁気検波器」(Maggieともいわれた)と呼ばれる新しい種類の検波器の説明を行なった。
  • 磁気検波器には、それに先行する成果がある。1842年のヘンリーは磁気化した鉄針はライデン瓶の放電によって非磁気化されうるということを示していた。1895年には、ラザフォードがその非磁気化した作用(agent)は高周波(ヘルツ波)であるということを述べた。そして彼が組み立てた装置では、高周波を受信したときにはいつでも針が非磁気化するということを見出した。だが、商業的な応用を妨げていたのは、一度非磁気化した針を再び磁気化するメカニズムが必要であるという点であった。これを改良したのが Wilsonであった。その後、ラザフォードが可動性の鉄帯を用いた改良型を考案した。
  • 1902年、マルコーニは2つの特許を取得した。第一は、固定された一対のワイヤーコイルと回転する磁石を使用するタイプ、第二は柔らかい鉄の線がつながっていて、互いに絶縁され、一対の永久磁石の極をゆっくり通過させるタイプ[i]だった。電線はポールピース(磁極片)を通過するところで、短いガラス管の中を通り、その上にラジオトランスが巻かれている。このトランスの一次側の端はアンテナに、もう一方はアースに接続され、二次側はヘッドホンに接続されている。
  • 磁気検波器は、コヒーラーよりも感度が良く、かつ信号がクリアであるため受信速度も向上した。
  • さて、1902年5月には、ポルデュー局において、ファン型のアンテナをフレミングが設計した発振回路を用いて、波長が1100mまで伸ばされた。この直後に、イタリアとイギリスの戴冠式でマルコーニの無線システムが用いられた。
  • マルコーニは商業的基盤を確立するという問題に直面していた。そのためには、商業的な双方通信システムを設立することが必要だった。このために、彼はGlace Bayにて新たな局を設置した。ポルデュー–グラス湾間にて、1902年11月28日に弱い信号の通信に成功した。12月5日には判別可能な信号の受信に成功した。しかし、夜間になると信号は受信できなくなってしまった。同じ条件でなぜ昼と夜で受信状況が異なるのか?その理由は電離層の研究が進むまでは明らかではなかった。マルコーニは、無線の場合は、その通信媒体が有線ケーブルとは異なる特徴を持つということに気がつき始めた。マルコーニは再度、報道をどのように扱ったら良いのか、困惑した。
  • 12月14日には、強い信号を2時間にわたって受信することができた。マルコーニはこの状況に賭けることに決めた。幸運なことに、15日の通信状況も良好で、タイムズ紙特派員のParkinを通じて記事が出された。12月21日より、通信サービスが開始した。
  • 翌年1月18日、たまたまその夜は天候に恵まれ、グラス湾に向けた通信がポルドゥで直接受信され、英国で初めて米国からの無線通信を受信した歴史的な出来事となった。かなりの世間の注目を集めたこの成果は、エドワード王の返答が有線電報で送られたという状況によって厳しく和らげられた。エドワード王のメッセージは、偶然にもマリオン郵便局の電信局が休みの日曜日に届けられた。そのため、月曜日の朝まで陸路でポルドゥに電報を送ることができず、会社はその遅れが国王に失礼にあたると考えた。従って、日曜に有線で送ることになったのである。
  • この不幸な事態はHallの説明によって可能な限り改善されたが、このチャンスを捉えてマルコーニによって過大な主張がなされたと批判する人を防ぐことはできなかった。にもかかわらず、会社はそこから利益を得た。英国とイタリアの王からは感謝の声を受け取り、タイムズ紙は称賛のレターを掲載した。
  • しかし、フルスケールでの大西洋横断通信サービスは未熟であり、更なる発展が本質的であるということは明らかだった。1903年3月28には報道サービスが始まったが、短命に終わる運命にあった。だが、アンテナデザインなどについてのデータは蓄積されていた。
  • (1)日没後に信号強度が増加する理由、(2)地球の湾曲に沿って電波が伝わる理由、については依然として謎だった。このことを説明するための理論が提唱されたことは自然なことだった。マルコーニ自身は太陽の影響に懐疑的だったが、この研究は英国のヘヴィサイドと米国のケネリーに残された。両者は、地表からある高さにイオン層が存在しそれが電波を再度地表に跳ね返る働きをしているという仮説を提示した。この説は1902年に出されたが、理論が正しいことが証明されるのは1920sに入ってからである。
  • 波長が送信条件に与える影響についても、1902年時点では十分に理解されていなかったが、フレミングは大きな屈折があるという観点から、より長い波長の電波を大西洋横断通信に用いることを提唱し、実際その有効性は実験的にも確かめられていた。Glace Bay–Cape Cod間の通信では2000mの波長を送信するように設計された。(1902年のポルデュー局では1100m。) 実験の結果は良好であり、Cape Cod局の出力も25kwまで上げる必要があると認識された。
  • しかしこの時点でさえ、大電力の送信局の建設が船舶間の通信を妨害するという批判が出ていた。そこで、フレミングはこうした疑問を晴らすための特別な試験をポルデューで行うよう、マルコーニから指示を受けた。フレミングはポルデューの送信設備を「妨害するもの」として、100–150ヤード間の船舶無線に影響しないことを示した。また1903年3月には同調システムの能力を示し、疑念を晴らすことに成功した。数ヶ月には類似の実験が英国海軍の前でも行われた。

 

 

 

 

 

[i] http://www.sparkmuseum.com/MAGGIE.HTM