yokoken001’s diary

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Saga, Chapter2-4.

 真空管の歴史を扱った最も重要な文献の一つに、Saga of the Vacuum Tube, Indianapolis: H.W. Sams & Co. 1977. がある。

 2-4章を読んだ限り、本書は図面が豊富で、真空管の性能に関する情報が詳述されている一方、真空管技術を取り巻く社会的背景の描写や、概念的な議論について不十分であるといった印象を受けた。

 やはり技術的な性能についての記述は細かく、おそらく日本語であっても理解するのは容易ではないと想像される記述が複数ある。

 特徴曲線、排気方法、フィラメントの素材、出力の大きさなど、真空管の性能に効いてくる諸要素について、わかりやすく解説した本があると良いと思う。

 

以下、読書メモ

 

Chapter2-4 (pp.30-72)

 

Chapter 2 The Engineer Enters the Picture, 1880-1900

 真空管やそれに類似したデバイスの特徴は、物理などの科学研究からではなく、工学の分野から調査が開始された。1879年にトーマス・エジソン白熱電球の製作に成功したが、初期の電球は時間が経過するにつれてガラス球の内側が黒ずみ、それによって効率が悪化するという問題点があった。エジソンは、この黒ずみ(deposit)は炭素であることを認め、なんらかの電気的プロセスにおいてフィラメントから放出された(“electrical carrying”)結果であると推測した。

エジソンは調査の過程で2つの重要な事実を発見した。一つ目は、ガラス球の内側に、黒ずみが生じていない、フィラメントの形に沿った明るい「影」があることを発見した。第二に、その「影」は常に正極に繋がれたフィラメントの側に生じることを見出した。

彼はさらに調査を進めるべく、電球の中に金属のプレートを挿入した電球を用いて実験を行った。エジソンは、このプレートがフィラメントの正極に繋がれている場合、真空中を電流が流れ、逆に負極に繋がれているときは電流が流れないということを発見した。エジソンはプレート-フィラメント間の電流を測定することによって、点灯回路(lightning circuit)における様々な電位の変化を検知することができると考え、この現象を応用した装置を直ちに”Electrical Indicator”と命名し、特許を出願した(1883年、12月15日)。

 1884年の秋にフィラデルフィアにて国際電気博覧会が開催された際、エジソンはこの装置を展示した。この博覧会では、新設のアメリカ電気学会(AIEE=American Institute of Electrical Engineers)の第一回会合が開かれた。この会合においてヒューストン(Edwin J. Houston)の論文「発熱電球の現象についての覚書」が提示され、エジソンの実験が広く知られるようになった。その後、のちに英国郵政省技師長になるウィリアム・プリース(William Preece)が積極的にこの議論に加わるようになった。プリースは英国に帰国した後、その現象についての数量的な測定を行い、1885年3月に王立協会にて結果を報告した。彼はここで、「エジソン効果」という用語を初めて使った。そして、彼は真空中の電流は電球の白熱の程度に比例することを報告した。

エジソン1881年に電灯事業を展開するために、ロンドン・エジソン電灯会社を発足させた。翌年にはジョン・フレミング(John Fleming)が同社に入社し、白熱電球に関係した様々な問題に取り組んだ。彼はエジソンと同様に、フィラメントの形状の「影」が生じることを確認し、これを「分子の影」と名付けた。1883年には「分子の影」ついての簡潔な論文を出し、1885年には完全な議論を提出している。さらに1890年には「電球の物理的問題」と題された講演を王立協会で行い、「分子の影」の発生理由について議論した。1896年にはフィラメントが80-122回/秒の交流電流によって白熱された場合、回路内の電流が一方向にしか流れないことを見出した。つまり、電球は整流器として作用することを発見したのだった。

 1880年代に入ると、工学だけではなく物理学の方面からも研究者が「エジソン効果」に関連した研究に取り組むようになった。ヨハン・エルスターとハンス・ガイテルは、白熱線による気体の電気化についての研究を始めた。ヒットホフは陰極線の実験を続け、電極から生じる気体によって真空度が下がることを確認した。シャウスター(Arthur Achuster)は1884年陰極線は高速で移動する負に帯電した分子によって構成され、その分子は気体分子が正と負の部分に分離した結果生じるというアイデアを提唱した。正に帯電した部分は負に帯電した陰極に引き寄せられ、負に帯電した部分が反対に退けられることになる。

 1895年にペリン(Jean Perrin)は、陰極線は負に帯電したものであることを実証した。さらに1897年にトムソン(J.J. Thomson)は、陰極線は負に帯電した粒子によって構成されるということを追認した。陰極線を最初に工学的測定に応用したのはブラウン(Ferdinand Braun)で、1897年のことだった。その後、ゼネック(Jonathan Zenneck)によって1900年にブラウンの管が改良された。

 

 Chapter 3 The Beginnings of Thermionics in Communications, 1900-1910: Great Britain

 

 フレミングの仕事は、熱電子管を無線電信に応用しようとした最初期のものだった。1899年に彼はマルコーニ社の技術コンサルタントになり、大西洋横断通信のための送受信機の開発に取り組んだ。当時、受信機はコヒーラーなどの不完全な装置だった。その後、その脆弱さと誤りの多い動作を改善し、磁気検波器が現れたが、この装置も感度が悪かった。そこで、フレミングはコヒーラや磁気検波器とは異なった種類の受信機の開発に取り組んだ。当時、最も感度の良い「視覚的」な受信機は、直流電流のみに対応したミラー・ガルバノメーターだった。彼はこの装置の高感度性を利用したかったが、そのためには高周波交流を整流する必要があった。そこで彼は数年前に取り組んでいた「エジソン効果」の仕事を思い出し、高周波においても同様に整流作用を得ることができるかどうかを確認した。1904年、彼は完成した装置を”オシレーション・ヴァルヴ(Oscillation Valve)”と呼んだ。今日では一般的に、電子を放出する管=電子管(electron-discharge tubes)は、フレミングヴァルヴの直系の子孫であるとみなされている。

 その直後にフレミングは、エジソン・スワン会社にオシレーション・ヴァルヴ用の新型電球を注文している。この電球は4Vで炭素フィラメントを使用し、フィラメントを覆うようにプラチナのシリンダー(プレート)が挿入されていた。英国では、この装置の完全な特許仕様書が1905年8月に出願され、9月に承認された。仕様書には、完全な整流作用を得るためには、可能な限り高真空である必要があると書かれている。なお、真空管を整流器として応用したのはフレミングが最初だったというわけではない。例えば、ヴィーネルト(Arthur Wehnelt)も、熱電子管と酸化陰極を発明し、ドイツで特許を取得していた。

 フレミングはさらに12Vで作動する炭素フィラメントを備えたバルヴの製作をエジソン・スワン会社に依頼した。このバルヴにおいては、陽極(プレート)はフィラメントと接触しておらず、ガラス球を通じて封入されたプラチナのワイヤーによって支えられていた。さらに彼は1906年に、振動バルヴは、高周波振動を数量的に決定する目的にも用いることができることを示した。

 彼はバルヴの特徴曲線を調査する中で、正極の電位が特徴曲線の下部で動作するように調整することができれば、信号振動はより大きな電流に変換されることを示唆した。そのことを踏まえて、1908年に彼はタングステンフィラメントの振動バルヴの特許を出願した。1905年2月に王立協会でフレミングが発表したアレンジメントと、米国のAIEEにドフォレストが発表したオーディオンのそれとが酷似していたことは興味深い。だが、ドフォレストは正極に電位を供給するために別のバッテリーを用いていたのに対し、フレミングは高圧フィラメント電池に電位差計を使用して対応する電位を得ていた。

 実用的な意味では、フレミングバルヴは当時の無線電信にはほとんど貢献しなかった。それは感度が悪かったのである。またマルコーニ社の方針で、ヴァルヴが一般的に普及することはなかった。それが持っていたかもしれない有用性は、感度を大幅に向上させたドフォレストのオーディオンの開発によって、すぐに覆い隠されてしまった。

 

Chapter 4 The Beginning of Thermionics in Communications, 1900-1910: United States

  

アメリカでは、ドフォレスト(Lee de Forest)が無線電信に大きな関心を寄せていた。ドフォレストは1899年にエール大学で博士号を取得すると、ウェスタンエレクトリック社に就職した。ドフォレストははそこで無線電話の研究をしていたスミス(Edwin H. Smythe)と出会い、彼と協力しながら新しい無線電信のシステムの構築に取り組んだ。彼らは”responder”という装置を開発したが、その過程で、ドフォレストは送信機が動作しているときに、部屋に置かれたガスバーナーの火が揺らいでいることを発見した。彼は1903年頃に、ガスバーナーの電気振動への反応を調べ始めた。そして1905年2月に、ブンゼンバーナーを用いたいくつかの装置の特許を出願した。そのアレンジメントは多岐に及んでいたため、特許は三つに分類された上で取得された。

ドフォレストの助手の一人であったバッドコック(C. D. Badcock)は、ニューヨークのマッカンドレス(McCandless)の事務所を訪ね、フレミングヴァルヴの複製を作るように依頼した。彼は申し出を受け入れた。

 ドフォレストの次の特許は、1905年の12月に出願されたもので、ブンゼンバーナーの炎を、一方向電導性を持つものとして説明した装置だった。それは整流器として動作した。仕様書にはフレミングのヴァルヴに似た白熱電球が書かれているが、これは明らかにドフォレストが、McCandlessによって複製されたヴァルヴを用いて実験を行っていたことに由来すると考えられる。

その他の特許仕様書では、フィラメントを熱するためのバッテリーと、2つの電極、そして陽極の回路に独立したもう一つのバッテリーから構成される”oscillation responsive device”が書かれている。この装置の特許は米国において1906年11月に取得され、彼自身「二極のオーディオン」と呼んでいた。

ドフォレストのオーディオンの発明について初めて公に発表されたのは、1906年の10月26日のAIEEの会合においてだった。彼の論文のタイトルは、“The Audion: A new Receiver for Wireless Telegraphy”である。最初はブンゼンバーナーの実験の説明から始めっていた。そして彼は無線電信に使用する新しい検波器の発明について説明した。それは、白熱灯のフィラメントを含む部分的を排気させたガラス球から成り、フィラメントの平面に平行に接続された2つのプラチナの「翼」に挟まれていた。そしてそれは、フィラメントから約2mm離れた両側にあった。また、彼はこの論文において、プラチナ、タングステン、炭素という3種類のフィラメントに言及していた。

 ドフォレストは、この論文の中でフレミングの仕事について触れてもいたが、オーディオンは整流器としてではなく、中継機(relay)として作動するものであると述べ、フィレミングバルヴと区別していた。彼は最初、二つ目の”cold electrode”をフィラメントとアノード(陽極)の間に挟むことで、オーディオンはよく動作するだろうと推測していたが、この配置だとフィラメントからアノードへ向かう「分子(particle)」が遮断されてしまうので、”cold electrode”をグリッド状にすることにした。

 それに応じてドフォレストは1906年11月25日にMcCandlessにグリッド状の電極を備えたオーディオンの製作を依頼することになるが、このとき、彼はドフォレスト無線電信会社と揉めていた最中でもあった。したがって、新型のオーディオンの試験は1906年12月31日になってようやく行われることになる。当時高校生であったホーガン(John V. L. Hogan)のサポートを得た結果、実験は成功し、1907年1月29日に特許を申請、翌年の2月に取得した。

 ドフォレストが三極真空管を初めて公開したのは、1907年3月14日、ブルックリンでのことだった。彼はその直後に、自身の特許権を保持する装置の製造・販売のために、ドフォレスト無線電話会社と、その子会社である無線電話会社を発足させた。この会社が製造した三極管を用いた受信機は、フロリダ州のKey Westにある米国海軍の無線局に備え付けられた(写真は本書63頁。)

1915年まで初期の三極真空管は、McCandlessによって製作されていた。しかし、ドフォレストから機械的な性能についての要求は出されなかった。最終的な排気はガイスラー・ポンプ(Geisssler pump)によって行われ、真空度は水銀がポンプのガラス管を通り抜ける音で判断された。そして、フィラメントが連続していること以外は、ことさら満たされるべき電気的要件は決まっていなかったため、一つ一つの真空管は全て違っていた。また1908年前後から、三極真空管の形が、シリンダー状から球状に変わっていった。これは、球状であれば電球の製造ラインで安価に生産することができるからであった。さらに1909年、高い電導性とエネルギーの出力を得るために、2つのグリッドと2つの「翼」を持ったダブル・オーディオンと呼ばれる高価な真空管が作られた。なお、真空管はテスト段階での動作性に基づき、XランクのものとSランクに分類された。

オーディオンが使用された検波器の広告が最初に現れるのは、1909年のModern Electrics誌の9月号の288頁目である。オーディオンは、アマチュア無線家用のRJ4(RJ=Radio Junior)と呼ばれた検波器の一部として販売された。

オーディオンの最初の特許のタイトルが「微弱な電流の増幅装置」であったのにもかかわらず、初期においてそれが増幅に使われたことはほとんどなく、もっぱら検波器として利用された。その理由の一つは、真空管の特性についての知識が十分に蓄積されていなかったことがある。また、音声周波数の増幅を得るための高周波結合が使用されていなかった点も原因だった。

初期のオーディオンのように残留ガスを含む真空管は、特に低い陽極電圧で作用した場合、特徴曲線上に敏感な斑点(こぶ)が生じた。これはガスのイオン化に起因していた。イオン化は空間電位の減少を引き起こし、その結果、陽極(プレート)電流の著しく増加させる。つまり、この斑点で作動させることができれば、検波器の感度を高めることができた。しかし、真空管のコンディションは不安定であったから、斑点を探すためには少しずつフィラメント電流とプレート電圧を変えていく作業が求められた。

 

 

Saga of the Vacuum Tube

Saga of the Vacuum Tube