yokoken001’s diary

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Gary L. Frost(2010), Chapter 1

Chapter 1: AM and FM Radio before 1920 (pp.12-36)

 

  第一章では、1920年代以前に存在していたFM技術について述べられる。一般的にFM技術は1933年にアームストロングが発見したと認識されているが、それは誤りである。Cornelius Ehretという人物は、1902年の時点でFMによる音声通信のアイデアを出していた。また、あまり言及されないが、ポールセン・アークはFM方式だった。だが、エレットが解決しようとしていた空電や雑音の問題は、間も無く発明された真空管指向性アンテナによって解消してしまったため、その時点でFMが普及することはなかった。また、ポールセンは電磁波の浪費を理由に、FM技術を好まなかった。

 実際、アームストロングが1933年に成し遂げたのは、従来主に無線電信の分野で普及していたFM方式を音声通信にも利用できるように工夫したということであり、そこに何か技術的に大きなブレイクスルーがあったというわけではない。むしろ重要なのは、1920年代までに形成されたアマチュア無線クラブの存在だった。クラブのメンバーや文化は、FM技術の実験・普及に大きな影響を及ぼした。

 

(以下、要約)

 1902年にどうしてFMラジオが登場したのかを理解するためには、当時の技術的な状況について知る必要がある。当時の無線通信機の基礎といえば、火花送信機とコヒーラが全てだった。そしてそれは、マルコーニが1890年代に発明した技術の可能性と限界を示していた。

  送信機はある閾値を超えると(ベルを強く叩いたときの音のように、あるいは石を池に落としたときにできる波紋のように)一瞬で消えてしまう減衰波(damped wave)を発生した。彼はモールス符号を送るために、大陸横断有線電信の変調方法を拝借した。電信員は電流が流れているとき(フルパワー)の「マーク」と、電流が流れていないとき(ゼロパワー)の「スペース」をともに電鍵の操作によって送信していた。事実上この方法は、(当時はそのような名称はなかったにせよ、)最大の振幅/最小の振幅(0)の二進法に基づく振幅変調(AM)であった。ただし、マルコーニが無線にこの方法を利用するに際して、改善されるべき点があった。すなわち、ドットを送信するために十分な減衰波を生成することができても、ダッシュを送信するために十分な波を生成するためには従来の火花放電を改良する必要があった。そこで彼は、火花ギャップに素早く自動的に再充電(recharge)することで、減衰波を連続的に発生できるに改良を加えた。

 マルコーニは、受信機としてコヒーラーを採用した。コヒーラーは閾値An以下の電流の電波を捉えた場合には絶縁状態にあるが、An以上の電流の電波を捉えたときには瞬時に導体となる装置である。そして、An以下になってもその状態が続くが、コヒーラーに物理的な刺激を与えると再び絶縁状態に戻る。なお、このとき閾値はAnよりも大きな値となる。したがって、コヒーラーはそれ自体では機能せず、コヒーラーに物理的な刺激を与えるバイブレーターや信号を記録するための印字機とセットで使用する必要があった。

 以上述べた火花送信機とコヒーラーがマルコーニのシステムの概要である。そして、これはHughesが言う”reverse salient (逆突起)”もしくはConstantが言う”presumptive anomalies(推定上の不変項)”に相当する技術である。すなわち、実践者らはこの二つの技術がいくら改良されても、これらに固有の限界を克服することはできず、前進し続けることはできないということを知っていた。コヒーラーは叩かれるたびごとに感度のレベルが変化するため、それまでは数メートルの位置にある送信信号のみに反応していたところ、今後はさらに遠く離れた音源からの電磁波が引き金となって導電状態になることがあった。電信員はこうしたコヒーラの気まぐれな反応に困惑させられた。加えて、デジタルな作用を示すコヒーラーでは、音の振幅に対応する変動を追跡できないため、無線電話の信号を受信することができなかった。火花送信機の方は、うまく行えば音声を送信することができたが、火花送信機もコヒーラも、ともに干渉をはじめとする電波放射に関する障害を免れることはできなかった。初期の無線家たちは電波放射の法則をあまり理解していなかったが、経験的に、二人以上が同じ波長で通信を行うと混信を招いてしまうことなどを知っていた。

 そこで、初期の無線技術において重要な役割を演じたのが「共振」であった。共振波長λと各変数との間には、λ=c/f=2πc√LCという関係が成り立つ。πとc(光速)は定数なので、この式は共振波長がコイルのインダクタンスLとコンデンサーのキャパシタンスCに比例するということを意味している。

 ただし、Hongが指摘したように、無線家(practitioners)にとって同調とは、数学的な原理というよりは入念な手作業(craft)だった。同調作用はおおよそLC回路のインダクタンスを変更可能なものとし、局の波長に共振するまでLを調整することによって達成された。同じことはキャパシタンスを変更することによっても達成することができる。

 さて、ほとんどの歴史家は、FMラジオは1933年にアームストロングによって発明された技術であると主張するが、実のところFMはそれよりも30年以上も前に、米国とデンマークの特許にすでに現れていた。その特許とはすなわち、1902年2月10日にフィラデルフィアのエレット(Cornelius Ehret)により出願されたFMシステムと、その7ヶ月後にデンマークのポールセンによって出願されたFMのアークシステムである。両者はお互いに、同時代人であるということの他には、ほとんど何も共有していなかった。そしてポールセンは磁気記録機などの発明で有名であったが、エレットは重要な発明をしたにもかかわらず無名であり続けた。

 しかし1959年のニューヨーク地方裁判所のパルミエリ(Edmund L. Palmieri)はアームストロングのエマーソンラジオに対する特許侵害を支持することを決めたときに、高帯域FMの新規性を否定するために、エレットの特許に言及していた。「エレットの特許は、電波の周波数を変えることによって送受信を行うことを意図した最初の特許の一つである」と。しかし、続けて彼は「エレットの特許はラジオ信号の空電・雑音を減らすといった問題に関する全てに何も教えてはくれない」と述べ、現代のFMラジオへの影響力を否定してもいた。エレットはチャンネルの幅を特定しておらず、また空電と雑音を減らすことを主張していなかったが故に、歴史の後景へと追いやられてしまったのである。

 この結論は、法律の範囲においては公平であろう。しかし、歴史家はこの評価を放置しておくべきではない。特許裁判では”winner-take-all”の決定を下すのであり、優先権が誰に帰属するのか、あるいは発明した技術が「作動」するのかどうかに関心が集まる。それに対して、歴史家の関心は、エレットは将来を見据えていたのか、彼の発明は当時の最新の無線技術の何を明らかにしているのか、彼のFMと後続のFMとの間に(もしあるとすれば)いかなる関係があるのかといった問題にある。

 エレットが残した資料はこの特許関係の書類が全てであるので、実際のところ、こうした問いに答えるのは難しい。しかし、Fergusonが述べたように、エレットの特許書を注意深く見ていくと、そこからは当時の人々が実用的でないと見なした事実以上の情報が明らかになってくる。

 彼がFM電信だけではなく、FM電話を発明していたことには議論の余地がない。エレットは発明の背後にある動機を明確に語っているわけではないが、明らかに彼は2つの困難を乗り越えようとしていた。一つ目はフェーディング現象であり、二つ目は無線電信電話による送受信であった。前者を乗り越えるために、彼はコヒーラーではなく、LC回路を伴った受信機を開発した。それはコヒーラのように電波の有無のみを検出する受信機ではなく、入ってくる電磁波をその波長に比例するように弱める装置だった。また、後者を実現するために、彼はマルコーニの技術を拝借した。しかしエレットの技術は、いくつかの点でマルコーニのそれとは異なっていた。まず、マルコーニのシステムでは、電鍵が押されている間のみ火花が生成される仕組みになっていた。エレットの送信機も同じく火花式であるが、それは(電鍵が押されていない間も?) 連続的に減衰波を生成するように工夫がなされていた。さらに、マルコーニのシステムは一つの波長しか備えていなかったが、エレットは2つの波長のどちらかによって送信する送信機だった。インダクタンスとキャパシタンスの大きさは不明であるが、おおよそ300mと320mの波長を使用していたと思われる。そして、300mは「スペース」に相当し、320mは「マーク」にそれぞれ相当していた。

 以上は電信符号の送信方法であるが、電話送信はやや異なる方法だった。エレットは、音声の急激な変化に対応して、その発信波長を瞬時に伸縮させるように工夫した。電話の回路がLC回路に結合されているため、音の瞬間的な振幅の変化によって、LもしくはCが変化するようになっていた。例えば、マイクが音を検出していない、つまり音の振幅がゼロの場合、送信機は310mの波長を送信する。しかし、最大振幅を検知する場合、インダクタンスは300m-320mに押されたり引かれたりした(?)。

  彼は数十年後のFMシステムを先取りしていた。マイクをコンデンサかインダクターに機械的に結合するという考えは、1920年代に出願されたほとんどのFMシステムに見られるものである。エレットはLもしくはCを変えることで周波数によって変調することに成功した最初の人物だった。(電信に関していえば、)マークとスペースが異なる波長に割り当てられていたため、受信者は送信者が単に一時的に通信を停止したのか、それとも電波を完全に閉ざしたのかを区別することができた。

 エレットのFMシステムは、それがいかに革新的な技術であっても、主に伝統的なアイデアから抽出されたものであるということを例示している。発明家は、革命(レボリューション)よりも進化(エボルーション)の方に傾いているのである。また、エレットのFMは、歴史的・文化的なコンテクストによって、技術的に解かれるべき問題の重要性がどのように変動するかということも示している。ある時点において喫緊の問題であると思われたものが、少し時間が立つと重要ではないと思われるようになり、革新家らはその解決法を放棄することがある。あるいは、他の技術がより効果的に同じ問題を易々と解いてしまうようになったということもありうる。エレットが進んでいた方向は間違っていたわけではない。今日でも、FMはAMよりも振幅の変動に対して鈍感なので、フェーディングの影響を免れ易い。ただ、数年後に、(真空管による?) 電気増幅や志向性アンテナの発明によってフィーディングの問題を十分に解決することが可能になったため、FMの重要性が低下したのである。

 さて、初期にFMを発明したもう一人の人物であるポールセンに目を転じよう。ポールセンが発明したアークは、前人未到のワット数で比較的歪みが少ない連続波を生成できる点で革新的な技術だった。アークそれ自体は1808年に英国の物理学者であるHumphry Davyによって電灯として発明されていた。そしてアークは聞き取れるシューという音(audible hiss)を出すという性質があった。William Duddellは1899年に回路内の間隙にコンデンサーを置くと、アークは大体均一なピッチで音を鳴らすということを発見した。実際には、アークは低い周波数の電流を安定化するためにチョークコイルを含んでいるので、コンデンサーは共振回路を完成していた。しかし、Duddellの装置は30,000cps以下の電気振動しか発振することができず、それは電磁波による通信に必要な周波数未満だった。

 1902年にポールセンとペダーセンは、水素ガスが充満している空間内に置かれた強力な磁界の中にアークを置くことによって、より高い周波数の発振が得られるということを発見した。そして1913年に真空管式の発信器が出現するまでの間、アークがもっとも優れた連続波発振を行うことができる装置だった。

 ポールセンにとってFMは、本当の解決方法というよりは、彼がAMを発明するまでの間に仕方がなく使用していた便宜に過ぎなかった。最大の問題は、アーク送信機の大電流だった。アークを動作・維持するには、アンテナ回路における電流を可能な限り維持する注意深い電信員を必要とした。振幅変調による変動(dips and surge)はアークを他の周波数にシフトさせてしまったり、同時に複数の周波数を持たせてしまったり、場合によっては動作を停止させてしまうこともあった。アンテナ回路の電流を変えようとすると、しばしば電鍵を横切るように高アンペア数の「二次アーク」が発生した。その結果、電流を突然開始/停止するようなモールス符号の送信は非常に小さなアークでさえも困難で、大きなアークであればなおさら難しかった。

 そこで、ポールセンはエレットの周波数偏移変調(FSK)を模倣した。彼は送信波の振幅を変えるのではなく、LC回路のインダクタンスか静電容量の値を変えることによって波長を変えた。エレットの発明と異なり、ポールセンのアークは見事に機能したが、ポールセンは周波数変調に対しては電波の浪費を理由に反対した。送信局は2つの波長帯を持つため、同じサービスに従事する送信局の数は半分にならざるを得なかった。彼がFMを批判したことは、この方法の発明が認知されなかった一つの理由であった。

 彼はFMを嫌っていたが、彼自身がAM変調に挑戦するまでの一時的な手段として、デンマークの送信局でこの技術を利用した。しかし、1909年にポールセンがエルウェルにアークの特許件を売却してからは、FSKへの忌避は意味のないものとなった。エルウェルらはFSKに対して実用的な視点から何の疑念をも持たなかった。

 第一次世界大戦までに無線家らはFSKを小さなシステムを除いたデファクトスタンダードであると認識していた。1921年に無線工学の教科書を書いたElmer Bucherは、アークにとってAMは非現実的であるとして、FSKに替わるものはないと見なしていた。

  1920年7月にWE(ウェスチング・ハウス)のナイマン(Alexander Nyman)はアーク式のFM無線電話システムの特許を出願した。変調の観点からすると、彼は何も新しい発明をしていない。彼がポールセンアークとエレットのマイクロフォン変調とを組み合わせた。ただし真空管が使用されていた点は新しかった。しかし、ナイマンは真空管を使うことで何を達成しようとしていたのか、そしてAMよりもFMの方が優れている点を説明していなかった。ナイマンも発明はエレットの無線電話よりもよく作動したが、WHの技術者らはAMに代わる技術を発展させることに急いでいなかった。よってエレットと同様に、ナイマンの発明も、その重要性にかかわらず、長らく無視された。

 1902年から1920年までの間に、FM無線電話はほとんど瀕死の状態にあった。しかしポールセンアークのおかげで、FMの無線電信は同時期に実用的な技術となって繁栄した。第一次世界大戦後に連続波の使用が一般的になると、FSKアークは事実上無制限のワット数で波長を変化させることができることを実証した。結局、ポールセンとエルウェルの無線電信は、エレットとナイマンの無線電話よりもはるかに広く直接にFM無線電話法(FM radio telephony)の道を開いた。実際、アームストロングは、最初のFM変調のユーザーの一人はエルウェルであると述べた。

 さて、1906年に発明された鉱石検波器ほどFMラジオの発展を加速させたものはない。鉱石検波器が発明されたことでラジオの価格は下がり、無線愛好家の数は増大した。そして、FM技術における重要な発明家は元アマチュア無線家である場合が多い。1906年の11月、12月にGreenleaf PickardとHenry Dunwoodyはそれぞれ独立に鉱石検波器の特許を取得した。彼らはその発明の背後にある物理学的な原理を理解していなかったが、両者はそれが整流作用を持っていたことを発見した。鉱石検波器はコヒーラーに比べて感度が良く安定性があり、価格も安く、外部電流を必要とせず、消耗することもなかった。

 鉱石検波器は技術的な効果を上回るほどの社会的な効果を生み出した。鉱石検波器は一ドルしかかからなかったので、無線受信機のコストと複雑性を減少させた。そして鉱石検波器の発明という技術的な変化は、当時起こっていた変化、つまりアマチュア無線家やそのコミュニティーの出現という文化的な変化と融合した。Susan Douglasは、無線という文化は、従来の自然と直接触れる原始的な男らしさから、都会的、機械的、組織的なアメリカ社会における男らしさへと橋渡しをするものであったと指摘した。

 当初からアマチュアラジオの文化を形成したのは組織ではなく、無線クラブだった。クラブやメンバーの正確な数は不明であるが、1913年頃には米国には350のクラブと300,000人のアマチュア無線家がいたと推測される。そして若いアマチュア無線家らの世界を広げたのは、無線雑誌と通信販売店であった。

 FMラジオの起源に最も関連のある米国ラジオクラブ(Manhattan-based Radio Club of America)のメンバーの多くは中産階級出身であったので、比較的恵まれており、新しい装置を購入することができた。1912年にクラブに加盟したアームストロングの父はオックスフォード大学出版の責任者であったし、ストークス(Weddy Stokes)の父親もホテル経営をする実業家だった。

 ラジオクラブはFM技術を形成し、それを促進した3つの特徴を作った。すなわち、(1)ラジオの社会的有用性を披露したこと、(2)政治的な活動を行なったこと、(3)商業的な利害を超えたアマチュア間での友情があったこと、である。ラジオクラブは1913年に最初の演示を行なったが、これは「米国における最初の放送電話( telephone broadcasting)の一つ」であるとも言われた。また、1921年には短波を使用した最初の大西洋横断通信に成功したが、そのとき米国側のオペレーターを務めていたのがアームストロング、スコットランド側のオペレーターを務めていたのは、1930年代にアームストロングのFM放送の忠実度の高さを公にしたゴドレイ(Paul Gadley)だった。またラジオクラブは、政治活動も行なった。ガンスバック(Gernsback)は1909年にアマチュア無線に関わる限りにおいて、不平等な法律に対して抗議をすることを目的に米国無線協会を発足させた。さらに、無線クラブの最も大きな強みは、アマとプロの両方を歓迎したことである。クラブは技術的な情報の共有を鼓舞し、独自の境界線を曖昧にし、知識の流通を促進させた。それが、一級の研究を行うことを目的とするプロの集団とは異なっていた。アマチュアラジオクラブは友情の雰囲気に満ちていた。専門的な技術、開放性、友情といったラジオクラブの伝統は、1920年代にどうしてFMラジオの実験が世界中の無線産業広まったのかを説明するだけではなく、1930年代にアームストロングの広帯域FMの発展・試験・促進にどうしてアマチュアとプロの両方が参加したのかを説明する。アームストロングの友人であったTom Styles, Jack Shaughnessy, Paul Gadley, Gerge Burghard, Carman Runyon Jr.は全てラジオクラブの長年のメンバーだった。そして彼らはアームストロングの試験をサポートし、場合によっては金銭的な支持もした。

 1933年にアームストロングが特許を出願したとき、実のところFMは新しい技術ではなかった。FMは無線電信においてすでに普及しており、それを音声変調の手段に適応するためには、少しの想像力しか必要としなかった。FMの前進にとって重要なのは、むしろ1920年以前に形成された無線技術を取り巻く文化であった。なぜなら、無線技術の最終的な形態は、アマチュアの伝統が深く影響した無線工学の同業者(profession)に負う部分が大きかったからである。

 

 

 

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