yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Hunt (1991), Intro-Chapter 1

Bruce Hunt, The Maxwellians, Cornell University Press, 1991.

 

電磁気学史の古典。読んでいないとまずい本。

 

Introduction (pp.1-4)

  • マックスウェルの電磁場理論は、19世紀だけではなくあらゆる世紀における最も顕著な知的達成であるとみなされている。晩年のリチャード・ファインマンは、人類の歴史の中で19世紀におけるもっとも重要な出来事は疑いなくマックスウェルによる電磁気学の法則の発見であると述べ、1860年代においてはアメリカの市民革命でさえ、それに比べれば取るに足りないとも述べた。1890年代半ばまでに、4つのマックスウェル方程式は、ニュートンの力学原理と並んで、物理学全般における最も強力かつ有効な基礎の一つであると認められた。そしてその頃までには、マックスウェル方程式は、無線通信という新たな技術の出現のみならず、電信、電話、電力産業において実用化されていた。
  • だが、マックスウェルの『電気磁気論』(1873年)には有名な4つのマックスウェル方程式も、いかにして電磁波が放射され検波されるのかというヒントさえも含まれていないということを知れば驚くかもしれない。1879年に彼が癌で亡くなったときたったの48歳で、『電気磁気論』の第二版の校正を1/4まで終えたところだった。そして彼の理論の「潜在的な(latent)」側面を掘り起こし、その含意を探索する作業は、主に英国の若い物理学者グループに残された。FitzGerald, Lodge, Heavisedeら(彼らはMaxwelliansと呼ばれた)は、ドイツのHertzの貢献とともに、『電気磁気論』にある豊かであるが手付かずの素材を、強固でわかりやすく、よく確かめられた理論(=今日「マックスウェルの理論」として知られるもの)へと変えていったのである。
  • マックスウェルの死後、「マックスウェルの理論」が辿った展開は、科学に共通して見られる際立ったプロセスを示している。すなわち、科学理論は一人の人間の精神から全てが生まれるのではなく、後の科学者らによって修正・再解釈され、その結果最初の姿とは大きく異なったものへ変わることがしばしばある、ということである。科学の世界では、理論の呼称にその創始者の名前をつける習慣があるが、これは科学的な成果の統合が達成されるまでの歴史的過程を無視している。
  • 本書の第一の目的は、「マックスウェルの理論」に統合されるまでの理論の形成過程を詳細に跡付け、”Maxwellianism”が多くの点で彼の後継者の仕事であったことを示すことである。
  • そして本書の第二の目的は、Maxwelliansを一つの科学者集団の展開とみなし、彼らがお互いにいかに刺激を与え、助け合っていたのかを示すことである。科学は、通常信じられているよりもずっと社会的で協力的なプロセスである。そしてその豊富さを捉える有効な方法の一つが、小集団の仕事を詳細に調べることである。本書では現存する書簡やノートに依拠して、彼らの思想や行動、その影響関係などを吟味していく。

 

Chapter 1 FitzGerald and Maxwell’s Theory

 

  • Maxwellが書き残した電磁気学に関する文書の最後のものの一つが、1879年の2月に王立協会のために準備をした査読コメントだった。それは、FitzGeraldによる論文に向けたもので、Maxwellの理論が彼自身の手から新しい世代へと渡る最も際立った時点を示していた。FitzGeraldによるこの論文は、電磁気学の理論を屈折、反射、光磁気のまで拡張するものだった。それは元のMaxwellの理論に重要な付け加えを行った最初の研究で、その後の電磁気学理論の発展に大きな影響を与えた。しかし、当初はいくらかの混乱があり、Maxwellもいかにして改善すべきかを提案していた。FitzGeraldはMaxwellの査読コメントを大いなる関心を持って読み、まるで本人と直接会ったかのような親しみを覚えた。これが真実であったとしても、Maxwellの影響は実際、死後の出来事となってしまった。王立協会のG.Stokeが仕事を先延ばしにしていたこと、Maxwellが病気の兆しが見えたことが理由で、その査読書は彼の死の2日後、すなわち1879年11 月7日に出版されたからである。

 

  • FitzGerald and Dublin School
  • FitzGeraldは1851年8月3日にダブリンで生まれ、Trinity College Dublin(ダブリン大学トリニティカレッジ)の申し子(product)であり、アイルランドプロテスタントエリート階級の小さいが活発な知的党派の一派だった。彼の父William FitzGeraldはトリニティーカレッジの道徳哲学の教授で、後にbishop of Corkを務め、1862年にはKillaloe を務めた。彼はアイルランドの顕著な高位聖職者とみなされ、著名な作家、形而上学者であった。彼自身に自然科学の才能ななかったが、母のAnne Stoneyとその弟George Johnstone Stoneyは物理学者であり、王立協会のフェローだった。母が亡くなった時、FitzGeraldとその兄弟は家庭教師に教育された。
  • FitzGeraldの才能は16歳でトリニティーカレッジに入学した後まもなく開花した。特に幾何学がよくできた。1871年に数学と実験科学を主席で卒業すると、「ダブリンの人たちが選ぶように」、フェローシップの獲得を目指して、幅広い読書コースに身を投じました。当時ダブリン大学のフェローシップは、終身のポストと、高額の給料、多くの時間が保証されていた。かなり厳しい試験があったが、FitzGeraldはそれをパスして1877年にチューターになった。
  • FitzGeraldの最も際立った点は、その知的能力の高さ=超自然的な機敏さだった。「彼は誰よりも頭の回転がはやく、独創的な頭脳の持ち主である」とヘヴィサイドは述べる。しかしそれは必ずしも利点であるだけではなかった。FitzGeraldは新しいアイデアを生み出しては決定的な結論にまで到達しなかった。彼はじっくりと腰を据えて包括的な理論を作り上げるのではなく、他人のアイデアを最も良い形で描き出し、良い仕事を鼓舞することができた。
  • トリニティカレッジのフェローシップ試験のための読書生活=受験生活は、彼の後の思考と仕事の深い影響を及ぼした。
  • FitzGeraldの時代にはすでにダブリン大学トリニティカレッジの数学的伝統は敬うべきものになっていた。現代的な反映はBartholomew Lloydによる制度改革にまで遡る。その改革で、ダブリンはケンブリッジと並行して、あるいはそれを超えて、「分析革命」が生じ、それによって1837年までにはダブリンを数学的な中心地になった。ダブリン学派からはハミルトン、MacCullagh, Humphrey Lloyd,Jellett, Salmon,そして FitzGeraldが輩出された。ダブリン大学の数学の学派は、ケンブリッジのより大きな数学派と繋がりを持っていたが、それとは独立した線を持っており、ケンブリッジ以上に大陸とのつながりを親密にしつつ発展していった。ダブリンにはケンブリッジのトライポス試験は発達せず、19C中頃までに英国の数学学校の悪い増加(plague)をもたらした偏狭な形式化を避けることができた。
  • ダブリン学派を形成したのは、MacCullagh(マッカラー)の仕事だった。彼の仕事の主要な特徴は、幾何学的推論の重要性を唱えたことであった。
  • マッカラーの短いキャリアの中で重要な業績は、物理光学におけるそれだった。フレネルの弾性個体エーテル(偏向現象を示す横の振動を説明するためのもの)は、1820-30年代に、フランスの学者らの仕事の中で、うまくいかなくなっていた。しかし、1839年にFitzGeraldは反射・屈折・偏向を含んだ結晶光学の複雑な現象の全てを、エーテルラグランジュ関数のための特定の形式を想定することから導きだされうるということを示した。(現代的な言葉で言うと、エーテル要素の位置エネルギーを絶対回転の二乗に比例させた。)
  • それは実験データとも符号していたが、媒体が回転弾性力を持つことが物理的に可能なのかを疑う人が多くいた。マッカラーはそれ以上説得力のある議論を提示することはできなかった。彼の回転弾性力への疑義は、ケンブリッジ大学の数学者であるGreenの1837年の論文によってさらに強められることになった。
  • 1862年にStokesが「マッカラーの理論は力学原理に完全に反する」と宣言したことで、さらなる打撃を受けた。グリーンの弾性個体ないし「ゼリー」の理論は、トムソンやストークスやそのほかの権威の心を捉え、30年間に渡って英国でマッカラーの理論を封殺していた。
  • しかしダブリンではマッカラーの理論はまだ息づいていた。それはトリニティーのカリキュラムにおいて古典として重要な部分を占めていたのである。FitzGeraldは1870sにフェローシップの試験の準備のためにそれに接し、トリニティーのシニア数学者であるHaughtonとJellettによって、ダブリン大学出版からマッカラーの論文集(1880)が出版されたことで、彼の理論は注目を集めた。1881年にFitzGeraldはその論文集の書評を書き、彼の光学理論を称賛した。序文の中で彼は「2,3の初歩的な方程式によって結晶光学現象を説明したことは、マッカラーの稀有な才能を示している」と書き、最近のマックスウェルの電磁波理論は、マッカラーの理論に再評価の基盤を与えていると書いた。マッカラーの方程式のための正当な物理的基盤を模索するために、FitzGeraldはMaxwell場の理論に回帰した。そしてこれは、両方の理論にとって遥かな帰結をもたらすことになる段階(step)だった。

 

  • 1870sにFitzGeraldがMaxwellの理論を取り上げたとき、それはまったく新規だったというわけではなく、(Maxwellの理論は)それよりも40年ほど前にファラデーとトムソンによる仕事にまで遡る。ファラデーは1830-40sに、電気粒子間の直接の遠隔作用の結果電磁現象が生じるのだとするオーソドックスな見方に反論し、周囲の空間を取り巻く「場」の理論を唱え、想像上の電気粒子の動きではなく、場の緊張や収縮に注目すべきだと主張した[1]しかしこの「場」の理論は、同時代の人間にとって、遠隔作用論と比較した際に曖昧でぎこちないものに思われた。1840sにトムソンが数式化に取り組むまで、それはほとんど前進しなかった。Maxwellが1850sに研究を始めたとき、ファラデーのアイデアの社会的地位は周辺的なものだった。
  • 1856年にトムソンが「ファラデー効果[2]」を動力学的分析に晒したとき、電磁場の構造の解明の主要な前進が見られた。ファラデーは1845年に、偏光のビームは電磁場におけるガラス片を通るとき、偏向の平面がやや一方偏ることを発見した。そしてトムソンは力線の周りを回っている”渦原子(molecular vortices)”によって電磁場が満たされているとすれば、こうした現象が起こりうると考えた。そして1861-62年にMaxwellが「物理的力線について」の論文の中でモデルとしたのは、このvorticesだった。このモデルは、静電現象と電磁現象とに一つの説明を与えることができ、磁場の生成や電流の誘導を細かく描写できた。それはまた重要な2つのアイデアを生み出した。第一は、電場の変化がおきているいかなる間でも、「遊び車の分子(idle-wheel particle)」が新しい位置に移動することが、一時的な電流として振る舞うということを示唆している点である。そのような「変位電流」がMaxwellの理論の核心だった。第二に、弾性渦の媒体の放射速度は光速と同じであるということを発見したことである。
  • Maxwell自身は、光学と電磁気学との統合を最も重要な発見の一つとみなし、それを「遊び車の分子idle-wheel model」以上の仮説的ではないものへと基礎付けたかった。1864年の「電磁気学の場の動的理論」では、変位電流や光の電磁気理論を含んだ彼の主要な結果を、ラグランジュの解析を行うことでエーテルのメカニズムの詳細を省いて導くことができた。彼はいつかエーテルの力学的構造が発見されることを望んだ。しかし、実験的な証拠によってより決定的なことが言えるようになるまで、彼は可能な限り仮説的ではなく、一般的な基礎として、電磁気学の法則を発見することが最善であると思った。
  • 1860年代に発表されたMaxwellの論文には彼の理論の主要な要点が全て含まれていたが、ただちにインパクトを与えたわけではなかった。彼のアイデアが注目を集め始めるのは1873年に出版されたTreatise以降であり、それもゆっくりと注目されていった。それはアイデアで満ちていたが、明確な焦点がなく、読みにくい本だった。彼自身のシステムを説明するというよりは、彼は電気科学についての包括的な扱いを書くことに取り掛かる必要があり、それゆえに、彼独自の決定的なアイデアが、雑多な現象についての長い説明の下に覆われて、見えにくくなっていた。ファラデー効果について扱ったということ以外に、彼は光の電磁気理論に彼の初期の仕事に付け加えるものはほとんどなかった。例えば、彼はいかにして電磁波が生じるのかという説明を与えなかったし、屈折や偏向現象についても扱っていない。もし彼が生きていたら事情は変わっていたかもしれないが、実際彼は18Cのキャベンディッシュの趣向の編集やケンブリッジ大学に新しいキャベンディッシュ研究所を創設することに時間を費やし、彼のTreatiseの2版の校正を1/4ほど終えたところで亡くなってしまった。Treatiseから一貫した理論を抽出し、汎用性のある形式に仕上げるという仕事は、Maxwelliansらに残された。
  • FitzGeraldは自分でTreatiseを読むことで、Maxwellの理論を学び始めた。1870sに彼が購入した本は現在も残っている。
  • 彼の最初の書き込みは初歩的なもので、専門用語や理論のキーポイントを明確にするためのものだった。彼はときどき誤読をしていた。しかし彼は徐々にMaxwellのミスを捉え始めた。電磁場の一般的な方程式の中で、FitzGeraldはこの部分にはのちの議論と整合していない箇所があることを指摘し、スカラーポテンシャルψの代わりに電気力Eが用いられるべきであると述べた。彼は1882年に論文を出版し、誤りを訂正した。そして1892年に出版されたTreatiseの3版に収録された。ψとEは等価であるとみなされることもあるため彼の指摘はマイナーなものに思われるが、この修正は移動する電荷(charge)の扱いや1880-90sに顕著になるそのほかの議論にとっては重要な示唆をしていた。さらに、このことは、ポテンシャルから離脱して、FitzGeraldとHeavisideがのちに主導することになる電磁力ベクトルの方向へとシフトすることを予見していた。

 

  • Reflection and Refraction (反射と屈折)

 

 

  • FitzGerald Achievement
  • 反射と屈折、Kerr効果についてのFitzGeraldの業績は、2つの点でMaxwell電磁気学論を強化した。第一に、それは旧来の弾性固体理論がそうであったのと同様に、Maxwellの理論は全ての通常の光学現象を説明できるということを実証し、重要で新しい現象にも適応できるということを示した点である。第二に、それはMaxwellの理論と弾性個体エーテルとの間の不一致をさらにはっきりと示した点である。Maxwellの理論が生き残るためには、弾性個体エーテルへの依存を断ち切る必要があった。FitzGeraldは王立協会に提出した論文の最後で「もしこの論文が我々に物質的なエーテルのしがらみから解放することへと導くのであれば、それは自然の理論的説明におけるもっとも重要な結果を導くかもしれない。」と書いている。それは、エーテルがまるである種の「ジェル」とか、弾性個体物質として取り扱う「物質的な」エーテル理論への反対キャンペーンの始まりであった。ほかのMaxwelliansらと同様に、FitzGeraldはマックスウェルの理論の適するエーテルの種類を考案することを求め、変位電流の概念の新しい、less literalな解釈をしようとした。彼は1880sにおける、マックスウェル理論の物質的概念や、エーテルの機能変容するプロセスの最中にいたのである。
  • このようなアイデアの転換は、人員とも関わっていた。英国においてMaxwelliansらが姿を現し、電磁気学の研究を主導し始めるのは1870-80sである。Maxwell本人はすでに亡くなっており、トムソンやストークスといった長老科学者らは古い弾性個体理論に固執するあまり、新しいアイデアを吸収することができなかった。マックスウェルの仕事を拡張する課題は若手の科学者に残され、1880sまでにFitzGeraldは最も有望な後継者の一人として認識されるようになっていた。

 

[1] ファラデーらイギリスの物理学理論は、大陸の「遠隔作用説」に対して「近接作用説」と言われることもある。

[2] 磁性体中を直線偏光が通過した時に,光の進行方向と平行に磁界をくわえると磁界の強さに応じて偏光面が回転する。これはマイケル・ファラデーによって1845 年に発見され,ファラデー効果と呼ばれている。