yokoken001’s diary

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平野啓一郎『本心』を読みました。

『ある男』から三年、新作の長編『本心』が5月26日に刊行された。

少しだけ時間が取れたので、久しぶりに小説を読もうと思い、手にとったのが本作である。

 

物語は、今からおよそ20年後である2040年の日本が舞台とされる。AIやVRといったテクノロジーが日常生活を大きく変え、温暖化が深刻化し、経済格差が拡大し、さらには「自由死」と呼ばれる一種の積極的安楽死の合法が現実化したという仮定のもと、登場人物らが「愛」や「生」をめぐる問題に葛藤し、未来を切り開こうとする姿が、静謐な文章で丁寧に描き込まれている。

 

主人公の朔也は29歳。半年前に母を亡くした悲しみに耐えかねて、保険金から数百万円で、母親そっくりのVF(バーチャルフィギュア)を製作してもらう場面から物語は始まる。VFとは、AIとVRを組み合わせたテクノロジーで、母親のメールやSNSのデータや、開発後に読み込ませる情報によって学習し、VR上に生前の姿を再現するという製品である。

母親は生前、息子の朔也に、「もう十分」生きたということを理由に、自由死を望んでいることを告白する。朔也はその意向に反対し、自由死を望まないことを伝えていた。結局、母親は交通事故で亡くなってしまい、息子に看取られながら死ぬという最期の希望を果たせぬまま、見知らぬ赤の他人に囲まれてこの世を去っていった。主人公はそのことに心にわだかまりを抱きながらも、どうして母親はまだ70歳であるにもかかわらず自由死を望んでいたのか、それは自分が大学にも行かず安定した収入を得ることができず、経済的に追い込まれていたことと関係しているのか、あるいはもっと別の何らかの理由があったのか、その「本心」を模索するべく、生前母親と交流があった人々を求めて旅に出る。

 

作者本人の説明によれば、この小説は物語のストーリラインがはっきりとしており、その下にいくつもの社会的、文学的、哲学的テーマが積層的に隠されているレイヤー構造になっているという。

 

僕がそのテーマの中で特に興味を持ったのが、実質的に国の年金制度が破綻し、暴走する資本主義の中で経済格差が広がり、人々が毎日をなんとかやりくりするのに精一杯だという荒廃した「貧困社会」をめぐる問題だった。

 

朔也が母親の友達だった三好とかわす会話に、次のようなセリフがあった。

「でも、映画は実在しない世界だし、スクリーンの中にも入れないけど、あっちの世界には、ひょっとしたら行けるかもしれないでしょう?それが細やかな希望。ほとんど無理だって、わたしだってわかっているけど。」(p.179)

この小説では、こっちの世界/あっちの世界という言葉がたびたび登場する。

三好は、自分自身がセレブな生活を送ることなど、夢のまた夢であることをわかっている。しかし、この世界のどこかで金持ちが贅沢な生活を謳歌しているという事実が、それを妬むということではなく、彼女を安心させさえする。この心境は、不満足な社会にでも人間は容易に適応できて、反発する意欲が奪われてしまうという恐ろしい現実を描いているような気がする。

 

さらに、この小説ではフィジカルな肉体をめぐる問題も織り込まれているように思う。(このテーマは『かたちだけの愛』という別の小説でも相当に追求されていたと思うが。)

朔也の仕事は「リアル・アバター」と呼ばれる職種で、利用者に対して物理的な肉体を貸与し、「リアル・アバター」が行うものとほとんど同じ体験をVR技術を通じて顧客に提供するというサービスをおこなっている。また三好は元セックスワーカであり、文字通り自らのフィジカルな肉体を売ることを仕事にしていた。こうしてみると、二人のプロフィールには、どこか重なる点がある。

朔也も三好も、顧客から非人道的な危害を加えられるという経験をしており、特に三好の場合はそれが大きなトラウマとなって、彼女自身の生活に深い影を及ぼしている。

「次の客は、クソ野郎じゃなかったらいいなって、独りになったあとで、溜息を吐きながら思うところ。」(p.377)

VRの世界とリアルな世界との違いを考える際にも、こうした肉体の持つ意味が問われるはずで、気をつけて読めば面白い描写があるのかもしれない。(朔也が母親の身体に触れることなく別れてしまい、肉体を持たないVFではそのことは実現できないという記述は一例だろう。) 自分のものであるはずの体を売るということがどのような意味を持つのかということを、本作品を読みながら考えさせられた。ちなみに、この引用箇所は小説のラストシーンの小鳥のシーンと対照的な描写になっていると思う。

 

そして、本作品のおそらくもっとも重要なテーマは、「自由」とは何か、それは無意識的な強制を言い換えたものに過ぎないのではないかといった問題提起ではないかと思う。ここには、超高齢化社会が到来し年金制度が十分に機能しなくなった将来、「高齢者はいつまでも長生きするものではない」といった思想が、「自由」という言葉のもとに、人々に死を自発的に強制させることになっては決していけないという著者の警告があるように感じる。その一方で、自由死には、人生の最期を最も満足する方法で迎えるという側面もあり、その是非については簡単に答えが出せる問題ではない。

そしてそのことは、「最愛の人の他者性」、つまり愛する人が自分が積極的に後押しできない選択をしようとしていたときに、どう向き合えば良いのかという最終章のテーマとも関連する。

 

全編にわたって、主人公たちがこの世の中を変えなければならないという義務を感じ、積極的に行動に移す姿が印象的だった。とくに朔也がデモに遭遇し、本当は自分もあの集団に加わるべきなのではないかと自問自答するシーンには、共感する部分があった。こういった政治的な描写を好まない読者もいるかもしれないが、僕は社会性を持たない、完全に「額縁」の中で完結する作品には全く共感できないので、むしろこういうシーンに同調する。(エンタメと思って消費するのであれば別であるが。)

 

その一方で、近未来を描いているという事情からか、エピソードにやや人工的なニュアンスを感じる箇所が多くあり、その点前作の『ある男』の方が完成度そのものは高いように感じた。

 

 

本心

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