yokoken001’s diary

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Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (4)-1

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 4. 前半(pp.80-124)

 

 前章のヘルツに続いて、第四章ではオリバー・ロッジの業績を中心に論じられます。全体が約80頁もあるので、備忘録も兼ねて、まず前半までの内容をまとめておきます。(3節で Altenative path 実験とrecoil kick実験が登場しますが、あまりよく理解できませんでした。)

 

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 ロッジ(1857-1894)にとって、1888年のヘルツの実験の成功は、彼に個人的な無念さを引き起こしたことは想像に難くない。彼にとってヘルツは年下のライバル科学者であり、特に特別な設備を持っていたわけではなかったので、ヘルツによりマックスウェルの電磁波の生成と検知というロッジの最終目標に先手を打たれたのだった。1888年の秋、ロッジも似たような実験を行っていてその理論的含意は同じだったものの、彼の場合、実験器具はヘルツのそれより簡易的で、波を誘導する装置としては長いワイヤーを使っていた。

 しかし彼はヘルツに先を越されたことに立腹するどころか、イギリスにおける彼の業績の紹介に尽力した。具体的には、彼はヘルツの仕事の出版を支え、論文を翻訳し、彼の業績に敬意を払った。

 ヘルツは1894年に36歳の若さで亡くなっているのに対し、ロッジは1940年89歳まで生きている。その頃には既に長老の科学者として、若手の後援者と見なされていた。また、実証主義の時代にあって、彼の超能力への関心やエーテルの実在を信じる態度は、時代遅れとして嘲笑に付されることもあった。しかし、1888年時点では、彼はイギリスの若手科学者として将来を最も嘱望された人物の一人だった。ロッジは、ファラデー・マックスウェルの伝統において才能のある想像力豊かな実験家であった。

 1881年、ロッジはリバプール大学に新設された実験物理学の席に招かれたが、そこには以前精神異常者の保護施設(insane asylum)であった空き部屋を除いて、実験施設と呼べるものはなかった。当時の英国にはウィリアム・トムソンのグラスゴー大学の実験室以外にモデルになりうる実験室はなかった。彼は大陸に出発することにし、大学を回覧し、器具を購入することに決めた。その見学はとても有益だった。ロッジにとっての実験器具は、彫刻家にとってののみやかんなと同じく、アイデアを実在へと翻訳する手段であり、決して取るに足りない事項ではなかった。彼はケムニッツ(Chemnitz)で「売るためにではなく使うために」つくられた一級のライデン瓶を購入し、リバプールに持ち帰った。また、ベルリンでヘルムホルツの代わりに主人役を務めたヘルツともそこで出会っている。ケムニッツの人々とはその後もなんどもやり取りをすることになるが、ヘルツとは一回きりの出会いだったという。というのも、そのヘルツの業績が出版されるまでの間、2人の間での書簡のやり取りやアイデアを交換した形跡が残っていないからである。

 

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   ロッジはその後、電力貯蔵会社のアドバイザーとしてエンジニアらと親しくなり、彼の研究も実用的な側面が強くなる。特に、当時、避雷針の普及が急速に進んでおり、確実に機能するものが求められていた。当時、1752年のフランクリンの実験も経ており、雷がライデン瓶の中の電気と同じものであるということは知られていた。つまり、雷とは放電現象であるということは知られていた。ロッジは、さらにそれが交流である(oscillatory)であることも知っており、雲の間で素早く電位が変化していると考えていた。しかし、なぜ、いつ、雷のような強力な放電が起き、そしてそれはなぜ最も抵抗値の低い通路を流れていかなないのかということを理解することが課題だった。そして、その答えは誘導性リアクアンス(コイルのインダクタンスによる交流の抵抗)という概念にあった。1853年にトムソンによって「エレクトロ-ダイナミック-キャパシティー」という言葉で唱えられてはいたが、科学者のあいだでもまだ広く理解されてはいなかった。従来の避雷針は、数多の雲の中にある量の電気が蓄えられており、雲から大地へと容易に電気が流れるように低い抵抗値のワイヤーと導線、そして「排水管」をあてがうような設計だった。ここでの問題は雷の電流が直流として理解されていたことである。しかし、実際に起きていることは「パルス」と呼ばれる突然の電流の加速(acceleration)であった。その場合にはオームの法則は単純には成り立たず、低い抵抗値ではなく、低いリアクタンスが求められるはずだった。加速電流(?)(accelerating currents)は一定の速度で斉一に振る舞う電流の流れとは異なった振る舞いを見せる。そして、回路において適切なリアクタンスを配置することで特定の周波数の振動を生み出すということが、「同調」という概念全体にとって重要になった。

 

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 Altenative path 実験と、recoil kick実験

 

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 1878年にロッジは英国学術協会の会合でダブリンを訪問し、そこでフィッツジェラルドと出会っている。彼はマックスウェルのモデルによると、電磁波の放射は不可能である(?)との見解を持っていた。彼はヘルムホルツと同様に名声のある科学者であったため、彼の放射が不可能だとする見解は、ロッジにも影響を与えたと考えられる。だが、その後Rayleighによって単一な周期の電流(a simply periodic current)は、光のように波の振動(wave disturbance)を生成するという議論を提示した。フィッツジェラルドの誤った解釈のせいで、ロッジはヘルツに遅れをとったと言えるかもしれない。だが、フィッツジェラルドが1882年に過去の議論を修正したとき、リバプールに新しい実験室ができて二年しか立っておらず、大掛かりな実験に取り組むことができたかどうかは疑わしい。その後は、いかにしてライデン瓶とワイヤーから生じる周波数の交流を生じさせるかが実験の課題になっていく。

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  1887年に避雷針の実験に取り組んだ時、ロッジの頭の中には、実用的な関心と学術的な関心の両方が存在していた。避雷針の実験と、電磁波の検知という課題は、ここにきて初めて統一された。だが、ヘルツとロッジの実験は、第一にヘルツは伝播速度に関心があったのに対して、ロッジはマックスウェルのパラダイムを受け入れており、伝播速度は光の速度と同じであるという事実を前提としていたという違いがある。別の見方をすると、ヘルツにとって、ライデン瓶をダイポールアンテナにしたり、空中放射を試みたりすること自体に関心があったわけではなかった。そして、ヘルツにとって、商業的な利用は不快で気をそらすものだった。ロッジの場合に関しては、ヘルツの場合と違って、そこで純粋科学から技術や商業が生まれたという点が重要である。しかし、ロッジの二つの実験(Altenative path 実験と、recoil kick実験)が行われた1887-1888年は、通信に関して言えば有線の時代だった。そのため、彼の頭の中に電磁波を導線なしで伝達させるというアイデアは全くなかった。それゆえ、ヘルツの実験の衝撃は大きかった。

 

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主要な困難は、効果的な受信装置を作ることにあった。ヘルツの実験に関してロッジが強調したことは、ダイポールアンテナではなく、ループ状の受信装置の方だった。しかし、ロッジは既にのちに商業的に利用される「コヒーラ」の原理をすでにこの時点で発見していたということは皮肉である。彼は、わずかな火花が通過したときはいつでもa couple of little knobsが凝集し(cohered)、連結する現象を確認していた。1889年の時点でロッジはまだこれを受信機に応用する考えはなかった。だが、類似した現象は様々な形で観察されていた。最もよく知られていたのは、筒の中にやすりくずや粉を詰めたものに小さい電圧をかけると高い抵抗値を示し絶縁性を帯びるが、大きな電圧をかけると抵抗値が下がり伝導体の性質を持つようになるというものだった。そしてそれに物理的な刺激を与えると、再びもとの絶縁体に戻る。科学界がこの奇妙な現象にもっと受容的であったならば、ロッジは実験開始当初からこの検知器を利用なものにしていたかもしれない。というのも、1878年にDaivid Hughesが同じ現象を確認して、これを電磁波の検知に利用しようとしていたが、彼は科学界が注目しないことに落胆し、私的に研究を続けただけで論文を出さなかった。ロッジが彼の研究を知るのは、それから20年度のことである。フランスでは1890年にBranlyがコヒーラの実験を行い論文を出していた。彼は今日よく知られている形(tube型)を考案した人物である。が、彼の論文からはコヒーラの振る舞いの原理については曖昧にしか書かれていたことが読み取れる。高い電圧がかかったときにやすりくずの間に電流が流れることは容易に想像できる。だが、なぜ電圧が下がった後も抵抗値が低くなり続ける=伝導性を維持するのかという理由は説明できなかった。彼は、もしかすると電流が流れることで絶縁中間体が変容し、振動を与えるとか温度が上がるといった何らかの動作によってこの新たな絶縁体の状態が変わったのだと示唆するに止まった。伝導性が変容するのは、火花のせいなのか、ヘルツの波=電磁波のせいなのか?コヒーラは、物理的な振動を与えて元に戻さなくてはならないこと、伝導し始める電圧が具体的にわからないこと、コヒーラの静電容量が不明であるといった点で問題があった。そして、on/offのモールス信号ならいざ知らず、音声信号を復調することは無論できなかった。1889年3月に始まった王立協会での「ライデン瓶の同調」実験では、最初の実験には用いられなかったがのちの洗練された実験ではコヒーラが用いられた。この実験では、共振という直流の思考の枠組みでは理解できない現象を示していた。ロッジは回路の設計においてジレンマに直面した。それは、よく電波を放射する回路はよく減衰し、正確にチューニングできないということだった。逆に選択度の高い同調回路は、効率的に電波を放射できなかった。これをいかに両立させるかが、ロッジにとっての難題だった。そしてのちには実用的な面からもこの問題が解決される必要性が生じた。だが、1892年、利用可能な無線通信システムの実現という問題を解く個々の要素は出揃っていた。すなわち、ヘルツの発振機、ダイポールアンテナ、コヒーラ、そして同調回路である。ここに欠けていたのはビジョンだった。

 

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 そのビジョンを持っていたのは、William Crookesだった。彼は真空度の高い陰極線を発明した人物として知られる。(南アフリカを訪問していた最中、レントゲンによってX線が発見され、先を越されてしまった。)だが、彼には先見の明があり、無線通信を実現する構想を記事に書いていた。長い距離の通信を目指して火花放電とコヒーラを改良し、新たなシステムを構想していた人物は、イギリスのジャクソン、ロシアのポポフ、イタリアの若きマルコーニなど他にもいたが、Cookesの記事はタイムリーで触媒のようなものだった。その意味で、1892年は分水嶺となった年だった。以降、マクスウェル理論は、信号システムの装置、その発明と特許、商業的な技術の発展の案件となった。とはいえ、市場はどこにあるのか?これはCookesが答えることを要求されていなかった問いだった。彼が示さなければならなかったのは科学の不思議さであって、新技術の商業的な見込みではなかったからだ。

 

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 ではなぜ1892年を境に直ちに無線通信が事業化しなかったのだろうか。ロッジは、その理由として、第一に無線電信の商業的な搾取は少なくとの英国の科学者にとって適切な仕事ではなかったということ、第二に商業的な見込みに盲目で、大電力で長距離の通信を試みようとしなかった愚かさがあったと書いている。無線電信の商業的な見込みは、マルコーニにとって自明なことであっても、その他の人にとっては自明のことではなかった。ロッジは産業に疎かったわけではなく、実用的な側面に関わり商業的な利用を導いた事業にも携わっていた。が、彼は実用的な無線電信を構築するために必要な情報はすでに雑誌などで公表されているものだと思っていた。ロッジは彼の同調回路で特許を取得することも可能だったかもしれない。しかし彼は支配的な地位を獲得することはなかった。

 1894年6月に王立科学研究所(royal institution)で行われた「ヘルツの仕事」と題された講義が、翌月ではロンドンで「女性の座談会」が行われ、小さな受信機が披露された。ロンドンの講演では、ヘッドフォンに代わって「ミラーガルバノメーター」が利用された。同じような装置は、1894年8月の英国協会(royal society)の会合でも利用された。これは送信機を実験室内において、裏庭を挟んで180フィート離れたオックスフォード博物館で受信するという実験だった。電信システムの要素であるエキサイター(励振機)、モールスキー、受信機がそこには含まれていた。それゆえ、ロッジは実用的な無線電信機をデモンストレーションした最初の人物であると言えるかもしれない。それが本当かどうかは、実際に信号の伝送が行われたかどうかに関わってくる。ジョン・フレミングは1894年のオックスフォードの実験では伝送が行われなかったと、間違いなく記している。王立協会の6月の実験では電信の実験は行われなかったという点では、フレミングの書いていることは正しい。しかし、王立協会での発表は初めての公での無線電信のデモンストレーションだった。もしこれが本当であれば、(それを成し遂げたのはマルコーニであるという)定説は覆される。1894年の実験はモールス信号の伝送のために装置が用いられ、ヘルツの波を電信に応用したものであり、ロッジは無線電信の発明者と見なされうる。しかし、彼は、実験室を超えた場所で商業的にそれが利用されうるということに気がつかなかった。ロッジ、ヘルツ、マックスウェルは科学的発見を成し遂げた。そして、ロッジは科学的な発見を利用可能な技術へと翻訳することも成し遂げた。しかし、利用可能な技術と、商業的に利用可能な発展との間には隔たりがある。1894年の実験からは、それを橋渡しする志向は見て取れない。ここで欠けていた要素は、ニーズの知覚と抽象的な可能性を具体的な現実へと変換する駆動力だった。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)