yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

Hong, Sungook (2001). Wireless- from Marconi’s black-box to the audion, The MIT Press.

 

   本書は、ソウル国立大学の教授であるHong(洪)氏が、マルコーニの無線電信機から三極真空管までの無線通信の歴史を描いたものである。初期の無線通信史の先行研究としては、Aitkenによる『同調と火花』、『連続波』があるが、彼でさえも科学的・工学的実践の内実やその文脈を明らかにしようとはしなかった。それに対して本書は、実験的な側面だけでなく理論的な側面も含んだ科学的・工学的実践を詳細に分析することを目的とする。具体的には、マルコーニの初期無線電信に関わった工学者らの実践、フレミングの電力を無線電信に接続する試み、マルコーニの「4つの7」特許に表現されている同調の技術革新、フレミングの「エジソン効果」における一方向伝導性に関する研究、そして、ドフォレストの三極真空管の発明といった例を扱う。本書では、そうした科学者・技術者の実践を詳述することに加えて、科学と技術の境界を探索することも試みる。ここで重要になるのは、科学的効果を技術的な人工物に変革することである。本書ではいくつかの例をもとに、この変革のプロセスについて議論される。

 

 第一章では、物理学者らによるヘルツ波の視覚効果の研究から、マルコーニの電信までを追跡することで、無線電信の起源はどこにあるのかについて議論される。ここではマルコーニ以前に無線電信を発明した人々を、(1)英国のマックスウェリアンら、(2)1892年に無線電信のアイデアを詳細に記述したWilliam Crookes、(3)ヘルツ波による通信の実験を行なったErnest RutherfordとHenry Jackson、の三つのグループに分けた上で、彼らの仕事は全て電磁波を視覚的に類推することによって制約されていたということが示される。当時イギリスの電磁気学研究を牽引していたマックスウェリアンらは、ヘルツ波装置を電気技術装置と類推するよりも、光学技術と類推していた。例えば、ロッジによれば、ヘルツの受信機(resonator)は、「電気的な目」だった。またTrotterやThrelfallらの言説の中にも、彼らの実験が光学信号へ固執していたことがうかがい知れる。だが、それは同時に、ヘルツの実験器具を実用的な無線電信機へと変革させる上での制約にもなっていた。

一方のマルコーニは、有線と無線の間の相同関係(調和)を完全にすることに尽力し、そこから彼の発明の才や独創性が生まれた。マルコーニは、マックスウェリアンのパラダイムに属していなかったがゆえに、ヘルツ波を電信技術との類比で捉え、有線と無線の間の調和を徐々に完全にしようとした。その結果、彼は初めて送受信アンテナの一方を接地することを思いついた。これは、有線電信における「地帰路rarth return」から着想を得たものである。垂直アンテナの使用は、マルコーニが最初だったというわけではなかったが、結果長波を利用していることになり、その「地表波」の性質は、大西洋横断通信の成功へと導いた。

 

 第二章では、無線電信の発明をロッジであると見なす言説は、マルコーニによって英国の国益や英国科学者の地位が脅かされているという危惧を抱いたロッジの友人と彼自身によってでっちあげられたものであるということが示される。本章は、社会的なコンテクストから技術者らの振る舞いをとらえるという本書のアプローチが最も成功している章であると思われる。

 Aitkenによれば、ロッジの優先権に優先権があると見なす見解は以下の2つの証拠に帰せられるという。すなわち、(1) The Electrician誌上の記事(それは、1894年6月の王立協会と、同年8月のオックスフォードにおける実験で、ロッジはマルコーニによって特許権が主張されているところの技術とほぼ同じ送受信機を披露していたということを紹介している)、(2)1937年に行われたマルコーニの記念講演におけるフレミングの演説(そこでは「マルコーニは電磁波によってアルファベットの信号を伝送した最初の人物ではない」と述べられている)である。(2)にかんしては、フレミングは1894年の8月の会合に参加していないので、演説の内容は彼自身の記憶ではなく、ロッジの言葉であると判断されるため、決定的な証拠にはならない。そこで本章ではまず、ロッジの主張を、(1)オックスフォード講演でロッジは実際に電信の信号(ドットとダッシュ)を送信していた、(2)ロッジはモールス器具を準備していたが、聴衆に見せづらいためミラーガルバノメーターを利用した、という2つに分け、それぞれ真実であるかどうか検証する、そして、Hongは1894年の講演の目的は、全体として光と電磁波の関係、光の知覚と電磁波の検波との間の関係の調査にあり、彼が電信の信号(ドット/ダッシュ)を送受信していたという証拠は少しも存在しないということを明らかにする。ロッジは抵抗値の下がったコヒーラーを叩いて元の状態に戻すための機械仕掛けの装置として、モールス器具を用いていたに過ぎなかった。ロッジが無線電信の創始者であるとする言説は、むしろ1897年にマルコーニの特許が取得されて以降、「アンチMarconism」としてでっちあげられた主張だった。1897年以降、電信のヘゲモニーをめぐる「実践家vs理論家」という図式が生まれた。ロッジを発明者とする言説は、英国の国益が「実践家である」イタリア人マルコーニによって「搾取」されていることに危惧を抱いた「理論家である」マックスウェリアンらによって、マルコーニの特許を弱めさせようと企てられたのだった。

 マルコーニの独創性をめぐっては様々な議論が存在するが(彼は既存の発明品を組み合わせただけで、特に真新しい業績はないと見る方が妥当だとする言説もある)、1-2章を通じてHong氏はマルコーニの独自性を評価するスタンスをとっている。

 

  第三章では、フレミングの役割に焦点を当て、彼の動力工学を無線電信に接続する実験を通じて、マルコーニ社内での彼の信頼を高めることになったことを示す。加えて、理論家であるフレミングと実践家であるマルコーニとの研究スタイルの違いに注目し、それがときどき対立することになったことを確認する。

 1899年5月9日にフレミングは科学アドヴァイザーの仕事を引き受けるが、それまで10年間、UCLで電気工学のペンダー教授の下で研究をしており、90年代の関心は、動力工学(power engineering)と低温物理学だった。フレミングはまず以下の3つの仕事に取り組んだ。第一は、英国教会の年会におけるボルタの電流の発見の記念講演にて、マルコーニの器具を用いた演示を行ったことである。これにより彼は、マルコーニと英国の科学者コミュニティーとを橋渡しした。第二は継電器の発明である。そして第三は、マルコーニの特許に関して、「同調」の詳細な仕様書を作成するという仕事だった。これらは特に困難はなかったが、次にやってきた大西洋横断通信という課題は、挑戦的なものだった。

 2000-4000マイルもの距離を通信するためには、出力を数百倍にあげる必要があり、このことは従来のマルコーニの器具では不可能だった。そこでマルコーニは、フレミングの助けを得られれば、大出力の局を建設は可能であると考えた。このとき、レミングのpower engineering の知見が無線電信に接続され、インダクション・コイルといった実験器具から、工学設備へと装置が刷新した。

 だが、1901年7月のPoldhuとCrookhaven間の長距離通信の実験はうまくいかなかった。マルコーニはフレミングがPoldhuのシステムを彼自身のdisc dischargerを用いて修正していたことが気になっていた。そして重要なタイミングで信号が受信できなかったことを受け、フレミングによって設計されたdisc dischargerを不満な装置であると結論づけた。

 マルコーニとフレミングは異なった研究スタイルを持っていた。レミングはキャベンディッシュ研究所の出身で、正確な測定と数学的な熟考とを結びつける重要性を認識していた。そして1882-99年の間は強電工学を研究しており、マルコーニ社に入ってからは、その研究プログラムを電信技術へ応用した。それに対し、マルコーニは実践家であり、頑強な自己流の論理とある種の才能、忍耐力と集中力を駆使して試行錯誤するスタイルを持っていた。poldhuの実験でマルコーニはpower mechineryの設計をフレミングに委ねていたが、次第にそれはバッテリーとインダクションコイルの代わりでしかないこと、電信の原理には関係がないことを理解し始める。7月の実験の失敗は2人の間に亀裂を生じさせ、「jigger」(マルコーニが発明した高周波トランス)が導入されて以降、フレミングの役割は最小化する運命にあった。

 

 第4章では、1903年に起こったマスケリン事件(Maskelyne affair)を扱い、この事件を通じて、工学者の信頼がどのように形成され、消費され、そして突如として失墜するのかを考察する。

1903年6月4日、王立協会にて同調振動の送受信の条件について議論すべく演示を行った。マルコーニは大電力のPoldfuの送信局は他の低電力の局と干渉しないことを主張していたので、マルコーニの敵の一人であったマスケリンはそれが本当かどうか確かめるべく、演示実験の最中に自身の送信局から「rats」という無関係のメッセージを干渉させた。

 フレミングもマルコーニもこの実験が邪魔されることを予期していなかった。マルコーニもアンテナと受信機は7777特許に基づいた設計であるから、他のメッセージを拾うことは想定外だった。フレミングは、誰かが地電流によって干渉させたと推測していた。しかし、実際にはマスケリンは電磁波で妨害した。尤も、マスケリン自身もなぜ干渉させることができたのか十分に理解していなかった。マスケリン事件は、マルコーニの同調システムは、きちんと同調されていないシンプルな他の送信機とも簡単に混信してしまうことを指摘したという意味で、マルコーニ社に大きな打撃を与えた。1903年12月に更新されるはずのフレミングのマルコーニ社との契約は更新されず、事実上解雇されることになった。その後、フォレミングは再びロンドン大学のPenderの実験室に戻ることになった。彼はそこで周波数計測器と交流整流器とを発明することになる。1905年、これらの装置を携えたフレミングはマルコーニ社との関係を再構築することになる。

 

 第5章では、フレミングによる二極真空管の発明の物語を再考する。本章では、フレミングが研究を行なっていたマックスウェリアンの文脈、そして彼自身のマルコーニ社での地位の回復を試みようとした努力は熱電子管の発明の上で重要だったことを示した上で、valveを実用的な受信機に応用したのはフレミングではなくマルコーニであったことを明らかにする。

 エジソンの初期の電球の欠点は、時間がたつと電球の内側が黒ずみ、寿命を縮めるという問題だった。エジソンとその助手は、「phantom shadow」と呼ばれるカーボンフィラメントの白い影、つまり、その部分だけが黒くなっていない表面の一部があることを見出した。さ

らに、その影はフィラメントの負極側よりも正極側にはっきりと確認できた。しかし、彼らの目的はそのメカニズムを理解することではなく黒ずみを処理することにあったので、彼らは金属板(anti-carbon plate)を電球内に挿入した。1883年の10月、助手の一人はプレートに検流計をつなぎ(それはエジソンの研究プログラムでは自然なことだった)、プレートが白熱フィラメントの正極につながっている場合には数ミリアンペアの電流を示したが、逆にプレートがフィラメントの負極側につながっているときは、より少ない電流が流れたということを発見した。エジソンはこれを実用的な方法に応用し、主電源の末端を流れる電流を表示するためのレギュレータを開発した。

 1882年からフレミングエジソン会社の技術コンサルタントとして働いており、エジソン効果についても知っていた。1885年の二度目の物理学会の報告で、影は炭素と銅のいずれかの分子の投影によって生じたと述べている。しかし、ここには理論的な洞察はなかった。

1870年代の末に、ウィリアム・クルックスが、高真空状態では、負に帯電した分子が負極から正極へ進んでいるということを示していた(クルックス効果、分子衝突)。エジソンのランプもクルックスの管もともに高真空状態だったので、エジソン効果をクルックス効果になぞらえて理解する人もいた。しかし、フレミングは、エジソンランプの分子の影とクルックス効果のそれとの違いに気がついていた。現代の言葉でいうと、クルックスは陰極放電、エジソンのほうは熱電子放射ということになる。かつ、彼は電流が分子の運動に関係していることに興味を持った。というのも、マックスウェルの理解では、電流とは電気変位の変化であったからである。彼は、1885年にロンドン大学の教授になってからもエジソンスワン会社で測光標準ランプの組み立てを継続できた。1899年よりエジソン効果に関する一連の実験を行った。そして、フレミングエジソン効果を負に帯電した炭素粒子(molecular electrovection)の、負極側のフィラメントからプレートへの投射によって起こると結論づけた。フレミングの最初の関心は、空間の電導性を高めることであり、それゆえ、一方向電導性を軽視する方向性を持っていた。つまり、彼は一方向電導性を利用して人工物を開発するというルートとは異なる道を歩んでいた。しかし、1900年ころから電子の理論を採用し、そうしたマックスウェリアンへのコミットメントから抜け出したことで、初めてvalveの発明へと向かうことになる。

 フレミングのvalveの開発物語の正典は、(1)既存の検波器には問題があり、(2)1904年ごろに改良が求められ、(3)エジソン効果から整流器の改良方法を導く、という三段階の物語である。しかし、Hongは(1)1904年頃に本当に新しい検波器の需要があったのか、(2)1903年から1904年の間にフレミングは無線電信における検波器の研究を行なっていない、むしろ彼は高周波測定に関心を持っていたのではないか、(3)フレミングの回想では触れられていないが、彼はマルコーニ社において、どのような社会的文脈において研究を行なっていたのかという三つの観点から、この正典を再検討する。

 本章で重要なのは、フレミングが置かれていた社会的な文脈からこの問いに答えようとした点にある。1904年までに彼はマルコーニとの関係を取り戻すべく、何か便利なものを発明する重圧を感じていた。このプレッシャーが彼を、実験装置を技術的な応用物へと変換させた。その結果、生まれたのが、電波波長計(cymometer)と、熱電子管(thermionic valve)だった。

 

 第六章では、以下の二つの目的が掲げられる。一つ目は、ドフォレストが1906年末にどのようにしてオーディオンを発明したのかという問いに答えることである。特に、フレミングのvalveが彼のオーディオンにどう影響したのかについて批判的に考察を加える。第二に、電気アークにおける負性抵抗(negative resistance)から、アーク発振(生成)器(arc generator)、そしてオーディオンに至る連続的な過程を示すことである。そうすることで、1912年から1914年にかけて複数の工学者が(デフォレスト、アームストロング、マイスナー、ラングミュア、ローウェンスタイン、ラウンド)がほぼ同時に整流器としてのオーディオンを、増幅や発振のためのデバイスに変換させたのかという問いに適切な文脈を与えることができるという。

 ドフォレストはフレミングvalveが自身の研究の方向性に影響を与えたことを認めようとはしなかった。ドフォレストは期せずしてフレミングのvalveに近い”receptable device”を発明していたが(ドフォレストの整流器は、残留ガスのイオン化を利用するものだったため、気体の安定化を図るべく入れ物で電極を覆った)、この後は白熱電球の方が実用性が高いことを認めて採用していったと考える方が妥当であるとHongは分析している。ただ、彼の装置はvalve弁ではなく、中継機(relay)ないし引き金(trigger)として捉えていた点に根本的な違いがあった。

 ドフォレストは最初Audionは増幅にも使えることを主張していたが、増幅や発振用途として使われるようになるのは後年のことである。しかし、アーク放電以来、最大の問題は、いかにして連続波を発生させるかということにあった。その意味で、1913年頃に発振用途としてのaudionが複数の人によってほぼ同時に発明されたということは、ある意味自然なことだった。

 

 エピローグでは、全体のまとめを行う。本書は、複数の技術の複雑な奇跡とそれらの交差に焦点を当て、科学・技術者らがゆっくりと、ときにはやみくもに、科学的な効果や技術的な人工物を開発してきたのか、そして最終的にオーディオンにどのようにたどり着いたのかを描いた。技術だけが社会を作るわけではないが、技術が生まれると人々は新しい可能性について考え、選び、開発し、採用することを迫られる。異なった集団は各々技術に異なった関心を示し、そのことがしばしば文化的な緊張や社会的な摩擦を引き起こすこともある。

 1910年代に開発された増幅・発振用途としてのオーディオンは、連続波の送受信を早く、安く行えるようになった。従来の電力技術は巨大で高価だったが、オーディオン革命によって、だれでも簡単に送信局を持てるようになった。1920年代に入ると、今後は混信の問題、つまり周波数をいかに割り当てるかということが公共の議論の主題になった。そして、スーパーヘテロダイン回路、超再生回路、FM変調などの技術革新が起きた。オーディオンの発明後は、無線工学における理論と実践を再定義した。オーディオンのみがラジオ放送を作ったわけではない。他の社会的要因(第一次世界大戦、アマチュア、企業競争など)を過小評価してはならない。それでも、「オーディオン革命」は、確かにラジオ放送への扉を開けたのだったとして本書は締め括られる。(付録では、エーテル理論における地電流の理解について解説される。)

 

 

 

 本章のテーマの一つである科学・技術者らの実践=practiceというキーワードは、クーンのパラダイム以降現れた「理論」だけを追った歴史とは異なる新しい研究潮流を意識したものだろうか。本文ではその研究史にかんしては直接言及がないが、様々なコンテクストの中で彼らがどのように振る舞ったのか、あるいは振舞わざるを得なかったのかを分析した箇所は、Aitkenの先行研究にはなかった要素であろう。また、なによりフレミングやドフォレストの手書きの実験ノート等の未刊行資料を数多く扱っている点も、本書を一級の歴史書に仕立てているポイントである。本書では、Aitkenでは通説とされてきた理解に重要な修正を加えているため、無線技術史研究にとっては必読の本と言える。

 本書は交流理論についての知識がない場合、かなり読解に苦戦すると思われる。実際、僕自身も理解できていない箇所がたくさん残っている。ただそれにしても、「音声変調」の理論についてはほとんど扱われていない点は気になった。音声を搬送波に乗せる=変調する方式としては、AMとFMがあるが、アームストロングがFMを発明する以前は、基本的には全てAM方式でやっていたと考えて良いのだろうか。そもそも、AM方式はいつ誰によって考案されたのか。そして変調は、audionによる発振回路が発明される以前と以後でどのように変わったのか。本書を読んだ今、こうした疑問が生じてきた。

次は、時間が許す限り、Aitkenの『連続波』をがっつり読んでいきたいのだが(もちろん拾い読みしかできないかもしれないが)、この辺りのことを念頭にいれておきたい。