yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (3)

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014) , chapter 3 .

 

 

 第三章は、ハインリッヒ・ヘルツの業績を中心に論じた章である。彼は、マックスウェルの理論を実験的に証明したと言われる。この実験においてしばしば、光の速度と電磁波の速度が同じであることを証明したという事実に焦点が当たるが、彼自身はそれを意図して実験を行ったわけではなかった。また、ヘルツの実験において発生していた電波は超短波であったなどと言われるが、1888年の時点では、長波/短波といった概念は存在しなかった。科学・技術史において特に避けるべきことは、現代的な観念を過去に当てはめるアナクロニズムである。本章において著者は、可能な限りヘルツ=歴史主体の視点に立って、当時の歴史的文脈の中で実際に彼が何をしようとしていたのかを読み解こうとしている。(なお、この章ではある程度の物理学の知識がないと、内容を完全に把握することはできない。現時点では物理学に関する議論はかなりいい加減に書いているので、高校レベルの物理を復習し終わり次第、書き換えたいと思う。)

 

 第三章  Hertz

 

 ヘルツが亡くなった1894年、オリバー・ロッジは、王立協会の演説で、ヘルツが成し遂げたことを”The actuality of experimental verification”という言葉で表現した。彼が実際に検証したことは、以下の三つの仮説に関係していた。(1)電流を加速させることで電磁場が形成されること、(2)この場は空間中を伝播すること、(3)そしてその速さは高速と同じであることである。これらの問題は、遠隔作用や光の粒子説(/波動説)といった古くからある問いにも関わっており、マックスウェルの理論を受け入れる者は、それらの波は、負荷秤量エーテルの中に位置すると考えた。ヘルツはエーテル概念に懐疑的であったが、問題の本質に影響することではなかった。というのも、ヘルツにとっての重要な問題は、電磁波の伝播は有限なのかどうかということだった。その実験には、既知の周波数の電気振動を生み出す送信機と、それらを放射するアンテナと、検知する受信機、そして送信機から伝播した電波をあたかも「固まった」ように可視化する実験セットが必要とされた。特に、ヘルツは一連の定常波をつくることで、「固まった」波を作ろうとしたが、これは彼の実験技術の中で最もオリジナルな貢献である。

 意図的に電気を放電する技術は既に存在しており、ライデン瓶とインダクションコイルの利用が彼の実験において重要だった。前者は、電荷を貯める装置であり、現在のコンデンサーの先祖である。ヘルツの目的にとって本質的だったのは、これを単に使うことではなく、ライデン瓶に溜まった電気が瞬時に放たれることで何が起きるのかという知識だった。

彼はライデン瓶の放電は、交流であることを知っていた。つまり、彼は電気的な振動を作り出す方法を手にしていた。彼は漸進的に送信機を改良していき、最終的にはダイポールアンテナを考案する。ここでは、ライデン瓶の二枚の箔は、アンテナの二本の腕となった。このアンテナはインダクタンスとキャパシタンスを持っており、共振回路を構成していた。そして十分な量の火花がギャップに生じると、振動電流が発生した。電荷を貯める手段としてのライデン瓶は、電磁波を空間に放射する手段=送信機になった。

 ヘルツは、当時リュームコルフコイルと呼ばれており、のちにヘンリーが自己インダクタンスの理論を発見したことで完成された「インダクションコイル」も取り入れた。これは一次コイルと二次コイルの間の巻き数の違いから高電圧を発生させる装置である。これらの器具で実験を行うことで、彼はそれまで物理学者が自由に利用できる周波数よりもより高い安定した振動をつくりだしていた。受信機の方は、円型のループで、火花の強度を測定するため、micrometer screwを設置した。そして彼は送受信の「共鳴(resonance)」の重要性を知ることになっていった。このようにして、インダクションコイルによって拡大された火花ギャップを持つ送信機、ダイポールアンテナ、受信エネルギーを示すループ型の受信機ができた。彼はこの装置により、15m×14m×6mの部屋で、(さらに鉄柱が何本か立っている部屋)で実験を行った。長波を用いた実験がことごとく失敗したのは、この実験室の空間的条件であったと考えられる。だが、彼の実験のゴールは、伝播速度を計算することではなく、またそれが高速と同じであることを示すことでもなく、それが有限であることを示すことにあり、彼にとって周波数の測定と波長の測定は独立した問題であるはずだった。実験により、9.6cmの波長(35.7MHz)で、3.42×18の8条という速度の結果が得られ、高速の桁数と同じであることがわかった。ここでの目的は速度の測定ではなかったので、小数点以下は誤差として簡単に説明されてしまったのである。

 だが、本書の目的は科学者として彼の業績を捉えるのではなく、無線通信技術の歴史、とくに「同調」の歴史において、ヘルツの業績を捉えることである。彼の実験は、無線でのコミュニケーション技術の出現が直面した問題を我々に提起した。第一の問題は、送信機が伝播した電波の周波数の測定に関わる。インダクタンスとキャパシタンスから求める彼の計算は、のちにポアンカレが指摘するように、間違っていた箇所があり、「誤差」が生じることは必然的であった。(電磁波の伝搬速度が有限であることを示すという点では、このことは問題なかった。)だが、この問題は科学的なブレイクスルー、つまり公式の誤りも問題ではなく、実際的な問題、すなわち信号の周波数を測定し、維持することを狩野にする技術の発展が求められるはずだった。第二の問題は、実験室という環境に関わるものである。先述したように、ヘルツは実験室の性質が彼の測定にどれほど影響を与えるのかを理解していなかった。電波の反射や吸収といった現象は、決して自明のことではなかったのである。これは無線通信史の中で大きな教訓となった。資源としての電波の能力は、使用者がどこにいるのかという場所に依存する。「外側へと向かうフロンティア(第二章)」の前進は、各々の新しいスペクトラムの領域が通信に適しているかという知識を獲得する試行錯誤の試みだった。ヘルツが使用した領域は商業的な開拓者(マルコーニ)によってその見込みが理解されず棄却され、長波へとそのフロンティアが拡大していったことは皮肉である。

 第三は、単一の周波数に火花放電を同調させることに関わる。火花放電による電磁波は、一瞬の波であり、対数的に減衰(振幅が減少していく)していく波だった。また、周波数も単一ではなく、のちの言葉で言う「多共振」の波だった。火花放電は、本質的に単一の周波数を送信することができなかった。もちろん、中間回路を加えることで減衰の程度を抑えることができるが、単一の周波数のみを持続的に出すことはできなかった。本物の連続波の送信機は、スペクトラム上に、一つの「場所」だけを持つ。こうした連続波の生成の可能は、アーク放電高周波発電、三極真空管といった技術の出現を待たなければならなかった。それにより、必要なときに通信を中断したり、音声信号を変調させることもできるようになった。

 このようにヘルツの実験器具はマックスウェルの電磁理論を証明することを目的としたものであり、コミュニケーションの技術としては深刻な限界点が内在していた。不完全ではあるが商業的な展開を許すのに十分な解決策は、「同調」というアイデアであり、「同調回路」の採用であった。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)