yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Aitken, C.W , Chapter2

Chapter 2  Fessenden and the Alternator (pp.28-86)

 

 以下はかなり長文になっていますが、私が理解した範囲で、第二章の内容をまとめています。

(三章以降はもっと簡潔にします。)

 

 1899年11月22日に、Western university of Pennsylvania(現在のピッツバーク大学)のフェッセンデン教授は、「無線電信の可能性」と題された講演をAIEE(米国電気技師協会)にて行った。彼やその聴衆にとって無線電信といえば、ヘルツの実験で用いられた火花式のことを指していた。ヘルツの実験以後、受信機はヘルツのループ式からコヒーラが用いられるようになった。マルコーニがダイポールアンテナの代わりに垂直接地アンテナを利用することで、送信機の方でも、超短波から長波へと使用周波数がシフトしていた。さらにロッジは、送受信機でのエネルギーのやり取りを最大化するために、両者が同じ周波数に同調される必要性を主張した。しかしいずれにせよ、その技術はヘルツ式であり、キャパシター内のエネルギーを一気に放出されることで電磁波を生じさせる火花式であることには変わりがなかった。

 マルコーニの仕事に特に顕著であるが、1888年から1899年にかけてのヘルツ式の改良のほとんどの部分は科学理論に基づいたものではなく、経験的な、試行錯誤の結果なされたものだった。いくつかの例外を除けば、科学者コミュニティーもヘルツ波を信号伝送に応用するなどということに関心を寄せていなかった。

 フェッセンデンによる1899年の講演は、マルコーニのシステムを正面から攻撃したものではない。むしろ彼はマルコーニの仕事と電磁波放出の物理学的理論との間のつながりは薄いということ、特に測定が欠如していることを主張した。例えば、マルコーニが用いていたコヒーラーは、科学研究に適していない装置であった。なぜなら、それは電波が通過したかしなかったか、つまりon/offを判定するtriggerに過ぎず、受信信号の強度を測定することは困難だったからである。測定ができなければ、送受信の設計、電磁波放出、アンテナ、その他無線電信の実用化に関する研究を科学的に進めることは不可能だった。フェッセンデンが求めていたものは、数量的な測定ができる装置だった。

 彼の講演の聴衆には、科学者のマイケル・ピューピン、工学者のチャールズ・スタインメッツ(GEのラボのキーパーソン)、実地の仕事に関わっているW.Jクラークなど様々な人がいた。彼らはみな電気に関心を寄せていた。無線電信は電気を利用した新しい用途であり、理論化と実践家の両方に興味深い問いを投げかけていた。つまり、AIEEの11月の会合は物理学者と工学者の交流の場でもあったのである。フェッセンデンの検波器は、コヒーラに対する批判から生まれることになるが、ディスカッサントであったピューピンのコメントはその先の研究に明確な指示を与えたようである。

 フェッセンデンは、「無線電信の可能性」の中で、より良い同調を得ること、長距離通信を可能にすることが重要であると述べた。前者については、火花式で生み出される減衰波には複数の周波数が含まれており、それが同調を妨げていることが指摘された。つまり、可能な限り非減衰波を生じさせる技術を見つけることが要求されると説いた。ディスカッサントであったピューピンは、火花ギャップではないアンテナにおいていかにして発振を行うかということの具体的な提案はしなかった。彼が提示したのは、あくまで理論的なアイデアに過ぎなかった。彼はベルが一度鳴らされると、その後は自由(free)にされなければならず、そうすることで共鳴振動がゆっくりと消えていくようにすることができると述べた。しかし、振動をベルの音に喩えていることから、彼はまだ火花式に関する用語で思考していたということができる。次に後者について言えば、(音叉を例に取れば)、①音叉を強く叩く=出力を大きくする、②周波数を上げる=火花の連続(train of spark)をより素早い振動にするという可能性があった。ピューピンは、少なくとも一秒間に1000回の振動が必要であると主張した。彼はここでも火花式の用語で話をしていた。彼はマルコーニと同じマインドセット、つまり、ヘルツ波は火花放電によってのみ生成可能であるとの見解をもっていた。だが、火花式を高出力に移行させる際には、電極が融合する前にどのくらいの電力をスパーク・ギャップに供給可能かという実用的な問題が立ちはだかった。にもかかわらず、ピューピンもその他の聴衆も、火花式を棄却すべきだとは主張しなかった。

 ピューピンのコメントの中で最も重要な事柄は、ほとんど余談のように話されたことの中にあった。彼は、無線電信における波は、その他の電気工学における波のようにシンプルで、同じルールに従うということに疑問の余地はないと主張していたのだ。Power  Engineering と Radio Engineering との間は行き来するこができる、交流理論を無線電信に応用することができる、といったこの可能性は、マルコーニができなかったイノベーションを実現していく鍵となる。

 

 マルコーニの電信システムを構成する要素(アンテナ、検波器、送信機)はいずれも科学的な分析の結果選択されたものではなく、それが実際に動作するように思われたから選択されたものであった。しかし程なくして、マルコーニのシステムに関する理論的な合理化が見られるようになる。その中には、フレミングによる、ピューピンの見解と真っ向から衝突する主張があった。フレミングは、ヘルツ波はほかの電気的な波とは異なる特別な波であり、完全に単純な波ではないということを説いていた。

 フレミング1906年の論文「電信の電気的波の原理」の中で、高周波電流は何を意味しているのかということ、及び、減衰と非減衰波の振動の違いについて説明した上で、電磁波の波においても単に電気的な振動を生み出すだけでは不十分で、それが空中に放出される前に、突然の放電(sudden discharge)が必要であると述べた。そのような放出が起こる方法を説明するために、彼は“decussation”という物理的モデルを提示した。

 ダイポールアンテナの2つの素子に誘導コイルの二次回路に繋がれたとき、それらは電気を蓄え、片方は正の、もう片方は負の電荷を帯びる。これらの電荷がある閾値を超えたとき、ギャップの空間が絶縁破壊を起こし、火花が発生する。すなわち、正と負の電荷がもとの場所に戻ろうとし電気振動が起こる。この振動が十分に突然起きたとき、電磁波=変位波(displacement wave)という形でエネルギーが放出される。誘導コイルが動作を継続すると、振動放電のまとまり(group)ができ、波の連続は周囲の媒体を通って移動するか、広がるように放射される。フレミングは、この電気的な歪み(lines of electric strain)はエーテルの中で形成され、火花がギャップを飛び越えたとき、その歪みが内側へと崩れると考えた。ここからフレミングの”decussation”モデルの説明がはじまる。彼は、もしその放射がゆっくりで漸進的なものであれば、ひずみは内側に崩れるが、振動が十分に素早く起こった場合、歪み自体が十分にaccommodateできないと考えた。(※以下、理解不能。P.38)

 彼のモデルでは、火花が間隙を通過したときに、電気的な歪みがどのように生じ、空間に放出されるのかを説明している。だが、彼はこの説明を完全に快く思っていなかった。というのも、電気的な歪みを物理的な実在と考えることを彼に要求したからである。こうした理由もあり、1916年の論文の第3刷バージョンでは、

この”decussation”の議論は消去され、代わりに”kinks”の理論が挿入された。だがいずれせよ、フレミングは火花放電とエーテル理論をそのまま保持していた。彼のモデルは間違っていたわけではなく、不十分なのであった。とりわけ、彼のモデルでは、火花放電以外の方法で電波の放射のありようを記述することができなかった。それに対し、フェッセンデンはマルコーニのシステムを根本から変革し、火花式における思考様式を打ち破った。

 

 フェッセンデンは、1866年にカナダのEast Boltonに生まれた。そこは、フランス語を話すカトリック文化が支配する中で、英語を話すプロテスタントが飛び領土的に住んでいた地域だった。9歳のときに彼はオンタリオに引越し、軍の学校で一年間を過ごした。1877年にPort HopeのTrinity College Schoolに移り、14歳のときに卒業した。このときまでに彼が特別な技術的・科学的な才能という才能があったという記録はない。Trinity College Schoolでは古典と数学を学んだ。1881年に彼はBishop College Schoolの数学教師の職を得た。そこはBishop Collegeと連携していたが、彼はそこを卒業することは決してなかった。しかし、彼はそこで数学をさらに学ぶことができ、大学の図書館で数学の他、ギリシャ語やラテン語ヘブライアラビア語、そして歴史を学ぶこともできた。彼はとくにNatureやScientific American誌に興味を持ち、後者には正式に手紙を出していた。が、それは編集者に受け付けてもらえなかった。

 彼はBishop Collegeでの仕事を完全にこなしてしまうと、より収入の良い、より建設的な場を望むようになる。そして1886年に彼はニューヨークへと向かい、トーマス・エジソンの実験室に入る。これは小さな街から大都市への移行であり、教育者から研究者へのシフトを意味していた。

 なぜエジソンは無名の20歳の教師を雇ったのか。エジソンは単に学位を崇拝していたわけではなかった。そもそも1886年の北米で電気工学の正式な訓練を受けられる機会がほとんどなかった。彼は自分が科学的な研究を行う能力があることや、実験室で仕事に取り組むことができることを証明するものを持っていなかったが、彼には事業に協力してくれそうな以前からの友人・知人からの個人的な推薦があった。

 長期的に見れば彼はエジソンのもとで電気を学ぶことを望んでいたと言える。が、短期的に見れば、彼はジャーナリズムによって彼自身を支えようとしていた。彼はニューヨーク市長に立候補していたHenry Georgeにwriter(記者、著述家)として側近に加わることを望んだ。しかし、彼の申し出は実現することがなかった上、エジソンに直接接近することもできなかった。

 結局、フェッセンデンはエジソンのもとで仕事をすることができたが、それはエジソン会社が当時電灯の設置を行なっており、彼を電線管の検査のアシスタントとして雇ったからだった。彼の仕事ぶりが評価され、1886年に工事が完了すると、ニュージャージーにあるLlewellyn Park Laboratoryの助手に抜擢され、3年間エジソンとともに工業化学(industrial chemistry)の研究に従事した。彼にとってこのことは、エジソンを直接観察することができる機会を得たこと、図書館を利用できるようになったこと、アーサー・ケネリーをはじめとする他の実験室のメンバーと交流を持つようになったことを意味した。とりわけ、フェッセンデンとケネリーの交流は重要だった。(彼もフェッセンデンと同様にほぼ独学だった。) なぜなら、この時期にフェッセンデンは明らかに高周波交流に関心を持ち始めるからである。このことは、直流主義者のエジソンとの交流からは生まれ得なかったことでもある。

 もちろん彼がエジソンに感銘を受けたことはいうまでもない。彼はエジソンから、特許を取得することの重要性、体系的に調査を行うことの重要性、そしてシステム全体を構築するという実践を学んだ。これらのことは、のちのフェッセンデンの活動に影響を及ぼした。しかし、彼はエジソンの市場を崇拝する態度を学ぶことはなかった。エジソンははっきりと商業的な見込みがない発明には決して投資を行わなかった。彼は鋭いビジネスの感覚があった。エジソンもフェッセンデンも技術の最先端にいたが、前者が価格というシグナルに反応したのに対し、後者は技術的な難題それ自体に反応した。フェッセンデンにとって技術的な達成は商業的な成功の必要条件であっただけでなく、十分条件でもあった。それゆえ、彼は製品をどのように売るかという問題を解決することはできなかった。

 1889年エジソンは自身の会社を、慢性的なcash flowの問題を解決することを期待して、Henry Villardの指揮のもとへ、Edison General Electric Companyとして統合させた。しかし、彼の期待は裏切られ、収入は減り、社員をリストラせざるを得なくなった。そして、フェッセンデンもその対象の一人だった。彼は1890年に結婚もしており、お金が必要だった。そこで彼は米国電灯会社(United State Electric Company)のアシスタントの職を見つけた。このときのキャリアは、彼に交流機械の設計に関与させたこと、ウェスティングハウスとの出会いにつながったこと、そしてNewarkの図書館を利用できたという点で重要だった。そして、会社の資金でロンドンの新しい送信局を調査すべく英国を訪れることができたことも大きかった。彼は英国で、キャベンディッシュ研究所のトムソンと出会い議論した。また、Newcastleにて、新しい蒸気タービンを観察する機会も得た。この結果、彼はヘルツ波に魅了され、交流理論に関する体系的な知識を獲得し、設計に関する経験も得た。

 1892年にピッツバークに戻ると、パデュー大学に職を得ることができた。そこは、当時工学のプログラムを拡大させており、教員不足の問題を抱えていた。彼は大学で一年間交流理論と高周波振動に特別な注意を向けながら、電気理論についての講義を行った。年末に彼はWestern University of Pennsylvaniaの学長から招待されたが、それを主導したのはウェスティングハウスだった。彼はフェッセンデンが有能であることを知っていた。フェッセンデンにとってウェスティングハウスのそばにいることができる見込みがあり、彼は提案を受け入れた。彼はウェスティングハウス社に勤務しつつ、三年間ピッツバーク大学に勤めたが、これにより産業の世界と学術の世界の両方に所属することになった。彼はお金の問題を気にすることなく、自由に研究することができるようになった。

 フェッセンデンの関心は、検波器の性能を向上させることと、高周波交流としてのヘルツ波の概念を理解することにあった。彼がこの方向に関心を寄せたことは、彼自身がモーター、変圧器、発電機といったpower engineeringの仕事に携わっていたことに由来していた。

 1900年にフェッセンデンは大学を去り、米国気象庁(U.S. Weather Bureau)との契約を受け入れる。気象庁は当時無線局のネットワークの建設を行なっており、彼は無線の実験を行う場を提供され、システムを設計し、特許を取得することも望んだ。彼はピッツバーグから連続波無線のシステムへのコミットメントを引き継いでいた。彼はマルコーニのシステムは音声通信を行うことができず、それを実現するためには連続波が必要であることを認識していた。

 連続波の生成による音声通信は、火花放電による電波の周波数を上げる、可聴周波数を十分に超えさせること、発振アーク(oscillation arc)を利用することのほかに、高周波交流発電機を無線に応用する方法が考えられた。3番目のやり方は、従来power frequencyの領域で利用されていたものを、無線送信に応用することだった。しかし、1900年の時点でそれを実現することは容易ではなかった。送信機で連続波を生成する三つの可能性と同様に、受信装置を発明することも重要だった。なぜなら、コヒーラーは音声信号を復調することができなかったからである。ピッツバークを去った後の10年間は、フェッセンデンにとってもっとも生産的な時期だったが、そのうちの最初の一つの成果が検波器におけるブレークスルーをもたらしたことである。彼は交流を直流にする”barretter”と呼ばれる装置と、コヒーラーよりも感度がよく、デコヒーラーも不要な電解検波器を発明した。安定性に問題があったが、これは真空管が発明されるまで、無線技術の最も優れた感度の良い受信装置を与えていた。

 フェッセンデンの今ひとつの業績は、ヘテロダイン(2つの異なった周波数を混ぜるという意味)原理の発明である。ヘルツ波をどのようにしてイヤーピースの振動板において可聴周波数へ変換させるか。彼の答えは、アンテナからの電流と、受信機の局部発信器からの振動を混ぜ合わせるというものだった。例えば、振動の周波数が160万/sで、局部発振が160万1000/sだった場合、その差分の1000/sという可聴周波数がイヤピースに伝わることになる。だが、当時は火花式の全盛期であり、連続波を生成できる送信機がなかったことや、受信機においても局部発振において連続波が要求されたため、当初ヘテロダインの発明の影響は限定的だった。

 ヘテロダインの発明は、フェッセンデンの名を無線史に永久に残すことに十分な業績だったが、直接的な重要性を持っていたのはむしろ高周波交流機の方だった。高周波交流機はフェッセンデンによる連続波送信機のための研究における唯一の試みだった。彼の同僚のKintnerは、もし100,000/sの交流機があれば、フェッセンデンのアイデアは実現できると理解していた。問題はその概念にあったのではなく、その実行にあった。フェッセンデンは当時の製造力の限界に迫られていたのである。

 ピッツバークにて彼は”interrupters”と呼ばれる電流断続機を用いた実験を行った。それは、誘導コイルの一次回路に挿入され、二次回路により素早い火花の連続を生じさせる装置である。彼はこれによりほぼ連続波に近い波で、かつ可聴周波数範囲を遥かに超える周波数の火花を与えることを望んでいた。Wehnelt interrupterと呼ばれるものは既に知られていたが、彼は独自に機械的なinterrupterを作った。そして、アンテナ回路にカーボン・マイクロフォンを挿入させることで、その装置で音声信号を電波に変調させることができた。1900年の秋にMarylandにて1マイルの通信に成功したが、彼はこれが音声通信の最初の成功であったと主張した。が、それはかろうじて聞き取れる程度のもので、雑音が多かった。彼は周波数を十分に高めることができないこと、放射された電波はやはり減衰してしまうことの問題に直面した。

 フェッセンデンはこの問題に3つの方法で対処しようとした。一つ目は、クエンチ・ギャップ方式に似た方法で、圧縮された窒素を用いて火花を吹き飛ばす方法だった。二つ目は、Elihu Thomsonの振動アークを用いることだった。そして三つ目は、GE社に高周波交流機を作らせるということだった。彼は当初ウェスティングハウスに申し出たが、どうやら断られたようである。彼がジョージ・ウェスティングハウス個人問い合わせていたかどうか、それを知る記録は残されていない。

 ウェスティングハウスが駄目なら、次はGEだった。GEは1893年にEdison General ElectricとThomson-Houston Companyが合併してできた会社だったが、それは、特に後者が取得していた特許を利用できることを企図した合併だった。したがって、同社のトップはエジソンではなく、Thomson-Houstonだった。

GEが新設したラボには、スタインメッツがいた。彼は1865年にドイツに生まれ、工学と数学を学び、1890年にアメリカに渡りGEに就職した。1890年までに彼は高周波交流の理論と設計における主導者としての名声を獲得していた。1900年の6月にフェッセンデンはスタインメッツ高周波交流機の設計を打診し、興味をそそられた彼は直ちにそれを承諾した。それはスタインメッツの設計能力とスケネクタディの工場の製造能力を試された挑戦だった。そして1903年3月に製品が完成した。GEの工学者らは好意を持って取り組んでくれたが、お金はフェッセンデンが負担することになっていた。GEサイドは、この仕事を通じて交流理論の知識と経験を蓄積した。

 フェッセンデンが再びGEに打診したとき、請負ったのはスタインメッツではなくErnst Bergであり、設計はアレクサンダーソンが担当することになった。彼は当時都市間の電車のモーターの設計に従事しており、1904年12月には自励式交流機(a self-excited alternator)の発明でも腕を見せていた。1904年、アレクサンダーソンは26歳、フェッセンデンは38歳であり、二人は生産的な交流を築いていった。アレクサンダーソンは強電工学をバックグラウンドに持っており、electrical power engineeringの牙城であったGEでスタインメッツと共に働くことを望んでいた。彼はフェッセンデンと同様に、電磁波放射を高周波交流電流の観点から理解していた。二人の交流は、power engineering と electronicsの二つのサブカルチャーの間の創造的な相互作用の道を切り開いた。

1904年にアレクサンダーソンの提案がフェッセンデンに送られたが、両者の間にはarmature(誘導子)の素材をめぐる意見の食い違いがあった。フェッセンデンは木製であることの優位性を説いたのに対し、アレクサンダーソンは鉄製であることが好ましいと考えていた。結局、1906年にできたプロトタイプでは木製が採用された。機械は同年の8月末にフェッセンデンの元に送られ、アンテナシステムに統合され、実験が行われた。その結果、周波数は76kHz以上にならず、出力も目標の250Wではなく50Wしか得られなかった。だが、改良の余地はあった。

 

 この時期、フェッセンデンにとってビジネスキャリア上の勝利が切望されていた。というもの、彼は特許をめぐる相次ぐ告発と反論の中、1902年に気象庁を解雇されていたからである。同年11月に弁護士の支持で、フェッセンデンはT.H.GivenとHay Walkerという二人の資本家との知遇を得て、ナショナル電気信号会社(NESCO)を設立させた。当初から同社のコンセプトは特定の構成要素を販売するのではなく、システム全体を販売することであり、そのような商品の適切な買い手を探すことが課題だった。しかし、システムを提供することは予想以上に難しい仕事だった。フェッセンデンはセールスマンではなく、コストを削減するという発想に欠けていた。一方で資本家の2人は彼に商業的なガインダンスを与えることをしなかった。しかし、フェッセンデンはよりドラマティックな方向、つまり、大西洋横断通信の挑戦へと舵を切った。これはマルコーニが成し遂げたこと以上のことを示すチャンスでもあった。1906年に、スコットランドのMachrihanishとマサチューセッツのBrant Rockの間で大西洋横断通信に成功した。しかし強風でMachrihanishのアンテナが崩壊し、それ以上の成果を追求することはできなくなった。

 マルコーニ会社は、通信サービスを提供する会社であった。では、NESCOのビジネスの主眼は何だったのか。それは通信サービスを提供し、設備を販売し、利益の見込める資材を建設する全ての目的を達成することだった。だがフェッセンデンの目的は商業的なものではなく、あくまで技術、とくに無線電話を開発することにあった。

 1906年には、Brant RockとPlymouth間での音楽と発話の無線通信についての演示実験にも成功した。この実験を受け、さらに手を加えれば数百マイルの通信も可能になるといった評価も下された。また、1906年の12月25日と正月には2回目の演示実験も行われ、目標とする周波数や出力には達しなかったものの、高周波発電機による実験そのものは成功した。

 こうしたわけで1906年までには無線電話の実現可能性が示されたが、このとき有線電話のネットワークの拡大に伴って、有線の限界も認識されはじめていた。というもの、有線が長くなると信号の衰弱やひずみが大きくなるからである。

 フェッセンデンによるGEへの接触は、power engineeringとwirelessのサブカルチャーの間の交流を実現したのみならず、有線と無線の技術の間のつながりの可能性をも生み出した。従来、有線電話、無線電話、power engineeringはそれぞれ独立に展開してきたもので、実践者らはそれらの異なった専門家集団に所属し、異なった言語を話していた。高周波交流は、それらの独立性を打ち破り、相互作用を高めたという点が大きな特徴だった。さらに高周波交流は企業間の連携をももたらした。GEは設計と製造能力を持ち、Telephone Companyは通信システムの建設と整備の経験を有し、NESCOは連続波無線のノウハウと、特許によるバックアップ能力を有していた。ただし、1906年の時点では、ナショナリズムは特筆すべき考慮事項ではなかったという点に注意すべきである。このことは英国マルコーニ会社の優位性に挑むことができるアメリカの製造業や通信事業者の協会を組織する可能性をも排除していた。

 

 ハモンド・ヘイズは意図せずにNESCOに重要な遺産を残した。彼がオフィスを去る前に、GEにアレクサンダーソンがTelephone Companyのための高周波交流機を設計してくれるかどうか尋ねていた。申し出は受理され、アレクサンダーソンは設計に取り掛かった。このとき、アレクサンダーソンは、フェッセンデンとの協力の経験を生かしつつも独自のアイデアを具現化した。すなわち、ローターは2個から1個に、誘導子を木製から鉄製に変えたのだった。こうすることで従来の装置よりも高出力が実現できることが期待された。

彼は1906年4月にNESCOの仕事を終えると鉄道省へ移った。GEの前提は、高周波交流機の実験段階は終わり、今後のNESCOとの契約は通常のルートで対応するというものだった。実際に、1906年後半から1907年初頭にかけてフェッセンデンから受けた追加注文は交流技術部に転送され、もう一人のGEの工学者であるConway Robinsonが担当することになった。それゆえ、しばらくの間GEはアレクサンダーソンのもとでのTelephone Companyのための実験計画と、ロビンソンのもとでのNESCOのための計画が進行していた。

 1909年に完成した2kw機械が高周波無線のランドマークとなった。これは将来の巨大で強力な高周波送信機の原型として機能し得た。だが問題は販路をいかに確保するかということだった。民間は概してリソースが不足しており、火花式で十分だった。一つの可能性として海軍が存在していた。1909年に海軍がバージニアのArlingtonに大出力送信局を設置したとき、パフォーマンスの基準が設定されていたが、GEはこの基準を満たしていなかった。NESCOはこの契約を勝ち取ったものの、それは火花式であり、高周波式ではなかった。NESCOが存在し続け、GivenとWalkerがフェッセンデンに資金を提供し続けている限り、GEの販路は確保されなかった。したがって、当時GEが無線ビジネスに参入することは考えられなかった。GEの専門は、あくまで電気の製造に関するビジネスであり、無線通信のビジネスの中にいたわけではなかった。

  Telephone Companyへの売り込みに失敗したフェッセンデンは英国マルコーニ社と競合できる会社をカナダで起こし、彼自身の特許を使い装置を建設しようとした。このフェッセンデンの行動に対し、GivenとWalkerは彼をNESCOから解雇させるという反応を示し、1911年1月8日にNESCOとフェッセンデンは決裂した。この対立は、NESCOが設立されて以来、フェッセンデンの権限と責任を定義し、業務を指示してこなかったということに原因があった。

 

 だがこの時までにフェッセンデンが1900年にピッツバーグを去ったときに解決しようとしていたことの多くを成し遂げていた。知的にも心理的にも、彼は火花式によって規定されていたマインドセットを打破した。彼は連続波に基づく技術によって無線技術の歩みを新しい全く異なったベクトルへと動きを変えた。彼は新技術がどのようにしてうまく市場に統合できるかを示さなかったゆえ、1911年まではそのベクトルの方向へと大きく前進することはなかった。だが彼は連続波を用いれば火花式でできることは全て可能であり、かつ、火花式ではできなかった無線による音声通信が可能であることを示した。さらに、彼のプロジェクトは国内最大の電気機器メーカーを巻き込んでいた。その関与は、彼がNESCOを去った後も続いた。アレクサンダーソンやGEのメンバーは、高周波式により火花式は時代遅れになり、長距離通信に革命をもたらしうるということを理解していた。設計に関する問題はフェッセンデンにより解決されており、もはや問題にならなかった。問題だったのはむしろ、その機械を市場にどのように流通されるか、つまり、マーケティングに関することだった。

 

文献:Hugh D.J. Aitken Continuous Wave: Technology and American Radio. 1900-1932, Prinston University press, 1982. Chapter 2

 

The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932 (Princeton Legacy Library)