yokoken001’s diary

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Gary L. Frost(2010), Chapter 4

Chapter 4 The Serendipitous Discovery of Staticless Radio, 1915-1935 (pp.77-115)

 

 第四章では、アームストロングがコロンビア大学の学生であった時期まで遡って、空電の影響を抑制するFM技術がいかに発見されたのかが述べられる。技術的な細部についてはあまり理解できなかったが、アームストロングによる広帯域FMのアイデアは、平衡増幅回路にまで遡るという。当初彼の狙いは、空電の影響を抑制するということではなく、真空管から発せられる雑音(tube hiss)を減らすことや、通信距離を伸ばすことにあったらしい。1934年にRCAの最新の実験室においてFMの試験が行われたが、RCAのエンジニアの中にも、FMが空電の影響を抑制するという特性に注目した人間はいなかった。技術史では、しばしば発明者本人でさえ技術の潜在能力を認識しておらず、あとになってその有用性が明らかになっていくということがよくある。広帯域FM技術についても同じことが言える。

 RCAとアームストロングが決裂していく背景には、アームストロングがデフォレストとの特許係争で負け疑心暗鬼になっていた事情もあっただろうが、やはり、1934年の試験のあと、同社がFM技術のプロモーションを行わなかったことに彼が苛立っていたことが大きい。それもそのはず、RCAの実験の主眼もあくまで通信距離にあった。(それに対して1934年になると、アームストロングは広帯域FMの方が狭帯域FMに比べて雑音が少なくなることに気がついていたという。) また、実験記録は定性的な記述が中心で、検証可能なデータは記録されていなかったことも問題だった。

 なお、再生・発振回路の発明の優先権をめぐって、デフォレストとアームストロングの間で特許係争が起きたことはよく知られている。そして裁判の判決とは反対に、通常はアームストロングにそのプライオリティーを与えられることが多く、本書もそのような立場をとっている。当該箇所には裁判の経緯について詳しく書かれており、興味深く読んだ。ちなみに日本海軍のエンジニアらは発振回路について、主にデフォレストのウルトラ・オーディオンから学んでおり、アームストロングについて言及していた文書はまだ見たことがない。もしかしたら当時は、裁判の判決がそれなりに効いていたのかもしれないが、詳しいことはわからない。

 

以下、粗い要約。

 

 本章では、アームストロングがどのようにして広帯域FMの機能を偶然発見したのか、その幸運(serendipitous)を詳しく見てみたい。ここでいうSerendipitousとは、今日の辞書的な意味、すなわち「偶然の出来事」といった意味ではなく、1754年にWalpoleがお伽話を書いた際に、最初に用いられた意味を持つ言葉として使用している。そのお伽話において、Serendipitousという言葉は単なる偶然の出来事(accident)という意味だけではなく、偶然に出来事に遭遇した人間の賢さ(sagacity)という意味をも併せ持っていた。アームストロングは、確かに当初、広帯域FMの潜在的な可能性について理解していなかった。しかし彼はその後、自分に理解が間違っていたことを認め、FMの能力について理解していった。つまり、広帯域FMは、そうした偶然の出来事とアームストロングの賢さとが合わさることで初めて発見された技術であった。以下では、上記の内容を、FMラジオの技術的な進化と、アームストロングとRCAとの間の競争-競合関係との間の相互作用に注目しながら論じていくことになるだろう。

 1920年代から30年代にかけてアームストロングが行った仕事を評価することは難しい。レッシングが述べているように、アームストロングは自身の関心事を秘匿する傾向があり、また継続的に実験ノートを書き残すタイプの人間ではなく、特許などで技術が公表されるまでは、全てを頭の中に保持しておくことを好んでいた。しかし、彼の特許、論文、書簡などからは、彼が長い試行錯誤の結果広帯域FMに到達していたことがわかる。1931年にCrosby、Hansell、Beverageがコロンビア大学の実験室に集まったときには、まだアームストロングは周波数スウィングを広げるというアイデアを持っていなかった。だが彼は同時期に平衡増幅(balanced amplifier)という雑音を抑制する技術を探究しており、広帯域FMの方向へ進んでいたと言うことはできる。

 平衡増幅回路とは、二つの鏡像関係にある信号経路によってブーストされる回路である。それぞれの経路には別々の入力/出力の接続を与え、のちにそれらを統合するのが普通である。平衡増幅回路の利点は、その直進性(linearity)(※何がリニアなのかは不明)にあった。そして平衡増幅は、カーソンやハンセルもすでに特許に採用していた技術だった。それはどうして単一経路の増幅回路に比べてきれいな信号を生成するのかは誰も理解していなかったが、1920年代にまでに無線工学者らはプラグマティックにその回路を組むことが慣習になっていた。アームストロングはコロンビア大学を卒業してまもなく発表した論文(1915年)において、すでに平衡増幅に言及していた。

 アームストロングはしばしば、彼が発明・設計に接近する方法は理論的なものではなく、純粋な実践家であったという誤った描写がなされることがある。だが実際には彼は実践家ではなく理論家だった(とくにこの平衡増幅については大胆な理論を紡いでいた)。彼は大学4年次に、audionについての理論的な考察を含んだ論文を書き、その発明者であったデフォレストのあてにならない主張に反論をしていた。

  だが、アームストロングは理論家としての条件を満たしていなかった側面があった。それは数式をほとんど用いないという点である。彼の論文において、高校以上のレベルの数学を見出すことは滅多にない。彼が直感に依存し数学を軽視していたことは、平衡増幅に関する貧弱な発想しか持てなかったことを説明するのに十分である。彼は直感と希望的観測に依拠して、平衡増幅回路は高い忠実度を維持する技術というよりは、ランダムな雑音を減らす技術であると考えていた。彼は、空電を運ぶ電波は雑音のそれとは異なった振る舞いをすること、そして大きな増幅の空電は局部周波数と相互作用しない(?) という思い込みに基づいていた。(今日から見ると、前者については正しい場合があるものの、後者は間違っていた。)平衡増幅がアームストロングの想像力を駆り立てていたということは、1915年から1933年に至る多くの特許や論文からも伺うことができる。

  1927年と1928年は、アームストロングが平衡増幅回路が空電をいかに抑制するかを説明する理論について最も熟考した時期である。1927年に空電の影響が少ない無線電信システム(a low-static radiotelegraph system)の特許を出願し、翌年にはそれについての論文を発表している。彼は、空電のエネルギーは時間によって著しく変化するが、周波数によってはほとんど変化しないことを主張した。そして、(信号+雑音)−雑音=信号という理論に基づいて、平衡増幅は純粋な信号を取り出せると主張した。彼の理論はジョン・カーソンの目に止まり、1928年7月より彼に対して反論を加えた。カーソン曰く、あらゆる時点においてチャネルは根本的に異なる雑音を含んでいるため、平衡増幅は雑音をマイナスすることによって信号を取り出すことはできない((信号+雑音1)−雑音2≠信号、みたいな感じ?)。その結果、1927年以降、アームストロングは平衡増幅が空電の影響を少なくするという主張をすることはなくなった。

 アームストロングはカーソンの議論に数学的な見地から反論しなかったが、彼は自らの工学的な直感を信用し続けた。1927年時点で、彼はまだ狭帯域FMは電磁波スペクトルを保持することができ、それゆえ空電の影響を減らすことができると信じていた。

 それに対して447特許では、5年後にアームストロングが再び利用することになる広帯域FMのアイデアが含まれていた。空電による歪みは、(1)とても大きなAMの送信電力によって空電の振幅による歪みを打ち負かす方法、(2)FM送信の周波数のスウィングを最大化することによって周波数の歪みを埋める(swamp)方法の2種類がある。そしてアームストロングが1933年に2番目の方法を発見することになるが、1927年の時点では広いスウィングを採用する理由を見出すことはなく、狭帯域FMが空電を抑制するというアイデアを信じていた。

 1927年特許を改良したものが1930年に出願された。これは1931年7月にコロンビア大学の実験室でハンセル、クロスビー、ベバレッジらに見せたそれと似ていた。そして1931年の9月にクロスビーはそれに類似したphase modulation receiverの特許を出願した。

 最後に、1933年7月、アームストロングは2つの特許を出願し(第1941068号、1941069号)、20世紀後半を支配することになる高い忠実度のFM放送の基礎を築いた。ここには物質的なものと概念的なものの2つの革新が含まれていた。一つ目は、送信波の周波数に対して大きな振幅を採用することの利点を主張していた点(?)。第二に、単純な変調・復調回路を放棄し、平衡増幅を変調器として採用した点である。

新しい送信機を用いて、アームストロングは今日のFMラジオと同じようなシステムを作り上げた。しかしながら、彼自身は現代のFM技術がより高い忠実度を持つ2つの特徴、つまり、より広いaudio bandwidthや、全ての空電雑音を消去することができるといった特徴を、特許の中で記述していなかった。彼はまたAMに比べてFMの方が送信パターンを制御しやすいということや、FMのみが局間の干渉を消去することができるということを知らなかった。彼はむしろこの技術がテレビやファクシミリの信号を送信することにとって有効であることを宣言していただけだった。

 068特許には理論的な考察が含まれていないが、069には含まれている。重要なことは、彼は発明の第一の目的を、超短波信号でカバーできる通信距離を伸ばすことであると考えていた点である。そしてこのことが、彼がFMをRCAに売り込むことに失敗した主な原因だった。彼は空電による雑音は特定の周波数では受信に影響しないということを信じていた。彼は高周波では空電の影響がないといった誤解をしていた。

 1927年特許において彼は狭帯域FMこそが空電の影響を減らせると主張していた。だがカーソンは5年前にそれが無益であることを述べていた。1930年にアームストロングは新たな平衡増幅の特許を出願したが、FMが空電の影響を減らせるかどうかは述べていなかった。今や従来の主張は、180度転換された。

 彼の真意は、周波数の幅を広げることによってtube noise(真空管のフィラメントから放射される電子の不規則性に起因する雑音)(≒ホワイトノイズ)の影響を減らすことができるというところにあった。彼は周波数と空電の関係を正確に理解していなかった。

 1933年12月に彼が特許を出願した前後の時期に、誰に対してか不明であるが、(ベバレッジに先行して、)サーノフやRCAの一部のエンジニアらに彼のシステムを開示していたようである。1934年1月にアームストロングの実験室を訪問したRCAのエンジニアらの反応は悲観的なものから楽観的なものまであった。しかし重要なのは、アームストロングも含めて誰もが現代のFMラジオに近い何かを聞いたということを記録していないということである。1934年1月3日に、クロスビーはノートに「ベバレッジ、ペーターソン、ハンセル、そして私はアームストロングの特許069のシステムの彼自身による演示のために、ニューヨークへ向かった」と書いている。当時はFMについて最も理論的に精通していたクロスビーは、FMはtube hissを軽減するというアームストロングの主張を支持することも、それに反対することもなかった。しかし、彼はノートに、「アームストロングは高周波振動と広帯域の受信機を用いることで、出力においてより多くの雑音を消去できると主張していた」と書いていた。

 これらの演示実験は、まもなくRCAの広帯域FMラジオの展開における最も直接的な貢献を導くことになった。RCAはアームストロングに当時もっとも充実した設備があるエンパイア・ステート・ビルのテレビ実験室を貸与したからである。ただし、そこはラジオだけではなく、ファクシミリなどの他の技術に関する実験をも行う施設だった。

 この実験室において中心的な役割を演じたのは、ベバレッジだった。1932年4月には彼はヤング(RCAのシニアエンジニア)とホーン(NBCのシェフエンジニア)に、「周波数もしくはパルス変調を超短波送信機に適応した高品質の放送の可能性」について書簡を出している。彼は、FMは平衡増幅とともに空電を抑制することを示唆していた。だが、1932年の時点では(おそらく経済的な理由で)、このラボでFMの実験が行われることはなかった。ホーンが同意をし、エンパイアステートビルの広帯域FMの放送機が設置されたのは、2年後の1934年の3-6月のことだった。

 FMラジオの展開において最も望みあるこの段階において、彼の人生の中で最も不平等かつ個人的な挫折を背負うことを余儀なくされたというのは、アームストロングの不運だった。物語は、彼が再生回路を発明した1912年にまで遡る。当時彼は大学生でありお金がなく、特許を出願するための150ドルを捻出する必要があった。そして資金をかき集め、翌年に特許を出願したときには既にデフォレストが同じ再生回路の特許を取得していた。両者は特許係争を起こし、上訴の階段を登った。しかし、高等裁判所の裁判官であるBenjamin Cardozoは、(不可解なことに)デフォレストの記録にはあくまで低周波(音声)信号においてのみ再生を確認していただけだったのに、それを高周波における再生と混同したために、デフォレストに有利な判決を下した。アームストロングはその後、Institute of Radio Engineerの年会において、再生回路の発明に対して与えられた名誉メダルを返却することを申し出た。役員の多くは、デフォトの特許権を持つ会社の人間であったにもかかわらず、彼らはアームストロングの申し出を拒否した。

 1934年以降、アームストロングは信頼する身内の輪を狭くしていった。そして彼の残りの人生はシニカルな世界観を肥やしていき、そのことがFMラジオの展開・促進の方法に影響した。彼にとって敵の範囲は、法律家、Federal Communication Commission、議会、RCA、そしてサーノフまで拡大していった。

 このような中で、アームストロングはエンパイアステートビルに彼のシステムを設置するハードワークに耐えた。この数月間が、彼にとって最も幸運な(serendipitous)な瞬間だった。彼は(特許に記載していたこととは反対に)、広帯域FMが空電による雑音を増やすのではなくむしろ抑制することに気がつき始めたからである。

 レッシングをはじめとするFMラジオの歴史家は、Westhampton Beachの演示実験こそが、アームストロングのシステムの優位性を決定付けた証拠であるとみなしている。だが、この試験は、実際、FMは空電の影響を抑制することができることを隠すような、曖昧な結果しか得られていなかった。というのも、アームストロングの特許が主張しているように、彼のシステムの利点は通信距離の拡大というところにあったため、本試験は主に聴取可能な範囲を確認するテストだったからだ。しかし、1936年にアームストロングはWesthampton Beachの演示実験の成功について述べた演説を行い、これがのちの歴史における正典となっていった。本当のところ、ベバレッジをのぞいて、RCAのエンジニアらは決して楽観的な態度であったわけではない。ハンセルは、彼のFMに関する理論的な理解がアームストロングの新しい理解を飲み込むことを妨げていたこともあり、煮え切らない反応を示していた。また彼は、ベバレッジは試験に参加していなかったとして、彼の楽観的な態度に疑問を抱いた。

 ハンセルの懐疑主義にもかかわらず、アームストロングは徐々に仲間を増やしていった。RCAは1934年10月に実験を行なったが、その実験こそが同社がFM技術を拒否するきっかけになった。その試験では、あくまで通信距離の調査に比重が置かれており、全般的に問いが狭かった。そのため、FMにおける短い距離で雑音を減らすといった特性が見えなかったのである。さらに、実験報告は主に定性的な記述が中心であり、再現可能・分析可能な定量的なデータから構成されるものではなかった。

 レッシングによれば、FMは新しい送信局やネットワークを配置し、これまで力を持っていたAMシステムを抑制するものであった。つまり、RCAはFMによってAMラジオという古い既得権益を奪われることを恐れて彼の特許を買わなかったという。しかし、これは以下理由で間違っている。第一に、RCAは従来、AM技術に対してそこまで投資していなかった。したがってRCAがFMラジオの普及を遅らせたからといって得られるものは少なかった。第二に、AMという古い既得権益が侵害されることを恐れてFM技術を購入しなかったというレッシングの説は、同社が同時期に同じく革命的であったテレビに多額の投資をしていた理由を説明することができない。RCAは成功する見通しを得ることができるような証拠があれば、むしろ新しい技術を歓迎する文化を持っていた。同社がFM技術を受け入れなかったのは、むしろ、RCAもアームストロング自身も、1935年の時点で、FMが空電の影響を抑制するという将来性について十分に理解していなかったからである。そしてこうした無知は、同社が1934年から1935年にかけて行なった実験において、数量的なデータを残していなかったことに起因している。

 アームストロングはRCAが新たに行動を起こさないことに苛立ち、ジャーナリストを募ってFMラジオのタネを植え付けようとした。1935年より、広帯域FMについての記事が発表されるようになった。が、記事の中には、従来のFMは全て狭帯域FMであるといった誤った事実も含まれていた。新聞は、また、RCAやその他の会社がFMについて研究を行なっていたことにも言及しなかった。彼がFMシステムを公に発表し始めたことは、彼が戦略を大きく転換したことを意味する。従来彼は秘密主義で、自身の発明について部外者に漏らすことをしなかった。しかし、今や彼は、RCAの優柔不断さに苛立ち、不満を発散するために、マスコミにFMについて公言するようになった。このようなアームストロングの働きかけに対してRCAの経営者は反応を示さなかったため、両者の関係は危うくなっていった。

 現代のFMラジオの展開を取り巻く皮肉を、我々は無視することができない。アームストロングは、FMと平衡増幅に関する誤った理論に基づいて、tube hissを軽減するだけと思われていたそのシステムを発明した。彼は特許において、FMが空電に何らかの影響を与えることを否定していた。しかし、同じ特許は現代の放送FMラジオの基盤を構成し、それが空電を抑制する能力は、彼自身の理解が間違っていたということを証明した。1936年以降、FMラジオには、より広いaudio bandwidthがあることや、送信局間の干渉に強いといった更なる利点があることが明らかになっていった。しかし、最初は自らが発明した技術の潜在能力に気がつかない発明家というのは、決して珍しいわけではない(ex デフォレストのaudion)。アームストロングにおいて特に特別なことは、FM技術が進化していくその社会的・技術的な文脈である。周波数変調の仕組みを理解することは難しいことではないが、実際のシステムを構築するためには、アームストロングのような一流の発明家や、RCACの仲間の存在が必要だった。彼は長年経験してきた平衡増幅と周波数変調をFMシステムに統合したが、それはAM以上に安定した回路が要求された。FMの展開は、知的な作業と、試験のための物質的な設備との両方を必要とした。彼が大きなアンテナを持つ送信局の建設のためにコストを出すことを望まない限り、彼はRCAを頼る他はなかった。そしてRCAの関心は、超短波通信における通信距離を伸ばすことにあった。

 1930年代には、FMシステムが最終的に達成する全てのことを予測できた人はいなかった。アームストロングは自分が間違っていたことを認め、当初の予想を超えた有用な技術ができてしまったことを認識することができる知的な開放心=賢明さを持っていたという点において、評価するに値する。