yokoken001’s diary

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Gary L. Frost(2010), Chapter 2

Chapter 2 Congestion and Frequency-Modulation Research, 1913-1933, pp.37-60.

 

 第二章の前半では、著者が「スペクトルパラダイム(spectrum paradigm)」と名付けるパラダイムが関係者らに定着していく様子が描かれる。スペクトルパラダイムとは、波長を表す一次元の地図によって電磁波スペクトルを認識しようとする枠組みである。それは、1920年代の米国において、拡大し続ける放送局同士の混信を解消するために、周波数の割り当てやワット数の制限などを取り決める議論の中で次第に形成されていったという。その結果、関係者らは特定の電磁波を言い表す際に、従来の「周波数」という言葉ではなく、「波長」という言葉を利用するようになった。

 前半の内容は興味深く読んだ。というのも、アメリカにおいて全国レベルで使用波長の取り決めの動きが起こるのは1920年代後半からだというが、日本でもおおよそ同じ時期に無線研究の連絡・統一の動きが起こっている。1922年に学術研究会議の中に電波研究委員会が設置され、受信管の企画や電波長の表記の統一などが行われた。日本で使用周波数の割り当てがいつごろ開始したのかは不明だが、1920年代後半に周波数標準の統一のため、陸海軍・逓信省の周波数標準器の周波数比較試験が行われている(青木、2006)。

 本章の後半では、1910年代後半からアームストロングのFM特許が取得される直前の1932年までの特許を分析することで、主に1920年代に、誰がどのようにしてFM研究を行なっていたのかを考察している。従来、ジョン・カーソンが1922年に発表した論文がきっかけとなって、FM研究は停滞したという見方が支配的だった。筆者は1922年以降もFM研究が各社において継続していたことを明らかにし、それが事実と反することを実証している。またこの頃までには、個人による発明より企業による発明の方が主流になっていたという論点も提示している。これはエイトケンが、ドフォレストの研究を、個人による発明の時期と、チームによる発明の時期の二つに分けて論じていたことを想起させる。

 なお、後半の内容はよくわからない箇所が多かった。特に、狭帯域FMの技術的な内容については、書かれていることを表面的に訳出する作業にとどまり、その意味を理解することはできなかった。

以下要約。

 歴史家は1920年代初頭を、しばしば放送の「混信(congestion)」や「混沌(chaos)」の時期と特徴づける。なぜなら、連邦政府はこの新しい産業を統率する権威を持っておらず、それゆえ、信号はますます混雑する傾向にあったからである。設置の許可が認められた放送局の数は1920年末には一握りだったものが、1922年の12月には570局に増大していた。このように局の数が増大し、利用するワット数が大きくなることで、突発的に起きるフェージング現象の問題が浮き彫りになった。また1920年代中頃まで、放送局は搬送波の波長を安定させることができなかった。なぜなら、当時の送信機では、LC回路によってコントロールされた共振周波数が、温度や湿度によって変化してしまったからである。さらに、アメリカ社会が電気化(electrification)したことで、ラジオは台所のミキサーや掃除機、オイルバーナーなど、火花を出す製品による電気的な影響を受けやすくなった。

当初、混信はより多くの周波数を割り当てることで解決される問題であると思われた。1920年に商務省航海局は、全ての局は30mの波長で送信しなければならないことを取り決めた。しかし、この処置は局の数が少なく、各局どうしが離れており、出力が小さい限り有効なものだった。しかし、1920年代中頃には局の数が増えると、周波数の割り当ては追いつかなくなり、米国の放送は混沌の様相を呈し始めた。1927年になって初めて連邦無線委員会(FRC)が発足すると、本委員会は放送局のもつれをほぐすだけではなく、ワット数、搬送波の波長、操作時刻などを取り決めた。これらの仕事を成し遂げるために、FRCは電磁波スペクトルの概念に基づいた新しいパラダイムを採用した。そしてそのことは関係者が用いる語彙に最も顕著に現れた。すなわち、彼らは同調を言い表す際に、「波長」ではなく「周波数」という語を使用するようになった。

1920年代に、FRCは、二次元の地図に陸地が描かれているように、一次元の地図に電磁波周波数帯を描いたスペクトルを利用することで、混信を解決しようとした。550,000cpsから1,500,000cpsまでの間がAMの「テリトリー」となり、そのさらに上には、まだ発見されていなかった短波や超短波のそれがあった。19世紀に米国への移民に土地を提供したように、周波数という新しい言語は、開拓されたばかりの電磁波帯を獲得するパイオニアを生み出した。

混信の問題は、このような「スペクトル・パラダイム(spectrum paradigm)」を否応なしに創造した。放送ブームが始まった時、連邦政府は未だ火花-コヒーラー式の減衰波時代である1912年に制定された法律を施行していた。しかし、数年以内に、真空管の大量生産をはじめとする無線技術の変化に遅れを取るようになり、無線に携わっていた者は何かしら対応の必要性を感じていた。1922年の初頭、商務長官であったHerbert Hooverは無線関係の13の組織のトップを集めて会合を開き、この問題について議論した。(なお、この会合に米国無線クラブから代表者として派遣されたのは、アームストロングだった。)

委員らは、送信局の数と出力を制限する必要があるということでおおよそ意見が一致した。そしてこの頃から、上記の「電磁波パラダイム」が人々の思考に定着し始めた。1922年以前、物理学の実験室の外側にいる人間がスペクトルに言及することはほとんどなかった。だが、この会合に参加した人間は、スペクトルが彼らの思考に統合されたことを表している言葉を用いていた。会合が開かれる2ヶ月前、Hooverは無線の利用を制御することは、「森の保全や、水力の権利(water power right)の保護と同じくらい差し迫った問題である」、「今や空気はおしゃべりで満ちている」などと述べていた。Hooverが無線を森や水といった天然資源との類比で捉えていることから、彼は無線をスペクトル・パラダイムが描き出したような実際のランドスケープになぞらえて理解していたということが窺われる。

1923年に航海局のDavid Carsonは、50の参加者に彼らの放送と波長の割り当てを厳密に制限することを尋ねるべく、2回目の会合を開いた。このとき参加者らは「与えられたサービスに応じた波長帯の中で、無線局には特定の周波数を割り当てるべきだ」などを述べていた。1920年代後半以来、FRC(のちにFCC)は、干渉や混信の問題を分析・緩和するための知的枠組みとして、スペクトル・パラダイムを採用するようになった。

しかし、統制は放送にとっても万能薬ではなかった。米国の批評家の中は、放送の許可制度は言論の自由と対立するものであり、事実上の検閲であると指摘する者もいた。

混信を解決する技術には、独立の発明家の作業場から生まれた雑多なものも含まれていた。アームストロングのスーパーヘテロダインや、ピアースの鉱石発信器、ジョン・カーソンのシングルサイド変調など、それらは全てスペクトルパラダイムがなければ思いつくことができない技術だった。

2,3年の間に、混信の問題を解決するために、「狭帯域FM」を提案した何人かの実践家がいた。通常のAMでは、オーディオ信号のスペクトル幅をFaとすれば、「AMチャネル幅≧2Fa」と表現された。そして音声の忠実度を上げるためにはチャンネルの幅を広げる必要があるが、そうするとノイズが増えることに加え、送信局の数が減ってしまうといったトレードオフの関係があった。それに対して狭帯域FMの場合、搬送波の最大周波数偏移をfm、音声信号の最大振幅をAaとしたとき、「狭帯域FMの幅=2fm=2hAa」と表現されるため、定数であるhを小さく取るように設計すれば、周波数帯域を小さくすることができ、それゆえ、上記の問題を解決することができるように思われた。

最初に出願された狭帯域FMの特許は、1923年に出されたもの(米国特許:第1847142号)であるが、一説によればフランク・コンラッド1921年にすでに狭帯域FMの実験を行なっていたとも言われる。ところが、1922年にAT &Tのジョン・カーソン(John Carson)が「変調理論の覚書」という歴史的な論文を発表したことで、コンラッドの主張は崩壊した。

カーソンの論文では次のようなことが示される。搬送波をω0、音声信号をsin(pt)としたとき、変調波ω=ω0+(hω0)sin(pt)と表現される。これは、送信される瞬間の周波数が、搬送波の周波数に瞬間的な周波数偏移を足した値になることを意味している。すると、hを小さな値にすることで、最大周波数偏移も小さくなり、それゆえ、チャンネルの幅も小さくなることが推測される。しかし、実際にはhを小さくとると、複数のサイドバンドが広がってしまい、場合によってはAMのチャンネル幅を超えてしまうことがあると彼は論じた。つまりカーソンは、狭帯域FMは不可能であると主張した。

従来、カーソンはこの論文によって、全てのFMを批判したのだと語られてきた。だが実際には、カーソンは全てのFMタイプの実現可能性を否定していたわけではなく、彼の主張のせいでその後のFM研究が滞ったということもなかった。1922年から1934年にかけて取得されたFM関係の特許は12件あるが、そのうちの4件は狭帯域FMに関する特許だった。カーソンが狭帯域FMの研究者を落胆されたということはありうるが(それも証明することは無理だが)、少なくない数の特許が取得されていたもの事実である。彼をFMを停滞させた人物であると避難することは、非本質的なことである。

1933年にアームストロングによってFMが発明されるまで、誰もがその方法を思いつかなかったという信念ほど頑なに維持されてきた思い込みはない。しかし、従来の歴史がカーソンの主張を曲解したように、従来の歴史が1920年代初頭から1930年代にかけて数多くの実用的なFM関連の特許が出願されていたことを見過ごしていたことも事実である。本書の付録には、1902年-1953年に取得されたFM関連の技術の全てがリスト化されている。ここでは、1913年から1930年代の中頃までに出願された特許について見ていくが、それらはおおよそ、(1)発明家、(2)AT&T、(3)WE、(4)RCAの4者によって取得されたものである。

1920年から1933年までの間に、AT &Tとその子会社であるWE(ウェスタン・エレクトリック社)は、10件のFM関連の特許を取得している。しかし、AT &TはRCAやWHほどFM研究にエネルギーを注いでいたわけではなかった。このことは、商業的・技術的の双方の要因によって説明される。まず1926年にAT&Tは最後のFM関係の特許を出願していたが、その年に同社は放送局を売却していた。また、有線電話通信においては、無線通信に比べて雑音やフェージングの影響が少なかった。さらに、同社が研究開発に取り組んでいた無線のファクシミリは無線電話よりも容易に設計できる技術だった。だが、AT&TやWEがFM研究に取り組んでいたという事実は、従来の歴史家の1920年代においてFMは重要な技術ではなかったという見解の見直しを迫る。

次に、ウェスチングハウスが取得した特許に目を転じよう。1920年代の初頭に、FMに関係する最初の重要な実験がKDKAのピッツバーグにある放送局で行われた。KDKAが1920年に行なった放送(broadcast)実験は有名だが、1923年から1925年にかけて行われた長距離-短波実験のことはあまり知られていない。FMはAMに比べてより安定した搬送波を必要とするため、KDKAは水晶制御式の発信器を送信機に採用し、送信局同士の干渉を避けようとしていた点も注目される。さらに、ウェスチングハウスが登録した特許を発明した人物(Nyman, Trouant, Little, Conrad)の居住地は地理的にも近接しており、彼らは独立して研究を行なっていたというよりは、互いに議論することによって発明を成し遂げていた。

1920年代より同社がFM研究に従事していたことを示す証拠は、特許以外にも存在する。例えば、Charles Hornは、KDKAはS/N比の優れたFM放送をおこなったが、受信機がそれに対応していなかったため、聴取者から受信不可能だというクレームを受け取っていたという回想を記している。1930年代に入るまで同社のFM放送が実用的な水準にまでは達していなかったが、エンジニアらは空電やフェージングの影響を減少させ、AMよりも送信効率の良いシステムとしてFMに注目していたということも事実である。

David Nobleは、『設計によるアメリカ』という著作の中で、「1920年代まで(by the 1920s)の米国ビジネスは、企業の成長、信託による支配の強化、持ち株会社、合併と統合、企業間での下部の共有によって創造された共同体の利益、理事会どうしの連絡によって特徴付けられる」と述べたが、このことはFMラジオについても当てはまる。20世紀におけるFM研究に重要な役割を演じたのは企業の研究活動だった。そして、その際たる例がRCAである。1919年に連邦政府の支援を受けて、GEは英国の手に米国の特許件が行き渡らないように、GEとその他の製造会社の特許権の収集・提供を行う機関(clearinghouse)として、RCAを設立した。その後、重要な無線技術の特許を有する数多くの会社が、RCAのラジオグループの特許プールに参与し、そこに登録されたメンバーとの競合から保護された。グループの内部においては特許権が交換され、外部に対しては利益を上げることを目的にライセンスを販売した。RCAにまつわる二つの要素がFM研究を形成した。一つ目は、RACが海を超えた商業通信(point-to-point)を運営しており、そこは他の利害関係者が参入できない領域であったということである。そして二つ目は、1930年代の初頭までRCA、WH、GEが無線ビジネスにおいてお互いに競争することを認めなかったということである。

1920年代初頭からWHが特許権をリードしていたが、1920年代後半になるとRCAがそれを支配するようになった。WHは商業放送のためにFM研究を行なっていたのに対して、RCAはpoint-to-pointの長距離通信を目的にしており、フェージングの影響を最小化する技術としてFMに注目していた。Clarence Hansellの残した企業な文書によって、1920年代にRCAが取り組んでいたFM関係の研究の内容について明らかにすることができる。まず、RCAでは1924年にHarold PetersonとHarold Beverageが単純なFMシステムをRiverhead 受信実験室に設立し、運営を開始した。また、1925年にはニューヨーク-アルゼンチン、ニューヨーク-ブラジル間において、実験的にFM変調に基づく通信試験を行なっていた。だが1927年にPetersonが狭帯域FMの特許を出願したとき(それは同年にRCAが出願した3つの特許のうちの一つである)、彼は袋小路に陥った。彼は、狭帯域FMは数多くのサイドバンドを生んでしまうことを指摘したカーソン論文とは異なって、サイドバンドの利用を避けることを手助けするような周波数の揺らぎを利用すること(?)(the employment of a “frequency wobble which helps … avoid the use of side band frequency, in the ordinary sense, with their attendant disadvantages”)を考えていた。

1929年までに、WHとRCAの大きな違いは、特許の数である(前者は9件、後者は25件)。だが、両者ともに、ラディカルな設計を考案していたわけではなく、従来のFMに漸進的な改良を加えたのだった。

1913年から1930年の間に出願された特許を調査してわかることは、FMラジオの展開は、RCA、WH、AT&Tの三者によって牽引されていたということである。この他に、個人の発明家による特許も存在したが、彼らは(一部の例外を除いて)、ニュージャージー、ニューヨーク、マサチューセッツペンシルバニアという隣接した地域に居住しており、それは受託した企業が存在する位置と関係していた。なぜなら、FM研究を行なった大きな企業はその州に住んでいる発明家を雇う傾向があったからである。

RCAが取得した特許は、1920年から1930年の間、FM特許の全体のうちの約半分を占めていた(83件のうち44件)。RCAのFM関係の特許取得の推移を見ると、1926年から数が増えていき、1928年にピークを迎えたのちは減少し、今後は1932年のピークに向かって再び増加し始める。他の二者の傾向を抽出することは難しいが、不可能ではない。WHは1934年以前に9つのFM特許を出願しているが、1920年から1928年にかけて、滞ることなく特許を出願し続けている(continual trickle of patent application)。またAT&Tも10件の特許を出願しているが、このことはカーソン論文(1922年)が発表されて以降も、FM研究が継続されたことを示している。

これらの事実は、2つの一般化を支持している。第一に、FM技術の進化を形成する仕方に大企業が大きな役割を演じていたということである。第二に、1933年にアームストロングが特許を出願する以前に、穏やかな水準でFMについての関心が存在していたということである。確かに、FM技術の展開を最優先に位置付けていた会社はなく、多くはアンテナや真空管やテレビといったその他の技術の特許を多く出願していた。しかし、Lessingが主張したように、1920年代においてFMは難解な技術でも、見捨てられた技術でもなかった。カーソンが狭帯域FMの実現不可能性を主張した論文が発表された後も、FM技術は電気効率の向上や、混信の問題を解決する手段として、その魅力が失われるということはなかった。

 

 

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