yokoken001’s diary

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Gary L. Frost(2010), Chapter 5

Chapter 5   FM Pioneers, RCA, and the Reshaping of Wideband FM Radio, 1935-1940 (pp.116-134)

 

 第五章では、1935年から1940年までのFM技術の展開が扱われる。1935年にニューヨークで行ったアームストロングによる広帯域FMの演示の後においてさえも、RCAはその技術を無視した。そしてその結果、アームストロングが自ら連邦通信委員会(FCC)に正式な認定を要求するように動き出すきっかけとなるという意味で、節目の出来事だった。

 FCCの議論において、FMの周波数帯が割り当てられていく過程を明らかにしている点は興味深い。資料としては、FCCの議事録というよりは、雑誌や新聞、そしてアームストロングペーパーに依拠しているようである。著者は、RCAが広帯域FMに対していかに無頓着であったかを暴いている。RCAには、Bealに代表されるように、頭の硬い保守的な人間がいた。彼らがFMを採用しなかったのは、前章で見た様に、エンパイアステートビルでの実験デザインも得られる数量的データも不十分であったがゆえに、その技術の潜在能力を認識することができなかったからである。

 それにしても、RCAの無頓着さは、それだけでは説明できない側面があるような気がしてしまう。レッシングは、RCAはAMの既得権益に対抗する必要があったため、FMの承認をしたがらなかったという説明をしていた。そしてその説は本書で完全に否定されたが、そのような説が長い間受容されていたということにも納得できる部分がある。

 なお、文章のレベルはかなり難しく感じた。難解な文法や語彙はもちろん、比喩表現も頻出しており、文の意味がなかなか読み取れなかった。ただし、最低限、おおよその骨子は掴めたと思う。

 

以下は(半ばヤケクソになって作成した)粗いメモ。

 

   1935年10月に、アームストロングは自分自身でFMラジオの積極的な開示を始めた。最初の公の場での演示実験は、同年11月にInstitute of Radio Engineersのニューヨーク支部で行われた。彼は事前にRCAの経営者やエンジニアらに手紙を送っていたが、そこから、同社はファクシミリの送信を行なっていたということを宣伝するために、その機会(=演示)を利用しようとしていたことが示唆される。アームストロングはまだ、RCAの人間を説得して演示に参加させようとしていた。演説の最初で、彼はRCAの社員らに謝辞を述べていたことからも、こうしたことは窺える。

 この演示についての現存するほとんど全ての資料が、多くの聴衆がこのとき生まれて初めてFM技術による受信を目の当たりにしたということを指し示している。また彼を手助けしていたのは、彼と長年の友人であったPaul Gadleyであったという。

 新技術についての効果的な演示はわざとらしく(theatricality)なる傾向にある。アームストロングはFMとAMの受信を比較するために、RCAのエンジニアらがmotion picture filmを制作する際に録音した音源を用いた。その結果、FMの優位性について、聴衆に強い印象を残した。

 アームストロングのパフォーマンスに関する最も有名な説明は、その演示に立ち合っていなかった人物=レッシングによって書かれたものだった。レッシングの引用は、演示から2年後に書かれた新聞や雑誌記事からである。しかし、当日に演示に参加した人は誰も(レッシングが記述したように)、東洋風の歌やギター、ピアノの音、スーザのマーチ(「星条旗よ永遠なれ」)の録音を聞いたなどという報告をしていない。1935年時点で、アームストロングは「高い忠実度 high-fidelity」回路を彼のシステムに統合していなかったため、聴衆はそのような音を聞くことはできなかった。(※本当は録音した音源を聴いていただけなのに、まるで忠実なライブ音源を聴いていたかのように伝えられたということ?このあたりの文章が理解できない。)

  確かに、アームストロングがいずれは全ての周波数(30から16000サイクル)の変調波を送信することができるシステムに統合することを願っていた。しかし、1936年までに彼がそのような回路を用いていたという証拠はなく、1935年の演示に参加した誰もがそのような回路が必要とされる音を聞いたという報告をしていない。聴衆が感じたのは、せいぜいAMに比べてFMの方が空電による雑音が少ないということだった。

 1956年のレッシングの説明がどれほど疑わしいものであっても、1935年の演示が重要であったことには変わりがない。というもの、このデモの後に、アームストロングはRCA以外にFMラジオを売る戦略をとり始めたからである。そのためには、世界中でもっとも大きな企業の一つであったRCAが技術的な見地からFMラジオを拒絶したとする同社の疑念に挑戦する必要があった。だが実際には、それは、同社の知的怠慢さと十分な試験を行わなかったことによって、広帯域FMの本当の可能性を理解できなかったことに原因があった。RCAは10月の試験の後、広帯域FMに対して納得を示さなかった。

 この演示は、以下の点でFM技術史におけるマイルストーン(節目)になった。第一に、本試験はアームストロングがRCAにFM技術を売り込もうとした最後の試みとなった。そして、第二に、これ以降RCAはFM技術に関心を抱かなくなり、RCA以外のコミュニティーへとFM技術が普及していくことになった。

 他のコミュティーへのFM技術の浸透過程において重要な役割を演じたのは、シェパード(John Shepard)と、デマーズ(Paul DeMars)だった。シェパードは1923年に国立放送協会のトップに就任していた人物であり、20世紀を代表する企業家である。シェパードがなぜFMを擁護したのかは、連邦通信委員会(Federal Communication Commission=FCC)がどのようにしてAMを規制していたのかによって説明される。FCCは、電波の複雑な階層構造を作ることによって、田舎の地域へと通信範囲を拡大する方針を取っていた。すなわち、最下層は比較的短距離の通信を担い、数百もの250-1000W級の送信局によって主に日中に通信が認められた。その上には、5-50kW級のやや長い距離の通信局が存在していた。そして、最上層には50kW級の「最もクリア」な、24h稼働の送信局が存在していた。このような三層構造を作ることによって、各放送局どうしの混信を防ぐように工夫されていた。しかし、夜間に放送を行うことができる少数の高出力放送局を設ける代わりに、FCCはほとんどの局を低い地位に貶めて(relegate)いた。

 当時シェパードは、少数の最も特権的な送信局に苛立っていた中間レベルの送信局の代表者だった。低い地位に置かれた送信局が、最上位の放送局に反発したのは、主に経済的な理由からだった。というのも、商業的な通信局は主に広告を放送することによって収入を得ていた。そのため聴衆の数が増えれば、その分収入も増えることになった。そして、潜在的な聴衆の数は、FCCによって割り当てられたその放送局の階級に大きく依存していた。また、中間層以下の局はお互いに混信する場合もあり、それらの局は必然的に最上位局に比べて低い収入しか得られなかった。さらに悪いことに、最上位の放送局はそのライセンスを手放そうとはしなかった。そうした中、シェパードは1938年に特権的な放送局のライセンスを最小化することを目標に、地方放送局のNational Associationの初代会長に任命された。

  FMはシェパードのような下位の放送局に、ほとんど重要ではないW数とクリアなチャネルを与えた。(FM provided non-clear broadcasters like Shepard the hope of rendering wattage and clear channels all but irrelevant.) 高出力・高周波の局でさえ、水平線(?) を超えた 23-36マイルに限られていたため、FMの局はローカルなものに限られていた。(=つまり、アームストロングの広帯域FMが普及する以前のFM放送においても依然として田舎は何らかの制約が課されていたということ???) だが、シェパードはFCCの階級性を打開する技術的な基盤が与えられれば、放送産業は民主化し、ローカルなラジオも息を吹き返すということに気がついていた。

  1935年の初頭にThe Yankee Netwark’s associationが形成され始めた。アームストロングはニューヨークでの演示2-3週間後に、すぐにデマーズを説得して引き入れ(won over)、今度はデマーズがシェパードを陣営に招き入れた。そして1936年の4月に、デマーズはアームストロングがFCCに対して広帯域FMに実験的なスペクトル部分を割り当てる許可を得る行動を手助けしたことで、アームストロングは42.5-43.5メガサイクル、117、118メガサイクルの周波数帯を得ることができた。それは10のチャンネルが放送を行うのに十分な幅だった。

 シェパードやデマーズといったパイオニアらが、FM技術の社会的・技術的進化を加速されたことの重要性は決して誇張ではない(そういっても過言ではない)。1935年の時点で、エンパイアステートビルを除いて、アームストロングの実験室、そしてYonkerにあった局の2つの局のみが広帯域FMを実装していた。そして1937年以降、Doolittle、Noble、Hoganらによって、広帯域FMが次第に普及していった。そしてアームストロング本人も、1936年の4月に独立した放送者となり、実験的な高出力のFM送信機を制作することを宣言し、6月にFCCから許可を得た。

  1930年代の後半になると、アームストロングやその他のエンジニアらは、広帯域FMの新しい利点を理解していった。まず、アームストロングは、15000cpsまでの可聴周波数の音を再生することができる回路に中へ統合することによって、FMの忠実度の全体を改良した。彼はこの標準を採用するようになった理由を説明していないが、比較的高い可聴周波数の音を再生することが容易になったことと、改良の結果音質が明らかに向上したことを理解したためと考えられる。そして、1938年3月(ラジオクラブ)、1938年5月(ボストン)に新しいシステムを公の場で公開した。

 さらに1939年にはGEのエンジニアは、広帯域FMの方がAMよりも送信局どうしの干渉を抑制できることを発表した。この知らせの含意は、国立の放送システムの未来にとって、幸運だった。今やGEはFMが干渉に強いことを証明し、FCCは地理的にも電磁波スペクトル的にもお互いの局をより緊密に置くことができた。

  1930年代後半から1940年にかけて行われたほとんどの演示が、広帯域FMの利用可能性を証明するものだった。1938年1月に、アームストロングとシェパードは、50万ドルを中継局のネットワークに共同で投資することを発表した。この計画の目的は、1923年に構築されたAMネットワークに代わる、chain broadcastsという新技術の基盤を作ることにあった。古いシステムでは、CBSNBCは、電話線を借りて全国に生放送を発信していたが、それはaudio bandwidthにおいて4,5キロサイクルしか搬送することができず、それはFMのキャパシティーの1/3に過ぎなかった。それゆえ、アームストロングとシェパードとデマーズは、点対点のフルチャンネルのプログラムをFMで発信することを提案した。そしてそれは1939年の12月と1940年の1月に実際された。3つの中継地を介しての信号は無視できないほど歪んでしまっていたが、受信感度は予想を超えた質だった。

 勝利に支えられて、シェパードの動きは政治へと移行し、多くの団体がFM放送を促進することに奉仕するようになった。アームストロングのこの新システムが多様なコミュニティーを生んだという事実にもかかわらず、FMBI(FM Broadcasters Incorporated)の会合の調和を損なわせたのは、2,3の口論に過ぎなかった。最も深刻な問いは、FMは44メガサイクル以上のバンドに割り当てられるべきかどうかという問題で、そこはFCCが当時テレビのチャンネルを1つ割り当てていた帯域だった。テレビの推進者は、否と答えた。

 しかし、そうした意見の不一致は少しの動揺をもたらしただけだった。メンバーは満場一致でFM局に対して、単に実験的なライセンスではなく、「規則的」な権利の発行を始めことをFCCに求める決議を可決した。シェパードは10月に、FCCにYankee chainに対して規則的なライセンスを与えるように申請していた。FCCの技師長であったE.K. Jettは、アームストロングに出会い、FMとAMとを比較する研究を行うことを注文した。そして12月にFCCは、Yankee局の言い分を聞くことを決めた(?)(※”Yankee would get its hearing”とあるが、意味不明。) FMBIやその他の利害関係者らに世論調査を行った結果、一同は、(実験日を)1940年の3月18日に設定した。

 FMBIの会合においてRCAの代表者が参列したことは、アームストロングが特許を取得してからの4年間に、RCAはFMについて何をしていたのかという問いを投げかけた。その答えは、Crosbyの記事を別とすれば、RCAは1937年から1939年にかけてアームストロングが現代的なFMラジオについて頭を使って考えていた時期に、一つのFM特許も取得していなかったということである。

 アームストロングがRCAからFMを分離させようとした一つの兆候は、1937年にGEに対してFM受信機の制作を依頼していたということである。コストの面からすれば、RCAよりGEの方が高かったが、それでもアームストロングはRCAとともに仕事をすることを我慢できなかった。

 Bealのように、RCAの中にはFM技術に疑問を呈する人間がいたが、FM技術の支持者がいたことも事実である。例えばSandenwaterは、同社がFM技術を無視しているとして、上司を叱るということに果敢に挑んだ。1938年にPollackという仲間を得るまでは、彼は事実上RCAの内部で孤立していた。PollackはもともとFMに懐疑的な人物だったが、GEがFMラジオに乗り出すと、その支持者となった。FM技術に懐疑的だった保守主義者らも、ついに間違いを認め始めたが、それでもその過程はゆっくりであり、SandenwaterやPollackが指摘した技術的な理由に基づいていたわけでもなかった。彼らの考え方の変更にとって重みがあったのは、アームストロングやシェパード、デマーズの公の場での達成だった。Bealは1939年1月に会合を予定した。その会合において、Pollackはエンパイアステートビルでの実験で、聴取者の数の少なさ、測定時間の短さ、出力の低さなどを批判した。

  1939年末にRCAガ広帯域FMの現実を受け入れ始めたときでさえ、組織の傲慢さが変換を遅らせた。ハンセルのように、RCAの支援がなければFMシステムは経済的に生き残ることはできないと信じる人間もいた。このような自己満足は、FMはRCAにとって経済的な恐怖にはならないといった普遍的な信念に起因していた。子会社であるNBCを通じてもRCAの利益は、放送の番組を搬送する技術の種類ではなく、ラジオ番組のネットワークの中に聴取者が参入するかどうか、つまり番組の素材自体に依存していると考えられていた。

  RCAのマネージャーはついにFMについて神経質になったが、それはRCAがWH、GE、Stromberg-Carlson、Zenithといった会社に遅れをとるまでに落ちるかもしれないことを理解し始めたからである。1939年の春、RCAは、先駆者らはかつてその価値が疑わしかったFMの価値をあらわにしたことを認め、無関心の層を何枚か脱ぎ捨てた(sloughed off a few layers of this indifference, 要するに徐々に関心を寄せたと言いたいのだろう)。BealはFMを採用する報告書にサインをした。しかし、同社は永久的な技術基準が確立される前に、FMというメディアにRCAの足跡(stamp)を残したいと考えていた。RCA以外の実践家らはアームストロングのいう150キロサイクルを受け入れていたが、BealはRCAにおいてはそのような合意は得られていないと宣言した。

 FMに関する問題をRCAが把握し損ねていたもう一つの例は、同社が実践的で、商業的な質を満たす器具を製造する能力がなかったということである。O.B.Hasnonは、RCA組織の全体では旧式の受信機をたった一台しか製造できないため、GEとRadio Engineering Laboratoryに7セットのFMを製造することを依頼した。

  1939年9月に、FCCNBCに対してエンパイアステートビルに1kWの送信局を設置することを許可した。しかしHansonはFMが空電を抑制するという主張に反駁する機会を得るために、12000ドルの支出を正当化した。だが、既にFMが高い忠実度を得ること、干渉の影響が少ないということは明らかだった。しかし、HansonはそうしたFMの特徴について言及しなかった。1940年に商業的なFMラジオサービスが開始したとき、その配信にRCAはほとんど関与していなかった。

  1940年3月18日に、(1939年)10月以来シェパードとFMBIが模索していた商業的なFMサービスを作るためのFCC公聴会が開催された。議長のFlyは、FMの「法定の日 day in court」と宣言して公聴会を始めた。公聴会に参加した人々にとって最も驚いたことは、会において悪意がなかったということだった。公聴会が始まる前は、それがアームストロングとRCAとの「戦い」になることを予測する言説があった。しかしそのような見解は鎮静化した。さらに、委員会はすぐにFMの開拓者たちに有利な結論を出すだろうという兆しも見えてきた。アームストロングがハドンフィールドでのAMとFMの受信について映画フィルムに刻まれた録音を演奏したとき、エレクトリシャン誌はFMの優位性は明らかであると述べた(?)。アームストロングはなだめるような余裕を見せた一方で、彼はFMは人工のノイズに対しては秀でていることを主張することを忘れなかった。

 続く2週間で、聴衆はさらなる口論が起こることを予期し、エレクトリシャン誌もRCA側からの反対があることを予測した。しかし、RCAの代表であったW.WozencraftはFCCに定期的なFMサービスを承認する(give green light)ように促し、FMの支持者らを驚かせた。Wozencraftは、テレビのNo.1以外のチャンネルをFMに与えることなどを要求したが、それらの支持を得ることはなかった。アームストロングの門人(disciples)にとって、広帯域FMの支持/不支持をめぐる争いは、ほとんど容易いこと(cakewalk)だった。

 実際にはこの会合は法廷というよりも学会(コロキウム)に近い性質のものだった。そしてそのことは、FCCが最初に広帯域FMを制御した代理人であったということを考慮すれば自然なことだった。パネリストからの最も鋭い質問は、15000サイクルのオーディオ帯域が必要かどうかということだった。議長は10000,11000で十分かとアームストロングに聞いたが、彼は15000サイクルが自然であると答えた。Jettの前任者であったCravenは、バンドを狭めることを提案したが、アームストロングはそうすることには意味がないと答えた。どのコミッショナーも、アームストロングや他の支持者の技術的判断を否定することはなかった。

 FCCの決定はあっけないものだった。1940年5月20日、パネルは40チャンネルに相当する42-50メガサイクル帯を商業用の(広帯域FMの)サービスに与えることを決めた。そしてそのうちの42-43メガサイル内の5つのチャンネルは教育用に当てられ、それが今日の非商業的なFMラジオ帯になっている。200キロサイクルのチャネルは維持され、テレビ用の1チャンネルは削除された。パネルはRCAの要求を全く受け入れることはなかった。過去70年近く、FM放送は進化し続けているが、FCCはその技術の本質的な基準を維持することに怠ったことは一度もなかった。そしてその標準とは、1930年代にアームストロングやその他の先駆者らが考案したものだった。