yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Gary L. Frost(2010), Chapter 3

Chapter 3 RCA, Armstrong, and the Acceleration of FM Research, 1926-1933 (pp.61-76)

 

 第三章では、1926年から1933年にかけて、RCAやアームストロングが行ったFM研究が扱われる。分量的には多くないが、語彙のレベルが高く、比較表現や仮定法が散見され、文章は難しい。

 本章の内容を理解する上でのポイントは、RCAとアームストロングとに存在していた複雑な関係だろう。アームストロングはRCAにとって最大の株主であったと同時に、技術コンサルタントでもあった。両者の間には協力と呼べるほど対等な関係が築かれていたわけではなく、どちらかというとRCAの体制は、同社の研究成果がアームストロングに流れるような仕組みになっており、その逆ではなかった。そしてRCAは、他社に先を越されないように証拠となる論文を出そうとしていたが、結局その懸念はインサイダーであったアームストロングによって具現化されてしまう。両者が決裂する原因は、本章では明らかにされていないはずなので、そのあたりの事情は次章以降に期待したい。

 

以下は要約。

 

 従来の歴史記述は、アームストロングが広帯域FMを発明したことは、RCAを油断させたということを暗にほのめかしていた。例えば彼の伝記の著者であるレッシングは、「FMの武勇伝(saga)は、1933年のクリスマスの直前に始まった。そのとき、アームストロングはRCAのサーノフをコロンビア大学に招待し、そこで彼の直近の驚くべき発明を目撃させた」と記している。また、レッシングの著作では、アームストロングは、膨大なロイヤリティーを蓄積と多くの実験室を有しているRCAこそがラジオ産業の発展を拡張する理に適った企業であるとみなし、他社に先行してRCAにその特許権を販売したということも語られる。だがこの話は間違っている。実際には、アームストロングRCA1920年代中頃からFM研究に打ち込んでいたのであり、かつ、そのことは驚くに値しない。なぜなら、RCAはアームストロングを従業員とするような関係を享受していたのであり、彼のRCAに対する契約上の忠誠こそが同社を「理に適った会社」であると規定したからである。

 1934年以前に米国無線産業は、2つの方法がその前進率(rate)に影響を与えていた。一つ目は、1928年から1933年までにWHやGEといった大企業の発見がRCAに共有される仕組みがあったということである。そして二つ目は、RCAが商業的な長距離通信を運営するなかで、エンジニアらが(空電ではなく)フェージングの問題に直面していたということである。

 アームストロングとRCAの関係は、彼がアマチュア無線家だった頃から始まっていた。彼は1890年に学校の先生だった母と、オーックスフォード大学出版の代表だった父との間に生まれた。彼はコロンビア大学の学生であった1911-12年頃に米国ラジオクラブに入り、同時期に「フィードバック回路」を発明している。そして1913年に12月にアメリカン・マルコーニ社で彼の発明の演示を行なったとき、同社の代表を務めていたサーノフと親友になった。

 米国が第一次大戦に参戦すると、アームストロングは陸軍通信隊に入隊し、フランスに従軍した。そしてそこでフィードバック回路に並ぶもう一つの重要な発見である「スーパーヘテロダイン回路」を共同で発明した。彼は陸軍での経験に強い誇りを持っており、残りの人生において、彼はアームストロング「少佐(Major)」と呼ばれることを好んだ。

戦後、彼がフィドバック回路やスーパーヘテロダインを発明したという業績は、RCAを駆り立てた。1920年にWH(RCA傘下)は両者の技術に対して、335,000ドルのロイヤリティーを支払うことを申し出た。この金額は、彼が企業から独立できることを保証したが、RCAのマネージャーになっていたサーノフは更なるロイヤリティーを支払うことで、その発明を保護しようとした。1922年6月に、サーノフはスーパーヘテロダインに対して現金200,000ドルと、RCAの60,000株をアームストロングに差し出すことに同意し、彼をして同社の最大の持ち株主にせしめた。さらに、同年の夏にはRCAはアームストロングとその他のエンジニアらに家庭用ラジオであるRagiolaの開発を命じた。アームストロングのRCAの持ち株の価値は1922-23年頃には300万ドル超えとなり、1930年までには当初の三倍にまで膨れ上がっていた。

 またアームストロングは彼の新たな発明をRCAに優先的に提供する契約を結んでいたので、実質的に彼はRCAだけを顧客とする技術コンサルタントだった。このようにRCAがアームストロングと占有情報を共有することは、両者にとって有益なことだった。彼は1920年代にRCAがFMの研究に取り組んでいたことを知っていた。アームストロングと親しかったHarold Beverageは1922年に、1920年頃に「Murray Crosbyという人間が〔RCAにおいて〕あらゆる種類の変調について研究しており、アームストロングはそれに興味を持っていた」ということを回想している。加えて彼は「アームストロングはリバーヘッドに自由に出入することができ、実際に頻繁にそうしていた」とも記している。

 アームストロング本人は彼の仕事についての資料を残していないが、その他の資料からは、おそらくRCAがFM研究に取り組み始めた直後に同じくFM研究に従事したのではないかと推測される。1927年には彼がFMの無線電話についての初めての特許を出願している。そしてその二ヶ月後に、Beverageと共同で仕事をしていたHarold PetersonがRCAにおいて初めてFM技術を応用する特許を出願した。米国特許局で発行された狭帯域FMの全て特許は、これら2つの特許のみであることから、両者はお互いの仕事について認識していたことが示唆される。

 Aitkenは、RCA傘下の企業同士に、文書やその他の資料の行き来がなかったことを指摘しているが、これは1928年前後の動向に限定した場合に当てはまる分析であって、実際にRCAの体制は1927年頃から大きく変わりつつあった。1927年の10月には、WH、GE、RCAの代表が会議を開き、その6ヶ月後、新しい無線製造会社を発足させることが決まった(GEが48%、WHが32%、RCAが20%の株を保有する)。1929年12月26日、RCA Victor Companyが発足し、翌年にはRCAの社長にサーノフが就任した。

 歴史家はこの統合(unification)を、その後に続くfederal antitrust lawsuitによって再組織化の計画が頓挫させられることから、サーノフにとってもRCAにとっても重大な支障になったということを指摘する。だがこの統合は一時的に、GEやWHが行なったFM研究に関する知識をRCA、そして最終的にはアームストロングへと流通させるパイプラインを作り出していたのであり、FM研究の前進を加速させる側面があった。

 1929年7月に、その後のVictor Companyの議長になるHarbordは、C.H. Taylorに対して、EH、GE、RCAの研究を統合するような仕事を割り当てた。統合の計画がうまく収まった頃、RCAはFMについての2つの計画を始めた。一つ目は1928年、1929年頃に開始したマンハッタンの超高層ビル本社のネットワークにWHの受信機を設置することだった。だが、この計画はうまくいかず、まもなくRCAの文書から言及が消滅した。

 RCAの2つ目の仕事は、GEやWHからRCAへFM関係のデータが集められたことにとって達成された。皮肉なことに、RCAはFMについてほとんど何も教えてくれないGEの文書を読むことから、多くのことを学んだ。その(GEの)文書の著者であったJ.L.Labusは、FMに関する文献の簡単な要約と、RCAのロッキーポイントとリバーヘッドの実験室を訪問したことから得た情報をまとめただけだった。したがって、RCAにおける理論家だったMurray Crosbyが、Labusの誤りだらけのレポートに感心しなかったのは当然だった。そして、CrosbyはLabusの欠陥をRCAでの経験によって埋め、誤りを正そうとした。彼はLabusの数学的な間違いだけではなく、彼がロッキーポイントで観察したことの解釈の誤りをも指摘した。

 WHのエンジニアらは、ピッツバーグのエンジニアらがFMを記述するための数学的な理論を抽出し始めていたので、より肯定的な印象を抱いていた。1929年の9月に、HansellはKDKA局のリーダーだったLandonが書いたレポートを読んだ。RCAが統合する前、Landonは原稿をPIRE誌に投稿しようと思っていた。Hansellはそのことに同意するものの、グループの外側の企業がFM研究を行う刺激になってしまうのではないかということを警告した。したがって、RCAC(RCA Communication、RCA傘下の子会社か?)が長距離通信サービスの確かな足場を築くまで待つべきだと提案した。そして社長もHanselに対して、「RCAはライバル会社がこの技術に関心を持つ前に、強力な特許の状況(strong patent situation)を構築するべきだ」と推した。

 RCAがWHのデータをフルに吸収することにとって、リバーヘッド研究所のエンジニアにLandonの分析を理解できる人がほとんどいなかったという事情が、一つの障害になった。この問題を解決したのが、Crosbyによる、より理解しやすい言葉への翻訳である。1930年6月に、彼はRCAのマネージャーやエンジニアらにFMについてわかりやすい言葉で説明するメモを作成配布した。そしてRCAの社長は、レポートはFMを含んだ現象のクリアなイメージを与えてくれたと述べていた。それを受け立った人物の中には、アームストロングも含まれていた可能性が高い。

 より深い理論的知識と実践的な経験、WHとGEがどれだけのことを成し遂げることができたか(あるいはできなかったか)を知ることで、RCAはFMを製作することの決心を固めた。1930年10月にHansellはRCACの太平洋部門のマネージャーだったRalph Bealに長距離電話電信を改善することを目的に、長期間FM実験を行うことを支援してもらうように尋ねている。BealはFMに関心を寄せ、1931年にBolinas局で実験を行なっている。

 一連の実験は、若手エンジニアであったConklinがホームシックになったこともあり、下手な修繕をおこなったことでうまくいかなかった。またリバーヘッドの同僚たちに実験が共有されることもなかった。

 FMの技術的な段階で、RCAによる設計や試験の方法を形作ったのは、当時存在していた商業的な長距離通信システムであって、高感度の短距離放送ではなかったという点を理解することが重要である。10年以上、RCAは点対点の長距離電信電話の送受信のビジネスを展開していた。したがって、ロッキーポイントやリバーヘッドのエンジニアらが期待していたのは、いかにしてフェージングの問題を解消できるかということにあって、建設や運営のコストをいかに抑えるかということは二次的な問題だった。

 Bolinasでの長距離FM実験は、単純な失敗だったわけでも、また文句なしの成功だったわけでもなかった。Bolinasの送信機は、電離層とカリフォルニアからニューヨークへの地表面との間でぶつかり合う複数の波を放出していた。それぞれの波は独自の予測できない道を通り、同時に送信機を離れた二つの波は、片方だけが長い経路を通過するため位相がずれて到着する可能性があった。つまり、このときFM通信は、多重フェージング(multiple fading)という古くからある問題に直面した。

 HansellとCrosbyは、特に1931年6月にアームストロングがBolinasの試験の結果を聞くためにリバーヘッドを訪問したのちは、FMについて最終的な評価を公にしなかった。アームストロングは、Bolinasの試験結果を立ち聞きしている間に、「FMの可能性について好意的な印象を得た」と述べている。アームストロングは自分自身でも結果を聞き、将来について話し合うために、6日後、HansellとCrosbyとBeverageをリバーヘッドから70マイル離れたコロンビア大学まで招待した。

 CrosbyとHansellは、アームストロングのセットアップについて少しだけ知っていた。 ニューヨークに到着すると、Hansellは受信状況がリバーヘッドと大きく異なることを直ちに観察した。都会では、誘導的な空電(inductive disturbances)=人工的な空電がAMの受信を妨害していた。それに対して、FMの受信状況はAMに比べて概して良かった。

 しかし、商業的な現実化ということになると、Hansellの楽観主義は甘かった。確かに、FMはAMに比べて空電の影響を受けにくかった。しかし、RCACのスタッフは遠く離れた局どうしの点対点の通信を提供することが仕事だった。そして長距離通信にFMを使用する場合にはmultiple fadingの影響が懸念されたため、FMが即採用されることは難しかった。加えて、RCACの局は郊外に位置していたため、空電を防止することの優先順位が低かった。

 とはいえ、アームストロングの提案は、彼らを魅了した。アームストロングのセットアップは、FMが持つ直進性と低歪率を実現するものだった。CrosbyとHansellは、RCACの通信事業により適合する形に修正すること、すなわち、長距離FMが長年夢見ていた有利な点(=フェージングの影響を少なくし、その効率性を維持できる点)を損ねることなく回路構成を単純化することを提案した。Hansellは、アームストロングのオリジナルの設計よりも多くのノイズを許容することを認めたが、その結果は最適な条件で送信されるAMよりも悪くないと推定した。S/N比を多少犠牲にする以外は、FMの利点を得るべきであると彼は提案した。

 Hansellはアームストロングの反応について何も記録を残していないが、数日後に、HansellはConklinに対して、アームストロングの送受信機をBolinasに輸送してほしいと尋ねている。長距離通信にFMを採用するかどうかは保留であり、かつアームストロングのプロトタイプを何千マイルもの距離を輸送することにはリスクがあったにもかかわらず、Hanselはアームストロングの提案を受け入れたことがわかる。Hansellは、将来的に市街地で利用されるようになる超短波通信や、テレビにまつわる問題を解決する手段としてもFMを捉えていた。

 1931年にRACAがFMについて行ったことの評価はその基準によって異なる。今日から見れば、RCACのエンジニアらは、長距離でのFM通信を完全化しようとする不毛なゲームを推し進めていたと言える。さらに、広帯域FMは空電の影響を受けやすいという信念が、とくにFMの前進を阻害していた。1931年の時点で、彼らは25-30キロサイクル以下のスウィングを採用しており、これはアームストロングがのちに150キロサイクルを採用していたことを考えても低い値である。スウィングを広げることで、非可聴帯域の空電が抑制され、可聴帯域が3倍になることで音の忠実度が上がるということは、1931年の時点では誰も予測できなかった。RCACのエンジニアらは、技術的にも心理的にも、周波数のスウィングを最小化するという目標に囚われていた

 概して、広帯域・短距離に関する実験に反抗する組織の体質だけが、RCACを商業的なFM放送システムを展開することを妨げていた。だが、こうした偏見が永続していたわけではなく、また、RCACにFM放送を開発する能力を持たなかったというわけでもなかった。

 Hansell、Beverage、Crosbyがアームストロングと話し合った日の8日後、NBC重役が、BolinasのRalph Bealにボクシング戦の中継をしてほしいという趣旨の連絡が入った。そして、Conklinはこのイベントを利用してFM短波とAM短波とを比較することを提案した。もしFM信号が試合を中継できていなければ、中継先のフィリピンのマニラの局のAM受信機は何も信号を受信しないはずだった。しかし、15ラウンド目に入ると、現地から異常なほど良好な受信をしたという報告がもたらされた。

 RCAとアームストロングとの関係は複雑である。しかし、両者の目的は、RCA

アームストロングの専属顧客であると同時に、ほとんど従業員でもあるといえるほど、法的にも財政的にも絡み合っていた。その一方で、両者を通常の言葉でいうところの”collaborator”ということもできない。なぜなら、アームストロングがRCAに提供していた情報よりも、RCAのエンジニアらがアームストロングに提供していた情報のほうが多かったからである。それでも問題が起きなかったのは、アームストロングが発明した場合、その特許が優先的にRCAのものになるという契約があったからである。だが、明らかに、アームストロングはRCAの彼の友人(Hansell, Beverage, Crosby, Conklinら)に多くを負っている。アームストロングが彼らの取得した特許を知っていたという事実は、アームストロングの広帯域FMの特許が発行される1933年12月まで隠されていた。

 アームストロングはまたRCAに対して、FMについて秘匿するように説得した。そのため、同社は「X変調」という言い方をしていた。彼はまたRCACのFM技術の達成をアナウンスするかどうか、するとしたらどのような方法でアナウンスするかという問題を考えていた。Hansellは、同社がまだ販売することができる器具もなければ、優先権を実証するための証拠もないということを理解していた。そこで彼はBolinasの実験についての論文(「

短波通信に応用する位相周波数変調」)をIRE’sのProceedingsに投稿することを望んだ。Hansellは彼らのスタッフに対して、同社の最初のFM論文は、FM変調の展開に寄与した全ての人の努力、とりわけアームストロングの努力を認めるものであることを確信させた。

 しかし残念ながら、おそらくはHarry Tunickという法律家(RCA特許部門ニューヨーク事務局の長)は、ライバル企業がFM技術への関心を強めることを懸念し、論文の発表を差し止めた。今日からみれば、RCAはFM技術において他社が追いつけないほど先に進んでいたため、その懸念は根拠がないものだった。

 アームストロングがRCAと決裂したのち、1936年にCrosbyのみが執筆者となった論文がProceedings of the Institute of Radio Engineersから発表されたが、そこではアームストロングの業績は全く無視されていた。そしてそれはRCAにとって最初のFMに関する論文であったが、注目を集めることはなかった。結局、Crosbyはアームストロングに2年遅れて、より詳しいFMシステムについての論文を発表した。だが、それはアームストロングが発明したFMを祝福するProceedingsの記事が出版された後だった。今日、FMを研究するほとんどの歴史家はアームストロングの論文を引用するが、Crosbyの論文には言及しない。

 アームストロングがRCACの手柄を横取りしたということは、いろいろな意味で皮肉である。なぜなら、Hansellは1932年にライバル会社がFMについての主要な論文を最初に発表することでRCAを打ち負かすのではないかと恐れていたが、結果、そのような会社は存在しておらず、懸念はインサイダーであったアームストロングによって具現化してしまったからであるアームストロングは、Carson論文について同一の間違った解釈を犯している箇所などで、Hansellの論文から言い回しを拝借していた。

 もしもHansell論文が、アームストロングとRCAの関係が悪化する前である1934年以前に発表されていれば、RCAにとっても、アームストロングにとっても、そしてFMラジオの歴史にとっても、物事は大きく異なっていただろう。