yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 18.

Chapter 18 Further Advances in Technology (pp.149–157)

 

本章では、マルコーニ・スキャンダルとほぼ同じ時期(1910年前後)に見られた技術的な進歩について説明されている。重要なのは、ラングミュアのハードバルブ、ラウンドによる酸化皮膜フィラメントを備えた三極管、マイスナー、アームストロング、ラウンド、フランクリンらによってほぼ同時に考案された(真空管を用いた)発振回路、などが挙げられる。他方この時期には、無線による国際通信網の整備も進んでおり、1915年7月27日には、アメリカと日本の「ミカド」との間での通信サービスが始まったと記されている。この「ミカド」とは何を指しているのかわからないが、おそらくは何らかの船舶局だったのではないだろうか。同じく国際無線電信局だと、ドイツの技術がベースになっている船橋無線局が有名だが、「ミカド」とこれとは別物だと思われる。

 

  • マルコーニ・スキャンダルの最中にあっても、多くの技術的な前進が見られる。
  • 1908年にラウンド(Round)は、コンパクトで移動可能な測波器を開発し、フレミングのサイモメーター(cymometer)の後続機として利用されるようになった。
  • また、ラウンドは1909年に、”Decremeter”と呼ばれる減衰波のつながりの減衰具合(the rate of decay of the damped wave trains)を測定する装置も開発した。
  • この時期多くの研究が行われたもう一つの分野として、方向探知機(direction finder)が挙げられる。そもそもの起源は、1905年に、マルコーニが水平アンテナで方向特性を発見したことに遡る。これと磁気検波器、アースを組み合わせたシステムは、後に英国海軍も採用していた。1905–6年にかけて、ラウンドもループないし枠型アンテナを用いて、方向探知機の研究を行っていたが、このときは目立った成果はあがらず、BelliniやTosiらが考案した方法が注目される。Bellni-Tosi特許は1912年2月にマルコーニ社によって買収させ、Bellini本人も同社のコンサルタントになった。
  • 1910sには真空管も飛躍的に発展していた。1906–7年にかけて、デフォレストによるグリッドの挿入(三極真空管の発明)があった。だが、三極管の操作は不十分にしか理解されておらず、それゆえ増幅要素もあまり重要視されなかった。また、残留ガスのイオン化が動作の本質であるとも思われていた。1912年以降は、しかし、GEのラングミュアやその他の研究者がこのことは間違いであることを示し、より真空度の高いハードバルブを製作した。さらに陰極についても多くの研究が行われ、1913年にはラウンドが酸化皮膜(oxide-coated)フィラメントを備えたガス入りの三極真空管(軟真空管)を開発していた。またドイツのリーベンらもリーベン・ライツ管を開発していた。
  • 1912­­–13年にかけては、複数の研究者による、再生・発振回路の考案もあった。1913年にはテレフンケンのマイスナー(Meissner)が、1913年6月にはフランクリンが、1913年10月にはアームストロングが、1914年5月にはラウンドがそれぞれ連続波発振の生成としての真空管の応用方法で特許を取得していた。
  • 先陣を切ったのはマイスナーであるが、彼が使用した機器は不十分であった。ウェーネルト・カソードは数分間しか持続せず、出力も小さかった。それに対してラウンドは1913年にマルコーニハウスからSavoy Hotel間で、真空管を用いた無線電話の演示を行なっていた。特に、グリッドキャパシターに高抵抗を分流し(shunted)(=シャント抵抗)、かつ陽極回路にも抵抗を設けてバルブに流れる電流を制限し、過度のイオン化の影響を受けないようにした点が重要である。

 

  • 商用無線電信の運用では、1908年に他局からの送信を可能にする整流子方式の二重化が採用されたが、これは2つのメッセージを同時に送受信することができない点で限界があった。そこで、1911年にはベント(bent)アンテナと呼ばれるシステムがLetterfrackに設置された。
  • 1912年にはフランクリンが写真によって信号を記録する方法(photographic method of recording signals)を考案した。フランクリンはさらに写真シリンダー(photographic cylinder)や、火花を消すための高圧エアブラストを組み込んだ高電圧磁気中継機(a high tension magnetic relay incorporating a high pressure air blast for quenching the spark)なども発明していた。
  • 1912年–14年にかけては、国際的な無線網の繋がりに関心が持たれた時期でもあった。ロンドンとニューヨークに双方により、アメリカマルコーニ会社によって、サンフランシスコ–ホノルル間のターミナル局を建設することが同意された。加えて、1915年7月27日には、日本政府の強い勧めによって、アメリカと日本の神門(Mikado)(?)との間で国際無線網の拡大が開始したが、これを操作したのはマルコーニ社だった。
  • さらに1913年には英米間での無線サービスの確立を目的として、Trans-Oceanic Telegraphy Companyが発足した。
  • 労使契約について付言すれば、エンジニア的要素と本社の官僚主義的要素との間での摩擦が顕在化していた。特に創業以来の「兄弟のつながり」を知っている世代はシニアの地位になっており、彼らはお役所仕事(red tape)を正当に理解しなかった。

 

 

Baker(1970), Chapter 17.

Chapter 17 “The Marconi Scandal” (pp.143–148)

 

  本章で扱われるのは、1912年に生じた「マルコーニ・スキャンダル」と言われる事件である。帝国無線網(the Imperial Chain of wireless)の入札に不正があったとして保守党から追及されたこの事件により、マルコーニ社の帝国無線スキームは10年ほど遅れることになった。事件の全容を調査すべく特別委員会が設けれたが、同委員会が作成したレポートでは、他の競合会社のシステムよりマルコーニ社のシステムが確かに信頼性があるということを述べていた点は注目される。

 

 

  • 1912年にマルコーニ社は帝国の無線網の契約を受け、3月には入札(tender)がおこなわたものの、深刻な障害物がそれを妨げることになった。というのも帝国の無線網計画は電信に関わるものでもあったので、英国下院によって承認される必要のある「定期注文(Standing Order)」という形になったからである。そしてその承認は、単なる形式的なものではなかった。
  • スキャンダルの背後には、長らく続く保守vsリベラル政党の対立が存在していた。保守党は、帝国の無線網の契約に関係していた3人、すなわち郵便局長のSamuel、検事総長Rufus Isaacs、そしてマルコーニ社の代表で兄弟のGodfreyがマルコーニ社にとって好しい契約を裏で行なったとして、その「政治腐敗」を問いただした。なお、この3人はユダヤ人でもあったので、人種的憎悪(racial hatred)も一つの要因となっていた。
  • スキャンダルは世間にも流布し、帝国無線網の契約はマルコーニ社によって置かれるべきではないという感情が強くなっていった。案件は、Outlookで連載をしていたLawsonによって、その後Eye-Witnessで連載をしていたCecil Chestertonによって公にされた。(「マルコーニ・スキャンダル」と命名したのはChestertonである。)
  • 抗議は深刻になってきたので、特別委員会が任命され、1912年5月25日より全容の調査が行われた。調査の焦点は、この契約が本当にマルコーニ社にとって好ましいものなにかどうか、そしてそのほかの競合会社のシステムは、マルコーニ社のそれよりも優位なパフォーマンスを示しうるかどうかという点だった。
  • 1913年4月30日に報告書が出され、帝国網の要件を満たすことができる確かなものはマルコーニ社でしかないと結論づけた。
  • 一方、次のことも事実であったようである。SamuelはRufus Issacsとともに同意に入った。Rufusの兄弟であるGodfrey は、マルコーニ社の社長(Managing Director)である。そして三人は同社の株をシェアしており、契約が合意され無線網について公になった6週間後に検事総長アメリカマルコーニ社の1000株を売却した。(ただし、スキャンダルの後、株は暴落したので大損失をした。)
  • 結局この状況は英国下院で話合うべきだということになった。結果、政府は78票の多数で勝利し、保守党による決議案(アメリカのマルコーニ社の共有に関する一部の閣僚の取引と、この件に関する閣僚の下院への連絡で示された率直さの欠如を遺憾に思っているという内容のもの)は346票対268票で否決された。
  • 案件が解決し、穏やかな時期が到来したように思えたが、マルコーニ社は無傷ではあり得なかった。さまざまな公聴会によって同社の活動は中止され、その結果大きな損失を生み出していた。加えて、WW1の勃発により、1914年12月には複数の契約が破棄ということになった。
  • マルコーニ・スキャンダルの発生によって、帝国無線のスキームは10年遅れるという運命を辿ったのである。

 

 

Baker(1970), Chapter 16.

Chapter 16 Momentous Events (pp.136–142)

 

 Momentous Eventsとは、(第一義的には)タイタニック号沈没事件のことである。タイタニック号の事故では、無線が人命救出に役立った側面があり、世論一般としては称賛されたようである。だが、その後の調査によって、無線電信員のオペレーションに関する欠陥や、アマチュア無線家による混信の問題などが明らかにされていった。タイタニック号事故の後、国際会議では船舶無線を含めた船舶の安全走航に関する国際的なルールが決められていった。

 

  • 「テレフンケンの壁」に対する戦いと時を同じくして、改革に積極的な新任者であるアイザックがさまざまな変革を行っていた。一つは、”The Marconi Press Agency”株式会社を発足させ、無線関係の公的なアイテムを普及させるプロジェクトを始めた。1911年初頭までには、The Marconigraphという定期刊行物をスタートさせ、その後、1913年4月にThe Wireless Worldというタイトルに変更された。
  • マルコーにはGlace Bayとクリフデンの無線局の改良に忙しかった。1910年9月までに、クリフデンのλは6000mまでになり、ラウンドとともにブエノスアイレスに向かう途上で通信範囲の試験を行なっていた。この頃、マルコーには大西洋横断無線通信サービスという夢が、英国帝国と世界とを結ぶ局の鎖という夢に置き換わっていた。そして、この途上試験では、昼間は4000マイル、夜は6775マイルの範囲で通信できることを示した。
  • 1911年11月19日にはイタリア国王の前でColtanoにある500kw局の演示を行ない、クリフデン、Glace湾と通信できることを示した。翌月にはAnconaにある受信局が、ポルデューとの電信のやりとりを行うことができることもわかった。
  • ブエノスアイレスの途上試験で得られたデータは、帝国無線スキーム(Imperial Wireless Scheme)の提案にとってのベースとなる目に見えるデータを提供した。この計画は、1911年3月に行われた帝国無線会議で議論され、帝国無線システムの構築と、それは国有化されるべきだということが決定された。
  • テレフンケンとの「戦争」は休戦状態に入り、帝国無線スキームはマルコーニ社にとって好ましい方向へ前進させていた。アイザックはさらに従来の工場では生産が間に合わないということで新工場の設立を提案した。1912年6月には国際無線電信会議がロンドンで開催される予定になっており、代表者のツアーに間に合わせるという具合にして取締役会を説得させた。その結果、New Street Works(工場)が新設され、1912年6月22日にはツアーが行われた。6月30日にはポルデュー局でもツアーが行われた。
  • さらにアイザックは、ロンドンに新しい本社を作ることも決めた。1912年3月25日に、ロンドンのストランドに「マルコーニハウスMarconi House」が新設された。
  • 1912年4月14日に起こったタイタニック号沈没事件は、その後の海上無線の組織に影響を与えた。無線電信が712人に命を救ったことも事実だが、(タイタニック号が発する救難信号を傍受せずに事態に気づかなかった)航行していた他の船舶の視界内で起こったにもかかわらず1517名の乗組員が失われたことも同様に議論の余地がない。
  • ほとんどの一般大衆は無線電信を称賛し、マルコーニは救助された人々のメディアとして寛大だったが、海事当局は浮沈と言われたタイタニック号の沈没のさまざまな側面に大きなショックを受け、一連の調査が開始された。そして黙っていられない事情が明らかにされた。
  • 事故当日(日曜部)の午後7時15分、Californianは近くに氷河があるという警告を無線送信していた。そして同じメッセージは同じ領域の少なくとも3隻の船舶によっても送信されていた。タイタニック号はこれらの伝号を認識していたが、高速で進行し続けた。午後10時30分、Californianが、氷河に囲まれ停止したという送信を行なった。タイタニック号はこの伝言も受信していたが、”Shut Up, I am busy with Cape Race”と返信した。そして11時40分にタイタニック号は氷河に衝突した。
  • 皮肉なことに、カリフォルニア号は沈没船を目前にしていたが、16時間連続勤務していた唯一のオペレーターが帰投したため、信号を受信することができなかった。また、2隻の船の間の角度のために、Californianは定期船の光と認識せず、ロケットの発射を報告したが、これは遭難信号とは認識されなかった。タイタニック号が送信したSOSおよびCQDは、ドイツのFrankfurtが受信した。ほぼ同時にCarpathiaの電信員が船長に非常事態を連絡し、タイタニック号の位置を知ることができた。
  • ここでも偶然が作用していたが、今度は幸福な偶然だった。というのもこのときCarpathiaの電信員は公式な任務時間にあったわけではなく、(タイタニックからのものを含めた)交通違反の通報の整理をすべくたまたま無線機の前にいたのである。避難信号を受信したのは午前12時20分だった。
  • 海事当局の調査が明らかにしたもう一つの事情は、夜明けの事件に際して、多くのアマチュア無線家たちが(善意をもって)通信に参加したことで、混信を生じさせ、メッセージの解読を不可能にしていたという側面であった。
  • 1914年1月20日に、ロンドンで国際会議が開かれ、16カ国が船舶の安全走行に関する74項目からなるルールに合意した。その中には無線に関する項目も含まれていた。
  • 50人以上を乗せる全ての商船には無線機の設置が義務化された。また船舶の分類も決められ、無線設備を伴う連続的な監視システム(continuous watch system)を維持しなければならないことになった。
  • “continuous watch system”とは、規定されたカテゴリーの全ての船舶は、少なくとも2人の電信員ないし、「認定された監視員(certified watcher)」を同乗させなければならないということを意味した。しかし、〔規定されたカテゴリーの船舶のみならず(?)〕無線通信機能を持つ船舶には何らかの方法で継続的に監視を行うことが望ましいと認識されており、この問題はタイタニック号の損失に関する貿易委員会の調査でも提起されていた。マルコーニは2つの提案を行なった。第一はクルーメンバーに緊急符号を認識することを可能にし、電信員が勤務時間外のときでもいつでも代理を行えるようにするもの。第二は、自動アラームシステムを開発することだった。
  • さらに、アマチュア無線家たちの混信のカオスをさけるためのより厳格なルールも定められることになった。つまり、特定の周波数の割り当てを行い、無許可での〔別の帯域への〕侵入を認めないとすることだった。
  • 加えて、大西洋における氷河の脅威に対して、アイスパトロール任務が無線サービスとして(米国を中心に)組織化されたことも事故調後の成果であった。これは現在の大西洋気象報告のルーツにあたる。

 

Baker(1970), Chapter 15.

Chapter 15 The Commercial “War” with Germany (pp.129–135)

 

 第15章では、マルコーニ社にとっても最大の競合相手であったテレフンケンとの戦争について述べられる。同社の脅威は「テレフンケンの壁」とも言われた。

 

  • 20Cの最初の10年間にわたって、マルコーニ社の規模は大きくなり、必然的に行政の複雑化を伴った。設立当初は、「発明し、特許をとり、開発し、販売する」という活動が目的だった。販売は「一度きりone-off」ベースで行われていた。しかし無線の有用性が確立し、設備が複雑化すると、エンジニアは一度きりの設置で実施していたような柔軟性は失われざるを得なかった。
  • 20C初頭の今ひとつの重要な変化は、他社との競争の激化である。そして欧州でも強敵はテレフンケンであった。マルコーニ社は何年にもわたって複数の基本特許を取得していたが、他の企業から特許侵害を受けていたということが知られていた。しかし、法的措置は高価であり、同社には延々と続く法的論争を終わらせる余剰資金はなかった。
  • 1908年にHallが社長を辞任した一つの理由も、マルコーニ社の特許に対する態度を巡った意見対立があった。Hallはなるべく特許関連の論争に同社を巻き込まないようにする方針を掲げていた。
  • しかし、1910年に社長(Managing Director)に就任したIsaacsは、あらゆる犠牲を払っても、7777特許を含めたマルコーニ社の特許権を強化することを意図していた。そして彼にとって最も大きな問題は、テレフンケンにどう対処するかであった。困難だったのは、民間資本によって支えられているマルコーニ社と異なり、テレフンケンは、ドイツ政府や銀行の支援を受けていたことである。そのため、マルコーニ社が他国市場に参入しても、すでにそこにテレフンケンが働いていたということがあった。こうした状況は、「テレフンケンの壁 “Telefunken Wall”」と呼ばれた。
  • 1910年にマルコーニ社はスペイン政府の関心を引き寄せようとしたが、すでにフランス政府と無線局の建設の契約をしていた。1910年の後半、マルコーニとアイザックマドリードに行き、テレフンケンの壁を目撃した。スペイン政府はテレフンケン志向で、陸海軍もテレフンケンの製品を装備していた。
  • スペインは巨額のコストがかかることに合意しない方針だったので、マルコーニ社はより寛大な契約を示した。1910年12月に、Compania Nacional De Telegrafia sin Hilosという新しい会社が発足し、18ヶ月で通信局の建設を行うことになった。
  • テレフンケンVS マルコーニの一つの戦場は、船舶無線市場にあった。ドイツの主要な2隻にはマルコーニ社の製品が、そのほかの船にはテレフンケン社の製品が設備されている状況であった。そのため、英国海峡を通過する際に、ドイツの船は英国の無線局と通信できず、逆にドイツの海域では、マルコーニ社の無線機はドイツと通信できないという問題が生じていた。状況は行き詰まっており、何らかの交渉が必要だった。1910年にドイツ政府はこれ以降、外国の無線機はドイツの船舶に設置できないと宣言したときに、危機に達した。
  • 当時、ドイツにおけるマルコーニ社の展開はベルギーの子会社を介して行われていたが、ドイツの宣言は、ドイツ船から同社の無線機を撤去しなければならないということを意味していた。まともな道は、テレフンケンと同意を行う以外に存在しなかった。そこで、1911年1月14日に、ベルギー=マルコーニ社が45%、テレフンケンが55%の利権を持つ新しい会社=DEBEG(1913年にSAITに変更)が発足した。
  • この一連の動きの中で、アイザックが複雑な商業的状況に対して処理できる人物であるということが示された。

 

 

 

 

Baker(1970), Chapter 14.

Chapter 14 The Transatlantic Service Realized (pp.123–­128)

 

第14章は、1907年から1908年頃に焦点を当てる。マルコーニ社が「帝国無線」に乗り出し、南アフリカに局を建設し始めるのはこの時期からである。(帝国主義と無線というテーマ巨大な問題であり、とても本書ではカバーしきれない。) また1908年にはブラウンとノーベル物理学賞を共同で受賞した。ブラウンとの共同受賞という形には、さまざまな含意があると想像されるが、本書では特に深入りはなされない。ノーベル賞については、こちらの本を参照されたい。

https://books.fupress.com/catalogue/a-wireless-world-one-hundred-years-since-the-nobel-prize-to-guglielmo-marconi/2083

 

 

  • 1907年10月15日に決定的瞬間が訪れた。ClifdenとGlace Bayの間で通信が成功した。通信状況は完全だった。しかし、Glace Bay からN.Yへ送信するケーブルに問題があった。そこで多くの時間がかかってしまったのである。トータルでは、大西洋横断有線通信の方が早かった。
  • マルコーニ社はもはや「兄弟の繋がり」のエンジニア集団ではなく、株主が利益を期待する商業的組織になっていた。
  • 英国下院は、1906年に国際無線電信会議で決定された方針を認め、マルコーニ社の独占体制は崩壊した。
  • 1908年3月にHallは、社長(Managing derector)を辞任し、一時的にマルコーニが引き継ぐことになった。
  • 同時期の会社の財政は厳しかった。大西洋横断通信サービスも(先述の有線の問題があった)、Dalston工場(自動車部品の製造まで手を出していたがモーター市場が縮小していた)もペイしなかった。後者は閉鎖され、Hall Streetの工場を再度オープンした。
  • 外市場への進出が重要であり、1908年には無線電信電話ロシア会社(Russian Company of Wireless Telegraphs and Telephones)が設立された。
  • 同年初頭、マルコーニは、英国と植民地間の無線通信の可能性再度関心を寄せた。ヴィヴィアンは、タイムス紙に「帝国無線通信」を宣伝する手紙を送った。

→ヴィヴィアンは南アフリカに局(DurbanとSlangkop)を建設する仕事に従事した。

  • 1910年4月にGlace Bay 局が再度オープンした。
  • 研究サイドでは、Grayを中心にアンテナへの風の影響についての調査が進められ、分割された管型のアンテナ構造が採用され、風洞試験も行われた。これは”Gray mas”tと呼ばれた。
  • 英国海軍とも、艦船のコントールを目的として、英国海軍本部、Hornsae、Cleethorpesに新たに完全な局を建設する契約を結んだ。
  • 1909年12月に、マルコーニはテレフンケン社のコンサルタントであったブラウンとの共同で、ノーベル物理学賞を受賞し、ストックフォルムで演説を行った。この時期の会社は依然として浮き沈みが激しかったが、決定的な要素は、マルコーニという名前に連想される魔法の中にあった。彼がHallに変わって社長になったということは、株主への説得や同社の将来の進展にとって懸命な選択だった。

 

 

 

Baker(1970), Chapter 13.

Chapter 13 More Inventions and Discoveries (pp.114–122)

 

 第13章では1905年から07年にかけて、連続波や無線電話といった新しいアリーナが開かれていく様子が描かれている。本章で技術的に重要なポイントは、disc dischargerである。だが、なぜ3つの円盤を回転させると連続波が生成されるのか、なぜ中央の円盤にスタッドを取り付けることで受信性能が向上したのは説明されていない。(ただし、放電面を回転させる=絶えず新しい放電面を供給し続けることで、減衰を抑えるという発想は全くおかしなものでもないと思われる。) おそらくは、こうした技術は理論ベースで開発されたのではなく、empiricalで試行錯誤の産物であったと考えられる。この点、鳥潟右一らのT.Y.K無線電話についても同様であろう。

なお、本書によれば、実用的な無線電話の開発は、1913年に真空管が取り入れられたときであると述べられる。T.Y.K無線電話の世界的な位置付けを考える一つの指標になるかもしれないが、T.Y.K無線電話の同時代的な性能の実際の評価はかなり難しいと想像される。同じ時期に他国でも無線電話の試みは行われていたが、質が十分ではなかったという状況にあった。では、この「質」は何を持って評価するべきなのだろうか? 通信距離なのか、音声の明瞭さなのか(どうやって測るのか)、あるいは操作の容易さなのか。

 

 

  • 1905年にフレミングが「サイモメーター(cymometer)」と呼ばれる持ち運びできる測波計器を考案したことで、インダクタンス/キャパシタンスを変えるつまみを調整するという簡単な操作で波長を測定することができるようになった。
  • 1906年マドリードで再び無線電信の国際会議が開催された。この会議では、1903年ベルリン会議の際に決定された、岸の局はその機器の種類に関係なく全ての船舶と無線で送受信することができるというルールを承認することになった。これは、事実上、独占体制を確立していたマルコーニ社から切り札(trump card)を奪ったことを意味していた。従来、船舶はマルコーニ社の機器のレンタル+電信員を提供することが普通であったが、この会議で承認された新ルールによって、特にドイツのテレフンケンがライバルとして現れることになる。
  • この会議では、また非常時の信号をCDQからSOSに変更することが公式に認められた。
  • 一方、Clifden局では次々と改良が行われていた。アンテナは志向性を持つ設計に改められ、送信機のキャパシターの構造も変わり、発電機も300kW(DC)+二次電池という方式になった。これによって、16hの操作が可能になった。
  • 1906年の重要な発明は、円型放電器(disc discharger)と呼ばれるものである。1907年9月に特許が取得された。当時すでに同調技術は実用されていたものの、電波は減衰波であったので、同調を平板化してしまい、不完全にしか機能しなかった。連続波を生成する何らかの方法が求められていた。そうすれば、受信機は希望の波長を、正確に、選択的に、受信することができるようになる。
  • 円型放電器(disc discharger)は、中央に金属の円盤を置き、その両端のスレスレの位置に極円盤(polar discs)と呼ばれる別の円盤を置く。極円盤の端はコンデンサーに繋がれ、そのコンデンサーの自由端の片方はお互いに繋がれ、他方はコイルに繋がれた。中央の金属円盤もLC回路に繋がれ、そのコイルはアンテナ回路とカップリングされた。こうして中央の円盤に高電圧をかけると、極円盤との間でアーク放電が発生する。しかし、これら3つの円盤を高速で回転させながら電圧をかけると、火花でもなくアークでもなく、200kc/s程度の連続波が発生するという結果が得られた。
  • もちろん、連続波の生成はマルコーニが初めて達成したというわけではない、1900年にはDuddellが連続波を作り出すことに成功していたし、ポールセンはさらに実用的な「ポールセンアーク」を考案し、実用的な電話機の開発を試みていた。しかし、連続波の生成は不完全で、かつ適切な変調方法を考案することが打破できなかった(insuperable)。
  • マルコーニが、新しい連続波の発生方法を発見したにもかかわらず、無線電話の実験に乗り出していなかったことは、驚き以外の何物でもない。しかし、ちょっとした騒動がマルコーニを無線電話の研究へ導いた。というのは、彼は連続波の生成を実現できたものの、円型放電器(disc discharger)の初期のバージョンでは、変調されていない搬送波はイヤフォンで聞き取ることができず、モールス信号を介在させてもすぐに認識できる受信を得られなかった。
  • そこで、マルコーニは改良型の円型放電器(disc discharger)を考案した。このバージョンでは、中央のなめらかな金属板の表面に銅のスタッドを一定の間隔で取り付けた。この配置により、連続波は定期的に遮られ(to interrupt the continuous wave periodically)、信号を磁気検波器や二極真空管で聞こえるようにすることができた。
  • ところで1906年末に、アメリカ陸軍のDunwoodieによって、カーボンランダム検波器が考案された。これはのちの鉱石検波器の普及につながる出来事であり、磁気検波器優位に揺さぶりをかける出来事でもあった。しかし、それはロバストでは必ずしもなかった。また、二極真空管も頑強ではなく、鉱石検波器や磁気検波器に比べてそれほど感度が良くもなかったので、マルコーニ社にとっては二軍(second string)だった。そのため、数年間は磁気検波器(Maggie)優位の時代が継続した。
  • 1906年のデフォレストがオーディオンの特許を取得したとき、もう一つの問題が発生した。発明当初のオーディオンは増幅器として十分に機能するものではなかったが、グリッドを追加したこの三極真空管は、〔潜在的に〕増幅・発振器として活用できるものであったことは確かだった。
  • マルコーニ社も第三電極を導入することに関心を持ち始めた。それ自体新型の発明としてではなく、オシレーションバルブのバリアントとして認められるべきだと考えた。またフレミング管の基本特許はすでに米国で成立していた。従って、マルコーニ社とデフォレストの間で特許係争が繰り広げられた。だが、皮肉なことは、この当時はまだ価値のない装置であった真空管をめぐってこうした係争が展開していたという事実である。真空管技術が商業的に価値のある案に変わるのは、1913–14年のことである。
  • 1906–07年頃に、マルコーニ社の中で無線電話の領域に入ったのは、J. ラウンドであった。彼は王立科学大学で名誉ある地位にあり、1902年に同社に入社していた。彼は1908年にアーク送信機を用いて、判別可能なスピーチの受信に成功したが、質は決してよくなかった。無線電話の実用は、1913年に三極真空管と繋いだ根本的に新しい発見がなされるまで待たなければならない。

 

 

 

Baker(1970), Chapter 12.

Chapter 12 The Directional Antenna (pp.110–113)

 

第12章では、1904年から5年にかけて、アンテナ構造を変えることで志向性が得られるということを発見し、それに基づく”Bent Aerial”の特許を取得するまでのいきさつが説明される。志向性電波は長波ではなく短波で行うものというイメージがあったので、この話は初耳であった。重要なのは、WW1に無線による方向探知(航空機用なのか船舶用なのかは後の章を読まないとわからない)が重要になったが、Clifdenでの演示(1905年7月)はその最初の前兆を示していたという指摘である。

 

  • 1905年初頭、取締役のHallは、ロンドンに工場をおいた方が望ましいと判断し、工場設備をチェルムスフォードの4階建のビルに移転した。そこでは無線器具だけではなく、自動車用のイグニション・コイルなども生産された。
  • 1905年1月に新電信法が制定されるまでには、船舶において、乗客にとっても無線が非常に重要になるということは理解されるようになっていた。
  • 会社側では、このときフレミングの二極真空管および、大西洋横断通信のサービス化という問題に尽力されていた。1904年にはGlace湾の設備を5マイル離れた別の場所に移転し、同時に新設計のアンテナが設置された。これは、200本のワイヤーを傘のように広げた形状をしたものである。1905年5月より実験が行われたが、昼には1800マイルの通信を達成し、50%増だった。
  • だが、ポルデューでの試験中、一層重要な発見があった。地上に敷設されたアンテナ線は、その自由端(free end)が地上に向けられると、より強く受信することができるということ、すなわちアンテナが志向性をもつことを発見したのである。これは”Bent Aerial”と呼ばれ、1905年7月18日に特許を取得した。これは傘型のアンテナよりも建設が容易というメリットもあった。
  • マルコーニは志向性アンテナ発見により、欧州においてより強力な送信局が必要であるという主張を取締役会に説得することができるようになった。その結果、アイルランドに新たに送信局を建設することに決まった。1905年12月にClifdenにおいて、海軍のもとで演示実験が行われた。これは、10年後のWW1において、さらに改良した上で重要な役割を演じることになる無線方向探知(directional finding)の前兆であった。