yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 18.

Chapter 18 Further Advances in Technology (pp.149–157)

 

本章では、マルコーニ・スキャンダルとほぼ同じ時期(1910年前後)に見られた技術的な進歩について説明されている。重要なのは、ラングミュアのハードバルブ、ラウンドによる酸化皮膜フィラメントを備えた三極管、マイスナー、アームストロング、ラウンド、フランクリンらによってほぼ同時に考案された(真空管を用いた)発振回路、などが挙げられる。他方この時期には、無線による国際通信網の整備も進んでおり、1915年7月27日には、アメリカと日本の「ミカド」との間での通信サービスが始まったと記されている。この「ミカド」とは何を指しているのかわからないが、おそらくは何らかの船舶局だったのではないだろうか。同じく国際無線電信局だと、ドイツの技術がベースになっている船橋無線局が有名だが、「ミカド」とこれとは別物だと思われる。

 

  • マルコーニ・スキャンダルの最中にあっても、多くの技術的な前進が見られる。
  • 1908年にラウンド(Round)は、コンパクトで移動可能な測波器を開発し、フレミングのサイモメーター(cymometer)の後続機として利用されるようになった。
  • また、ラウンドは1909年に、”Decremeter”と呼ばれる減衰波のつながりの減衰具合(the rate of decay of the damped wave trains)を測定する装置も開発した。
  • この時期多くの研究が行われたもう一つの分野として、方向探知機(direction finder)が挙げられる。そもそもの起源は、1905年に、マルコーニが水平アンテナで方向特性を発見したことに遡る。これと磁気検波器、アースを組み合わせたシステムは、後に英国海軍も採用していた。1905–6年にかけて、ラウンドもループないし枠型アンテナを用いて、方向探知機の研究を行っていたが、このときは目立った成果はあがらず、BelliniやTosiらが考案した方法が注目される。Bellni-Tosi特許は1912年2月にマルコーニ社によって買収させ、Bellini本人も同社のコンサルタントになった。
  • 1910sには真空管も飛躍的に発展していた。1906–7年にかけて、デフォレストによるグリッドの挿入(三極真空管の発明)があった。だが、三極管の操作は不十分にしか理解されておらず、それゆえ増幅要素もあまり重要視されなかった。また、残留ガスのイオン化が動作の本質であるとも思われていた。1912年以降は、しかし、GEのラングミュアやその他の研究者がこのことは間違いであることを示し、より真空度の高いハードバルブを製作した。さらに陰極についても多くの研究が行われ、1913年にはラウンドが酸化皮膜(oxide-coated)フィラメントを備えたガス入りの三極真空管(軟真空管)を開発していた。またドイツのリーベンらもリーベン・ライツ管を開発していた。
  • 1912­­–13年にかけては、複数の研究者による、再生・発振回路の考案もあった。1913年にはテレフンケンのマイスナー(Meissner)が、1913年6月にはフランクリンが、1913年10月にはアームストロングが、1914年5月にはラウンドがそれぞれ連続波発振の生成としての真空管の応用方法で特許を取得していた。
  • 先陣を切ったのはマイスナーであるが、彼が使用した機器は不十分であった。ウェーネルト・カソードは数分間しか持続せず、出力も小さかった。それに対してラウンドは1913年にマルコーニハウスからSavoy Hotel間で、真空管を用いた無線電話の演示を行なっていた。特に、グリッドキャパシターに高抵抗を分流し(shunted)(=シャント抵抗)、かつ陽極回路にも抵抗を設けてバルブに流れる電流を制限し、過度のイオン化の影響を受けないようにした点が重要である。

 

  • 商用無線電信の運用では、1908年に他局からの送信を可能にする整流子方式の二重化が採用されたが、これは2つのメッセージを同時に送受信することができない点で限界があった。そこで、1911年にはベント(bent)アンテナと呼ばれるシステムがLetterfrackに設置された。
  • 1912年にはフランクリンが写真によって信号を記録する方法(photographic method of recording signals)を考案した。フランクリンはさらに写真シリンダー(photographic cylinder)や、火花を消すための高圧エアブラストを組み込んだ高電圧磁気中継機(a high tension magnetic relay incorporating a high pressure air blast for quenching the spark)なども発明していた。
  • 1912年–14年にかけては、国際的な無線網の繋がりに関心が持たれた時期でもあった。ロンドンとニューヨークに双方により、アメリカマルコーニ会社によって、サンフランシスコ–ホノルル間のターミナル局を建設することが同意された。加えて、1915年7月27日には、日本政府の強い勧めによって、アメリカと日本の神門(Mikado)(?)との間で国際無線網の拡大が開始したが、これを操作したのはマルコーニ社だった。
  • さらに1913年には英米間での無線サービスの確立を目的として、Trans-Oceanic Telegraphy Companyが発足した。
  • 労使契約について付言すれば、エンジニア的要素と本社の官僚主義的要素との間での摩擦が顕在化していた。特に創業以来の「兄弟のつながり」を知っている世代はシニアの地位になっており、彼らはお役所仕事(red tape)を正当に理解しなかった。