yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 11.

Chapter 11 The invention of the Diode Valve (pp.106–109)

 

 第11章は、1904年にフレミングが「オシレーション・バルヴ」を発明する過程が簡潔に述べられる。本書で描かれるストーリーは、既にHongのWirelessなどによって更新されているので、そちらを参照しなければならない。考えてみれば、フレミングが1904年に約20年前の「エジソン効果」のことを突然思い出し、直流用のプレート入り電球を高周波の検波器に応用したという本書のシナリオには不自然な感じが否めない。Hongは、当時フレミングは「マスカリン事件」などでマルコーニの信頼を失っており、信用を取り戻す必要に駆られていたといった背景事情なども考慮して、二極真空管の発明に至るまでの筋立てを、より説得力のある方法で示していたはずである。

 

  • レミングは、1899年にマルコーニ社に技術コンサルタントとして入社していた。彼は大西洋横断通信の実験の際にポルデュー局の建設で素晴らしい仕事をしていた。彼は優れた学者であると同時に、実践的なエンジニアとしての能力にも長けていた。
  • 1904年に、彼は関心を新しい種類の検波器に向けていた。第一の理由は個人的なものである。というのも、彼の難聴が悪化しており、イヤフォンに聞こえるはずのモールスコードのクリック音を判別するのが困難になってきており、視覚的に判別できるような検波器があれば便利だったからである。第二の理由は、当時の磁気検波器が抱えていた問題にあった。すなわち磁気検波器はコヒーラーよりも感度は高かったが、静電放電(static discharges)の影響を受けやすく、一時的に操作に狂いが生じるという問題があった。
  • 当初フレミングは、化学的な整流機を考えていたが、うまくいかなかった。そこで1904年10月に、20年前の出来事を思い出した。それは1882年に彼がエジソン電灯会社の電気アドバイザーを務めていた頃のことである。
  • メンローパークの研究所でエジソンらは、時間が経つと電球のガラスが変色し(黒化し)、そのことが電球の寿命を短くするという問題に悩まされていた。エジソンもフレミングも、この黒ずみは炭素フィラメントから放出される炭素の蓄積であると考えた。そこでこれを克服すべく、電球の内側の最も変色が起こる部分にスズ泊を挿入し、それを帯電させることでフィラメントからの炭素粒子を押し返させるといった試みが行われた。
  • エジソンが驚いたのは、このプレート入り電球を直流検流計に接続したときであった。検流計の極を逆にすると、全く電流が流れなくなるという現象が生じたからである(これはのちに「エジソン効果」と呼ばれるようになる)。が、彼の関心は電球の寿命にあったので、この問題を探究することはなかった。
  • レミングは1882年の実験を再現し、実験室の戸棚からその特別な電球を取り出し、受信回路に接続した。火花式送信機のスイッチを入れると、高周波振動がインダクションコイルの2次側に到達し、この特殊な電球によって整流が行われた。この電球と検流計の組み合わせによって、彼は視覚的に判別可能な検波器を見出した。
  • 1882年からフィラメント製造の技術は向上しており、フレミングの次の仕事はフィラメントが金属筒によって囲まれた現代的なランプを設計することであった。1904年11月16日、熱電子管(thermionic valve)が誕生した。彼はこの真空管を「オシレーション・ヴァルヴ」と命名した。バルブとは「弁」すなわち整流作用を示し、「オシレーション」はこの真空管の活動の側面を示すもの(indicative of its sphere of activity)であるが、文字通り「発振」を行うものではない。
  • レミングのオシレーション・バルヴはそれ自体マルコーニ社に利益をもたらすものではなかった。むしろ、後にデフォレストによる訴訟によってマルコーニをひどい目に遭わせることになる。また、感度も磁気検波器(Maggie)の方が良く、それにとって代わるものではなかった。しかし静電放電の影響はそれほど受けなかったので、磁気検波器の緊急時の代替物(standby)としてしばしば用いられた。
  • レミングは1945年4月18日に95歳で亡くなるまでマルコーニ社のコンサルタントであり続けた。「文明化」という観点からすると、彼のキャリアのハイライトは、この熱電子管の発明であったと考える人は多いだろう。しかし彼の工学的才能にとっては、ポルデュー局の建設も確かに高く位置付けられる。
  • レミングは人生の中に、(1)優れた理論家、(2)有能な実践的機器製作者、(3)第一級の講師、(4)教科書執筆者という4つの期待される人間を押し込んでいた。彼はこれらの活動の全てに時間を割き、それぞれには彼の完全で冴え渡った推論(reasoning)の証拠(hallmark)が示されている。

 

 

 

 

 

Baker(1970), Chapter 10.

Chapter 10 Further Struggles and Achievements (pp.100–105)

 

第10章では、1904年に起きた重要な出来事が時系列に沿って述べられる。2月には日露戦争が始まったが、マルコーニ社は陸上局の方に関わっていたようである。ロシア海軍の無線機についてはほぼ記述がない。そして本書は無線史全般を扱っているにもかかわらず、残念ながら日本が日露戦争で無線機を活用したことについても一切言及されていなかった。

技術的には、フランクリンによるディスク・キャパシターの発明が重要だろう。これは一種のバリコンであると思われ(現在のバリコンも半円型の2枚の金属を回転させる仕組みになっている)、同調操作を向上させた点に意義があった。法律面では、1915年1月から施行された英国の無線電信法が重要である。

 

 

  • 磁気検波器の利点は、通信速度を上げる点にあった。コヒーラーは一度電波が通過したのち鉄粉をもとに戻す(デコヒーラー)手続きが必要であり、1分間に10語の受信が限界だった。それに対し磁気検波器は他のどの会社の受信機よりも素早く通信を行うことを可能にし、有線通信が優位である状況を打開することに貢献した。1920sまでには、Maggieが通信サービスに取り入られた。
  • ポルデュー局ではT型のアンテナが設置され、スコットランドのFraserburgとに間で試験を行い、1kWで通信可能であることを確かめた。
  • 1904年5月7日にマルコーニはCampaniaに同乗し、長距離範囲での可否の確認を行ったが、1200マイル(昼)、1700マイル(夜)といった不十分な結果だった。マルコーニはもはや自由なエージェントではなく、多くの株主を抱える会社の僕(servant)であった。よって彼はこれ以上実験を行うことはできず中止を余儀なくされた。彼は収益資産として、ポルデュー–グライス湾との間で、通信サービスを行うことを決めた。1904年6月4日に、大西洋で無線によるニュースサービスが正式に始まった。Cunard Bulletin

という雑誌が日刊で出され[i]、同社の宣言ツールとしての役割も果たした。

  • 1904年2月、日露戦争が勃発した。ロシア政府の招待により、マルコーニ社は陸上局を提供した。サンクトペテルブルクのVishini Volechok、Vadivostokに低出力の送信局が建設された。このときの設置を担当した技師の一人がS. フランクリンだった。だが、彼らは極寒のロシアの冬を凌ぐ衣服を与えられず、本社に有線で提供を申し出たところ”Wark harder!”という返事を得たと言われる。結局衣服は届いた。また、開局式にて神父が聖水をかけ、高電圧電源がショートし、局が停止してしまうという事件もあったという。とはいえ、陸上無線に関してはロシア側は満足していた。が、海軍はそうではなかった。マルコーニ社のアーカイブには、ロシア海軍の無線機は同社のライバル社が提供したものだったことが記録されている。
  • ところで、フランクリンはディスク式のコンデンサー(Disc Capacitor)を開発したことで大きな貢献をした。これはチューニング操作を容易にする上で重要な改善だった。
  • 1904年2月には「通信チャート」と呼ばれるものが従来の航海リストに取って代わった。これによって電信員は常にある範囲内にどういった船が存在するのかを確かめることができた。
  • 1904年5月には、カナダマルコーニ社(Canadian Marconi Company)は、カナダ政府との間で8局の建設を含んだ契約を結んだ。さらに7月にはイタリアにて、世界で最も大きな電力の局を建設した。
  • 1905年1月1日から、英国で(?)新しい無線電信法(Wireless Telegraphy Act)が施行した。これによって、英国内での局建設には、いかなる組織であっても郵政公社総裁(Postmaster General)の許可が義務化された。一度認証されると8年間有効と認められた。
  • さらに、このとき無線を使用した気象予報も始まった。

1904年12月までには、マルコーニ社は69の陸上局、124の船舶局を持つ巨大な企業になっていた。そしてこのことは、無線電信が商業・軍用通信の手段として価値あるものという評価が高まっていたことの証拠だった。だが、1904年に最も重要な出来事は、二極真空管(thermionic valve)の発明であった。(これは次章

 

[i] https://digitalarchive.tpl.ca/objects/266486/cunard-bulletin

 

 

 

 

Baker(1970), Chapter 9.

Chapter 9 The Growing Competition (pp.93–99)

 

  第9章では、1903年に起きた、マルコーニ社にとってのgood news/bad newsが述べられる。後者(bad news)は、ベルリンで開催された国際会議で、同社の独占的方針(=マルコーニ社の無線を装備した船は同じく同社の無線としか通信できない)に批判が寄せられたことである。前者(good news)は、こうした批判にもかかわらず、イギリス海軍をはじめとする顧客から大口の受注を得たということである。 

  ベルリン国際会議は、電波という公共的資源を一私企業が独占している状況を是正しようとする最初の試みであり、かつ無線機の標準化とも関わる重要なトピックである。また、英国海軍の契約によるロイヤリティは総計26600ポンドに達していたという事実も興味深い。というのも、日本海軍が同じく同社の無線を購入した際に多額のロイヤリティを請求されたため、やむなく自国で開発を行わざるを得なかったエピソードが知られているからである。この例は、請求額の高さが国産化を促したことを示す事例なのかもしれない。(逆に言えば、英国海軍はそれだけの財力があったので、内部組織で開発するのではなくマルコーニ社に外注するという方針が定着したのかもしれない。)

 

 

  • 1903年は浮き沈みの激しい年だった。
  • 政治的・商業的な見地から、マルコーニ社はドイツと対立始めた。ドイツ政府は、無線電信は、ドイツ帝国が建設した植民地の愛ででの通信手段として、戦時に際して有用であるということを直ちに理解した。特にドイツの場合は、英国と異なって、本国と植民地の間が有線でつながっていなかったので、無線の意義は大きかった。それに加えて、有線はもし戦争が始まれば、英国によって切断されるという脆弱性があった。それに対して無線の場合は干渉されなかった。しかし、英国は無線において主導的な地位にいて、全ての基本特許(master patent)を握っていたのである。
  • 商業的にもドイツと対立していた。というのも、テレフンケン社は19C末よりスラビーアルコーブラウンシステムを通じて、無線器具の業界において世界市場を捉えようと努力していたからである。マルコーニ社はドイツの商業的利権にも影響を与えようとしていたのである。
  • 争いのもとは、マルコーニ社が同社の機器を設置した船舶は、同じく同社の無線機器を設置した船舶としか通信できないという方針を掲げていたことにあった。1902年にヘンリー女王は、ニューヨークからの帰路、スラビーアルコーブラウン製の無線がマルコーニの他局と通信できないということを目の当たりにしていた。
  • またマルコーニ社が無線の基本特許を取得している以上、ドイツ組織は法的措置に訴えかけられるような、英国製品と類似した送受信方を考案してしまう羽目にあった。マルコーニ社のリソースはそれらに訴訟を起こすほど十分なものではなかったが、そのことは敵意を消失していることを意味しなかった。
  • マルコーニ局とドイツに対する非協力(non-co-operation)は、1903年8月4日にベルリン国際会議(International Wireless Telegraphy Conference)を開催させることになった。そこでは、海岸局は全ての船からの信号の送受信を行うべきであること、その目的のために必要な全ての技術情報をプールすべきこと、などが確認された。そして英国とイタリアの代表者はこのプロトコルに条件付きで同意した。
  • このような商業的「戦争」があったにもかかわらず、マルコーニ社への注文は絶えなかった。1903年1月29日には同社はイタリアの郵政省と、ローマから175マイル離れたColtanoにおいて大電力送信局を建設する注文を受けた。そこでは14年間の独占権が認められた。このことは同社の受注に大きな弾みをつけることになった。
  • 1903年5月1日に、マルコーニはローマのQuirinalの夕食会で、ドイツ皇帝と同席することになった。ドイツ皇帝はマルコーニに、「私はあなたに敵意を持っているとは考えないでくれ、しかし私はあなたの会社の方針には反対だ」と述べたと言われる。
  • 1903年7月24日には、マルコーニ社は英国海軍から、一年間全ての特許の使用を認めてもらい、1日に12分間の大電力送信局の排他的使用権利を多額のロイヤリティと引き換えに提供してもらうという契約を結んだ。(金銭的な条件は、〔特許使用料が?〕合計2万ポンド、既存の32の海岸局の使用料が1600ポンド、11年間にわたって年間5000ポンドが含まれていた。つまり、総計£ 26,6000。)
  • これらの注文は、マルコーニに大西洋横断通信のサービスという夢へのやる気を新たにさせた。経験的に、長波+大電力=長距離通信という法則が確証されていた。ポルデュー局のアンテナは2000mを扱えるように改善された。
  • 1903年8月には3つのミッションを掲げて、マルコーニはニューヨークに向かった。
  • Lucania号での実験
  • ドフォレストの特許訴訟への対応
  • Glace湾でのアンテナの拡張と150kW発電機の設置
  • 彼は(3)に集中したかったが、(2)のためにニューヨークとGlace湾とを往復しなければならなかった。
  • さらに1903年10月には、英国海軍がポルデュー局がGibraltorと確実に通信できるかどうかの試験を行い、昼は600マイル、夜は850マイルでの通信ができることを確認した。加えて、1903年1月のセントルイス号事件、1903年12月8日のKroonland号事件は、それぞれ船舶無線は災害時に有効であっておもちゃではないということを示す次出来事となった。
  • このようにベルリン会議においてマルコーニ社の方針に疑問が呈されたのにもかかわらず、そのことは同社への注文に大きな悪影響を与えることはなかった。またマルコーニの研究、特に磁気検波器の商業化によって、彼の評判は海外の競争相手よりも高く保たれており、息をつく暇もない多忙な状態にあった。

 

 

Baker(1970), Chapter 8.

Chapter 8 Progress and Problems (pp. 85–92)

 

 本章ではやや時代を巻き戻して、世紀転換期におけるマルコーニ社の組織体制や人事について述べられる。同社は、子会社(マルコーニ国際海洋通信社)を抱えていただけではなく、各地に無線局が点在していたため、組織が拡大するにつれて「本社」との統合が難しくなる可能性があった。また、1901年にチェルムスフォードに電信員養成のための「マルコーニ大学(Marconi College)」が設立されたという点も重要である。これはおそらく後に「チェルムスフォード大学」と呼ばれるようになっており、1920sになると同校に日本海軍の技師が留学するというパターンが見られるので、資料の掘り起こしも含めて今後更なる研究が望まれるテーマである。

 

  • 1895年から世紀転換期までは、駆け出しのマルコーニ社における主たる活動は研究と演示であった。このことは、無線装置の能力が限られていて、かつ有線で繋がれた文明世界を説得させるために、そうせざるを得ない面があった。
  • 予算獲得を妨げていたのは、1868–9年に成立した電信法によって英国郵政省に与えられた独占権であった。このため、同社は陸上の伝言サービスを設立することができなかった。もしそれが可能であれば、価値ある「ショーケース」の役割を果たしていただろう。
  • 袋小路の末、同社は船舶無線から収入を得るしか可能性がなかった。すでに述べたように、1900年にマルコーニ国際海洋通信社(MIMC)を発足させていた。だが、子会社を設立することは万能薬ではない。というのも、電信法は陸上でなくとも3マイルの範囲でサービスを制限していたからである。そのため、短い距離での通信に際して、船のオーナーがマルコーニ社の装置を購入し、陸上基地との通信を行うことはできなかった。よって、MIMCは送受信機を「貸与」するというビジネスを展開せざるを得なかった。そこには、メンテナンスだけではなく、航海する電信員のサービスも含まれた。最初のオーダーは、英国のLake Champlainという船だった。
  • 興味深いことに、陸上電信局の最初のオーダーの一つがハワイであり、Inter Island Telegraph Co.が設立された。1901年3月1日には、公的な電信サービスが始まった。さらに同社は電信オペレーターの訓練(モールス振動、電気理論など)の提供も行っていた。ハワイ局の建設においては、Grayが調査を行い、アンテナについて有益な知見を得ることができた。電信員の「一般守則(General Order)」は、やがてパンフレットの形で印刷され、同社の船舶–岸辺間の通信を操作する手続きマニュアルの先駆となった。
  • 米国では、ヘラルド紙が主催するヨットレースに際して、1901年8月に装置が導入された。
  • 当時、エンジニアとオペレーターは同船することが慣習だった。その結果、初期の船舶電信員は無線サークルにおいて著名な人物になった者がいて、その一人がチャールズ・フランクリンだった。
  • 1901年9月26日には、保険会社のロイドとの契約を果たした。1902年11月2日にはフランスのLa Savoieにも導入された(ブリュッセルの支店が注文を受けた)。さらに、英国のPhiladelphiaには、最初に”Tune B”が導入された。Tune Aはλ=100m、Tune Bはλ=270mという違いがあった。
  • 1901–03年にかけて、マルコーニ社は研究方面では、大西洋横断通信に関して、販売方面では船舶無線に力を入れるという状況だった。後者では、70隻、25局の設備を設置・建設した。1903年には、フランスにも子会社(?)を設立し、大陸への足掛かりを得た。
  • 注文数が増加するにつれ、会社のエンジニアや商業担当の組織も成長した。元々は、「兄弟の繋がり」とも言えるエンジニアがマルコーニの元で仕事をするという形だったが、それが1898年にチェルムスフォードの工場が完成して以降、よりフォーマルな組織になっていった。
  • 1900年にはMurrayが退社し、エクレス(Eccles)に引き継がれたが、彼も1901年に退社した。加えて、もともと期間限定で同意していたマルコーニの従兄弟であるデイビスも1899年にPageに仕事を引き継がせた。
  • 同社は著しく拡大しており、単純な管理体制では不十分な状況を呈し始めた。Bullocke、Hall、Pochinなど、人事も次々と入れ替わった。初期の混乱は避けられなかった。特に、創業メンバーからは批判を招いた。さらに、マルコーニ社は、一つの場所に根差すというよりもむしろ地理的にバラバラにならざるを得なかったため、独立精神の強い人たちは、本社の「彼ら」に友好的ではなかった
  • だが、1901年10月に加わったグレイ(Gray)は、新しい職場で存在感を示すのに時間がかからなかった。彼は、技術者が理解できる言葉で話すことができる人であった。
  • 彼の任命の直前に、見習いの訓練所がチェルムスフォードに移管され、1901年10ガチに、Marconi Collegeが設立された。これは、世界初の無線の大学と主張された。会社の成り行きが良くない最中だったが、この訓練所の設立はマルコーニの個人による実現であった。
  • 組織の再編成を背景に、マルコーニ社の基本的な商業的なパターンは同じだった。すなわち、多くの演示と少ない売り上げである。なお、その中には、陸軍の車両無線(移動可能な無線機)関連の仕事も含まれており、後にField Station Departmentと呼ばれる陸軍の要件を遂行することに特化した支部に繋がった。

 

 

Baker(1970), Chapter 7.

Chapter 7 ‘ A transatlantic Service, but– ‘ (pp.74–84)

 

 第7章が焦点を当てているのは、マルコーニがGlace Bayにて大西洋横断通信サービスを開始する前後の時期である。ただし、疑問点がいくつか残る章でもあった。

この時期においてまず重要なのは、マルコーニが特許の出願をした「磁気検波器」であろう。これは電波が通過することで磁気化した鉄針が元に戻る(非磁気化する)性質を応用した検波器だが、細かいメカニズムは難しく、よくわからなかった。今ひとつは、時間帯によって信号の強さが変わるという事実の発見についてである。マルコーニ自身は太陽活動の影響に懐疑的だったが、ケネリーとヘヴィサイドは電離層の存在を提唱し、1920sに実験的に確証されることになる。しかし、そもそも数千メートルの長波は電離層とはほとんど関係ないのではないだろうか。長波であっても、電離層の状態が通信に影響することもあるのだろうか。

 

 

  • 1902年4月にアメリカから戻った後、Nitonで行った実験に基づき、同年6月12日に王立協会で「磁気検波器」(Maggieともいわれた)と呼ばれる新しい種類の検波器の説明を行なった。
  • 磁気検波器には、それに先行する成果がある。1842年のヘンリーは磁気化した鉄針はライデン瓶の放電によって非磁気化されうるということを示していた。1895年には、ラザフォードがその非磁気化した作用(agent)は高周波(ヘルツ波)であるということを述べた。そして彼が組み立てた装置では、高周波を受信したときにはいつでも針が非磁気化するということを見出した。だが、商業的な応用を妨げていたのは、一度非磁気化した針を再び磁気化するメカニズムが必要であるという点であった。これを改良したのが Wilsonであった。その後、ラザフォードが可動性の鉄帯を用いた改良型を考案した。
  • 1902年、マルコーニは2つの特許を取得した。第一は、固定された一対のワイヤーコイルと回転する磁石を使用するタイプ、第二は柔らかい鉄の線がつながっていて、互いに絶縁され、一対の永久磁石の極をゆっくり通過させるタイプ[i]だった。電線はポールピース(磁極片)を通過するところで、短いガラス管の中を通り、その上にラジオトランスが巻かれている。このトランスの一次側の端はアンテナに、もう一方はアースに接続され、二次側はヘッドホンに接続されている。
  • 磁気検波器は、コヒーラーよりも感度が良く、かつ信号がクリアであるため受信速度も向上した。
  • さて、1902年5月には、ポルデュー局において、ファン型のアンテナをフレミングが設計した発振回路を用いて、波長が1100mまで伸ばされた。この直後に、イタリアとイギリスの戴冠式でマルコーニの無線システムが用いられた。
  • マルコーニは商業的基盤を確立するという問題に直面していた。そのためには、商業的な双方通信システムを設立することが必要だった。このために、彼はGlace Bayにて新たな局を設置した。ポルデュー–グラス湾間にて、1902年11月28日に弱い信号の通信に成功した。12月5日には判別可能な信号の受信に成功した。しかし、夜間になると信号は受信できなくなってしまった。同じ条件でなぜ昼と夜で受信状況が異なるのか?その理由は電離層の研究が進むまでは明らかではなかった。マルコーニは、無線の場合は、その通信媒体が有線ケーブルとは異なる特徴を持つということに気がつき始めた。マルコーニは再度、報道をどのように扱ったら良いのか、困惑した。
  • 12月14日には、強い信号を2時間にわたって受信することができた。マルコーニはこの状況に賭けることに決めた。幸運なことに、15日の通信状況も良好で、タイムズ紙特派員のParkinを通じて記事が出された。12月21日より、通信サービスが開始した。
  • 翌年1月18日、たまたまその夜は天候に恵まれ、グラス湾に向けた通信がポルドゥで直接受信され、英国で初めて米国からの無線通信を受信した歴史的な出来事となった。かなりの世間の注目を集めたこの成果は、エドワード王の返答が有線電報で送られたという状況によって厳しく和らげられた。エドワード王のメッセージは、偶然にもマリオン郵便局の電信局が休みの日曜日に届けられた。そのため、月曜日の朝まで陸路でポルドゥに電報を送ることができず、会社はその遅れが国王に失礼にあたると考えた。従って、日曜に有線で送ることになったのである。
  • この不幸な事態はHallの説明によって可能な限り改善されたが、このチャンスを捉えてマルコーニによって過大な主張がなされたと批判する人を防ぐことはできなかった。にもかかわらず、会社はそこから利益を得た。英国とイタリアの王からは感謝の声を受け取り、タイムズ紙は称賛のレターを掲載した。
  • しかし、フルスケールでの大西洋横断通信サービスは未熟であり、更なる発展が本質的であるということは明らかだった。1903年3月28には報道サービスが始まったが、短命に終わる運命にあった。だが、アンテナデザインなどについてのデータは蓄積されていた。
  • (1)日没後に信号強度が増加する理由、(2)地球の湾曲に沿って電波が伝わる理由、については依然として謎だった。このことを説明するための理論が提唱されたことは自然なことだった。マルコーニ自身は太陽の影響に懐疑的だったが、この研究は英国のヘヴィサイドと米国のケネリーに残された。両者は、地表からある高さにイオン層が存在しそれが電波を再度地表に跳ね返る働きをしているという仮説を提示した。この説は1902年に出されたが、理論が正しいことが証明されるのは1920sに入ってからである。
  • 波長が送信条件に与える影響についても、1902年時点では十分に理解されていなかったが、フレミングは大きな屈折があるという観点から、より長い波長の電波を大西洋横断通信に用いることを提唱し、実際その有効性は実験的にも確かめられていた。Glace Bay–Cape Cod間の通信では2000mの波長を送信するように設計された。(1902年のポルデュー局では1100m。) 実験の結果は良好であり、Cape Cod局の出力も25kwまで上げる必要があると認識された。
  • しかしこの時点でさえ、大電力の送信局の建設が船舶間の通信を妨害するという批判が出ていた。そこで、フレミングはこうした疑問を晴らすための特別な試験をポルデューで行うよう、マルコーニから指示を受けた。フレミングはポルデューの送信設備を「妨害するもの」として、100–150ヤード間の船舶無線に影響しないことを示した。また1903年3月には同調システムの能力を示し、疑念を晴らすことに成功した。数ヶ月には類似の実験が英国海軍の前でも行われた。

 

 

 

 

 

[i] http://www.sparkmuseum.com/MAGGIE.HTM

Baker(1970), Chapter 6.

Chapter 6 The Transatlantic Gamble (pp.61–73)

 

 第六章では、1901年–1902年にかけて、マルコーニが大西洋横断通信を達成する道筋が描かれる。一般的には、大西洋横断通信は1901年12月12日、ポルデューとセントジョンズのシグナルヒル間で達成されたと言われる。しかしこのとき、「大西洋横断通信に成功した」という主張を支える唯一の証拠は、マルコーニとケンプの聴取体験だけだった。加えて当時の科学界では、「ヘルツ波」は直進するため地球の湾曲に沿うのではなく接線方向に宇宙空間に向かって放射されると考えられていたこともあって、マルコーニの主張は受け入れられなかった。むしろ、大衆が懐疑的になるのは至極当然の反応であった。そこで、翌年、彼はモールス印字機に信号が印刷されるようにし、かつ船長の証言を伴わせるという形でリベンジを果たした。このことは、「大西洋横断通信に成功した」という「事実」を公認される「事実」にするためには、その証拠を支えるしかるべきtechnological settingが必要になるということを示す、非常に興味深い論点である。そしてこれは、『リヴァイアサンと空気ポンプ』で展開される議論に通じるポイントであろう。

 

 

  • より大きな会社になればなるほど、開発(development)と実現(materialize)は同時に行うことができるし、実際に行われる。そしてそれぞれの開発は、全く異なった方向に向かっていることもしばしばあるが、以下では一定の一貫性を保持するために、出来事は個々のストーリーとして扱われる。
  • 世紀の変わり目には、マルコーニ社は同調の問題と並んで、〔波長の〕動作範囲(working range)をいかにして拡大するか、という問題に取り組まなければならなくなっていた。
  • ここには謎があった。ヘルツは、無線は光と同様に反射・屈折の法則に正確に従い、異なるのは波長だけであるということを示していた。そしてこの結論は、何度も検証されてきた。しかし、同様に、マルコーニ社の演示から収集されたデータが達成範囲(=通信可能な波長範囲)の着実な進歩を示したという事実は、議論の余地がなかった。当初、これらは計算された数字をはるかに超えていたため、大きなコメントはほとんどなかったが、予測された数字(=λ?)の約 2 倍になると、もはや無視できない問題になった。
  • だが当時の科学界は一部の例外を除いて、この現実から目をそらそうとした。マルコーニは噂を押しつぶすか、長距離通信の競争にシステムを参入させるかの2つの野心があった。そして、大西洋横断通信計画は、こうした中で始まった。そして従来の小さな無線器具ではなく、大電力の送信所を建設することを提案した。
  • こうした大電力の送信局を建設することは、他の船舶無線に影響を与えるのではないかという懸念が取締役会から出された。そこで、HavenとNiton間で予備試験を行い、この心配は杞憂であることを確認した。
  • マルコーニが建設しようとした送信局は、これまでのどの送信局よりも大きな出力のものになるはずだった。1900年7月、マルコーニは強電分野で成果を挙げていたフレミングを(ロンドン大学に席を置かせつつ)同社のコンサルに迎えた
  • まずは、英国側に、通信に最適な場所を見つける必要があった。そして物理的に最もアメリカに近いPolduが選ばれ、1900年10月には予備作業がスタートした。
  • ポルデュー局からの送信の可能性を確認するための、6マイル離れたLizardが選ばれた。同調送信の記録的な距離は、186 マイル離れた Niton局の受信によって達成された。
  • ポルデューでは早速、フレミングが設計した発電所(power plant)が設置された。それは巨大なもので、発振回路に000Vを印加できるものだった。3月までにはほとんど作業を終え、マルコーニはヴィヴィアン(Vyvyan)とともに米国へ向かった。そこではアメリカ側の大電力の局の場所(ケープコードなど)を決め、また英国に戻った。
  • 英国側ではさらにアイルランドのCrookhavenにも送信所も開局した。Crookhaven–Poldhu間での通信は成功したが、アンテナに問題が残っていた。理論と実践の間に乖離があった。今から考えると無謀な設計のアンテナを立ててしまい、1900年9月に、全てのマストが崩壊するという失敗を経験した。さらに同年11月にはヴィヴィアンによって設計されたアメリカ側のアンテナも崩壊した。
  • マルコーニ社の取締役会は愕然とした。50000ポンドが消失したが、マルコーニは諦めなかった。彼はケンプのもとでチームを編成し、残骸を取り除き、臨時のアンテナを立て直した。その速度は驚異的で、9月26日には実験が再開された。
  • 10月22日までには、新たな恒久的なアンテナを設置する計画が提案され、認められた。11月1日にその作業は開始したが、結局マルコーニはそれをやめた。彼はまた、ケープコッド局で大西洋を横断する受信を行うのではなく、ニューファンドランドで最も近い上陸地点で試みることを決定した。そして11月にケンプと新たな助手であるPagetとともにそこへ向かった。
  • ちょうど出発したときにKape Codのニュースを聞いて3人は驚いたに違いない。大西洋を横断する双方向の通信に対する3人の希望は、当分の間失われた。
  • 12月6日に、一向はセントジョンズに到着した。その場所を見渡し、Signal Hillが最も適した土地であると認識した。また、近くにあった使わなくなった軍の病院を利用できるという便宜も与えられた。偶然にも近くには1858年に大西洋横断海底ケーブル敷設の成功を記念するタワーがあった。
  • 12月9日、器具が設置され、有線ケーブルで、ポルデュからモールスコードで「S = ・・・」を要求するメッセージを送信した。翌日、ポルデューでもアンテナが艤装された。このとき測波器がなかったので、どれくらいのλだったのかわからないが、366m説や、2000mくらいという説もある。
  • Signal Hillでは、同調式の受信機とともに、自己修復型コヒーラー(self-restoring cohere)を用いた。それはイタリア軍のCastelliが開発したもので、最も感度が良いとされていた。マルコーニはそれと受聴器とを両方用いた。
  • だが、Sと特定できるような信号を受信できず、マルコーニは風が同調を妨げていると結論づけた。まもなく強風がバルーンを引き裂き、実験には終止符が打たれた。1時間以内にタコも撤去された。そして500フィートの新たなタコがあげられた。
  • 12月12日、予定されていた送信時間に注意深く受聴器に耳を傾けていたマルコーニは、ケンプに「ケンプさん、何か聞こえませんか?」と尋ねた。ケンプは受聴器を撮ってみると、静電気の衝突音がかすかに聞こえたが、紛れもなく3つのドット音を認めた。一向は歓喜を伝えたかっただろうが、この側面に関して記録が残っていない。ケンプはこの勝利を、まるでブーツを履くこと以上に(?)(than the putting on of his boots)重要なことであるかのように記録している。マルコーニは日記をつける人ではなかったが、12月12日には簡潔に「 at 12:30, 1.10 and 2.20.」と記していた。
  • 続く日は天気が低迷であった。この頃までには、マストで支えられたアンテナが唯一の解決策であると考えられたが、天気がよくなるまでは待つしかなかった。
  • マルコーニはこの成功を公に発表すべきかどうかで困惑していた。大西洋横断通信に成功したという証拠は、彼自身が信号を聞いたというだけで、例えばモールス印字機のテープのような目に見える証拠は存在しなかった。また2人の目撃者(ケンプと彼自身)も、バイアスがかかっていないとは言えない。
  • 結局、12月14日と16日に、彼は報道機関にこのストーリーを与えることにした。勝利は甘くはなく苦かった。早速、アングロアメリカン電信会社から理権侵害についての反応を得た。
  • マルコーニは、この問題を争うことなく、装置を解体して別の場所に行くことにした。この選択は賢かった。なぜなら、彼はセントジョンズに高価な局を建設せずに、独占的な規制が存在しないカナダやアメリカでも地理的にほぼ同じ役割を果たす局を建設することができた。法的な争いに巻き込まれることで、時間とお金を無駄にすることになりかねなかった。
  • また、この禁輸措置(アングロ社がマルコーニを訴えようとしたこと)は、間接的にマルコーニに有利に働くことが分かった。Newfoundlandの住民は、アングロ社の行動に激怒し、電話の発明者で知られるベルは、マルコーニにCape BretonやNova Scotiaの土地の利用を差し出した。カナダと米国政府も、マルコーニ(under-dog)に好意的だった。
  • 報道機関はアングロ社のニュースを怒りを持って受け止めた。しかし、マルコーニの大西洋横断通信に成功したという主張は、報道機関のみならず技術雑誌においても懐疑的に扱われた。マルコーニは、ケンプとともに信号を聞いたというだけで、彼の主張を立証する実際的な証拠を少しも持っていなかったので、これは非常に理解できることであった。
  • また、彼が大西洋横断通信に成功したと主張する際、電磁波の振る舞いを支配していた物理法則の妥当性にも異論を唱えることになったということも負担だった。特に回折に関する法則は理論的にも経験的にも証明されてきており、論破できないものだった。電波は水平線を超えて伝わるが、それは接線方向へと宇宙空間へと出ていくと考えられていた。であれば、地球の湾曲に沿って2000マイルも伝わるということは、科学的には不可能であると思われた。科学が実際的な達成と基礎的な物理法則との間の調停を試みるのは、マルコーニが完全に体制王通信に成功したということが実証された後のことである。従って、1901年時点での知見では、マルコーニやケンプの意見を間違いであるとするのは理にかなったことだった。ただし、1901年成功説には、今日でも反対論があるということを記しておく必要がある。
  • アングロ社の突然の禁輸は広く知らせ、カナダ政府などもマルコーニに同情的になった。12月30日にはオタワに招待され、カナダ政府は土地の貸与だけではなく、金銭的な支援を与えることを申し出た。そして、同政府とマルコーニ社の間で契約が結ばれることになった。
  • 1902年1月12日にニューヨークに到着した際には、彼はアメリカ電気工学学会(The Institute of American Engineering)の夕食会で、スタインメッツ、Elihu Thomson、ベル、ピューピンといった著名な人物に会うことができた。
  • その間、ポルデューでは送信機の改良が行われ、モールスキーシステムは理にかなった長さのメッセージが送れるようにされた。
  • 彼が英国に戻る船=ペンシルバニアのオーナーは、マストを拡張し、そこから150mのアンテナを支えるということに同意した。マルコーニの意図は、無線信号が大西洋を横断して伝わるという証拠(proof)を世界に与えるという大胆な試みをすることだった。そしてこのとき、彼には信頼できる目撃者がいた。同調受信機と従来のコヒーラーを用いて、彼はモールス印字機にメッセージを記録させるようにし、かつ、船長によって受信を確認させるようにした
  • 船は西へと向かった。そして、暗くなったとき、ポルデューの信号が再び受信され、1550マイルの距離で印字機に記録された。さらに、Sの文字は2100マイル離れた地点で印字された。ここにマルコーニの主張を妥当なものにする証拠(vindication)が揃った。テームによって得られた証拠と、正真正銘船長の確認を前に、誰も否定することはできなかった。さらにこの時、電波の”night effect”の発見というもう一つの重要な前進もあった。(ちなみにこのときの電信員はS. Franklinという後にアメリカで発明家として知られる人物であった。)
  • マルコーニはカナダ政府との契約を終え、新しい局の場所を決定した。また1902年4月にはアメリカマルコーニ会社(Marconi Wireless Telegraph Company of America)が発足し、マルコーニの発明のアメリカにおける権利は同社に譲渡された。

 

 

 

Baker(1970), Chapter 5.

Chapter 5 Tuning: A Great Step Forward (pp.52–60)

 

 本章のポイントは、マルコーニが「同調」性能を持った送受信機を開発する過程である。同調というのは、LC回路における共振という現象を利用して、特定の周波数の電波だけに選択的に反応するようにする仕組みである。もちろん、共振というアイデア自体は、マルコーニのオリジナルな発想ではない。よく知られているように、ロッジがシントニー(syntony)という名前で同調に関する演示を既に行なっていた。しかし、マルコーニがロッジのアイデアをそのまま自身の無線機に応用したと考えるのは誤りのようである。マルコーニはロッジのsyntony実験の詳細が発表される前から発振トランスを用いた同調に関する試みを開始しており、1900年3月頃になってロッジの実験を参照した。マルコーニは、閉回路であったロッジのsyntonic jarsを、インダクタンスとキャパシタンスを刻んで変化させることができるように変えた。マルコーニのオリジナリティはこの点に見出すことができる。

 

 

  • 1900年2月23日に、無線電信信号会社は、マルコーニ無線電信会社(Marconi’s Wireless Telegraph Cp. Ltd)へと変更になった。社名にマルコーニの名前が入ることを本人は望まなかったが、取締役会でこのように決まった。
  • このとき、4年前の装置と基本的には同じものを使っていた。だが、徐々にデータも蓄積され、評価が経験的な試行錯誤に依存する度合いも小さくなっていた。
  • それでもなお、英国海軍を除いて船舶無線の注文数は少なかった。これは当時の顧客が保守的だったからではなく、技術的な問題が原因であるということをマルコーニは理解していた。というのも、通信の範囲が限られ、送受信の過程で機密が漏洩しやすく、何よりも同調技術がなかったので、望まぬ伝言を取捨選択することができなかったからである。
  • 1897年のSaliuburyでの演示実験の際、Slabyは、コヒーラーがアンテナと接地の間に挿入されており十分に利点をいかせていないことを指摘していた。これに刺激されたのか定かではないが、マルコーニはコヒーラーに入力信号を電流ではなく電圧として印加するように(applying the incoming signal to it as a voltage rather than as a current)、高周波トランス(r.f. transformer)を回路に挿入することを決めた。これにより、アンテナとアースの間にトランスの一次側が接続され、コヒーラーはトランス二次側に接続された。これが、ジガー(jigger)と呼ばれる高周波変圧器である[i]
  • 繰り返し実験が行われた末、最も有望な3つの特許を出願した。さらに、1898年7月1日に出願された英国特許:第12326号では、この変圧器はコンデンサーと接続されることで共振器(resonator)となり、所与のアンテナから出される最良の電波に反応するように同調(tune)できることが明記されていた。
  • 尤も、同調というアイデアはマルコーニ自信によるものではない、1899年、ロッジはsyntony(同調)に関する演示を行なっており、1897年5月には英国特許:第11575号も出願していた。
  • マルコーニがロッジのアイデアを借用・応用したと考えたくなるが、それは誤りである。ロッジによる”syntonic jars”の実験は、大きな距離を隔てて電磁波の放射を可能にするものではなかったし、技術的な詳細が公になる1897年以前からマルコーニは発振トランスの実験を開始していたからである。
  • そして、1899年12月19日に、第25186号特許明細の中で、マルコーニは2次コイルの長さを垂直アンテナと同じにしたときに、最良の結果が得られるということを記した。だが、送信所から等距離にある受信局で2つの信号を明確に区別するほどの性能は得られていなかった。
  • 1900年3月に、第5387特許の中で、放射器のそばにアンテナを置くというアイデアを示した。このとき、マルコーニと助手らが、1889年のロッジによる”syntonic jars”の実験に戻ってきた。このロッジのシステムは、閉回路(closed circuit)(=スイッチ(刻み)がなくLとCの大きさ調整することができないもの)だったので、放射特性(properties of radiation)はほとんどなかった。それに対して、マルコーニの新規性は、アンテナのインダクタンスを刻む(tap)することで振動周期を調整でき、さらにライデン瓶(固定コンデンサー)も、静電容量の値を変えることができるものに置き換えたところにあった。受信機でも同じ構造を採用した。そして、1900年4月26日、同調原理に関する有名なFour sevens 特許(英国特許:第7777号)が認められた。
  • 同調の送受信の実験は予想以上にうまくいった。さらに、モールスキーの速度を上げるような改善も加わり、英国やドイツからの注文数が増加した。1900年にはドイツのBorkum Riff lightshipとBorkum Islandとの間(有線の敷設に失敗し、かつ視覚信号のやりとりも難しい場所だった)での通信が行われ、設備が導入された。
  • 1900年2月の時点では、数ヶ月前にデイビスが退社していたので、Floog Pageが取締役(managing director)に就任していた。彼は会社がペイしなければならないという事実に敏感であり、最も収益が見込める船舶無線分野に焦点を当て、1900年4月25日にMarconi International Marine Communication Co. Ltdという子会社を発足させた。名前の通り、オフィスはロンドン、ブリュッセル、パリ、ローマに構えられた。
  • この子会社が設立されたもう一つの背景には、1868年と1869年に電信法が整備されたという事情があった。この法律の制限条項を避けるべく、通信設備は売り切りすることができなくなった。設備を「売り切る(outright sale)」とう形式にしてしまうと、設置者は所有者とみなされ、独自の無線局を維持する必要が出てきてしまうからである(電信法の2つ目のポイント)。よって、マルコーニ社は、海岸線の無線局は同社が維持しながら、無線器具を貸与するサービス(hire service)という形式で展開しようとしたのである。
  • また、1900年11月には、英国で無線設備のライセンス制度も認められた。かつ、英国国内では3マイル以内の通信に限定されていたが、領海の外では反対がなかった。その結果、レンタル制が全ての国へと拡大することになった。1900年には、North Foreland, Holyhead, Caister, Withernsea, Rosslare, Crookhaven, Port Stewartといった場所に海岸局の設立ラッシュが起こった。

 

 

[i] https://collection.sciencemuseumgroup.org.uk/objects/co8357570/experimental-transmitting-jigger-used-by-the-marconi-company-1899-transformer