yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Saga, Chapter2-4.

 真空管の歴史を扱った最も重要な文献の一つに、Saga of the Vacuum Tube, Indianapolis: H.W. Sams & Co. 1977. がある。

 2-4章を読んだ限り、本書は図面が豊富で、真空管の性能に関する情報が詳述されている一方、真空管技術を取り巻く社会的背景の描写や、概念的な議論について不十分であるといった印象を受けた。

 やはり技術的な性能についての記述は細かく、おそらく日本語であっても理解するのは容易ではないと想像される記述が複数ある。

 特徴曲線、排気方法、フィラメントの素材、出力の大きさなど、真空管の性能に効いてくる諸要素について、わかりやすく解説した本があると良いと思う。

 

以下、読書メモ

 

Chapter2-4 (pp.30-72)

 

Chapter 2 The Engineer Enters the Picture, 1880-1900

 真空管やそれに類似したデバイスの特徴は、物理などの科学研究からではなく、工学の分野から調査が開始された。1879年にトーマス・エジソン白熱電球の製作に成功したが、初期の電球は時間が経過するにつれてガラス球の内側が黒ずみ、それによって効率が悪化するという問題点があった。エジソンは、この黒ずみ(deposit)は炭素であることを認め、なんらかの電気的プロセスにおいてフィラメントから放出された(“electrical carrying”)結果であると推測した。

エジソンは調査の過程で2つの重要な事実を発見した。一つ目は、ガラス球の内側に、黒ずみが生じていない、フィラメントの形に沿った明るい「影」があることを発見した。第二に、その「影」は常に正極に繋がれたフィラメントの側に生じることを見出した。

彼はさらに調査を進めるべく、電球の中に金属のプレートを挿入した電球を用いて実験を行った。エジソンは、このプレートがフィラメントの正極に繋がれている場合、真空中を電流が流れ、逆に負極に繋がれているときは電流が流れないということを発見した。エジソンはプレート-フィラメント間の電流を測定することによって、点灯回路(lightning circuit)における様々な電位の変化を検知することができると考え、この現象を応用した装置を直ちに”Electrical Indicator”と命名し、特許を出願した(1883年、12月15日)。

 1884年の秋にフィラデルフィアにて国際電気博覧会が開催された際、エジソンはこの装置を展示した。この博覧会では、新設のアメリカ電気学会(AIEE=American Institute of Electrical Engineers)の第一回会合が開かれた。この会合においてヒューストン(Edwin J. Houston)の論文「発熱電球の現象についての覚書」が提示され、エジソンの実験が広く知られるようになった。その後、のちに英国郵政省技師長になるウィリアム・プリース(William Preece)が積極的にこの議論に加わるようになった。プリースは英国に帰国した後、その現象についての数量的な測定を行い、1885年3月に王立協会にて結果を報告した。彼はここで、「エジソン効果」という用語を初めて使った。そして、彼は真空中の電流は電球の白熱の程度に比例することを報告した。

エジソン1881年に電灯事業を展開するために、ロンドン・エジソン電灯会社を発足させた。翌年にはジョン・フレミング(John Fleming)が同社に入社し、白熱電球に関係した様々な問題に取り組んだ。彼はエジソンと同様に、フィラメントの形状の「影」が生じることを確認し、これを「分子の影」と名付けた。1883年には「分子の影」ついての簡潔な論文を出し、1885年には完全な議論を提出している。さらに1890年には「電球の物理的問題」と題された講演を王立協会で行い、「分子の影」の発生理由について議論した。1896年にはフィラメントが80-122回/秒の交流電流によって白熱された場合、回路内の電流が一方向にしか流れないことを見出した。つまり、電球は整流器として作用することを発見したのだった。

 1880年代に入ると、工学だけではなく物理学の方面からも研究者が「エジソン効果」に関連した研究に取り組むようになった。ヨハン・エルスターとハンス・ガイテルは、白熱線による気体の電気化についての研究を始めた。ヒットホフは陰極線の実験を続け、電極から生じる気体によって真空度が下がることを確認した。シャウスター(Arthur Achuster)は1884年陰極線は高速で移動する負に帯電した分子によって構成され、その分子は気体分子が正と負の部分に分離した結果生じるというアイデアを提唱した。正に帯電した部分は負に帯電した陰極に引き寄せられ、負に帯電した部分が反対に退けられることになる。

 1895年にペリン(Jean Perrin)は、陰極線は負に帯電したものであることを実証した。さらに1897年にトムソン(J.J. Thomson)は、陰極線は負に帯電した粒子によって構成されるということを追認した。陰極線を最初に工学的測定に応用したのはブラウン(Ferdinand Braun)で、1897年のことだった。その後、ゼネック(Jonathan Zenneck)によって1900年にブラウンの管が改良された。

 

 Chapter 3 The Beginnings of Thermionics in Communications, 1900-1910: Great Britain

 

 フレミングの仕事は、熱電子管を無線電信に応用しようとした最初期のものだった。1899年に彼はマルコーニ社の技術コンサルタントになり、大西洋横断通信のための送受信機の開発に取り組んだ。当時、受信機はコヒーラーなどの不完全な装置だった。その後、その脆弱さと誤りの多い動作を改善し、磁気検波器が現れたが、この装置も感度が悪かった。そこで、フレミングはコヒーラや磁気検波器とは異なった種類の受信機の開発に取り組んだ。当時、最も感度の良い「視覚的」な受信機は、直流電流のみに対応したミラー・ガルバノメーターだった。彼はこの装置の高感度性を利用したかったが、そのためには高周波交流を整流する必要があった。そこで彼は数年前に取り組んでいた「エジソン効果」の仕事を思い出し、高周波においても同様に整流作用を得ることができるかどうかを確認した。1904年、彼は完成した装置を”オシレーション・ヴァルヴ(Oscillation Valve)”と呼んだ。今日では一般的に、電子を放出する管=電子管(electron-discharge tubes)は、フレミングヴァルヴの直系の子孫であるとみなされている。

 その直後にフレミングは、エジソン・スワン会社にオシレーション・ヴァルヴ用の新型電球を注文している。この電球は4Vで炭素フィラメントを使用し、フィラメントを覆うようにプラチナのシリンダー(プレート)が挿入されていた。英国では、この装置の完全な特許仕様書が1905年8月に出願され、9月に承認された。仕様書には、完全な整流作用を得るためには、可能な限り高真空である必要があると書かれている。なお、真空管を整流器として応用したのはフレミングが最初だったというわけではない。例えば、ヴィーネルト(Arthur Wehnelt)も、熱電子管と酸化陰極を発明し、ドイツで特許を取得していた。

 フレミングはさらに12Vで作動する炭素フィラメントを備えたバルヴの製作をエジソン・スワン会社に依頼した。このバルヴにおいては、陽極(プレート)はフィラメントと接触しておらず、ガラス球を通じて封入されたプラチナのワイヤーによって支えられていた。さらに彼は1906年に、振動バルヴは、高周波振動を数量的に決定する目的にも用いることができることを示した。

 彼はバルヴの特徴曲線を調査する中で、正極の電位が特徴曲線の下部で動作するように調整することができれば、信号振動はより大きな電流に変換されることを示唆した。そのことを踏まえて、1908年に彼はタングステンフィラメントの振動バルヴの特許を出願した。1905年2月に王立協会でフレミングが発表したアレンジメントと、米国のAIEEにドフォレストが発表したオーディオンのそれとが酷似していたことは興味深い。だが、ドフォレストは正極に電位を供給するために別のバッテリーを用いていたのに対し、フレミングは高圧フィラメント電池に電位差計を使用して対応する電位を得ていた。

 実用的な意味では、フレミングバルヴは当時の無線電信にはほとんど貢献しなかった。それは感度が悪かったのである。またマルコーニ社の方針で、ヴァルヴが一般的に普及することはなかった。それが持っていたかもしれない有用性は、感度を大幅に向上させたドフォレストのオーディオンの開発によって、すぐに覆い隠されてしまった。

 

Chapter 4 The Beginning of Thermionics in Communications, 1900-1910: United States

  

アメリカでは、ドフォレスト(Lee de Forest)が無線電信に大きな関心を寄せていた。ドフォレストは1899年にエール大学で博士号を取得すると、ウェスタンエレクトリック社に就職した。ドフォレストははそこで無線電話の研究をしていたスミス(Edwin H. Smythe)と出会い、彼と協力しながら新しい無線電信のシステムの構築に取り組んだ。彼らは”responder”という装置を開発したが、その過程で、ドフォレストは送信機が動作しているときに、部屋に置かれたガスバーナーの火が揺らいでいることを発見した。彼は1903年頃に、ガスバーナーの電気振動への反応を調べ始めた。そして1905年2月に、ブンゼンバーナーを用いたいくつかの装置の特許を出願した。そのアレンジメントは多岐に及んでいたため、特許は三つに分類された上で取得された。

ドフォレストの助手の一人であったバッドコック(C. D. Badcock)は、ニューヨークのマッカンドレス(McCandless)の事務所を訪ね、フレミングヴァルヴの複製を作るように依頼した。彼は申し出を受け入れた。

 ドフォレストの次の特許は、1905年の12月に出願されたもので、ブンゼンバーナーの炎を、一方向電導性を持つものとして説明した装置だった。それは整流器として動作した。仕様書にはフレミングのヴァルヴに似た白熱電球が書かれているが、これは明らかにドフォレストが、McCandlessによって複製されたヴァルヴを用いて実験を行っていたことに由来すると考えられる。

その他の特許仕様書では、フィラメントを熱するためのバッテリーと、2つの電極、そして陽極の回路に独立したもう一つのバッテリーから構成される”oscillation responsive device”が書かれている。この装置の特許は米国において1906年11月に取得され、彼自身「二極のオーディオン」と呼んでいた。

ドフォレストのオーディオンの発明について初めて公に発表されたのは、1906年の10月26日のAIEEの会合においてだった。彼の論文のタイトルは、“The Audion: A new Receiver for Wireless Telegraphy”である。最初はブンゼンバーナーの実験の説明から始めっていた。そして彼は無線電信に使用する新しい検波器の発明について説明した。それは、白熱灯のフィラメントを含む部分的を排気させたガラス球から成り、フィラメントの平面に平行に接続された2つのプラチナの「翼」に挟まれていた。そしてそれは、フィラメントから約2mm離れた両側にあった。また、彼はこの論文において、プラチナ、タングステン、炭素という3種類のフィラメントに言及していた。

 ドフォレストは、この論文の中でフレミングの仕事について触れてもいたが、オーディオンは整流器としてではなく、中継機(relay)として作動するものであると述べ、フィレミングバルヴと区別していた。彼は最初、二つ目の”cold electrode”をフィラメントとアノード(陽極)の間に挟むことで、オーディオンはよく動作するだろうと推測していたが、この配置だとフィラメントからアノードへ向かう「分子(particle)」が遮断されてしまうので、”cold electrode”をグリッド状にすることにした。

 それに応じてドフォレストは1906年11月25日にMcCandlessにグリッド状の電極を備えたオーディオンの製作を依頼することになるが、このとき、彼はドフォレスト無線電信会社と揉めていた最中でもあった。したがって、新型のオーディオンの試験は1906年12月31日になってようやく行われることになる。当時高校生であったホーガン(John V. L. Hogan)のサポートを得た結果、実験は成功し、1907年1月29日に特許を申請、翌年の2月に取得した。

 ドフォレストが三極真空管を初めて公開したのは、1907年3月14日、ブルックリンでのことだった。彼はその直後に、自身の特許権を保持する装置の製造・販売のために、ドフォレスト無線電話会社と、その子会社である無線電話会社を発足させた。この会社が製造した三極管を用いた受信機は、フロリダ州のKey Westにある米国海軍の無線局に備え付けられた(写真は本書63頁。)

1915年まで初期の三極真空管は、McCandlessによって製作されていた。しかし、ドフォレストから機械的な性能についての要求は出されなかった。最終的な排気はガイスラー・ポンプ(Geisssler pump)によって行われ、真空度は水銀がポンプのガラス管を通り抜ける音で判断された。そして、フィラメントが連続していること以外は、ことさら満たされるべき電気的要件は決まっていなかったため、一つ一つの真空管は全て違っていた。また1908年前後から、三極真空管の形が、シリンダー状から球状に変わっていった。これは、球状であれば電球の製造ラインで安価に生産することができるからであった。さらに1909年、高い電導性とエネルギーの出力を得るために、2つのグリッドと2つの「翼」を持ったダブル・オーディオンと呼ばれる高価な真空管が作られた。なお、真空管はテスト段階での動作性に基づき、XランクのものとSランクに分類された。

オーディオンが使用された検波器の広告が最初に現れるのは、1909年のModern Electrics誌の9月号の288頁目である。オーディオンは、アマチュア無線家用のRJ4(RJ=Radio Junior)と呼ばれた検波器の一部として販売された。

オーディオンの最初の特許のタイトルが「微弱な電流の増幅装置」であったのにもかかわらず、初期においてそれが増幅に使われたことはほとんどなく、もっぱら検波器として利用された。その理由の一つは、真空管の特性についての知識が十分に蓄積されていなかったことがある。また、音声周波数の増幅を得るための高周波結合が使用されていなかった点も原因だった。

初期のオーディオンのように残留ガスを含む真空管は、特に低い陽極電圧で作用した場合、特徴曲線上に敏感な斑点(こぶ)が生じた。これはガスのイオン化に起因していた。イオン化は空間電位の減少を引き起こし、その結果、陽極(プレート)電流の著しく増加させる。つまり、この斑点で作動させることができれば、検波器の感度を高めることができた。しかし、真空管のコンディションは不安定であったから、斑点を探すためには少しずつフィラメント電流とプレート電圧を変えていく作業が求められた。

 

 

Saga of the Vacuum Tube

Saga of the Vacuum Tube

 

 

Aitken, C.W , Chapter3

Aitken Continuous wave,  Chapter 3 Elwell, Fuller, and the Arc (pp.87-161)

 

 本章では、フェデラル無線電信のElwellおよび彼の後継者であるFullerという人物に焦点を当て、彼らが火花式からアーク式へと送信技術を一新させる過程が描かれる。アーク送信機は当時デンマークのポールセンらによって開発が行われていたが、その技術を米国に普及させたのはElwellだった。アーク送信機が米国に導入・普及する過程において重要な役割を演じた人物の中には、Elwell以外にも、スタンフォード大学の関係者、トンプソンをはじめとするフェデラル無線電信の経営者、そして海軍のメンバーが含まれていた。(とくに、海軍が送信機に対して要求する水準は高く、そのことがアークにかかわる技術的な障壁を乗り越えることを後押しした。) その意味で、アーク送信機の展開では、軍・産・学の各セクターが深く関わっているといえるだろう。その中でもElwellという人物は、実験室の世界と経済の世界とを繋いだ「翻訳者」として重要な機能を果たした。それは、NESCOにおいてフェッセンデンが演じた役割と同じだった。

(以下は読書メモ)

 

3-1  Arlington局

1913年2月、米国海軍は遠く離れたところにある基地といつでも通信できるように、バージニア州のアーリントン(Arlington)に大出力の送信局を設置した。1911年に議会はこの送信局の建設に資金を投じ、翌年には100万ドルの予算が計上された。米国海軍の成功は、これまでしばしば議論されてきた英国の「帝国の鎖」と類似している。つまり、無線網を整備するということは、帝国と植民地間の通信ルートを整備すること、そしてそれを通じて政府による統治範囲を拡大させることを意味していた。また、無線通信網の発達は、絶えず切断の危険にさらされている海底ケーブルのリスクを軽減し、それ以外の場所へと通信範囲を広げるという意義もあった。

こうした長距離通信を実現でき、信頼性の高い無線通信手段が要求されたことは、無線技術そのものの限界を突破することにつながった。とりかけ海軍による厳しい要求が、その動きを後押しすることがあった。例えば、米国海軍は、無線通信機の設計にさいして、ワシントンから半径3000マイル以内のあらゆる地点に対して、いつでも伝送できるということを条件に挙げていた。こうした厳しい要件は、同時代の最先端の技術であっても十分に満たすことはできなかった。

 Arlington局の建設の契約を海軍と結んだのは、NESCOだった。同社は送信局にフェッセンデンが設計した100kwの回転火花式(rotary spark)送信機を設置した。この装置は巨大な志向性アンテナを備えた(陸上の)軍事施設間の通信には成功したものの、海上の船舶通信においては海軍の要件を満たすことはできなかった。1913年にArlington局はサービスを開始したが、送信するときに巨大な騒音が発生せざるをえなかった。

 しかし、Arlingtonに導入されたフェッセンデンの送信機は、大電力の火花式技術の限界を突破し、実用に耐えうるだけの水準に達していた。フェッセンデンが、火花式の究極的な技術(=回転火花式)によって商業的な成功を収めたことは皮肉である。なぜなら、連続波の概念にコミットしていた彼自身そこからのがれようとしていた技術が、まさに火花式であったからである。

 NESCOの回転火花式だけが、Arlington局を独占していたわけではなかった。その中には、当時フェデラル電信会社にいたエルウェル(Cyril Elwell、以下Elwell)によって設計された発振アーク(oscillating arc)が含まれていた。1912年に彼は海軍が関心を抱いてくれることを望んで、12km間でのデモ通信を行った。その結果、蒸気工学部門(bureau of steam engineering)のHooperとHepburnの関心を得ることはできたが、同部の長であるConeと、アメリカ海軍調査研究所(NRD)の所長であるAustinを説得させることはできなかった。装置の性能上、木製の枠組みが使用されていた点があったが、Elwell自身はそのことに無関心だった。

 米国海軍は1907年に船舶通信を目的とした低出力のアーク式無線電話をドフォレストから購入していたが、そのパフォーマンスは不満足なものだった。だが、ヘテロダイン受信機とアーク送信機を組み合わせることで、実用的な無線通信の前進が期待できるということは明らかだった。

 連続波の無線にコミットすることは、フェデラル無線電信会製のアークのみへとコミットすることを意味するわけではなく、GEやテレフンケンなどの別の選択肢も存在していた。しかしElwellはもっとも野心的であり、海軍のHepburnも率先して彼にアークを製造させることを依頼した。もしElwellが海軍の要求を受け入れれば、フェデラル無線電信だけが満たすことができる仕様書を作成することもできた。

 1913年6月30日に契約が結ばれると、Darienに100kwの送信機が設置され、1915年の7月1日からサービスが開始された。1918年までに米海軍はワシントンと主要な各基地とを結ぶ連続波による無線通信網を発達させていた。米海軍の通信ネットワークは、英政府をはじめとする他国のそれを凌駕しており、マルコーニ社や他の民間システムよりも優れていた。これらの送信機は、全てフェデラル無線電信という一つの供給者から提供された。1912年から1917年までの間、海軍の長距離通信を可能にできたのはアーク送信機だけだった。

 だが、フェデラル無線電信にとって海軍の要求は挑戦的なもので、Elwell自身も危険を冒していた。というのも、海軍が要求したものは100-150kw級のアークであり、それは従来フェデラル無線電信が製作したことがなかった出力の送信機だったからである。当時、30kw以上になるとアンテナ効率良く高周波を供給することができなくなるという、原因不明の問題があることが知られていた。しかしElwellは慎重に行動する人ではなかった。彼は技術的な困難が立ちはだかっているからといって契約を破棄するということなどはしなかった。

 

3-2

  Cyril Elwellは、Matthew RogerとClotilde Gutmanとの間にCyril Frederickという名前で、1884年にオーストラリアのメルボルンに生まれた。父であるMatthewは、ニューヨークから1876年に南オーストラリアの警察になることをめざして渡豪していた。しかし、Rogerは死んだかもしくは逃亡し、母のClotildeはThomas Elwellと結婚した。そのとき、Cyril Frederick はCyril Elwellに改名された。しかし、まもなく1894年に2人目の父であるThomasも亡くなってしまう。このような急転直下(abrupt shift)な幼少期の経験が、彼のアイデンティティや性格に影響を与えたということを断言することはできないが、少なくとも、彼の与えられた状況に完全にコミットし続けないという姿勢を形成したということは言えるかもしれない。

 Elwellはシドニーメルボルンも学校で、Otto Bauerというドイツの電気工学者から電気工学について教えを受けた。学校生活を終えると、彼はNew South Wales鉄道の電気部門に見習いとして働き始める。当時オーストラリアには公式な電気工学の訓練を受けられる場所は存在しなかった。そのため、電気工学を学ぶためには、実地訓練に従事することが最良の方法だった。

 1902年、Elwellは知り合いの斡旋で、スタンフォード大学に留学すべく渡米することになる。金銭的なサポートは十分にえられる確証はなく、現金や情報もわずかで、かつElwellが従来受けてきた教育が同大学への入学を保証するかどうかもわからなかった。にもかかわらず、Elwellがスタンフォードへ向かったのは、彼の決断力の大きさによるところが大きい。1902年、Elwellはサンフランシスコに到着する。彼は1903年の8月に予定されていた入学試験に向けて、特に数学を重点的に勉強した。そして見事に4年間の大学院のプログラムに入学する。

  スタンフォード時代に、彼が学問的に特別な卓越性を見せていたというような証拠はない。しかし、1906年のサンフランシスコ地震後の復旧作業において彼が見せた働きぶりにより、彼は同僚や教師陣から注目されるようになった。

 当時のスタンフォード大学には、無線工学の正式なコースは存在しなかった。そのため、この分野の専攻を希望する学生は、雑誌や書籍に頼って自分で勉強を進めるしかなかった。Elwellも自ら書籍を読み漁る中で、ヘルツ波を用いた仕事に関心を持つようになり、最新の動向を注視していた。しかし、彼の自伝には、火花式送信機やコヒーラー、アンテナを用いて実験を行っていたという記述はない。彼の訓練は電気システムの公的利用の方向へと方向づけられており、理論面ではなく、むしろ設計や建設などの実践面で才能を表していた。

 1907年の夏、彼はオーストラリアへ帰省した。そして実家から戻ってくると、スタンフォード大学冶金学部の教授であり、かつNobel Electric CompanyのコンサルタントでもあったLyonとClevengerからアプローチされた。Nobel Electric Steel Companyでは両氏が設計した実験的な電気炉(electric furnace)のための巨大な電流を運搬することができる変流器(transformer)の仕様書を書くという課題を抱えていた。Elwellは、20-80Vの範囲で、8000Aの電流を引き渡すtransformerの仕様書を依頼された。そして彼は6週間で装置の設計に取り組み、その仕事が評価されて1000ドルを受け取り、その後は有給の職に就くことができた。

 学術、金融、産業の各コミュニティーの間の緊密な相互作用は、スタンフォードの周辺のシリコンバレーの特徴になっていくが、Federal Telegraph Companyも、大学の教員に実際的な役割を与えるというもう一つの例を示していた。しかしElwellの個人史にとって、Electric Steel Companyでの仕事とのちのアーク発信機についての業績とを結びつけることは、信頼性を歪めかねない。彼はあくまで強電(large current)の人であり、電信・電話といった弱電の仕事に従事していたわけではなかった。

 だがこの強電方面への研究の志向は、劇的に転換することになる。1908年に彼は冶金学を抜け出し、無線通信や電気工学へそのキャリアを捧げるようになった。この事実は明らかであるが、彼の動機は無明瞭な点が多い。

1902年から、若き発明家McCartyは、Henshaw兄弟(WilliamとTyler )とともに湾岸地域における実用的な無線電話システムを開発していた。しかし1905年にMcCartyは事故で死んでしまい、Henshaw兄弟が後を継ぐことになった。兄弟はスタンフォード大学のRyan教授に問い合わせ、そこからElwellに手伝いの依頼が渡った。McCartyのシステムは火花式であり、信号をカーボンマイクロフォンに変調させる方式だった。そしてElwellはその限界点をよく知っていた。というのも、火花式では減衰波が生成され、そのような波に音声信号を変調させることはとても難しいからだった。そして実際にMcCartyのシステムを用いた試験で、その限界点はあらわになった。

Elwellは、結局、この仕事を引き受けることになった。彼にとって無線電話に背を向け、電気炉の仕事に戻っていた方が簡単で合理的であっただろう。しかし、彼はHenshaw兄弟の金銭的な支持を得て、無線方面の研究へと舵を切った。

Elwellが、McCartyのシステムがそうしてうまく作動しないかということを知っていた。つまり、原理的には問題を解決していたのである。問題は解決可能であるというElwellの確信は、いくつかの要素結びつくことで生まれていた。第一に、MacCartyのシステムは完全に失敗していたわけではない、つまり、トラブルは火花ギャップが広く火花が明らかに途切れる場合にのみ発生していた。第二に、フェッセンデンの装置などを用いれば、正確な高周波発振は不可能ではないということを知っていた。そして第三に、alternatorだけが唯一の可能性はないということを知っていた。なぜなら、当時Poulsenによる発振アークによるもう一つの連続波生成の方法が知られていたからである。だが、Poulsenアークを高出力・長距離の無線電話に応用したものはおらず、また米国での特許使用権は誰も持っていなかった。

Elwellはコペンハーゲンのポールセン(Poulsen)と彼の同僚であるPedersenの受信局を訪問した。彼はそこで、Poulsenが疑いなく低出力・短距離に用いられる実用可能な無線電信・電話を持っていたことを確認した。David Jordanの斡旋もあり、24時間以内にElwellの財政的状況にかんする審査が終わった。Elwellは写真受信機とセットで45000ドルという高額での購入条件を受け入れ、ニューヨークへと戻った。

しかし、6ヶ月以内に再びコペンハーゲンに行き、Poulsenに徐々に支払いの条件の金額を増やしていくという支払い条件の変更を申し出た。結果、1909年8月17日に契約が更新された。彼は1000ドルで購入したPoulsenの小さな100Wのアーク送信機を携え

ニューヨークではなくPalo Altoへと戻った。そしてさらに5kWと12kWのモデルも注文した。彼はこの送信機だけではなく、それを組み立て、運用するエンジニアたちも呼んだ。

 

3-3

 アーク送信機は、既知の要素を未知の方法で組み合わせた付加的な(additive)発明だった。アークと呼ばれる現象自体は以前から知られていた。1802年の時点で、アークは明かりを灯す手段として用いられていた。しかし同時にアークには実験家や科学者の強い関心も寄せられていた。実験家は、アークをアーク灯以外の手段として利用できるかどうかに興味があり、科学者は電気回路内でのアークの振る舞いや、アーク放電の物理的性質に関心を持っていた。

例えば、アークに交流を流すと空気中に音波を放出することが知られていた。アークと交流とを組み合わせて、別の目的に利用できる可能性があった。また、アークはオームの法則と矛盾するかのように思われる振る舞いを見せることがあった。1826年に定式化されたオームの法則は、1870年頃までには重力の法則と同様に、自然界の根源的な法則と見なされていた。したがって、アークがその法則に従わないという事実は、大きな議論を引き起こした。William Duddellは1890年代後半に、アークを跨ぐ電気的ポテンシャルがどのように異なっているのかを調べた。彼は、アークにおいては通常の比例型ではなく、下降線を描くような特徴曲線が得られることを主張した。この曲線は、抵抗値が負であることを意味していた。

彼はこのアークの「負性抵抗」を利用して、連続波を生成する回路を作った。しかし、Duddell自身は、アークをヘルツ波の生成に応用することはできないと考えていた。というのも、高周波になれば特徴曲線の傾きが正になることが知られていたからである。彼の発見の本質的な点は、アークにインダクタンス(コイル)とキャパシタンス(コンデンサー)を繋げば、直流を交流に変換し、一定の振幅をもった振動が得られるということを示したことである。 

Duddellのアークは、高周波において特徴曲線が平ら(もしくは正?) になるという欠点があった。この問題を解決したのが、デンマークのValdermar Poulsenだった。彼は強力な磁場の中でアークを操作し、水蒸気で冷却しながらアークを燃焼させるというアイデアを思いついた。しかし、水蒸気の中で燃焼させるとなぜうまくいくのかを理解することは難しかった。それは冷却機能を果たしているのか、それとももっと複雑なメカニズムがあるのか。ポールセンはもっぱら経験的な方法で新型のアークを開発したのであって、物理的な理論に基づいていたわけではなかった。

ポールセンは彼の”hydrogenic arc”が商業的に大きな潜在能力を秘めていることをいち早く察知し、それを送信用として活用できるように改良作業に取り掛かった。商業化するにあたって、アークを点火/消火することでモールス信号を打つことができなかったことは看過できない問題だった。彼はモールスキーをアンテナのコイルに繋ぐことで、キーが閉じた場合には間隙波(back wave)と呼ばれるものを生成することで、送信周波数がわずかに減少することを利用した伝送方法を考案した。また受信側に同調機能を付与すべく、Pedersenが発明した”tikker”と呼ばれる装置を導入した。両者は共同して研究を行い、1902年と03年に特許も取得した。そしてその特許を利用し、商業的にシステムを展開するために、コペンハーゲンに会社が設立された。そして1905年にはLyngbyに、1906年にはEsbjergにそれぞれ局が設置された。

Elwellがコペンハーゲンを訪れたのは、まさにこのようにポールセン活躍していたタイミングだった(彼は、デンマークエジソンと呼ばれたりもしていた)。Elwellは彼らに北アメリカの市場の足場を提供した。アメリカでは、まだポールセンのシステムの入札者はいなかった。

 

3-4

  Elwellは1909年8月にPalo Altoに戻ると、低出力のアーク送信機に発明に取り掛かり、より広範なシステムを構築すべく、資金を捻出した。1909年9月に、Harris J.Ryan教授の示唆に加えて、スタンフォード大学のJordan とその仲間の金銭的な援助を受け、ポールセン無線電信電話会社を起業した。コペンハーゲンからも11,500ドルもの資金が集まったが、それはElwellらが自分たちで送信機を建設することができること確信できるほどの金額だった。Elwellは「多くの裕福な顧客 many prosperous citizens」がいるStocktonとSacramentoとの間に、双方が通信できる無線電話を設置した。伝えられるところによれば、音声の質は有線の場合よりも良かったという。ポールセン無線電信電話会社は、無線電話の商業的な道を切り開いた。

 それとともに重要なことは、Elwellやその仲間がこの経験から多くのことを学んだということである。第一に、彼らはアークが機械的にシンプルであることを学んだ。アーク送信機には理論的に未解明な点が多かったものの、装置自体を製造することはできた。このことは、高周波交流機の場合と対照的だった。というのも、高周波交流機は多くのことが理論的にはわかっていながらも、それを実際に製造するところに困難があったからだ。

 Elwellの会社がまもなく電話機のサービスを提供する商売だけではなく、製造をも行う能力をすばやく拡大させていったことは示唆的である。短期的には、これは工場を所有することを意味していた。

 この施設を持ったのち、Elewellは続いて自身が設計した5kwの製品を4台、12kwの製品を2台製作した。Elwellの送信機は二つのことを暗示していた。第一に、彼の装置は、アークの回路ではなく、アンテナの静電容量が回路全体の発振の本質であったから、特定のアンテナに合わせてアークが設計される必要があったということである。第二に、アンテナの回路は広く共振してしまうため、望ましくない周波数をカットすることがほとんどできなかった。だが、出力がそれほど高くなかった当時、これらのことはさほど問題にならなかった。これらの問題はのちの工学者らが取り組むことになる問題だった。

  1910年7月に3番目の局がサンフランシスコのa block of land near Ocean Pointに建設され。Palo Altoで製造された一組の12kwアークが設置された。そして、StocktonとSacramentoが同時に通信していても、サンフランシスコのオペレーターは一方の信号だけを複製し、他方を排除することができた。

 この成果は技術的な意味では勇気付けるものだったが、商業的には理にかなっていたといえるだろうか。カリフォルニアや西海岸に無線電話の需要があったのか。現存している資料から、彼らが商業的な戦略について議論していたどうかを明らかにすることはできないが、彼らのモチベーションになっていたのは、技術的な難題を解決することだった。

しかしその一方で、同社は財政的な問題に直面していたことも事実だった。ポールセン無線電信電話会社の財政的問題を知ったビーチ・トンプソンは、新会社を設立するように示唆し、1000万円の資本金を出すことを申し出た。Elwellはこれを承諾し、ポールセン無線会社(Poulsen Wireless Corporation)が発足した。しかし、Elwellは当初の契約内容であった古い株式の利得が30%とされていた点が、12%に減らされていたことに抗議し、最終的には18%という数値で合意した。1911年1月25日に発足した新会社の社長はビーチ・トンプソンであり、Elwellとその仲間は同社のコントロール権を失った。

 しかしその一方で、トンプソンの立場から見ても、財政的な危機に陥っていた会社に多額の資金を投資するということは大きなリスクがつきまとっていた。ポールセン無線電信電話会社が持っていた唯一価値のあるものは、ポールセンの特許使用権だった。取締役が当社株式の市場価格に与える影響を考慮せずに方針を決めることは滅多にない。したがってトンプソンは、適切なタイミングでそれらの株式を処分することで、企業の報酬を得ることを期待していた。

 

3-5

 ポールセン無線会社という社名は、まもなくフェデラル無線電信会社(Federal Telegraph Company)に変更された。フェデラル無線電信は、それまでポールセン無線電信電話会社が欠いていた明確な市場志向を持った会社だった。トンプソンの計画は、大西洋海岸の主要都市を結ぶ無線電信網を建設し、それを東まで拡大させることだった。彼の計画には、無線電話は海底通信などの事業は含まれていなかった。彼が目指した無線電信網でとりわけ特徴的だったのは、press traffic(報道事業?) をハンドリングすることを計画していたことだった。報道事業に乗り出す上で重要になるのは、通信の信頼度を保証することと、既存の有線システムがサービスを展開していない分野で客層を引きつけることだった。フェデラル無線電信は1912年までに13局を建設したが、これらには全てPalo Altoの小さな工業で製造された12kwのアーク送信機と”tikker”受信機が備え付けられた。フェデラル無線電信は、有線通信では10語に相当する利用料金で、15語通信することができる点を売りにしていた。

 Elwellはトンプソンが東方のセクションを拡大して大きな損失を出している点を「戦略的誤り」だとして批判していた。トンプソンの戦略が陸上通信網を拡大することにあったことと対照的に、Elwellの戦略は海洋での通信、具体的には太平洋上での通信網を拡大させることにあった。というのも、海底ケーブルによる通信料は高額であったため、低価格での通信が見込める無線通信が参入する余地があったからである。しかしElwellの計画を実現するためには、高出力の送信機が必要だった。彼は1912年5月に30kwのアーク送信機を備え付けた新しい送信局をサンフランシスコに建設に、ハワイのホノルルとの通信を実現した。このことは、マルコーニ社が依然として火花式にこだわっていることに疑問を投げかけた。

 Elwellのアークは、米国海軍の関心を引き寄せた。海軍は1901年にNESCOと火花式送信機の契約を結んでいたが、軍内にはそれを疑問視する人もいた。海軍の提示する要件は、24時間安全に通信ができるということだった。しかし、サンフランシスコ-ホノルル間の従来の通信サービスでは、日中に通信が集中し、日中の通信スピードを上げる方向に改善が進められていたので、海軍の志向とは異なっていた。

 さらに、Elwellとフェデラル無線電信との関係は悪化するばかりだった。Elwellとトンプソンはお互い目を合わせることさえなかった。1913年の春、Elwellは取締役委員会で、同社はホノルルからグアム、フィリピン、日本、中国といった東洋へと通信網を拡大すべきだと提案した。しかし、この案は却下され、Elwellは会社を辞めることになった。

 フェデラル無線電信会社におけるElwellと、NESCOにおけるフェッセンデンは、ともに似た役割を演じていた。というのは、彼らは実験室の世界と市場の世界との間の「翻訳者」であったからだ。しかし、フェッセンデンは退社後無線事業に復帰することがなかったことと対照的に、Elewellはフェデラル無線電信を退社したのちも、無線の仕事を継続した。フェッセンデンとElwellは、彼らとは異なるシグナルに反応し、異なったインセンティブに対して振舞う組織や個人に、事業のコントロール権を委ねた。(フェッセンデンはGivenやWalkerに、Elwellはトンプソンに権利を譲った。) そして、管理権が個人から組織に移譲するにつれて、技術もより市場において何らかのパフォーマンスをするという機能に変わっていった。もちろん、工学者や発明家は常に組織とうまくいかないということはできず、単にフェッセンデンやElwellがたまたま会社とうまくいかなかっただけである。そして、フェッセンデンが残した課題をアレクサンダーソンが引き継いだのと同様に、Elwellが残した課題はFullerが引き継ぐことになる。

 

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 Elwellは、商業的な戦略に関する問題と、「30kwの壁」を、フェデラル無線電信に遺産として残した。1912年には、同社にはドフォレストのグループとFullerのグループが存在していた。Fullerは同年の9月に手に負えない60kwのアーク送信機の開発を担当させるべく採用されたばかりで、まだ23歳の若手だった。

 Fullerが最初にフェデラル無線電信と接触したのは、彼がまだコーネル大学の大学院生ので、1910年の夏だった。彼はサンフランシスコにある同社の送信局と設備を見学し、それについてのレポートを書いた。彼は連続波の操作を可能にしているポールセン・アークに感銘を受けた。それは火花式に比べて音が小さく、シンプルな装置だった。

 コーネル大学に戻ってからも、Fullerの頭にはポールセン・アークの衝撃が残っていた。当時コーネル大学には教育・演示のためのアマチュア無線局があったが、それは火花式だった。Fullerは自分自身でポールセン・アークを製作することに決めた。

 大学はM.Eの学位のための論文を求めており、Fullerはこの要件を満たすために、ポールセンアークについての論文を書くことにした。彼のアイデアは従来の装置とは異なり、水蒸気や強力な磁場を必要としないものだった。その代わりに、高速で回転するアルミニウムの円盤を電極として利用していた。彼は1911-12年にかけて、その装置をSibbley Collegeに建設した。しかしそのアークは2kw以上で動作させることができなかった。技術的には不満足な点が残るものの、彼は1912年6月に学位を取得した。

 彼はすでにポールセンアークの第一人者になっていた。大学卒業後、彼はNESCOと契約を結んだ。そのころまでにフェッセンデンはNESCOと決裂しており、会社の経営状況も悪化していた。FullerはNESCOから、ヘテロダイン受信回路における局部発振器に使用する小型のポールセン・アークを発展させる、という課題を与えられた。しかし、彼がNESCOと共に仕事をしたのは、わずか2,3ヶ月間だけだった。1912年の夏に同社は財政難に陥り、彼は解雇されてしまった。

 1912年の9月にFullerはElwellのいたフェデラル無線電信に就職した。Fullerは金銭的な見込みや社会的名声には関心がなかった。彼が最も惹かれていたのは、アークに関する知的な難問だった。Fullerに与えられた仕事は、彼自身の経験とフェデラル無線電信がこれまで蓄積してきた実践的な知識とを統合することだった。そしてより直接的には、海軍用の60kw送信機と、100kwのユニットをつくることだった。

  ホノルルと南サンフランシスコとの間で日中に通信することを試みて建設され60kwのアーク送信機は、当初、既存の30kwの寸法を二倍にするといった形で設計された。しかし、それでは30kwの装置に比べてアンテナにほとんど電流が流れないということがわかった。アークの振る舞いを数学的なモデルで説明し、モデルのパラメーターを決定するために試験を行うということが、Fullerに残された課題だった。彼は研究員を増員し、この研究に取り組んだ。そして1919 年、このテーマでスタンフォード大学の博士論文を執筆し、成果を発表した。特に重要な事項は、アークの磁場の強さと、アンテナのキャパシタンスの大きさだということがわかった。

 

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高出力を利用できるようになったことで、フェデラル無線電信の活動の幅は広がった。それに加えて、米国海軍のためのアーク送信機を作るために、同社の製造力を拡大させたことも重要なことだった。米国海軍は200kwの送信機の製造を、フェデラル無線電信、GE、テレフンケンの三社に委託したが、GEとテレフンケンが契約を断ったため、フェデラル無線電信が引き受けることになった。しかし、1915年の時点でフェデラル無線電信には巨大な送信機を製造できる能力がなかったため、当初、同社は乗る気ではなかったという。その一方で、海軍の送信機に求める要件、つまり、高出力で洗練された冷却装置を備えているという条件は、Fullerの設計の方向性とよく似ていた。

 フェデラル無線電信は、Al Camino Real とthe Southern Pacific Railroadとの間の広大な敷地を1916年に占め、労働力を20人から300人に増員して建設に取り掛かった。送信局は驚くべき速さで建設された。特に、第一次大戦に米国が参加すると見込まれたことで建設のスピードが上げられ、1917年までは、Caribbranと海軍の太平洋横断通信網は完成した。

 フェデラル無線電信のアーク送信機は驚くべき速さで建設されたが、高周波技術の展開においてはフランスやドイツも米国に比べて大きく立ち遅れていたというわけではなかった。1914年にはフランスのゴールドシュミットの交流機とテレフンケンのVon Arco machineが設置されている。しかし、第一次大戦前後にフェデラル無線電信のアーク送信機に匹敵する高出力の装置は、欧州にはまだ存在しなかった。

 フェデラル無線電信によるアーク送信機の開発は、従来無線事業を牽引していたマルコーニ社の地位に揺さぶりをかけた。マルコーニ社は科学的・技術的な助言を誤解し、依然として火花式の技術にこだわり続けた。マルコーニ社はフェデラル無線電信が取得していた特許や、同社がポールセン・アークをより効率のよい高出力の送信機に変換させた技術を利用することもできなかった。その意味で、マルコーニ社は世界の無線通信を独占する会社というよりは、フェデラル無線電信が占めていたのと同じ立場に置かれることになった。英国に基盤を置くマルコーニ社がアメリカの連続波に関連した技術を手に入れようとすれば、激しい反響を巻き起こす可能性は高かった。

 

 

The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932 (Princeton Legacy Library)
 

 

Aitken, C.W , Chapter2

Chapter 2  Fessenden and the Alternator (pp.28-86)

 

 以下はかなり長文になっていますが、私が理解した範囲で、第二章の内容をまとめています。

(三章以降はもっと簡潔にします。)

 

 1899年11月22日に、Western university of Pennsylvania(現在のピッツバーク大学)のフェッセンデン教授は、「無線電信の可能性」と題された講演をAIEE(米国電気技師協会)にて行った。彼やその聴衆にとって無線電信といえば、ヘルツの実験で用いられた火花式のことを指していた。ヘルツの実験以後、受信機はヘルツのループ式からコヒーラが用いられるようになった。マルコーニがダイポールアンテナの代わりに垂直接地アンテナを利用することで、送信機の方でも、超短波から長波へと使用周波数がシフトしていた。さらにロッジは、送受信機でのエネルギーのやり取りを最大化するために、両者が同じ周波数に同調される必要性を主張した。しかしいずれにせよ、その技術はヘルツ式であり、キャパシター内のエネルギーを一気に放出されることで電磁波を生じさせる火花式であることには変わりがなかった。

 マルコーニの仕事に特に顕著であるが、1888年から1899年にかけてのヘルツ式の改良のほとんどの部分は科学理論に基づいたものではなく、経験的な、試行錯誤の結果なされたものだった。いくつかの例外を除けば、科学者コミュニティーもヘルツ波を信号伝送に応用するなどということに関心を寄せていなかった。

 フェッセンデンによる1899年の講演は、マルコーニのシステムを正面から攻撃したものではない。むしろ彼はマルコーニの仕事と電磁波放出の物理学的理論との間のつながりは薄いということ、特に測定が欠如していることを主張した。例えば、マルコーニが用いていたコヒーラーは、科学研究に適していない装置であった。なぜなら、それは電波が通過したかしなかったか、つまりon/offを判定するtriggerに過ぎず、受信信号の強度を測定することは困難だったからである。測定ができなければ、送受信の設計、電磁波放出、アンテナ、その他無線電信の実用化に関する研究を科学的に進めることは不可能だった。フェッセンデンが求めていたものは、数量的な測定ができる装置だった。

 彼の講演の聴衆には、科学者のマイケル・ピューピン、工学者のチャールズ・スタインメッツ(GEのラボのキーパーソン)、実地の仕事に関わっているW.Jクラークなど様々な人がいた。彼らはみな電気に関心を寄せていた。無線電信は電気を利用した新しい用途であり、理論化と実践家の両方に興味深い問いを投げかけていた。つまり、AIEEの11月の会合は物理学者と工学者の交流の場でもあったのである。フェッセンデンの検波器は、コヒーラに対する批判から生まれることになるが、ディスカッサントであったピューピンのコメントはその先の研究に明確な指示を与えたようである。

 フェッセンデンは、「無線電信の可能性」の中で、より良い同調を得ること、長距離通信を可能にすることが重要であると述べた。前者については、火花式で生み出される減衰波には複数の周波数が含まれており、それが同調を妨げていることが指摘された。つまり、可能な限り非減衰波を生じさせる技術を見つけることが要求されると説いた。ディスカッサントであったピューピンは、火花ギャップではないアンテナにおいていかにして発振を行うかということの具体的な提案はしなかった。彼が提示したのは、あくまで理論的なアイデアに過ぎなかった。彼はベルが一度鳴らされると、その後は自由(free)にされなければならず、そうすることで共鳴振動がゆっくりと消えていくようにすることができると述べた。しかし、振動をベルの音に喩えていることから、彼はまだ火花式に関する用語で思考していたということができる。次に後者について言えば、(音叉を例に取れば)、①音叉を強く叩く=出力を大きくする、②周波数を上げる=火花の連続(train of spark)をより素早い振動にするという可能性があった。ピューピンは、少なくとも一秒間に1000回の振動が必要であると主張した。彼はここでも火花式の用語で話をしていた。彼はマルコーニと同じマインドセット、つまり、ヘルツ波は火花放電によってのみ生成可能であるとの見解をもっていた。だが、火花式を高出力に移行させる際には、電極が融合する前にどのくらいの電力をスパーク・ギャップに供給可能かという実用的な問題が立ちはだかった。にもかかわらず、ピューピンもその他の聴衆も、火花式を棄却すべきだとは主張しなかった。

 ピューピンのコメントの中で最も重要な事柄は、ほとんど余談のように話されたことの中にあった。彼は、無線電信における波は、その他の電気工学における波のようにシンプルで、同じルールに従うということに疑問の余地はないと主張していたのだ。Power  Engineering と Radio Engineering との間は行き来するこができる、交流理論を無線電信に応用することができる、といったこの可能性は、マルコーニができなかったイノベーションを実現していく鍵となる。

 

 マルコーニの電信システムを構成する要素(アンテナ、検波器、送信機)はいずれも科学的な分析の結果選択されたものではなく、それが実際に動作するように思われたから選択されたものであった。しかし程なくして、マルコーニのシステムに関する理論的な合理化が見られるようになる。その中には、フレミングによる、ピューピンの見解と真っ向から衝突する主張があった。フレミングは、ヘルツ波はほかの電気的な波とは異なる特別な波であり、完全に単純な波ではないということを説いていた。

 フレミング1906年の論文「電信の電気的波の原理」の中で、高周波電流は何を意味しているのかということ、及び、減衰と非減衰波の振動の違いについて説明した上で、電磁波の波においても単に電気的な振動を生み出すだけでは不十分で、それが空中に放出される前に、突然の放電(sudden discharge)が必要であると述べた。そのような放出が起こる方法を説明するために、彼は“decussation”という物理的モデルを提示した。

 ダイポールアンテナの2つの素子に誘導コイルの二次回路に繋がれたとき、それらは電気を蓄え、片方は正の、もう片方は負の電荷を帯びる。これらの電荷がある閾値を超えたとき、ギャップの空間が絶縁破壊を起こし、火花が発生する。すなわち、正と負の電荷がもとの場所に戻ろうとし電気振動が起こる。この振動が十分に突然起きたとき、電磁波=変位波(displacement wave)という形でエネルギーが放出される。誘導コイルが動作を継続すると、振動放電のまとまり(group)ができ、波の連続は周囲の媒体を通って移動するか、広がるように放射される。フレミングは、この電気的な歪み(lines of electric strain)はエーテルの中で形成され、火花がギャップを飛び越えたとき、その歪みが内側へと崩れると考えた。ここからフレミングの”decussation”モデルの説明がはじまる。彼は、もしその放射がゆっくりで漸進的なものであれば、ひずみは内側に崩れるが、振動が十分に素早く起こった場合、歪み自体が十分にaccommodateできないと考えた。(※以下、理解不能。P.38)

 彼のモデルでは、火花が間隙を通過したときに、電気的な歪みがどのように生じ、空間に放出されるのかを説明している。だが、彼はこの説明を完全に快く思っていなかった。というのも、電気的な歪みを物理的な実在と考えることを彼に要求したからである。こうした理由もあり、1916年の論文の第3刷バージョンでは、

この”decussation”の議論は消去され、代わりに”kinks”の理論が挿入された。だがいずれせよ、フレミングは火花放電とエーテル理論をそのまま保持していた。彼のモデルは間違っていたわけではなく、不十分なのであった。とりわけ、彼のモデルでは、火花放電以外の方法で電波の放射のありようを記述することができなかった。それに対し、フェッセンデンはマルコーニのシステムを根本から変革し、火花式における思考様式を打ち破った。

 

 フェッセンデンは、1866年にカナダのEast Boltonに生まれた。そこは、フランス語を話すカトリック文化が支配する中で、英語を話すプロテスタントが飛び領土的に住んでいた地域だった。9歳のときに彼はオンタリオに引越し、軍の学校で一年間を過ごした。1877年にPort HopeのTrinity College Schoolに移り、14歳のときに卒業した。このときまでに彼が特別な技術的・科学的な才能という才能があったという記録はない。Trinity College Schoolでは古典と数学を学んだ。1881年に彼はBishop College Schoolの数学教師の職を得た。そこはBishop Collegeと連携していたが、彼はそこを卒業することは決してなかった。しかし、彼はそこで数学をさらに学ぶことができ、大学の図書館で数学の他、ギリシャ語やラテン語ヘブライアラビア語、そして歴史を学ぶこともできた。彼はとくにNatureやScientific American誌に興味を持ち、後者には正式に手紙を出していた。が、それは編集者に受け付けてもらえなかった。

 彼はBishop Collegeでの仕事を完全にこなしてしまうと、より収入の良い、より建設的な場を望むようになる。そして1886年に彼はニューヨークへと向かい、トーマス・エジソンの実験室に入る。これは小さな街から大都市への移行であり、教育者から研究者へのシフトを意味していた。

 なぜエジソンは無名の20歳の教師を雇ったのか。エジソンは単に学位を崇拝していたわけではなかった。そもそも1886年の北米で電気工学の正式な訓練を受けられる機会がほとんどなかった。彼は自分が科学的な研究を行う能力があることや、実験室で仕事に取り組むことができることを証明するものを持っていなかったが、彼には事業に協力してくれそうな以前からの友人・知人からの個人的な推薦があった。

 長期的に見れば彼はエジソンのもとで電気を学ぶことを望んでいたと言える。が、短期的に見れば、彼はジャーナリズムによって彼自身を支えようとしていた。彼はニューヨーク市長に立候補していたHenry Georgeにwriter(記者、著述家)として側近に加わることを望んだ。しかし、彼の申し出は実現することがなかった上、エジソンに直接接近することもできなかった。

 結局、フェッセンデンはエジソンのもとで仕事をすることができたが、それはエジソン会社が当時電灯の設置を行なっており、彼を電線管の検査のアシスタントとして雇ったからだった。彼の仕事ぶりが評価され、1886年に工事が完了すると、ニュージャージーにあるLlewellyn Park Laboratoryの助手に抜擢され、3年間エジソンとともに工業化学(industrial chemistry)の研究に従事した。彼にとってこのことは、エジソンを直接観察することができる機会を得たこと、図書館を利用できるようになったこと、アーサー・ケネリーをはじめとする他の実験室のメンバーと交流を持つようになったことを意味した。とりわけ、フェッセンデンとケネリーの交流は重要だった。(彼もフェッセンデンと同様にほぼ独学だった。) なぜなら、この時期にフェッセンデンは明らかに高周波交流に関心を持ち始めるからである。このことは、直流主義者のエジソンとの交流からは生まれ得なかったことでもある。

 もちろん彼がエジソンに感銘を受けたことはいうまでもない。彼はエジソンから、特許を取得することの重要性、体系的に調査を行うことの重要性、そしてシステム全体を構築するという実践を学んだ。これらのことは、のちのフェッセンデンの活動に影響を及ぼした。しかし、彼はエジソンの市場を崇拝する態度を学ぶことはなかった。エジソンははっきりと商業的な見込みがない発明には決して投資を行わなかった。彼は鋭いビジネスの感覚があった。エジソンもフェッセンデンも技術の最先端にいたが、前者が価格というシグナルに反応したのに対し、後者は技術的な難題それ自体に反応した。フェッセンデンにとって技術的な達成は商業的な成功の必要条件であっただけでなく、十分条件でもあった。それゆえ、彼は製品をどのように売るかという問題を解決することはできなかった。

 1889年エジソンは自身の会社を、慢性的なcash flowの問題を解決することを期待して、Henry Villardの指揮のもとへ、Edison General Electric Companyとして統合させた。しかし、彼の期待は裏切られ、収入は減り、社員をリストラせざるを得なくなった。そして、フェッセンデンもその対象の一人だった。彼は1890年に結婚もしており、お金が必要だった。そこで彼は米国電灯会社(United State Electric Company)のアシスタントの職を見つけた。このときのキャリアは、彼に交流機械の設計に関与させたこと、ウェスティングハウスとの出会いにつながったこと、そしてNewarkの図書館を利用できたという点で重要だった。そして、会社の資金でロンドンの新しい送信局を調査すべく英国を訪れることができたことも大きかった。彼は英国で、キャベンディッシュ研究所のトムソンと出会い議論した。また、Newcastleにて、新しい蒸気タービンを観察する機会も得た。この結果、彼はヘルツ波に魅了され、交流理論に関する体系的な知識を獲得し、設計に関する経験も得た。

 1892年にピッツバークに戻ると、パデュー大学に職を得ることができた。そこは、当時工学のプログラムを拡大させており、教員不足の問題を抱えていた。彼は大学で一年間交流理論と高周波振動に特別な注意を向けながら、電気理論についての講義を行った。年末に彼はWestern University of Pennsylvaniaの学長から招待されたが、それを主導したのはウェスティングハウスだった。彼はフェッセンデンが有能であることを知っていた。フェッセンデンにとってウェスティングハウスのそばにいることができる見込みがあり、彼は提案を受け入れた。彼はウェスティングハウス社に勤務しつつ、三年間ピッツバーク大学に勤めたが、これにより産業の世界と学術の世界の両方に所属することになった。彼はお金の問題を気にすることなく、自由に研究することができるようになった。

 フェッセンデンの関心は、検波器の性能を向上させることと、高周波交流としてのヘルツ波の概念を理解することにあった。彼がこの方向に関心を寄せたことは、彼自身がモーター、変圧器、発電機といったpower engineeringの仕事に携わっていたことに由来していた。

 1900年にフェッセンデンは大学を去り、米国気象庁(U.S. Weather Bureau)との契約を受け入れる。気象庁は当時無線局のネットワークの建設を行なっており、彼は無線の実験を行う場を提供され、システムを設計し、特許を取得することも望んだ。彼はピッツバーグから連続波無線のシステムへのコミットメントを引き継いでいた。彼はマルコーニのシステムは音声通信を行うことができず、それを実現するためには連続波が必要であることを認識していた。

 連続波の生成による音声通信は、火花放電による電波の周波数を上げる、可聴周波数を十分に超えさせること、発振アーク(oscillation arc)を利用することのほかに、高周波交流発電機を無線に応用する方法が考えられた。3番目のやり方は、従来power frequencyの領域で利用されていたものを、無線送信に応用することだった。しかし、1900年の時点でそれを実現することは容易ではなかった。送信機で連続波を生成する三つの可能性と同様に、受信装置を発明することも重要だった。なぜなら、コヒーラーは音声信号を復調することができなかったからである。ピッツバークを去った後の10年間は、フェッセンデンにとってもっとも生産的な時期だったが、そのうちの最初の一つの成果が検波器におけるブレークスルーをもたらしたことである。彼は交流を直流にする”barretter”と呼ばれる装置と、コヒーラーよりも感度がよく、デコヒーラーも不要な電解検波器を発明した。安定性に問題があったが、これは真空管が発明されるまで、無線技術の最も優れた感度の良い受信装置を与えていた。

 フェッセンデンの今ひとつの業績は、ヘテロダイン(2つの異なった周波数を混ぜるという意味)原理の発明である。ヘルツ波をどのようにしてイヤーピースの振動板において可聴周波数へ変換させるか。彼の答えは、アンテナからの電流と、受信機の局部発信器からの振動を混ぜ合わせるというものだった。例えば、振動の周波数が160万/sで、局部発振が160万1000/sだった場合、その差分の1000/sという可聴周波数がイヤピースに伝わることになる。だが、当時は火花式の全盛期であり、連続波を生成できる送信機がなかったことや、受信機においても局部発振において連続波が要求されたため、当初ヘテロダインの発明の影響は限定的だった。

 ヘテロダインの発明は、フェッセンデンの名を無線史に永久に残すことに十分な業績だったが、直接的な重要性を持っていたのはむしろ高周波交流機の方だった。高周波交流機はフェッセンデンによる連続波送信機のための研究における唯一の試みだった。彼の同僚のKintnerは、もし100,000/sの交流機があれば、フェッセンデンのアイデアは実現できると理解していた。問題はその概念にあったのではなく、その実行にあった。フェッセンデンは当時の製造力の限界に迫られていたのである。

 ピッツバークにて彼は”interrupters”と呼ばれる電流断続機を用いた実験を行った。それは、誘導コイルの一次回路に挿入され、二次回路により素早い火花の連続を生じさせる装置である。彼はこれによりほぼ連続波に近い波で、かつ可聴周波数範囲を遥かに超える周波数の火花を与えることを望んでいた。Wehnelt interrupterと呼ばれるものは既に知られていたが、彼は独自に機械的なinterrupterを作った。そして、アンテナ回路にカーボン・マイクロフォンを挿入させることで、その装置で音声信号を電波に変調させることができた。1900年の秋にMarylandにて1マイルの通信に成功したが、彼はこれが音声通信の最初の成功であったと主張した。が、それはかろうじて聞き取れる程度のもので、雑音が多かった。彼は周波数を十分に高めることができないこと、放射された電波はやはり減衰してしまうことの問題に直面した。

 フェッセンデンはこの問題に3つの方法で対処しようとした。一つ目は、クエンチ・ギャップ方式に似た方法で、圧縮された窒素を用いて火花を吹き飛ばす方法だった。二つ目は、Elihu Thomsonの振動アークを用いることだった。そして三つ目は、GE社に高周波交流機を作らせるということだった。彼は当初ウェスティングハウスに申し出たが、どうやら断られたようである。彼がジョージ・ウェスティングハウス個人問い合わせていたかどうか、それを知る記録は残されていない。

 ウェスティングハウスが駄目なら、次はGEだった。GEは1893年にEdison General ElectricとThomson-Houston Companyが合併してできた会社だったが、それは、特に後者が取得していた特許を利用できることを企図した合併だった。したがって、同社のトップはエジソンではなく、Thomson-Houstonだった。

GEが新設したラボには、スタインメッツがいた。彼は1865年にドイツに生まれ、工学と数学を学び、1890年にアメリカに渡りGEに就職した。1890年までに彼は高周波交流の理論と設計における主導者としての名声を獲得していた。1900年の6月にフェッセンデンはスタインメッツ高周波交流機の設計を打診し、興味をそそられた彼は直ちにそれを承諾した。それはスタインメッツの設計能力とスケネクタディの工場の製造能力を試された挑戦だった。そして1903年3月に製品が完成した。GEの工学者らは好意を持って取り組んでくれたが、お金はフェッセンデンが負担することになっていた。GEサイドは、この仕事を通じて交流理論の知識と経験を蓄積した。

 フェッセンデンが再びGEに打診したとき、請負ったのはスタインメッツではなくErnst Bergであり、設計はアレクサンダーソンが担当することになった。彼は当時都市間の電車のモーターの設計に従事しており、1904年12月には自励式交流機(a self-excited alternator)の発明でも腕を見せていた。1904年、アレクサンダーソンは26歳、フェッセンデンは38歳であり、二人は生産的な交流を築いていった。アレクサンダーソンは強電工学をバックグラウンドに持っており、electrical power engineeringの牙城であったGEでスタインメッツと共に働くことを望んでいた。彼はフェッセンデンと同様に、電磁波放射を高周波交流電流の観点から理解していた。二人の交流は、power engineering と electronicsの二つのサブカルチャーの間の創造的な相互作用の道を切り開いた。

1904年にアレクサンダーソンの提案がフェッセンデンに送られたが、両者の間にはarmature(誘導子)の素材をめぐる意見の食い違いがあった。フェッセンデンは木製であることの優位性を説いたのに対し、アレクサンダーソンは鉄製であることが好ましいと考えていた。結局、1906年にできたプロトタイプでは木製が採用された。機械は同年の8月末にフェッセンデンの元に送られ、アンテナシステムに統合され、実験が行われた。その結果、周波数は76kHz以上にならず、出力も目標の250Wではなく50Wしか得られなかった。だが、改良の余地はあった。

 

 この時期、フェッセンデンにとってビジネスキャリア上の勝利が切望されていた。というもの、彼は特許をめぐる相次ぐ告発と反論の中、1902年に気象庁を解雇されていたからである。同年11月に弁護士の支持で、フェッセンデンはT.H.GivenとHay Walkerという二人の資本家との知遇を得て、ナショナル電気信号会社(NESCO)を設立させた。当初から同社のコンセプトは特定の構成要素を販売するのではなく、システム全体を販売することであり、そのような商品の適切な買い手を探すことが課題だった。しかし、システムを提供することは予想以上に難しい仕事だった。フェッセンデンはセールスマンではなく、コストを削減するという発想に欠けていた。一方で資本家の2人は彼に商業的なガインダンスを与えることをしなかった。しかし、フェッセンデンはよりドラマティックな方向、つまり、大西洋横断通信の挑戦へと舵を切った。これはマルコーニが成し遂げたこと以上のことを示すチャンスでもあった。1906年に、スコットランドのMachrihanishとマサチューセッツのBrant Rockの間で大西洋横断通信に成功した。しかし強風でMachrihanishのアンテナが崩壊し、それ以上の成果を追求することはできなくなった。

 マルコーニ会社は、通信サービスを提供する会社であった。では、NESCOのビジネスの主眼は何だったのか。それは通信サービスを提供し、設備を販売し、利益の見込める資材を建設する全ての目的を達成することだった。だがフェッセンデンの目的は商業的なものではなく、あくまで技術、とくに無線電話を開発することにあった。

 1906年には、Brant RockとPlymouth間での音楽と発話の無線通信についての演示実験にも成功した。この実験を受け、さらに手を加えれば数百マイルの通信も可能になるといった評価も下された。また、1906年の12月25日と正月には2回目の演示実験も行われ、目標とする周波数や出力には達しなかったものの、高周波発電機による実験そのものは成功した。

 こうしたわけで1906年までには無線電話の実現可能性が示されたが、このとき有線電話のネットワークの拡大に伴って、有線の限界も認識されはじめていた。というもの、有線が長くなると信号の衰弱やひずみが大きくなるからである。

 フェッセンデンによるGEへの接触は、power engineeringとwirelessのサブカルチャーの間の交流を実現したのみならず、有線と無線の技術の間のつながりの可能性をも生み出した。従来、有線電話、無線電話、power engineeringはそれぞれ独立に展開してきたもので、実践者らはそれらの異なった専門家集団に所属し、異なった言語を話していた。高周波交流は、それらの独立性を打ち破り、相互作用を高めたという点が大きな特徴だった。さらに高周波交流は企業間の連携をももたらした。GEは設計と製造能力を持ち、Telephone Companyは通信システムの建設と整備の経験を有し、NESCOは連続波無線のノウハウと、特許によるバックアップ能力を有していた。ただし、1906年の時点では、ナショナリズムは特筆すべき考慮事項ではなかったという点に注意すべきである。このことは英国マルコーニ会社の優位性に挑むことができるアメリカの製造業や通信事業者の協会を組織する可能性をも排除していた。

 

 ハモンド・ヘイズは意図せずにNESCOに重要な遺産を残した。彼がオフィスを去る前に、GEにアレクサンダーソンがTelephone Companyのための高周波交流機を設計してくれるかどうか尋ねていた。申し出は受理され、アレクサンダーソンは設計に取り掛かった。このとき、アレクサンダーソンは、フェッセンデンとの協力の経験を生かしつつも独自のアイデアを具現化した。すなわち、ローターは2個から1個に、誘導子を木製から鉄製に変えたのだった。こうすることで従来の装置よりも高出力が実現できることが期待された。

彼は1906年4月にNESCOの仕事を終えると鉄道省へ移った。GEの前提は、高周波交流機の実験段階は終わり、今後のNESCOとの契約は通常のルートで対応するというものだった。実際に、1906年後半から1907年初頭にかけてフェッセンデンから受けた追加注文は交流技術部に転送され、もう一人のGEの工学者であるConway Robinsonが担当することになった。それゆえ、しばらくの間GEはアレクサンダーソンのもとでのTelephone Companyのための実験計画と、ロビンソンのもとでのNESCOのための計画が進行していた。

 1909年に完成した2kw機械が高周波無線のランドマークとなった。これは将来の巨大で強力な高周波送信機の原型として機能し得た。だが問題は販路をいかに確保するかということだった。民間は概してリソースが不足しており、火花式で十分だった。一つの可能性として海軍が存在していた。1909年に海軍がバージニアのArlingtonに大出力送信局を設置したとき、パフォーマンスの基準が設定されていたが、GEはこの基準を満たしていなかった。NESCOはこの契約を勝ち取ったものの、それは火花式であり、高周波式ではなかった。NESCOが存在し続け、GivenとWalkerがフェッセンデンに資金を提供し続けている限り、GEの販路は確保されなかった。したがって、当時GEが無線ビジネスに参入することは考えられなかった。GEの専門は、あくまで電気の製造に関するビジネスであり、無線通信のビジネスの中にいたわけではなかった。

  Telephone Companyへの売り込みに失敗したフェッセンデンは英国マルコーニ社と競合できる会社をカナダで起こし、彼自身の特許を使い装置を建設しようとした。このフェッセンデンの行動に対し、GivenとWalkerは彼をNESCOから解雇させるという反応を示し、1911年1月8日にNESCOとフェッセンデンは決裂した。この対立は、NESCOが設立されて以来、フェッセンデンの権限と責任を定義し、業務を指示してこなかったということに原因があった。

 

 だがこの時までにフェッセンデンが1900年にピッツバーグを去ったときに解決しようとしていたことの多くを成し遂げていた。知的にも心理的にも、彼は火花式によって規定されていたマインドセットを打破した。彼は連続波に基づく技術によって無線技術の歩みを新しい全く異なったベクトルへと動きを変えた。彼は新技術がどのようにしてうまく市場に統合できるかを示さなかったゆえ、1911年まではそのベクトルの方向へと大きく前進することはなかった。だが彼は連続波を用いれば火花式でできることは全て可能であり、かつ、火花式ではできなかった無線による音声通信が可能であることを示した。さらに、彼のプロジェクトは国内最大の電気機器メーカーを巻き込んでいた。その関与は、彼がNESCOを去った後も続いた。アレクサンダーソンやGEのメンバーは、高周波式により火花式は時代遅れになり、長距離通信に革命をもたらしうるということを理解していた。設計に関する問題はフェッセンデンにより解決されており、もはや問題にならなかった。問題だったのはむしろ、その機械を市場にどのように流通されるか、つまり、マーケティングに関することだった。

 

文献:Hugh D.J. Aitken Continuous Wave: Technology and American Radio. 1900-1932, Prinston University press, 1982. Chapter 2

 

The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932 (Princeton Legacy Library)
 

 

Aitken, C.W, Chapter 1

 Hugh D.J. Aitken Continuous Wave: Technology and American Radio. 1900-1932, Prinston University press, 1982.という文献を読みます。

 かなり高い山ですが、少しずつ登っていきます。読書メモ(主に要約文)を作成しながら、読み進めていきます。

 余裕があれば、関連する文献や、参考になりそうなサイトなども紹介しようと思います。

 

One Prologue (pp.3-27)

 前著Syntony and Sparkでは、19世紀末から20世紀にかけて、ヘルツ、ロッジ、マルコーニらが、どのようにして無線技術を発明し、商業的なツールへと変換していったのかを考察した。それに対して本書では、火花式以降の無線技術の歴史を辿り、点と点による(pont-to-point)コミュニケーションではなく、放送(broadcasting)という形態が可能となった技術の起源を探る。

 無線技術の進展には、送受信機が、電磁波スペクトル内の有する固有の場所、つまり固有の周波数を見出す同調特性を高めることが不可欠である。しかし、減衰波は特定の周波数を有する波ではなく、複数の場所を持つ乱れた波である。火花式では、減衰する波しか生成することができなかったため、原理的に鋭い同調を得ることができない技術だった。

 この問題を最終的に解決したのは、真空管の発明である。真空管が発明され、連続波の生成が可能になったとき、無線技術史上における「パラダイムシフト」が起きた。ジェットエンジンの歴史研究で有名なエドワード・コンスタントは、クーンのパラダイム論に擬えて、技術史における「技術パラダイム」という概念を導入した。本書でもAitkenは、この概念を拝借して議論をする。しかし、注意すべき点は、この技術パラダイムシフトは科学的な洞察に依拠したものではないし、「不変項」も科学理論から導かれたものではないということである。技術パラダイムシフトは、科学に基づくものではなく、もっと実践的な事項であったからである。

 本書では、技術を機械やテクニックに還元させるような定義づけを行わない。本書の根底にある考え方は、「知識としての技術」という概念である。機械は何らかの知識を体現している。新しい装置やプロセスを分析する際には、人間の知識(とくに科学)がどのくらい増えたのかということ、あるいは既存の知識をどのようにした新しく組み合わせ直したのかということに注目する必要がある。発明とは、言い換えれば、情報の配置換えである。

 発明が情報の配置換えであるとすれば、組織や個人の間のコミュニケーションのネットワークの間の情報のやり取りに着目することも重要である。新しい発明がいかにして生まれるかを問うとき、新しい情報の組み合わせが生じる時間や、情報の流れが収束する点を調査することが良さそうである。したがって、最も面白い新規な組み合わせは、それまでになかった仕方で情報の流れが交差しあったときに生まれる、と考えることができる。

 発明をこのように捉えることには、いくつかのメリットがある。第一に、発明をある特定の個人に帰するような英雄史観を避けることができるということが挙げられる。第二に、決定論を避けることができる(※情報の流れやそれらの交錯は、確率的な出来事であるという側面もある)ということがある。第三に、需要と供給の関係を考慮することができるということである。従来、発明やイノベーションの分析は、「需要駆動理論 “demand-pull “theory」が支配的だったが、需要と供給が相互に関わりあってある成果を決定するというのが現実である。

 前著では、科学・技術・経済という三つの社会のサブシステムを措定し、これら三つのシステムの境界において情報を翻訳する”translator”の存在に目を向けた(ヘルツ、ロッジ、マルコーニら)。各々のサブシステムに属する人々は、文字通り異なった語彙を持ち、異なった言語を話し、異なった合図に反応する。したがって、それらの協力や意思疎通が求められることになるが、その役割を果たすのが「翻訳者」らである。

 しかし、このモデルを用いることには少なくとも3つの問題があったと著者は述べる。(特に、本書で扱う20世紀初頭の米国は、このモデルを前提にして記述することはできない事情もある。) 第一の問題は、こうした枠組みは、科学→技術→経済へと情報の一方向の流れを強調しがちであるという点である。これは、1970年代に技術史にとって深刻な問題であるとして批判されたステレオタイプな図式である。技術というのは、科学知識の増大に依拠しない展開を見せることがしばしばあるからだ。

第二に、論理学者らがいうところの「具体化の虚偽」つまり、抽象的概念をあたかも具体的概念であるかのように用いて自説に導く誤謬に陥る可能性があるという問題である。科学、技術、経済は、19世紀までは劃然と分けることができる境界があったかもしれない。しかし、19世紀末以降、科学と技術はより密接に統合し始める。Edwin Laytonの言葉を用いれば、科学と技術は”mirror-image twins”になったのである。技術者は科学的な訓練を受け、方法、制度、態度から大きな影響を受ける。逆に科学の展開も、利用可能な技術の進展に大きく依存するようになった。科学と技術の間には、はっきり区別することができないグレーな領域がある、というのが19世紀末から20世紀のはじめにかけての実態であった。同様に、20世紀に入ると、技術に関わる様々な意思決定に経済の論理が浸透するようにもなる。また、科学研究のスポンサーとして政府部門も台頭する。科学・技術と経済の間の境界も曖昧になってくるのである。

第三に、行政セクターの不在という問題である。これは第二も問題と絡んでくるが、20世紀に入ると、科学研究の財政源であるということのみならず、特許や著作権の制度によって、科学研究や技術開発の方向づけをする存在として行政セクターが出現した。したがって本書では、科学・技術・経済とは別に、技術の変遷における政府部門の役割を個別に分析することになるだろう。たが、ここでも「具体化の虚偽」に陥らないという点に注意しなければならない。行政セクターというのも、決して一枚岩として存在するわけではない。そこには、様々なエージェンシーやポリシー、チャネルが含まれる。

前著では、翻訳者は、ロッジやマルコーニなど特異的な個人だった。しかし本書では、翻訳者はかならずしも個人であるとは限らず、プロセスの形式化や制度化を背景に重要なセクターとなった海軍や、GE、AT &T、RCAといった存在に焦点が当てられることになるだろう。20世紀に入ると、新しい技術のマネジメントのための制度や、利益を保護し前進させるための公的機関の創設が相次ぐ。こうした制度や場は、科学、技術、経済、行政が交差するグレーの領域でもある。こうした動向は各国ごとに多少の違いはあるものの、過程そのものは国境を超えたものである。

 

文献:Hugh D.J. Aitken Continuous Wave: Technology and American Radio. 1900-1932, Prinston University press, 1982. Chapter 1 

 

The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932 (Princeton Legacy Library)
 

 

宮崎駿『出発点: 1979-1996』を読みました。

 

 ある作業がひと段落ついたので、兼ねてから読みたいと思っていた宮崎駿『出発点』を一気に読んだ。思いつくままに、つらつらと感想を書いておく。

 本書には、1979年から1996年までに様々な媒体に発表された対談、企画書、講演、エッセイなどを収録されている。1996年というのは長編アニメーションでいうと、『もののけ姫』制作中の時期までになる。

 宮崎駿さんに哲学があるとすれば、それはある種の「矛盾」なのだろうとおもう。

戦闘機が大好きなのに、戦争は大嫌い。アニメーターでありながら「教養主義」者。アニメを作ることを仕事にしながら、その一方で世の中にアニメが溢れる状況を良しとしない。

 僕は、このように宮崎さんが矛盾を抱えながら仕事をするという姿勢には、おそらくある一つのカテゴリーでまとめられることに絶えず反逆していることの結果であるということが一つあるような気がする。例えば、334頁からのエコロジスト作家カレンバック氏との対談などでは、ナウシカには「エコロジー」思想と響きあうところがありつつも、通常の「エコロジー」思想を全面的に支持することはできないということを強調していることがわかる。同じく、宮崎さんは愛国者だとか、マルクス主義者だとか、そういう単純なレッテル貼りは、全くのナンセンスだと思う。そんな単純な存在であるはずがない。宮崎さんが描いている世界は、もっと複雑で、無限を備えている。

 

 僕は、宮崎さんのアニメと、その他の日本に溢れている「アニメ」とは、そもそもジャンルが違うとさえ思うことがある。僕からすれば、いわゆる日本のSF的な「アニメ」が大量に生産されることと、宮崎さんの手書きのアニメーションがこつこつと制作されることとは、全く次元の違うことであって、「アニメ」で溢れかえることと宮崎さんが作品を創ることの間に矛盾はないと思うのだが、本人はそのあたりを混同されているという認識があるのかもしれない。

 本書を読んで、他の作品にはなく宮崎作品だけにある「X」の正体に、より近づけたという感じはする。とても印象的だったのは、リアリズムに対する考え方である。

 宮崎映画が、恐ろしいくらいディティールにひたすらこだわる姿勢はよく知られているだろう。ファンタジーというのは虚構であり、全くの妄想である。しかし、ファンタジーを創る際に、「ウソの世界であっても、いかにほんとうの世界とするかが大切だろう。言葉をかえるなら、見る人に「そういう世界もあるな」と思ってもらえるウソ(p.47)」をどのようにつくのか、ということが重要らしい。それには、やはり我々が持っている生活感覚を徹底的に追求することから始まる。

 

宮崎さんは、優れた歴史観の持ち主でもある。本書でも対談がある司馬遼太郎堀田善衛などからは、彼の歴史観や物の見方に大きな影響を与えているように思われる。にもかかわらず、どうして評論家や作家にならず、アニメーターの道を歩んだのか。こうした疑問について考える際に、とても興味深い記述がある。ある箇所で、宮崎さんは自分のアニメ作りの仕事を「お菓子屋さん」になぞらえて説明している。自分は子どもたちを喜ばせる「お菓子」を作っているのだと。どうせお菓子を作るなら、やはり防腐剤とか着色料とか香料とか、健康に悪い素材を使うのではなく、体に害のすくない素材でこだわりを持ってつくりたい。しかし、お菓子で栄養を摂ろうとするのは間違っている。栄養は別のもので摂れば良い。

では、子どもが喜ぶ「お菓子」をつくることに、どんな意義はあるのだろうか。それは、司馬遼太郎との対談であるように、大人も子どもも、「自分の中の子ども」という「天空までいって花を咲かせる」想像力を忘れないようにするということではないだろうか。

 僕らが宮崎作品を見て、しばらく忘れかけていたものを取り戻す感覚を得るには、おそらくそのような「自分の中の子ども」が掻き立てられることと関係しているように思う。

 

 本書は様々な名言であふれている。それらを逐一紹介することはできないが、宮崎駿が何を考えているかを知る上では、欠かせない本だ。

 

 

出発点―1979~1996

出発点―1979~1996

  • 作者:駿, 宮崎
  • 発売日: 1996/08/01
  • メディア: 単行本
 

 

Hong, Sungook (2001). Wireless- from Marconi’s black-box to the audion, The MIT Press.

 

   本書は、ソウル国立大学の教授であるHong(洪)氏が、マルコーニの無線電信機から三極真空管までの無線通信の歴史を描いたものである。初期の無線通信史の先行研究としては、Aitkenによる『同調と火花』、『連続波』があるが、彼でさえも科学的・工学的実践の内実やその文脈を明らかにしようとはしなかった。それに対して本書は、実験的な側面だけでなく理論的な側面も含んだ科学的・工学的実践を詳細に分析することを目的とする。具体的には、マルコーニの初期無線電信に関わった工学者らの実践、フレミングの電力を無線電信に接続する試み、マルコーニの「4つの7」特許に表現されている同調の技術革新、フレミングの「エジソン効果」における一方向伝導性に関する研究、そして、ドフォレストの三極真空管の発明といった例を扱う。本書では、そうした科学者・技術者の実践を詳述することに加えて、科学と技術の境界を探索することも試みる。ここで重要になるのは、科学的効果を技術的な人工物に変革することである。本書ではいくつかの例をもとに、この変革のプロセスについて議論される。

 

 第一章では、物理学者らによるヘルツ波の視覚効果の研究から、マルコーニの電信までを追跡することで、無線電信の起源はどこにあるのかについて議論される。ここではマルコーニ以前に無線電信を発明した人々を、(1)英国のマックスウェリアンら、(2)1892年に無線電信のアイデアを詳細に記述したWilliam Crookes、(3)ヘルツ波による通信の実験を行なったErnest RutherfordとHenry Jackson、の三つのグループに分けた上で、彼らの仕事は全て電磁波を視覚的に類推することによって制約されていたということが示される。当時イギリスの電磁気学研究を牽引していたマックスウェリアンらは、ヘルツ波装置を電気技術装置と類推するよりも、光学技術と類推していた。例えば、ロッジによれば、ヘルツの受信機(resonator)は、「電気的な目」だった。またTrotterやThrelfallらの言説の中にも、彼らの実験が光学信号へ固執していたことがうかがい知れる。だが、それは同時に、ヘルツの実験器具を実用的な無線電信機へと変革させる上での制約にもなっていた。

一方のマルコーニは、有線と無線の間の相同関係(調和)を完全にすることに尽力し、そこから彼の発明の才や独創性が生まれた。マルコーニは、マックスウェリアンのパラダイムに属していなかったがゆえに、ヘルツ波を電信技術との類比で捉え、有線と無線の間の調和を徐々に完全にしようとした。その結果、彼は初めて送受信アンテナの一方を接地することを思いついた。これは、有線電信における「地帰路rarth return」から着想を得たものである。垂直アンテナの使用は、マルコーニが最初だったというわけではなかったが、結果長波を利用していることになり、その「地表波」の性質は、大西洋横断通信の成功へと導いた。

 

 第二章では、無線電信の発明をロッジであると見なす言説は、マルコーニによって英国の国益や英国科学者の地位が脅かされているという危惧を抱いたロッジの友人と彼自身によってでっちあげられたものであるということが示される。本章は、社会的なコンテクストから技術者らの振る舞いをとらえるという本書のアプローチが最も成功している章であると思われる。

 Aitkenによれば、ロッジの優先権に優先権があると見なす見解は以下の2つの証拠に帰せられるという。すなわち、(1) The Electrician誌上の記事(それは、1894年6月の王立協会と、同年8月のオックスフォードにおける実験で、ロッジはマルコーニによって特許権が主張されているところの技術とほぼ同じ送受信機を披露していたということを紹介している)、(2)1937年に行われたマルコーニの記念講演におけるフレミングの演説(そこでは「マルコーニは電磁波によってアルファベットの信号を伝送した最初の人物ではない」と述べられている)である。(2)にかんしては、フレミングは1894年の8月の会合に参加していないので、演説の内容は彼自身の記憶ではなく、ロッジの言葉であると判断されるため、決定的な証拠にはならない。そこで本章ではまず、ロッジの主張を、(1)オックスフォード講演でロッジは実際に電信の信号(ドットとダッシュ)を送信していた、(2)ロッジはモールス器具を準備していたが、聴衆に見せづらいためミラーガルバノメーターを利用した、という2つに分け、それぞれ真実であるかどうか検証する、そして、Hongは1894年の講演の目的は、全体として光と電磁波の関係、光の知覚と電磁波の検波との間の関係の調査にあり、彼が電信の信号(ドット/ダッシュ)を送受信していたという証拠は少しも存在しないということを明らかにする。ロッジは抵抗値の下がったコヒーラーを叩いて元の状態に戻すための機械仕掛けの装置として、モールス器具を用いていたに過ぎなかった。ロッジが無線電信の創始者であるとする言説は、むしろ1897年にマルコーニの特許が取得されて以降、「アンチMarconism」としてでっちあげられた主張だった。1897年以降、電信のヘゲモニーをめぐる「実践家vs理論家」という図式が生まれた。ロッジを発明者とする言説は、英国の国益が「実践家である」イタリア人マルコーニによって「搾取」されていることに危惧を抱いた「理論家である」マックスウェリアンらによって、マルコーニの特許を弱めさせようと企てられたのだった。

 マルコーニの独創性をめぐっては様々な議論が存在するが(彼は既存の発明品を組み合わせただけで、特に真新しい業績はないと見る方が妥当だとする言説もある)、1-2章を通じてHong氏はマルコーニの独自性を評価するスタンスをとっている。

 

  第三章では、フレミングの役割に焦点を当て、彼の動力工学を無線電信に接続する実験を通じて、マルコーニ社内での彼の信頼を高めることになったことを示す。加えて、理論家であるフレミングと実践家であるマルコーニとの研究スタイルの違いに注目し、それがときどき対立することになったことを確認する。

 1899年5月9日にフレミングは科学アドヴァイザーの仕事を引き受けるが、それまで10年間、UCLで電気工学のペンダー教授の下で研究をしており、90年代の関心は、動力工学(power engineering)と低温物理学だった。フレミングはまず以下の3つの仕事に取り組んだ。第一は、英国教会の年会におけるボルタの電流の発見の記念講演にて、マルコーニの器具を用いた演示を行ったことである。これにより彼は、マルコーニと英国の科学者コミュニティーとを橋渡しした。第二は継電器の発明である。そして第三は、マルコーニの特許に関して、「同調」の詳細な仕様書を作成するという仕事だった。これらは特に困難はなかったが、次にやってきた大西洋横断通信という課題は、挑戦的なものだった。

 2000-4000マイルもの距離を通信するためには、出力を数百倍にあげる必要があり、このことは従来のマルコーニの器具では不可能だった。そこでマルコーニは、フレミングの助けを得られれば、大出力の局を建設は可能であると考えた。このとき、レミングのpower engineering の知見が無線電信に接続され、インダクション・コイルといった実験器具から、工学設備へと装置が刷新した。

 だが、1901年7月のPoldhuとCrookhaven間の長距離通信の実験はうまくいかなかった。マルコーニはフレミングがPoldhuのシステムを彼自身のdisc dischargerを用いて修正していたことが気になっていた。そして重要なタイミングで信号が受信できなかったことを受け、フレミングによって設計されたdisc dischargerを不満な装置であると結論づけた。

 マルコーニとフレミングは異なった研究スタイルを持っていた。レミングはキャベンディッシュ研究所の出身で、正確な測定と数学的な熟考とを結びつける重要性を認識していた。そして1882-99年の間は強電工学を研究しており、マルコーニ社に入ってからは、その研究プログラムを電信技術へ応用した。それに対し、マルコーニは実践家であり、頑強な自己流の論理とある種の才能、忍耐力と集中力を駆使して試行錯誤するスタイルを持っていた。poldhuの実験でマルコーニはpower mechineryの設計をフレミングに委ねていたが、次第にそれはバッテリーとインダクションコイルの代わりでしかないこと、電信の原理には関係がないことを理解し始める。7月の実験の失敗は2人の間に亀裂を生じさせ、「jigger」(マルコーニが発明した高周波トランス)が導入されて以降、フレミングの役割は最小化する運命にあった。

 

 第4章では、1903年に起こったマスケリン事件(Maskelyne affair)を扱い、この事件を通じて、工学者の信頼がどのように形成され、消費され、そして突如として失墜するのかを考察する。

1903年6月4日、王立協会にて同調振動の送受信の条件について議論すべく演示を行った。マルコーニは大電力のPoldfuの送信局は他の低電力の局と干渉しないことを主張していたので、マルコーニの敵の一人であったマスケリンはそれが本当かどうか確かめるべく、演示実験の最中に自身の送信局から「rats」という無関係のメッセージを干渉させた。

 フレミングもマルコーニもこの実験が邪魔されることを予期していなかった。マルコーニもアンテナと受信機は7777特許に基づいた設計であるから、他のメッセージを拾うことは想定外だった。フレミングは、誰かが地電流によって干渉させたと推測していた。しかし、実際にはマスケリンは電磁波で妨害した。尤も、マスケリン自身もなぜ干渉させることができたのか十分に理解していなかった。マスケリン事件は、マルコーニの同調システムは、きちんと同調されていないシンプルな他の送信機とも簡単に混信してしまうことを指摘したという意味で、マルコーニ社に大きな打撃を与えた。1903年12月に更新されるはずのフレミングのマルコーニ社との契約は更新されず、事実上解雇されることになった。その後、フォレミングは再びロンドン大学のPenderの実験室に戻ることになった。彼はそこで周波数計測器と交流整流器とを発明することになる。1905年、これらの装置を携えたフレミングはマルコーニ社との関係を再構築することになる。

 

 第5章では、フレミングによる二極真空管の発明の物語を再考する。本章では、フレミングが研究を行なっていたマックスウェリアンの文脈、そして彼自身のマルコーニ社での地位の回復を試みようとした努力は熱電子管の発明の上で重要だったことを示した上で、valveを実用的な受信機に応用したのはフレミングではなくマルコーニであったことを明らかにする。

 エジソンの初期の電球の欠点は、時間がたつと電球の内側が黒ずみ、寿命を縮めるという問題だった。エジソンとその助手は、「phantom shadow」と呼ばれるカーボンフィラメントの白い影、つまり、その部分だけが黒くなっていない表面の一部があることを見出した。さ

らに、その影はフィラメントの負極側よりも正極側にはっきりと確認できた。しかし、彼らの目的はそのメカニズムを理解することではなく黒ずみを処理することにあったので、彼らは金属板(anti-carbon plate)を電球内に挿入した。1883年の10月、助手の一人はプレートに検流計をつなぎ(それはエジソンの研究プログラムでは自然なことだった)、プレートが白熱フィラメントの正極につながっている場合には数ミリアンペアの電流を示したが、逆にプレートがフィラメントの負極側につながっているときは、より少ない電流が流れたということを発見した。エジソンはこれを実用的な方法に応用し、主電源の末端を流れる電流を表示するためのレギュレータを開発した。

 1882年からフレミングエジソン会社の技術コンサルタントとして働いており、エジソン効果についても知っていた。1885年の二度目の物理学会の報告で、影は炭素と銅のいずれかの分子の投影によって生じたと述べている。しかし、ここには理論的な洞察はなかった。

1870年代の末に、ウィリアム・クルックスが、高真空状態では、負に帯電した分子が負極から正極へ進んでいるということを示していた(クルックス効果、分子衝突)。エジソンのランプもクルックスの管もともに高真空状態だったので、エジソン効果をクルックス効果になぞらえて理解する人もいた。しかし、フレミングは、エジソンランプの分子の影とクルックス効果のそれとの違いに気がついていた。現代の言葉でいうと、クルックスは陰極放電、エジソンのほうは熱電子放射ということになる。かつ、彼は電流が分子の運動に関係していることに興味を持った。というのも、マックスウェルの理解では、電流とは電気変位の変化であったからである。彼は、1885年にロンドン大学の教授になってからもエジソンスワン会社で測光標準ランプの組み立てを継続できた。1899年よりエジソン効果に関する一連の実験を行った。そして、フレミングエジソン効果を負に帯電した炭素粒子(molecular electrovection)の、負極側のフィラメントからプレートへの投射によって起こると結論づけた。フレミングの最初の関心は、空間の電導性を高めることであり、それゆえ、一方向電導性を軽視する方向性を持っていた。つまり、彼は一方向電導性を利用して人工物を開発するというルートとは異なる道を歩んでいた。しかし、1900年ころから電子の理論を採用し、そうしたマックスウェリアンへのコミットメントから抜け出したことで、初めてvalveの発明へと向かうことになる。

 フレミングのvalveの開発物語の正典は、(1)既存の検波器には問題があり、(2)1904年ごろに改良が求められ、(3)エジソン効果から整流器の改良方法を導く、という三段階の物語である。しかし、Hongは(1)1904年頃に本当に新しい検波器の需要があったのか、(2)1903年から1904年の間にフレミングは無線電信における検波器の研究を行なっていない、むしろ彼は高周波測定に関心を持っていたのではないか、(3)フレミングの回想では触れられていないが、彼はマルコーニ社において、どのような社会的文脈において研究を行なっていたのかという三つの観点から、この正典を再検討する。

 本章で重要なのは、フレミングが置かれていた社会的な文脈からこの問いに答えようとした点にある。1904年までに彼はマルコーニとの関係を取り戻すべく、何か便利なものを発明する重圧を感じていた。このプレッシャーが彼を、実験装置を技術的な応用物へと変換させた。その結果、生まれたのが、電波波長計(cymometer)と、熱電子管(thermionic valve)だった。

 

 第六章では、以下の二つの目的が掲げられる。一つ目は、ドフォレストが1906年末にどのようにしてオーディオンを発明したのかという問いに答えることである。特に、フレミングのvalveが彼のオーディオンにどう影響したのかについて批判的に考察を加える。第二に、電気アークにおける負性抵抗(negative resistance)から、アーク発振(生成)器(arc generator)、そしてオーディオンに至る連続的な過程を示すことである。そうすることで、1912年から1914年にかけて複数の工学者が(デフォレスト、アームストロング、マイスナー、ラングミュア、ローウェンスタイン、ラウンド)がほぼ同時に整流器としてのオーディオンを、増幅や発振のためのデバイスに変換させたのかという問いに適切な文脈を与えることができるという。

 ドフォレストはフレミングvalveが自身の研究の方向性に影響を与えたことを認めようとはしなかった。ドフォレストは期せずしてフレミングのvalveに近い”receptable device”を発明していたが(ドフォレストの整流器は、残留ガスのイオン化を利用するものだったため、気体の安定化を図るべく入れ物で電極を覆った)、この後は白熱電球の方が実用性が高いことを認めて採用していったと考える方が妥当であるとHongは分析している。ただ、彼の装置はvalve弁ではなく、中継機(relay)ないし引き金(trigger)として捉えていた点に根本的な違いがあった。

 ドフォレストは最初Audionは増幅にも使えることを主張していたが、増幅や発振用途として使われるようになるのは後年のことである。しかし、アーク放電以来、最大の問題は、いかにして連続波を発生させるかということにあった。その意味で、1913年頃に発振用途としてのaudionが複数の人によってほぼ同時に発明されたということは、ある意味自然なことだった。

 

 エピローグでは、全体のまとめを行う。本書は、複数の技術の複雑な奇跡とそれらの交差に焦点を当て、科学・技術者らがゆっくりと、ときにはやみくもに、科学的な効果や技術的な人工物を開発してきたのか、そして最終的にオーディオンにどのようにたどり着いたのかを描いた。技術だけが社会を作るわけではないが、技術が生まれると人々は新しい可能性について考え、選び、開発し、採用することを迫られる。異なった集団は各々技術に異なった関心を示し、そのことがしばしば文化的な緊張や社会的な摩擦を引き起こすこともある。

 1910年代に開発された増幅・発振用途としてのオーディオンは、連続波の送受信を早く、安く行えるようになった。従来の電力技術は巨大で高価だったが、オーディオン革命によって、だれでも簡単に送信局を持てるようになった。1920年代に入ると、今後は混信の問題、つまり周波数をいかに割り当てるかということが公共の議論の主題になった。そして、スーパーヘテロダイン回路、超再生回路、FM変調などの技術革新が起きた。オーディオンの発明後は、無線工学における理論と実践を再定義した。オーディオンのみがラジオ放送を作ったわけではない。他の社会的要因(第一次世界大戦、アマチュア、企業競争など)を過小評価してはならない。それでも、「オーディオン革命」は、確かにラジオ放送への扉を開けたのだったとして本書は締め括られる。(付録では、エーテル理論における地電流の理解について解説される。)

 

 

 

 本章のテーマの一つである科学・技術者らの実践=practiceというキーワードは、クーンのパラダイム以降現れた「理論」だけを追った歴史とは異なる新しい研究潮流を意識したものだろうか。本文ではその研究史にかんしては直接言及がないが、様々なコンテクストの中で彼らがどのように振る舞ったのか、あるいは振舞わざるを得なかったのかを分析した箇所は、Aitkenの先行研究にはなかった要素であろう。また、なによりフレミングやドフォレストの手書きの実験ノート等の未刊行資料を数多く扱っている点も、本書を一級の歴史書に仕立てているポイントである。本書では、Aitkenでは通説とされてきた理解に重要な修正を加えているため、無線技術史研究にとっては必読の本と言える。

 本書は交流理論についての知識がない場合、かなり読解に苦戦すると思われる。実際、僕自身も理解できていない箇所がたくさん残っている。ただそれにしても、「音声変調」の理論についてはほとんど扱われていない点は気になった。音声を搬送波に乗せる=変調する方式としては、AMとFMがあるが、アームストロングがFMを発明する以前は、基本的には全てAM方式でやっていたと考えて良いのだろうか。そもそも、AM方式はいつ誰によって考案されたのか。そして変調は、audionによる発振回路が発明される以前と以後でどのように変わったのか。本書を読んだ今、こうした疑問が生じてきた。

次は、時間が許す限り、Aitkenの『連続波』をがっつり読んでいきたいのだが(もちろん拾い読みしかできないかもしれないが)、この辺りのことを念頭にいれておきたい。

 

 

David Edgerton (2007) “The shock of the old” , Chapter 4 Maintenance

David Edgerton (2007) “The shock of the old- Technology and Global History Since 1900” Oxford University Press

Chapter 4  Maintenance

 

 メンテナンス(maintenance)は、人とモノとの関係において非常に重要な活動であるにも関わらず、技術史でもあまり正面から論じられることの少ないテーマである。

 技術が大規模化し、大きなシステムを形成するようになると、ある局所的な欠陥がシステム全体の崩落を導くリスクが高まる。そのため、メンテナンス管理を徹底することが大事になる。メンテナンスは、修理、場合によっては改造を意味する場合もある。メンテナンスを非創造的な、退屈な仕事だとみなすことは間違っている。

 

 

4-0

←変化のない秩序の世界で、維持されなければならない世界。

→社会的・技術的なメンテナンスへの多くの言及がある。(ex: 中央官庁の修理工、整形外科医、無法者の修理工)

  • 20世紀に継続していた技術に関する考えは、人間は人工物に引き継がれてしまうという示唆だった。現代の生活を可能にしている人工物の複雑な世界が崩壊してしまうという悪夢は、システムを持続させるための規律や秩序、安定性の必要性に深い関心を抱かせた。

(Ex: ある技術の哲学者の1970年代の言葉:「人工的合理的システムを作って、そのまま放っておくことができる例はほとんどない。人工的な複雑性の引き換えに、絶え間ない警戒心が求められる。」「技術が発達した時代には、だれが管理するのかではなく、何が管理するのかと問うべきである。政府は、機能の継続、大規模システムの洗練、要件(requirements)の合理的な実施にとって何が必要で効果的かを判断する事業になった。」)

→巨大な全能国家(all-powerful state)を必要としていた。これらの水力都市は、必ずしも民主的ではなかった。

→Lewis Mumfordは、1960年代初頭に、古代の「ピラミッド時代」を「民主的技術」に対置される「権威主義的技術」という言葉で特徴づけた。

⇔彼は、第二次大戦後、特にアメリカにおいてある種の「西欧的専制主義(occidental despotism)」というべき新しい権威主義的な技術が出現していると見た。

  • 20世紀の多くの分析では、この新しい権威主義の責任は技術の性質それ自体にあるとされた。20世紀の技術はますます大規模化し、相互に接続しあい、中央管理され、人間の生命の維持にとって重要になってきたといわれた。(ex 電力供給システム)

ある欠陥は、システム全体の崩壊につながるため、大きな危険性を導いた。その結果、技術への警戒心やメンテナンスのより大きな要件が求められるだけではなく、社会自体が崩壊をさけるべくますます訓練される(disciplined)ようになった。

  • メンテナンスの歴史は、現代の技術に関する規律や秩序についての疑問に、重要な洞察を与えてくれる。また、標準的な経済学のカテゴリーや、労働と生産、特に技術の歴史の重要な側面について再考を促してくれる。

メンテナンスや改修は、ものとの関係で中心的でありながら、私たちが考えたくない事柄でもある。それは平凡で、いらだたしく、不確実性にみちていて、物事をとりまく主要な迷惑の一つである。

(「メンテナンス工学」の地位はあまりにも低かったので、それを「terotechnology」という言葉に変えようとする試みが行われた。その語は1960年代に英国の政府委員会によって造語され、ギリシャ語の”tero”(見る、観察する、守るといった意味)に由来していた。)

  • 技術について考え、書く際に、メンテナンスを軽視するということは、我々の歴史が大事にしてきた正式な(formal)理解との間にある大きな溝を表す一例である。

 

4-1 How important are maintenance and repair?

  • メンテナンスの問題は、それが損なわれたときに目に見えるようになる。

Ex: 1960年代広範に、アメリカは発展途上国における好ましくないメンテナンスについて関心を持ち、メンテナンスの欠如はトラクターや産業機械といった高価な資産の寿命を縮め、資本不足の国において悪いことであると気づいた。(途上国では)必然的に、重要でありながら目に見えず、反復的で退屈なメンテナンスの仕事は無視されてきた。

→1960年代のインドに導入された手動式水ポンプ(hand water pump)は、メンテナンスの準備がなく、まもなく修復不可能に陥ってしまった。

  • メンテナンスは、社会が作成する公式(経済的・生産統計など)の説明の中でもほとんど見られない。標準的な経済学のイメージでは、投資や資本財の利用はあっても、一部の例外を除いて、メンテナンスや修理はない。それには、国の報告書ではメンテナンスと修理を区別することが難しいという技術的な理由がある。(家庭で行われる場合、別々のコストとして表れてこない。)

⇔カナダでは、メンテナンスに関する統計を取っている。それによれば1961年から63年にかけて、GDPの6%を占めていた。これは発明やイノベーションへの支出よりは大きいが、豊かな国ではGDPの10-30%を占める投資額よりは小さい。

しかしカナダの場合、設備へのメンテナンスが投資額の半分を占める。

メンテナンス費が巨額であることを示す例:

・スイスでは、1920年代から1950年代にかけて、道路の改良と維持にかけた費用は、新しい道路を建設した費用よりも高かった。

・1950年代のオーストラリアの非農村地帯の事業の投資額の60%はメンテナンスと改修にあった。

・1980年代後半のアメリカでは、建物のリノベーションやリハビリテーションにかけた費用は新築にかけた費用の1.5倍であり、GDPの5%を占めていた。 

メンテナンスにかかる費用と時間を節約することは、直接の費用だけではなく、資本や投資のコストにも劇的に影響を与える。

 

4-2 Maintenance

  • 物の発明は数か所に集中していたが、物の生産はそれよりも広く分布し、物の利用は生産よりもさらに広く分布する。そして、メンテナンスも、物の利用と同じくらい広がっている。

→メンテナンスや改修=最も広くに流布した技術的な専門知。それらは異なった形態をしており、巨大な技術システムの周辺にありながらもそれと相互依存していた。

(Ex: 自動車の生産は数か所に集中しているが、メンテナンスや改修は世界中にあり無数の作業場(workshop)で行われる。)

さらに、メンテナンスや改修は、正式な経済(formal rconomy)の外で行われる。

(Ex:衣服を修繕するための家庭で行われる裁縫は、かつて女性の普遍的なスキルに近かった。)

  • メンテナンスや修理に歴史における主要な潮流を概観する立場にはないが、ある領域(飛行機、電車、船など)では、メンテナンスは減少している。また、豊かな国の家庭用品に限れば、修理はもはや存在しない。(電気トースターや冷蔵庫に至るまで、修理はそれを行うに値しなくなっている。) さらに、小売り/修理人のネットワークもなくなった。
  • メンテナンス自体も高度に集中化し、管理されるようになっている。

車の中の複雑なエレクトロニクスは、適切な設備を備えた公認された修理場においてのみが故障を解決できる。

最初の購入費用に比べてメンテナンスや修理費が安い場所では、物は長持ちする。また、物は、低いメンテナンス体制(low-maintenance regime)から高いメンテナンス体制(high-maintenance regime)へと移動する。

→先進国で生産された製品が、途上国ではもはやメンテナンスできないことがあるかもしれない。

4-3 Mass production and the art car maintenance

  • 初期の自動車産業は、メンテナンスの重要性と、異なった時と状況においていかに異なるかということの例を与えてくれる。
  • 1908年から1920年代の終わりまで生産されたフォードのモデルTは、その時代のほかのすべての車の生産を凌駕し、特にメンテナンスの重要性を与える例である。

←モデルTのカギとなる特徴は、それが相互に交換可能な(interchangeable)部品から成り立っているということだった。このことは、組立工(fitters)なしで組み立てることを可能にした。また、モデルTはメンテナンスが簡単にできるように設計されており、改修や改善に特別なスキルは必要なかった。

→フォードはメンテナンスと修理に関心を持っていたので、修理手順を調査し標準化し、1925年に巨大なマニュアルを作成した。

また、販売店の標準的な料金も設定し、それらに修理のために必要な標準化された設備を購入させ、修理店の分業化を進めた。

⇔しかし、モデルTでさえ、メンテナンスと修理の「フォード化」はできなかった。

∵車修理事業の、多くの変遷や不確実性に対処することができなかったから。

  • 車のメンテナンスは、車があるそれぞれの場所に遍在していることが特徴だが、特定の場所や状況で重要で興味深いものになった。

  1970年代の初頭まで、ガーナには数多くの「組み立て工(fitters)」と呼ばれたモーターカーの修理人が数多くいた。彼らは”magazine”と呼ばれた特定の場所に集まり、小屋や野外で作業をした。中でもSumae Magazineが最大で、1971年に6000人が働いていた。1980年代中頃までには人口は40000人まで増加し、中心地となった。

  ←工具はハンマー、スパナ、やすり、スクリュードライバーなどの初歩的なもので、工作大も間に合わせだった。最も洗練された工具は電気溶接セットだった。

  →magazineは車やトラック、バスを維持することができなかった。

新品の車とそれを支える利用可能なインフラの間にミスマッチがあり、メンテナンス不足により劣化していった。

  • ガーナの修理工は、車とエンジンの知識を発展させ、地元の材料を用いて維持する方法を身に着けた。1990年代のガーナでは、Peugeot 504が長距離タクシーとして用いられていた。

→ドライバーのKwakuは、車を購入したときにメンテナンスと修理が頭のなかにあった。Kwakuの車両は何度も故障し、再建や再配線、キャブレター(燃料供給装置)の取得などを経験した。ガスケットは古いタイヤで、ヒューズは銅線で、ロックピンは釘で置き換えられた。

ガーナやほかのアフリカの国々における自動車の「熱帯化」は、エンジンの機能の知識だけではなく、限られたものの中で古い車を維持させるユニークなタイプの知識に依存していた。

 

4-4 Maintenance and large scale industry

  • 自動化された自動車生産工場は、作動を維持するための数多くのメンテナンスを必要とした。古典的な生産工場では、部品は手もしくはベルトコンベアで機械の間を移動した。

→一つの機械で一部の仕事がなされると次の機械へ移動し、そこで仕事がなされると、さらに次の機械へ、、、というtransfer machineの利用が、1950年代の自動車産業の自動化において、絶頂になる。

  • transfer machineは、1920年代に自動車のエンジンの産業で試みられたが、第二次大戦中のアメリカの航空エンジン産業で再び戻ってきた。戦後は、米国の車のエンジン産業で、transfer machineの設置がブームになった。
  • しかし、”Detroit automation”(大規模なtransfer machineの利用)は、システム全体の素早く効率的なメンテナンスを要求し、各々の機械のツールが容易に取り換えることができることが求めれた。

∵transfer machineによって相互に結びついた複雑な機械のどの一部分が故障しても、機械全体が止まなければならなかったから。

→工場やメンテナンスへの厳格な注意が要求され、しばしば新しく生じたメンテナンスの仕事の費用は、直接的な労働の節約を上回った。

transfer machineは、労働を奪うよりもむしろ、労働を退屈な仕事から熟練した多様な仕事へと変化させた。

メンテナンスはとても大きな問題だったので、機械はバラバラにされ、transfer machine以前の時代の柔軟性にある程度回帰した。

 

4-5 Aviation

  • 飛行機はしばしば自由を連想させるが、その操作は規律、ルーティーン、メンテナンスへの注意によって特徴づけられる。飛行機は故障すれば、空から落ちてしまうがゆえに、大部分のリソースをメンテナンスに費やす。

→安全な飛行のイメージを宣伝することが重要。戦間期に女性パイロット(aviatrix)が新聞紙の主要産物だったが、女性飛行士は、飛行機産業を支えた国家的なヒロインだった。∵彼女らは航空は安全であるということを示していた。

ほとんどの国で、’air stewards’が乗り込んだ。→戦後に支配的なパターンに

  • メンテナンスには多くの費用がかかった。1930年代から1960年代までの米国国内線では、乗務員2人に対して一人地上整備士がいた。1960年代の初頭の米国で、メンテナンス費は飛行機のオペレーションの全体の費用の20%を占めた。
  • 1920年代の航空の経済の主要な前進は、エンジンのメンテナンスの必要性の減少だった。

メンテナンスコストの指標=TBO(time between overhaul): 分解調査される前に、エンジンがどれくらいの時間安全に稼働するか。

エンジンのTBO

1920年代初頭は15時間、1920年代の末は150時間、1930年代は500時間。

 エンジンのメンテナンスコストが減少する理由;

  • より安全にすべく、エンジンの設計の改善(可動部品の減少、擦れにくい素材の使用)
  • メンテナンスに必要な知識の増大

→メンテナンスの計画、コストなどは、事前にプログラムすることはできない。非公式な暗黙知も非常に重要であり続ける。=learn by using , learn by doing

  • 学習曲線が下がる。(十分な知識を獲得するまでのかかる時間が減る)

100機目は、50機目よりも20%安くなる。

←マネージャーや労働者が、しばしば非公式な方法で、より簡単に飛行機を生産したりメンテナンスする方法を学習するから。

 

4-6 The battleships and bombers

  • 戦艦や爆撃機は、集約的なメンテナンスが要求される。平時の武力は、メンテナンスと訓練の組織と考えることができる。

第二次世界大戦後、巨大で複雑なシステムは、けた外れの量のメンテナンスを要求したが、集約的なメンテナンスは新しいものではない。

20世紀の最初の数十年間、英国海軍は世界中にマルタ、ジブラルタルシンガポール)に、船のメンテナンスと修理のためのグローバルな造船所(工廠)のシステムを持っていた。

1920年代中頃までは、戦艦は大室の造船所で、一年に二か月ほど改装されていた。

1920年代の末から、乗組員が二年半船を整備し(maintain)、その後造船所のアシスタントとともに二か月間船の修理(refit)に従事する。

自己修理・自己メンテナンスは、よりスキルをもった乗組員を要求した。

  • 船は安定した存在であるとは限らず、しばしば劇的に変化する。

最初の近代的な戦艦であるドレッドノートは、1905年に着水。

1914年までに、英国は20隻、ドイツ15隻、米国10隻、ロシア、フランス4隻、イタリア、オーストラリア=ハンガリー、スペイン3隻、日本、チリ、トルコ、アルゼンチン、ブラジル2隻

→1922年から1930年の間、多国間の軍縮条約のプロセスの一環で、建造は一時停止。

→第二次大戦で用いられた戦艦の多くは、1911年から1921年までに建造されたもの。→半分は30歳になっていた。

  • 南アメリカには戦艦をかなり長い間メンテナンスする習慣があった。

Ex: 第一次世界大戦前に、アメリカが建造したアルゼンチンの2隻のドレッドノート級の戦艦、英国製のブラジル海軍の2隻の戦艦、チリの1隻の戦艦は、1950年代まで使われた。

  • これらは、メンテナンスや修理が施されるだけではなく、改装や再構築もなされた。日本海軍は戦間期に建造された戦艦のほぼすべてを再構築し、その結果、形状やエンジンが劇的に変化した。

イギリスの5隻のクイーン・エリザベス級戦艦のうち、バーラム以外は二つの大戦を生き延びた。

→(クイーン・エリザベスは)1924年から19354年にかけて、対魚雷のバルジを設置するなどの改良がおこなわれ、1930年代にはバーラムとマレーヤを除いてエンジン、大砲、その他の主要な変更がなされ、再構築された。

→イギリスは戦後も1930年代に設計されたアイオワ級の戦艦4隻を保管しており、メンテナンスが施されて、1960年代、1980 年代、1990年代に再就役した。

  • B-52爆撃機は、1952年に初飛行し、1962年に最終製造された。→2040年まで活躍することが期待されている。初期のパイロットの孫が現在飛んでいるという話もある。

KC-135(空中給油タンカー)は、1956年から1966年まで製造されたが、1990年代中頃まで、732機のうち600機以上が現役で活躍している。20世紀末に、エンジンその他に改善が加えられ、現在でも米国空軍の主要な空中給油タンカーである。

  • 1926年にドイツで建造された商船用帆船(はんせん)Paduaは、第二次大戦後もソビエトエストニア練習船として存続。
  • QE2、シャンクンタラ急行(1923-1944)、ウルグアイ(1920年代の米国車が今も走る)、キューバ(1950年代の米国の電車が今も走る)、レッド・ルートマスター(1968年まで製造され、2005年まで定期運航)、マルタ(1950年代-60年代の電車が今も走る)、ロンドンの地下鉄、発電所
  • コンコルド(超音速旅客機):25年間運航していたが、2000年の墜落事故により、運航を停止。2001年のテロ、スペア部品の価格高騰などにより、2003年に飛行を終了する。英国新聞の特派員:「メンテナンスをすれば、その構造は無期限に動き続けるものだった」と示唆。

 

4-7 From maintenance to manufacture and innovation

  • 戦艦や爆撃機の例のように、メンテナンスはときには重要な改造(remodeling)を意味する場合がある。

Ex:アメリカには車を改造する極端な例がある。メキシコ系アメリカ人にとって、’ hot-rod’に改造することは情熱であり、車体を持ち上げたり下げたりするための油圧ポンプを用いた”low-rider”を作りこむことや、内装を工夫することは、1930年代、1940年代の車改装の文化の産物だった。メキシコ、アフガニスタン、フィリピンといった数多くの途上国でも、車、トラック、バスを改造するプロセスはありふれていた。

  • 日本の自転車産業;自転車生産は、もともとはイギリスからの輸入製品を修理することから始まった。最初は、取り換え部品は輸入品のために作られていたが、次第にこれらは(国内品の)より安い完全な自転車に組み込まれていった。自転車は、小規模な部品メーカーや、組立工場によって作られた。1920年代に入ると産業は輸出を開始し、1930年代には輸出品は全製品の半分を占めるようになった。南アジアは、半分英国製、半分日本製の自転車であふれかえった。模倣の才能と、数多くの零細企業の存在に起因する成功は最近にまで反響し、日本の企業はいまだに高品質の自転車部品の製造を支配している。
  • 戦後間もないころの日本のラジオ産業でも、ラジオセットの大部分は零細企業によって製造された。それらの企業は、まだラジオの修理や部品交換が一般的だった時代に、修理業を営んでいた会社である。

修理業と製造業の密接な関係は、作り手と使い手の密接なつながりを形成するうえで重要だった。

  • 一時的な輸入品の不足が、修理業を製造や設計への分岐を促す場合がある。

第二次世界大戦中は、武器製造のために帝国の権力による製造能力が発展させられ、多くの国では製品を購入することができなかったため、こうした現象が起きた。

→戦争は、しばしばメンテナンスや修理を超えて、国内生産を大きく拡張させた。

こうした事例は戦後も見られた。

Ex ブラジルのサンパウロの電力供給会社のメンテナンス部門では、1980-90年代年代の巨大な問題に直面した。

:経済危機が、既存の設備の維持や取り換えに必要な装備や部品の輸入を制限し、供給システムの一部を制御するための新しい方法や、メンテナンスの代替手段を考案することで、これに対応した。

 

4-8 Engineers and maintenance society

  • メンテナンスは、使用を超えた、ものとの親密な関係を課す。メンテナンスができるということは、しばしば操作することとは異なる技術を必要とする。

(はじめは)メンテナンスや修理ができる人はほとんどいなかったが、メンテナンスを行う者が十分に広がることで、技術専門家のありふれた形態の一つとして認識されるようになる。

→米国、英国の職業的な(professional)エンジニアは、TVの修理工といった低い職業を言い表すために”engineer”という言葉を用いることに憤慨した。職業的なエンジニアとは、イノベーション、設計、新しいものの創造といった別の役割を持った人間である。彼らは未来に関心があり、楽観的で前進的で、世界に何か新しいものを送り出す存在である。

  • こうした、職業的なエンジニアを創造者や改革者ととらえるイメージは、彼と低い修理工とを混同するのと同じくらいに誤っている。

学問的な訓練を受けたものの中でも、設計や開発に関わるエンジニアは少数である。

(ex: 1980年時点でスウェーデンのエンジニアのうち72%は、既存の製品のメンテナンスや監督に携わっている。)

仮に、大部分の医師や歯科医が人間の体を維持したり、修理しているのだとすれば、彼らも同様に、エンジニアとして物事が機能し続けるようにすることに関係している。

活動を維持しなければならないものが増えるにつれて、職業的なエンジニアの数も増えていく。今日の米国では、200万人以上のエンジニアが存在し、これは医者、弁護士の二倍の数である。

  • エンジニアの男性らしさは、彼らのすることに深く関係している。家の中であろうと、産業であろうと、野外であろうと、メンテナンスや修理は男性的な活動と思われてきた。

⇔例外は20世紀のソ連。:エンジニアの大部分は女性だった。

Ex :映画 Ninotchka

Greta Garboが演じるNinotchkaは、パリに派遣されたソビエトのエンジニアで、技術的な観点からのみエッフェル塔に興味を持っていた。階級の敵であるフランス貴族に愛と贅沢と女らしさに変えられ、むろん彼女は資本主義の下で技術者としての道に進まなかった。

  • エンジニアが創造や発明だけを第一とするわけではないということは、国家のエンジニア(state engineer)によっても示される。彼らは国家技術の管理に関わっている。

モデルケース=小さな中央集権的エリート団体をもつフランス

;エコール・ポリテクニクを卒業後、各部の専門学校(Ecole des Mine,Ecole des Ponts et Chaussees)に入り、国家貴族の侯爵や男爵になった。

第五フランス共和制の下で、彼らテクノクラート」は、政治や行政において重要な存在になった。彼らは国を維持することに関わっていた。

 

参考;米国で共感を呼ぶ「修理する権利」と歩み寄るメーカーの思惑

「企業は人々の修理する権利を妨害するために、さまざまな戦術を使うようになってきている。修理用の部品を売らない。売る場合も、かなり高価なものにする。マニュアルや図面といった修理に必要な情報は公開しないし、オープンソース化もしない。」

https://wired.jp/2019/07/16/right-to-repair-co-opt/

 

福島真人「科学のメンテ問題」『UP』2018年、12-17頁。

https://ssu-ast.weebly.com/uploads/5/5/6/4/55647405/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%86%E5%95%8F%E9%A1%8C.pdf