yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Aitken, C.W, Chapter 1

 Hugh D.J. Aitken Continuous Wave: Technology and American Radio. 1900-1932, Prinston University press, 1982.という文献を読みます。

 かなり高い山ですが、少しずつ登っていきます。読書メモ(主に要約文)を作成しながら、読み進めていきます。

 余裕があれば、関連する文献や、参考になりそうなサイトなども紹介しようと思います。

 

One Prologue (pp.3-27)

 前著Syntony and Sparkでは、19世紀末から20世紀にかけて、ヘルツ、ロッジ、マルコーニらが、どのようにして無線技術を発明し、商業的なツールへと変換していったのかを考察した。それに対して本書では、火花式以降の無線技術の歴史を辿り、点と点による(pont-to-point)コミュニケーションではなく、放送(broadcasting)という形態が可能となった技術の起源を探る。

 無線技術の進展には、送受信機が、電磁波スペクトル内の有する固有の場所、つまり固有の周波数を見出す同調特性を高めることが不可欠である。しかし、減衰波は特定の周波数を有する波ではなく、複数の場所を持つ乱れた波である。火花式では、減衰する波しか生成することができなかったため、原理的に鋭い同調を得ることができない技術だった。

 この問題を最終的に解決したのは、真空管の発明である。真空管が発明され、連続波の生成が可能になったとき、無線技術史上における「パラダイムシフト」が起きた。ジェットエンジンの歴史研究で有名なエドワード・コンスタントは、クーンのパラダイム論に擬えて、技術史における「技術パラダイム」という概念を導入した。本書でもAitkenは、この概念を拝借して議論をする。しかし、注意すべき点は、この技術パラダイムシフトは科学的な洞察に依拠したものではないし、「不変項」も科学理論から導かれたものではないということである。技術パラダイムシフトは、科学に基づくものではなく、もっと実践的な事項であったからである。

 本書では、技術を機械やテクニックに還元させるような定義づけを行わない。本書の根底にある考え方は、「知識としての技術」という概念である。機械は何らかの知識を体現している。新しい装置やプロセスを分析する際には、人間の知識(とくに科学)がどのくらい増えたのかということ、あるいは既存の知識をどのようにした新しく組み合わせ直したのかということに注目する必要がある。発明とは、言い換えれば、情報の配置換えである。

 発明が情報の配置換えであるとすれば、組織や個人の間のコミュニケーションのネットワークの間の情報のやり取りに着目することも重要である。新しい発明がいかにして生まれるかを問うとき、新しい情報の組み合わせが生じる時間や、情報の流れが収束する点を調査することが良さそうである。したがって、最も面白い新規な組み合わせは、それまでになかった仕方で情報の流れが交差しあったときに生まれる、と考えることができる。

 発明をこのように捉えることには、いくつかのメリットがある。第一に、発明をある特定の個人に帰するような英雄史観を避けることができるということが挙げられる。第二に、決定論を避けることができる(※情報の流れやそれらの交錯は、確率的な出来事であるという側面もある)ということがある。第三に、需要と供給の関係を考慮することができるということである。従来、発明やイノベーションの分析は、「需要駆動理論 “demand-pull “theory」が支配的だったが、需要と供給が相互に関わりあってある成果を決定するというのが現実である。

 前著では、科学・技術・経済という三つの社会のサブシステムを措定し、これら三つのシステムの境界において情報を翻訳する”translator”の存在に目を向けた(ヘルツ、ロッジ、マルコーニら)。各々のサブシステムに属する人々は、文字通り異なった語彙を持ち、異なった言語を話し、異なった合図に反応する。したがって、それらの協力や意思疎通が求められることになるが、その役割を果たすのが「翻訳者」らである。

 しかし、このモデルを用いることには少なくとも3つの問題があったと著者は述べる。(特に、本書で扱う20世紀初頭の米国は、このモデルを前提にして記述することはできない事情もある。) 第一の問題は、こうした枠組みは、科学→技術→経済へと情報の一方向の流れを強調しがちであるという点である。これは、1970年代に技術史にとって深刻な問題であるとして批判されたステレオタイプな図式である。技術というのは、科学知識の増大に依拠しない展開を見せることがしばしばあるからだ。

第二に、論理学者らがいうところの「具体化の虚偽」つまり、抽象的概念をあたかも具体的概念であるかのように用いて自説に導く誤謬に陥る可能性があるという問題である。科学、技術、経済は、19世紀までは劃然と分けることができる境界があったかもしれない。しかし、19世紀末以降、科学と技術はより密接に統合し始める。Edwin Laytonの言葉を用いれば、科学と技術は”mirror-image twins”になったのである。技術者は科学的な訓練を受け、方法、制度、態度から大きな影響を受ける。逆に科学の展開も、利用可能な技術の進展に大きく依存するようになった。科学と技術の間には、はっきり区別することができないグレーな領域がある、というのが19世紀末から20世紀のはじめにかけての実態であった。同様に、20世紀に入ると、技術に関わる様々な意思決定に経済の論理が浸透するようにもなる。また、科学研究のスポンサーとして政府部門も台頭する。科学・技術と経済の間の境界も曖昧になってくるのである。

第三に、行政セクターの不在という問題である。これは第二も問題と絡んでくるが、20世紀に入ると、科学研究の財政源であるということのみならず、特許や著作権の制度によって、科学研究や技術開発の方向づけをする存在として行政セクターが出現した。したがって本書では、科学・技術・経済とは別に、技術の変遷における政府部門の役割を個別に分析することになるだろう。たが、ここでも「具体化の虚偽」に陥らないという点に注意しなければならない。行政セクターというのも、決して一枚岩として存在するわけではない。そこには、様々なエージェンシーやポリシー、チャネルが含まれる。

前著では、翻訳者は、ロッジやマルコーニなど特異的な個人だった。しかし本書では、翻訳者はかならずしも個人であるとは限らず、プロセスの形式化や制度化を背景に重要なセクターとなった海軍や、GE、AT &T、RCAといった存在に焦点が当てられることになるだろう。20世紀に入ると、新しい技術のマネジメントのための制度や、利益を保護し前進させるための公的機関の創設が相次ぐ。こうした制度や場は、科学、技術、経済、行政が交差するグレーの領域でもある。こうした動向は各国ごとに多少の違いはあるものの、過程そのものは国境を超えたものである。

 

文献:Hugh D.J. Aitken Continuous Wave: Technology and American Radio. 1900-1932, Prinston University press, 1982. Chapter 1 

 

The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932 (Princeton Legacy Library)