yokoken001’s diary

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宮崎駿『出発点: 1979-1996』を読みました。

 

 ある作業がひと段落ついたので、兼ねてから読みたいと思っていた宮崎駿『出発点』を一気に読んだ。思いつくままに、つらつらと感想を書いておく。

 本書には、1979年から1996年までに様々な媒体に発表された対談、企画書、講演、エッセイなどを収録されている。1996年というのは長編アニメーションでいうと、『もののけ姫』制作中の時期までになる。

 宮崎駿さんに哲学があるとすれば、それはある種の「矛盾」なのだろうとおもう。

戦闘機が大好きなのに、戦争は大嫌い。アニメーターでありながら「教養主義」者。アニメを作ることを仕事にしながら、その一方で世の中にアニメが溢れる状況を良しとしない。

 僕は、このように宮崎さんが矛盾を抱えながら仕事をするという姿勢には、おそらくある一つのカテゴリーでまとめられることに絶えず反逆していることの結果であるということが一つあるような気がする。例えば、334頁からのエコロジスト作家カレンバック氏との対談などでは、ナウシカには「エコロジー」思想と響きあうところがありつつも、通常の「エコロジー」思想を全面的に支持することはできないということを強調していることがわかる。同じく、宮崎さんは愛国者だとか、マルクス主義者だとか、そういう単純なレッテル貼りは、全くのナンセンスだと思う。そんな単純な存在であるはずがない。宮崎さんが描いている世界は、もっと複雑で、無限を備えている。

 

 僕は、宮崎さんのアニメと、その他の日本に溢れている「アニメ」とは、そもそもジャンルが違うとさえ思うことがある。僕からすれば、いわゆる日本のSF的な「アニメ」が大量に生産されることと、宮崎さんの手書きのアニメーションがこつこつと制作されることとは、全く次元の違うことであって、「アニメ」で溢れかえることと宮崎さんが作品を創ることの間に矛盾はないと思うのだが、本人はそのあたりを混同されているという認識があるのかもしれない。

 本書を読んで、他の作品にはなく宮崎作品だけにある「X」の正体に、より近づけたという感じはする。とても印象的だったのは、リアリズムに対する考え方である。

 宮崎映画が、恐ろしいくらいディティールにひたすらこだわる姿勢はよく知られているだろう。ファンタジーというのは虚構であり、全くの妄想である。しかし、ファンタジーを創る際に、「ウソの世界であっても、いかにほんとうの世界とするかが大切だろう。言葉をかえるなら、見る人に「そういう世界もあるな」と思ってもらえるウソ(p.47)」をどのようにつくのか、ということが重要らしい。それには、やはり我々が持っている生活感覚を徹底的に追求することから始まる。

 

宮崎さんは、優れた歴史観の持ち主でもある。本書でも対談がある司馬遼太郎堀田善衛などからは、彼の歴史観や物の見方に大きな影響を与えているように思われる。にもかかわらず、どうして評論家や作家にならず、アニメーターの道を歩んだのか。こうした疑問について考える際に、とても興味深い記述がある。ある箇所で、宮崎さんは自分のアニメ作りの仕事を「お菓子屋さん」になぞらえて説明している。自分は子どもたちを喜ばせる「お菓子」を作っているのだと。どうせお菓子を作るなら、やはり防腐剤とか着色料とか香料とか、健康に悪い素材を使うのではなく、体に害のすくない素材でこだわりを持ってつくりたい。しかし、お菓子で栄養を摂ろうとするのは間違っている。栄養は別のもので摂れば良い。

では、子どもが喜ぶ「お菓子」をつくることに、どんな意義はあるのだろうか。それは、司馬遼太郎との対談であるように、大人も子どもも、「自分の中の子ども」という「天空までいって花を咲かせる」想像力を忘れないようにするということではないだろうか。

 僕らが宮崎作品を見て、しばらく忘れかけていたものを取り戻す感覚を得るには、おそらくそのような「自分の中の子ども」が掻き立てられることと関係しているように思う。

 

 本書は様々な名言であふれている。それらを逐一紹介することはできないが、宮崎駿が何を考えているかを知る上では、欠かせない本だ。

 

 

出発点―1979~1996

出発点―1979~1996

  • 作者:駿, 宮崎
  • 発売日: 1996/08/01
  • メディア: 単行本