yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Aitken, C.W , Chapter3

Aitken Continuous wave,  Chapter 3 Elwell, Fuller, and the Arc (pp.87-161)

 

 本章では、フェデラル無線電信のElwellおよび彼の後継者であるFullerという人物に焦点を当て、彼らが火花式からアーク式へと送信技術を一新させる過程が描かれる。アーク送信機は当時デンマークのポールセンらによって開発が行われていたが、その技術を米国に普及させたのはElwellだった。アーク送信機が米国に導入・普及する過程において重要な役割を演じた人物の中には、Elwell以外にも、スタンフォード大学の関係者、トンプソンをはじめとするフェデラル無線電信の経営者、そして海軍のメンバーが含まれていた。(とくに、海軍が送信機に対して要求する水準は高く、そのことがアークにかかわる技術的な障壁を乗り越えることを後押しした。) その意味で、アーク送信機の展開では、軍・産・学の各セクターが深く関わっているといえるだろう。その中でもElwellという人物は、実験室の世界と経済の世界とを繋いだ「翻訳者」として重要な機能を果たした。それは、NESCOにおいてフェッセンデンが演じた役割と同じだった。

(以下は読書メモ)

 

3-1  Arlington局

1913年2月、米国海軍は遠く離れたところにある基地といつでも通信できるように、バージニア州のアーリントン(Arlington)に大出力の送信局を設置した。1911年に議会はこの送信局の建設に資金を投じ、翌年には100万ドルの予算が計上された。米国海軍の成功は、これまでしばしば議論されてきた英国の「帝国の鎖」と類似している。つまり、無線網を整備するということは、帝国と植民地間の通信ルートを整備すること、そしてそれを通じて政府による統治範囲を拡大させることを意味していた。また、無線通信網の発達は、絶えず切断の危険にさらされている海底ケーブルのリスクを軽減し、それ以外の場所へと通信範囲を広げるという意義もあった。

こうした長距離通信を実現でき、信頼性の高い無線通信手段が要求されたことは、無線技術そのものの限界を突破することにつながった。とりかけ海軍による厳しい要求が、その動きを後押しすることがあった。例えば、米国海軍は、無線通信機の設計にさいして、ワシントンから半径3000マイル以内のあらゆる地点に対して、いつでも伝送できるということを条件に挙げていた。こうした厳しい要件は、同時代の最先端の技術であっても十分に満たすことはできなかった。

 Arlington局の建設の契約を海軍と結んだのは、NESCOだった。同社は送信局にフェッセンデンが設計した100kwの回転火花式(rotary spark)送信機を設置した。この装置は巨大な志向性アンテナを備えた(陸上の)軍事施設間の通信には成功したものの、海上の船舶通信においては海軍の要件を満たすことはできなかった。1913年にArlington局はサービスを開始したが、送信するときに巨大な騒音が発生せざるをえなかった。

 しかし、Arlingtonに導入されたフェッセンデンの送信機は、大電力の火花式技術の限界を突破し、実用に耐えうるだけの水準に達していた。フェッセンデンが、火花式の究極的な技術(=回転火花式)によって商業的な成功を収めたことは皮肉である。なぜなら、連続波の概念にコミットしていた彼自身そこからのがれようとしていた技術が、まさに火花式であったからである。

 NESCOの回転火花式だけが、Arlington局を独占していたわけではなかった。その中には、当時フェデラル電信会社にいたエルウェル(Cyril Elwell、以下Elwell)によって設計された発振アーク(oscillating arc)が含まれていた。1912年に彼は海軍が関心を抱いてくれることを望んで、12km間でのデモ通信を行った。その結果、蒸気工学部門(bureau of steam engineering)のHooperとHepburnの関心を得ることはできたが、同部の長であるConeと、アメリカ海軍調査研究所(NRD)の所長であるAustinを説得させることはできなかった。装置の性能上、木製の枠組みが使用されていた点があったが、Elwell自身はそのことに無関心だった。

 米国海軍は1907年に船舶通信を目的とした低出力のアーク式無線電話をドフォレストから購入していたが、そのパフォーマンスは不満足なものだった。だが、ヘテロダイン受信機とアーク送信機を組み合わせることで、実用的な無線通信の前進が期待できるということは明らかだった。

 連続波の無線にコミットすることは、フェデラル無線電信会製のアークのみへとコミットすることを意味するわけではなく、GEやテレフンケンなどの別の選択肢も存在していた。しかしElwellはもっとも野心的であり、海軍のHepburnも率先して彼にアークを製造させることを依頼した。もしElwellが海軍の要求を受け入れれば、フェデラル無線電信だけが満たすことができる仕様書を作成することもできた。

 1913年6月30日に契約が結ばれると、Darienに100kwの送信機が設置され、1915年の7月1日からサービスが開始された。1918年までに米海軍はワシントンと主要な各基地とを結ぶ連続波による無線通信網を発達させていた。米海軍の通信ネットワークは、英政府をはじめとする他国のそれを凌駕しており、マルコーニ社や他の民間システムよりも優れていた。これらの送信機は、全てフェデラル無線電信という一つの供給者から提供された。1912年から1917年までの間、海軍の長距離通信を可能にできたのはアーク送信機だけだった。

 だが、フェデラル無線電信にとって海軍の要求は挑戦的なもので、Elwell自身も危険を冒していた。というのも、海軍が要求したものは100-150kw級のアークであり、それは従来フェデラル無線電信が製作したことがなかった出力の送信機だったからである。当時、30kw以上になるとアンテナ効率良く高周波を供給することができなくなるという、原因不明の問題があることが知られていた。しかしElwellは慎重に行動する人ではなかった。彼は技術的な困難が立ちはだかっているからといって契約を破棄するということなどはしなかった。

 

3-2

  Cyril Elwellは、Matthew RogerとClotilde Gutmanとの間にCyril Frederickという名前で、1884年にオーストラリアのメルボルンに生まれた。父であるMatthewは、ニューヨークから1876年に南オーストラリアの警察になることをめざして渡豪していた。しかし、Rogerは死んだかもしくは逃亡し、母のClotildeはThomas Elwellと結婚した。そのとき、Cyril Frederick はCyril Elwellに改名された。しかし、まもなく1894年に2人目の父であるThomasも亡くなってしまう。このような急転直下(abrupt shift)な幼少期の経験が、彼のアイデンティティや性格に影響を与えたということを断言することはできないが、少なくとも、彼の与えられた状況に完全にコミットし続けないという姿勢を形成したということは言えるかもしれない。

 Elwellはシドニーメルボルンも学校で、Otto Bauerというドイツの電気工学者から電気工学について教えを受けた。学校生活を終えると、彼はNew South Wales鉄道の電気部門に見習いとして働き始める。当時オーストラリアには公式な電気工学の訓練を受けられる場所は存在しなかった。そのため、電気工学を学ぶためには、実地訓練に従事することが最良の方法だった。

 1902年、Elwellは知り合いの斡旋で、スタンフォード大学に留学すべく渡米することになる。金銭的なサポートは十分にえられる確証はなく、現金や情報もわずかで、かつElwellが従来受けてきた教育が同大学への入学を保証するかどうかもわからなかった。にもかかわらず、Elwellがスタンフォードへ向かったのは、彼の決断力の大きさによるところが大きい。1902年、Elwellはサンフランシスコに到着する。彼は1903年の8月に予定されていた入学試験に向けて、特に数学を重点的に勉強した。そして見事に4年間の大学院のプログラムに入学する。

  スタンフォード時代に、彼が学問的に特別な卓越性を見せていたというような証拠はない。しかし、1906年のサンフランシスコ地震後の復旧作業において彼が見せた働きぶりにより、彼は同僚や教師陣から注目されるようになった。

 当時のスタンフォード大学には、無線工学の正式なコースは存在しなかった。そのため、この分野の専攻を希望する学生は、雑誌や書籍に頼って自分で勉強を進めるしかなかった。Elwellも自ら書籍を読み漁る中で、ヘルツ波を用いた仕事に関心を持つようになり、最新の動向を注視していた。しかし、彼の自伝には、火花式送信機やコヒーラー、アンテナを用いて実験を行っていたという記述はない。彼の訓練は電気システムの公的利用の方向へと方向づけられており、理論面ではなく、むしろ設計や建設などの実践面で才能を表していた。

 1907年の夏、彼はオーストラリアへ帰省した。そして実家から戻ってくると、スタンフォード大学冶金学部の教授であり、かつNobel Electric CompanyのコンサルタントでもあったLyonとClevengerからアプローチされた。Nobel Electric Steel Companyでは両氏が設計した実験的な電気炉(electric furnace)のための巨大な電流を運搬することができる変流器(transformer)の仕様書を書くという課題を抱えていた。Elwellは、20-80Vの範囲で、8000Aの電流を引き渡すtransformerの仕様書を依頼された。そして彼は6週間で装置の設計に取り組み、その仕事が評価されて1000ドルを受け取り、その後は有給の職に就くことができた。

 学術、金融、産業の各コミュニティーの間の緊密な相互作用は、スタンフォードの周辺のシリコンバレーの特徴になっていくが、Federal Telegraph Companyも、大学の教員に実際的な役割を与えるというもう一つの例を示していた。しかしElwellの個人史にとって、Electric Steel Companyでの仕事とのちのアーク発信機についての業績とを結びつけることは、信頼性を歪めかねない。彼はあくまで強電(large current)の人であり、電信・電話といった弱電の仕事に従事していたわけではなかった。

 だがこの強電方面への研究の志向は、劇的に転換することになる。1908年に彼は冶金学を抜け出し、無線通信や電気工学へそのキャリアを捧げるようになった。この事実は明らかであるが、彼の動機は無明瞭な点が多い。

1902年から、若き発明家McCartyは、Henshaw兄弟(WilliamとTyler )とともに湾岸地域における実用的な無線電話システムを開発していた。しかし1905年にMcCartyは事故で死んでしまい、Henshaw兄弟が後を継ぐことになった。兄弟はスタンフォード大学のRyan教授に問い合わせ、そこからElwellに手伝いの依頼が渡った。McCartyのシステムは火花式であり、信号をカーボンマイクロフォンに変調させる方式だった。そしてElwellはその限界点をよく知っていた。というのも、火花式では減衰波が生成され、そのような波に音声信号を変調させることはとても難しいからだった。そして実際にMcCartyのシステムを用いた試験で、その限界点はあらわになった。

Elwellは、結局、この仕事を引き受けることになった。彼にとって無線電話に背を向け、電気炉の仕事に戻っていた方が簡単で合理的であっただろう。しかし、彼はHenshaw兄弟の金銭的な支持を得て、無線方面の研究へと舵を切った。

Elwellが、McCartyのシステムがそうしてうまく作動しないかということを知っていた。つまり、原理的には問題を解決していたのである。問題は解決可能であるというElwellの確信は、いくつかの要素結びつくことで生まれていた。第一に、MacCartyのシステムは完全に失敗していたわけではない、つまり、トラブルは火花ギャップが広く火花が明らかに途切れる場合にのみ発生していた。第二に、フェッセンデンの装置などを用いれば、正確な高周波発振は不可能ではないということを知っていた。そして第三に、alternatorだけが唯一の可能性はないということを知っていた。なぜなら、当時Poulsenによる発振アークによるもう一つの連続波生成の方法が知られていたからである。だが、Poulsenアークを高出力・長距離の無線電話に応用したものはおらず、また米国での特許使用権は誰も持っていなかった。

Elwellはコペンハーゲンのポールセン(Poulsen)と彼の同僚であるPedersenの受信局を訪問した。彼はそこで、Poulsenが疑いなく低出力・短距離に用いられる実用可能な無線電信・電話を持っていたことを確認した。David Jordanの斡旋もあり、24時間以内にElwellの財政的状況にかんする審査が終わった。Elwellは写真受信機とセットで45000ドルという高額での購入条件を受け入れ、ニューヨークへと戻った。

しかし、6ヶ月以内に再びコペンハーゲンに行き、Poulsenに徐々に支払いの条件の金額を増やしていくという支払い条件の変更を申し出た。結果、1909年8月17日に契約が更新された。彼は1000ドルで購入したPoulsenの小さな100Wのアーク送信機を携え

ニューヨークではなくPalo Altoへと戻った。そしてさらに5kWと12kWのモデルも注文した。彼はこの送信機だけではなく、それを組み立て、運用するエンジニアたちも呼んだ。

 

3-3

 アーク送信機は、既知の要素を未知の方法で組み合わせた付加的な(additive)発明だった。アークと呼ばれる現象自体は以前から知られていた。1802年の時点で、アークは明かりを灯す手段として用いられていた。しかし同時にアークには実験家や科学者の強い関心も寄せられていた。実験家は、アークをアーク灯以外の手段として利用できるかどうかに興味があり、科学者は電気回路内でのアークの振る舞いや、アーク放電の物理的性質に関心を持っていた。

例えば、アークに交流を流すと空気中に音波を放出することが知られていた。アークと交流とを組み合わせて、別の目的に利用できる可能性があった。また、アークはオームの法則と矛盾するかのように思われる振る舞いを見せることがあった。1826年に定式化されたオームの法則は、1870年頃までには重力の法則と同様に、自然界の根源的な法則と見なされていた。したがって、アークがその法則に従わないという事実は、大きな議論を引き起こした。William Duddellは1890年代後半に、アークを跨ぐ電気的ポテンシャルがどのように異なっているのかを調べた。彼は、アークにおいては通常の比例型ではなく、下降線を描くような特徴曲線が得られることを主張した。この曲線は、抵抗値が負であることを意味していた。

彼はこのアークの「負性抵抗」を利用して、連続波を生成する回路を作った。しかし、Duddell自身は、アークをヘルツ波の生成に応用することはできないと考えていた。というのも、高周波になれば特徴曲線の傾きが正になることが知られていたからである。彼の発見の本質的な点は、アークにインダクタンス(コイル)とキャパシタンス(コンデンサー)を繋げば、直流を交流に変換し、一定の振幅をもった振動が得られるということを示したことである。 

Duddellのアークは、高周波において特徴曲線が平ら(もしくは正?) になるという欠点があった。この問題を解決したのが、デンマークのValdermar Poulsenだった。彼は強力な磁場の中でアークを操作し、水蒸気で冷却しながらアークを燃焼させるというアイデアを思いついた。しかし、水蒸気の中で燃焼させるとなぜうまくいくのかを理解することは難しかった。それは冷却機能を果たしているのか、それとももっと複雑なメカニズムがあるのか。ポールセンはもっぱら経験的な方法で新型のアークを開発したのであって、物理的な理論に基づいていたわけではなかった。

ポールセンは彼の”hydrogenic arc”が商業的に大きな潜在能力を秘めていることをいち早く察知し、それを送信用として活用できるように改良作業に取り掛かった。商業化するにあたって、アークを点火/消火することでモールス信号を打つことができなかったことは看過できない問題だった。彼はモールスキーをアンテナのコイルに繋ぐことで、キーが閉じた場合には間隙波(back wave)と呼ばれるものを生成することで、送信周波数がわずかに減少することを利用した伝送方法を考案した。また受信側に同調機能を付与すべく、Pedersenが発明した”tikker”と呼ばれる装置を導入した。両者は共同して研究を行い、1902年と03年に特許も取得した。そしてその特許を利用し、商業的にシステムを展開するために、コペンハーゲンに会社が設立された。そして1905年にはLyngbyに、1906年にはEsbjergにそれぞれ局が設置された。

Elwellがコペンハーゲンを訪れたのは、まさにこのようにポールセン活躍していたタイミングだった(彼は、デンマークエジソンと呼ばれたりもしていた)。Elwellは彼らに北アメリカの市場の足場を提供した。アメリカでは、まだポールセンのシステムの入札者はいなかった。

 

3-4

  Elwellは1909年8月にPalo Altoに戻ると、低出力のアーク送信機に発明に取り掛かり、より広範なシステムを構築すべく、資金を捻出した。1909年9月に、Harris J.Ryan教授の示唆に加えて、スタンフォード大学のJordan とその仲間の金銭的な援助を受け、ポールセン無線電信電話会社を起業した。コペンハーゲンからも11,500ドルもの資金が集まったが、それはElwellらが自分たちで送信機を建設することができること確信できるほどの金額だった。Elwellは「多くの裕福な顧客 many prosperous citizens」がいるStocktonとSacramentoとの間に、双方が通信できる無線電話を設置した。伝えられるところによれば、音声の質は有線の場合よりも良かったという。ポールセン無線電信電話会社は、無線電話の商業的な道を切り開いた。

 それとともに重要なことは、Elwellやその仲間がこの経験から多くのことを学んだということである。第一に、彼らはアークが機械的にシンプルであることを学んだ。アーク送信機には理論的に未解明な点が多かったものの、装置自体を製造することはできた。このことは、高周波交流機の場合と対照的だった。というのも、高周波交流機は多くのことが理論的にはわかっていながらも、それを実際に製造するところに困難があったからだ。

 Elwellの会社がまもなく電話機のサービスを提供する商売だけではなく、製造をも行う能力をすばやく拡大させていったことは示唆的である。短期的には、これは工場を所有することを意味していた。

 この施設を持ったのち、Elewellは続いて自身が設計した5kwの製品を4台、12kwの製品を2台製作した。Elwellの送信機は二つのことを暗示していた。第一に、彼の装置は、アークの回路ではなく、アンテナの静電容量が回路全体の発振の本質であったから、特定のアンテナに合わせてアークが設計される必要があったということである。第二に、アンテナの回路は広く共振してしまうため、望ましくない周波数をカットすることがほとんどできなかった。だが、出力がそれほど高くなかった当時、これらのことはさほど問題にならなかった。これらの問題はのちの工学者らが取り組むことになる問題だった。

  1910年7月に3番目の局がサンフランシスコのa block of land near Ocean Pointに建設され。Palo Altoで製造された一組の12kwアークが設置された。そして、StocktonとSacramentoが同時に通信していても、サンフランシスコのオペレーターは一方の信号だけを複製し、他方を排除することができた。

 この成果は技術的な意味では勇気付けるものだったが、商業的には理にかなっていたといえるだろうか。カリフォルニアや西海岸に無線電話の需要があったのか。現存している資料から、彼らが商業的な戦略について議論していたどうかを明らかにすることはできないが、彼らのモチベーションになっていたのは、技術的な難題を解決することだった。

しかしその一方で、同社は財政的な問題に直面していたことも事実だった。ポールセン無線電信電話会社の財政的問題を知ったビーチ・トンプソンは、新会社を設立するように示唆し、1000万円の資本金を出すことを申し出た。Elwellはこれを承諾し、ポールセン無線会社(Poulsen Wireless Corporation)が発足した。しかし、Elwellは当初の契約内容であった古い株式の利得が30%とされていた点が、12%に減らされていたことに抗議し、最終的には18%という数値で合意した。1911年1月25日に発足した新会社の社長はビーチ・トンプソンであり、Elwellとその仲間は同社のコントロール権を失った。

 しかしその一方で、トンプソンの立場から見ても、財政的な危機に陥っていた会社に多額の資金を投資するということは大きなリスクがつきまとっていた。ポールセン無線電信電話会社が持っていた唯一価値のあるものは、ポールセンの特許使用権だった。取締役が当社株式の市場価格に与える影響を考慮せずに方針を決めることは滅多にない。したがってトンプソンは、適切なタイミングでそれらの株式を処分することで、企業の報酬を得ることを期待していた。

 

3-5

 ポールセン無線会社という社名は、まもなくフェデラル無線電信会社(Federal Telegraph Company)に変更された。フェデラル無線電信は、それまでポールセン無線電信電話会社が欠いていた明確な市場志向を持った会社だった。トンプソンの計画は、大西洋海岸の主要都市を結ぶ無線電信網を建設し、それを東まで拡大させることだった。彼の計画には、無線電話は海底通信などの事業は含まれていなかった。彼が目指した無線電信網でとりわけ特徴的だったのは、press traffic(報道事業?) をハンドリングすることを計画していたことだった。報道事業に乗り出す上で重要になるのは、通信の信頼度を保証することと、既存の有線システムがサービスを展開していない分野で客層を引きつけることだった。フェデラル無線電信は1912年までに13局を建設したが、これらには全てPalo Altoの小さな工業で製造された12kwのアーク送信機と”tikker”受信機が備え付けられた。フェデラル無線電信は、有線通信では10語に相当する利用料金で、15語通信することができる点を売りにしていた。

 Elwellはトンプソンが東方のセクションを拡大して大きな損失を出している点を「戦略的誤り」だとして批判していた。トンプソンの戦略が陸上通信網を拡大することにあったことと対照的に、Elwellの戦略は海洋での通信、具体的には太平洋上での通信網を拡大させることにあった。というのも、海底ケーブルによる通信料は高額であったため、低価格での通信が見込める無線通信が参入する余地があったからである。しかしElwellの計画を実現するためには、高出力の送信機が必要だった。彼は1912年5月に30kwのアーク送信機を備え付けた新しい送信局をサンフランシスコに建設に、ハワイのホノルルとの通信を実現した。このことは、マルコーニ社が依然として火花式にこだわっていることに疑問を投げかけた。

 Elwellのアークは、米国海軍の関心を引き寄せた。海軍は1901年にNESCOと火花式送信機の契約を結んでいたが、軍内にはそれを疑問視する人もいた。海軍の提示する要件は、24時間安全に通信ができるということだった。しかし、サンフランシスコ-ホノルル間の従来の通信サービスでは、日中に通信が集中し、日中の通信スピードを上げる方向に改善が進められていたので、海軍の志向とは異なっていた。

 さらに、Elwellとフェデラル無線電信との関係は悪化するばかりだった。Elwellとトンプソンはお互い目を合わせることさえなかった。1913年の春、Elwellは取締役委員会で、同社はホノルルからグアム、フィリピン、日本、中国といった東洋へと通信網を拡大すべきだと提案した。しかし、この案は却下され、Elwellは会社を辞めることになった。

 フェデラル無線電信会社におけるElwellと、NESCOにおけるフェッセンデンは、ともに似た役割を演じていた。というのは、彼らは実験室の世界と市場の世界との間の「翻訳者」であったからだ。しかし、フェッセンデンは退社後無線事業に復帰することがなかったことと対照的に、Elewellはフェデラル無線電信を退社したのちも、無線の仕事を継続した。フェッセンデンとElwellは、彼らとは異なるシグナルに反応し、異なったインセンティブに対して振舞う組織や個人に、事業のコントロール権を委ねた。(フェッセンデンはGivenやWalkerに、Elwellはトンプソンに権利を譲った。) そして、管理権が個人から組織に移譲するにつれて、技術もより市場において何らかのパフォーマンスをするという機能に変わっていった。もちろん、工学者や発明家は常に組織とうまくいかないということはできず、単にフェッセンデンやElwellがたまたま会社とうまくいかなかっただけである。そして、フェッセンデンが残した課題をアレクサンダーソンが引き継いだのと同様に、Elwellが残した課題はFullerが引き継ぐことになる。

 

3-6

 Elwellは、商業的な戦略に関する問題と、「30kwの壁」を、フェデラル無線電信に遺産として残した。1912年には、同社にはドフォレストのグループとFullerのグループが存在していた。Fullerは同年の9月に手に負えない60kwのアーク送信機の開発を担当させるべく採用されたばかりで、まだ23歳の若手だった。

 Fullerが最初にフェデラル無線電信と接触したのは、彼がまだコーネル大学の大学院生ので、1910年の夏だった。彼はサンフランシスコにある同社の送信局と設備を見学し、それについてのレポートを書いた。彼は連続波の操作を可能にしているポールセン・アークに感銘を受けた。それは火花式に比べて音が小さく、シンプルな装置だった。

 コーネル大学に戻ってからも、Fullerの頭にはポールセン・アークの衝撃が残っていた。当時コーネル大学には教育・演示のためのアマチュア無線局があったが、それは火花式だった。Fullerは自分自身でポールセン・アークを製作することに決めた。

 大学はM.Eの学位のための論文を求めており、Fullerはこの要件を満たすために、ポールセンアークについての論文を書くことにした。彼のアイデアは従来の装置とは異なり、水蒸気や強力な磁場を必要としないものだった。その代わりに、高速で回転するアルミニウムの円盤を電極として利用していた。彼は1911-12年にかけて、その装置をSibbley Collegeに建設した。しかしそのアークは2kw以上で動作させることができなかった。技術的には不満足な点が残るものの、彼は1912年6月に学位を取得した。

 彼はすでにポールセンアークの第一人者になっていた。大学卒業後、彼はNESCOと契約を結んだ。そのころまでにフェッセンデンはNESCOと決裂しており、会社の経営状況も悪化していた。FullerはNESCOから、ヘテロダイン受信回路における局部発振器に使用する小型のポールセン・アークを発展させる、という課題を与えられた。しかし、彼がNESCOと共に仕事をしたのは、わずか2,3ヶ月間だけだった。1912年の夏に同社は財政難に陥り、彼は解雇されてしまった。

 1912年の9月にFullerはElwellのいたフェデラル無線電信に就職した。Fullerは金銭的な見込みや社会的名声には関心がなかった。彼が最も惹かれていたのは、アークに関する知的な難問だった。Fullerに与えられた仕事は、彼自身の経験とフェデラル無線電信がこれまで蓄積してきた実践的な知識とを統合することだった。そしてより直接的には、海軍用の60kw送信機と、100kwのユニットをつくることだった。

  ホノルルと南サンフランシスコとの間で日中に通信することを試みて建設され60kwのアーク送信機は、当初、既存の30kwの寸法を二倍にするといった形で設計された。しかし、それでは30kwの装置に比べてアンテナにほとんど電流が流れないということがわかった。アークの振る舞いを数学的なモデルで説明し、モデルのパラメーターを決定するために試験を行うということが、Fullerに残された課題だった。彼は研究員を増員し、この研究に取り組んだ。そして1919 年、このテーマでスタンフォード大学の博士論文を執筆し、成果を発表した。特に重要な事項は、アークの磁場の強さと、アンテナのキャパシタンスの大きさだということがわかった。

 

3-7

高出力を利用できるようになったことで、フェデラル無線電信の活動の幅は広がった。それに加えて、米国海軍のためのアーク送信機を作るために、同社の製造力を拡大させたことも重要なことだった。米国海軍は200kwの送信機の製造を、フェデラル無線電信、GE、テレフンケンの三社に委託したが、GEとテレフンケンが契約を断ったため、フェデラル無線電信が引き受けることになった。しかし、1915年の時点でフェデラル無線電信には巨大な送信機を製造できる能力がなかったため、当初、同社は乗る気ではなかったという。その一方で、海軍の送信機に求める要件、つまり、高出力で洗練された冷却装置を備えているという条件は、Fullerの設計の方向性とよく似ていた。

 フェデラル無線電信は、Al Camino Real とthe Southern Pacific Railroadとの間の広大な敷地を1916年に占め、労働力を20人から300人に増員して建設に取り掛かった。送信局は驚くべき速さで建設された。特に、第一次大戦に米国が参加すると見込まれたことで建設のスピードが上げられ、1917年までは、Caribbranと海軍の太平洋横断通信網は完成した。

 フェデラル無線電信のアーク送信機は驚くべき速さで建設されたが、高周波技術の展開においてはフランスやドイツも米国に比べて大きく立ち遅れていたというわけではなかった。1914年にはフランスのゴールドシュミットの交流機とテレフンケンのVon Arco machineが設置されている。しかし、第一次大戦前後にフェデラル無線電信のアーク送信機に匹敵する高出力の装置は、欧州にはまだ存在しなかった。

 フェデラル無線電信によるアーク送信機の開発は、従来無線事業を牽引していたマルコーニ社の地位に揺さぶりをかけた。マルコーニ社は科学的・技術的な助言を誤解し、依然として火花式の技術にこだわり続けた。マルコーニ社はフェデラル無線電信が取得していた特許や、同社がポールセン・アークをより効率のよい高出力の送信機に変換させた技術を利用することもできなかった。その意味で、マルコーニ社は世界の無線通信を独占する会社というよりは、フェデラル無線電信が占めていたのと同じ立場に置かれることになった。英国に基盤を置くマルコーニ社がアメリカの連続波に関連した技術を手に入れようとすれば、激しい反響を巻き起こす可能性は高かった。

 

 

The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932 (Princeton Legacy Library)