Hugh G.J. Aitken, Syntony and Spark: The origin of radio (New York: Wiley, 1976),(Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), pp.298-340.
ただ、ロッジ以外にも、マルコーニ以前に同調に注目していた人物はいた。例えば、テスラは1897年時点で同調のコンセプトをもった装置を開発していたし、John Stone Stoneは、不必要な振動を取り除くフィルターとしての共振回路により、1900年に特許を取得している(発行は1902年)。だが、ストーンもテスラも商業的関心は薄かったし、ロッジも1911年まではマルコーニを訴えなかった。マルコーニがロッジの装置を改良したということよりも、むしろなぜロッジ自身が自分でそれを改良しようとしなかったのかを説明する方が難しい。
Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 5.pp.179-244.
1901年にロッジ-ミュアヘッド社が設立されたとき、唯一保持していた特許はロッジの同調式の無線電信だった。10年後には新たな改良を求める者も少なかった。だが、マルコーニ社がロッジの特許権を侵害していることを否定したのみならず、英国陸軍省がロッジミュアヘッド社の製品を、マルコーニ社の同調技術の特許(1900年)を侵害しているといった理由で購入しなかった。ロッジは、この袋小路を、特許権を7年間延長する申し立てをすることで突破しようとした。(元来は1911年に失効することになっていた。) マルコーニ社はこれに応訴した。当時、英国においてマルコーニ社の地位は安定していたが、ドイツとアメリカではマルコーニ社の特許権の地位は揺さぶられ始めていた。ドイツでは、テレフンケン社がマルコーニ社ではなくロッジの特許を侵害しているとの見解を持っていたし、アメリカではマルコーニの同調技術への特許申請は、John Stone Stoneによって先を越されていたとの見地から拒否されていたからである。マルコーニ社のアイザックス(Godfrey Isaacs)は、財政や法律に詳しかったため、マルコーニ社の特許権の擁護の任務につかされた。アイザックスとロッジの調停は難しく、ウィリアム・プリースの仲介によって実現することになった。皮肉なことに、もともとプリースはロッジと対立する立場にあったが、のちに彼はマルコーニ社の経営を批判するようになっていた。調停は、ロッジの特許権をマルコーニ社が購入する代わりに、ロッジーミュアヘッド社は解散されるという形で成立した。こうして、1897年に生み出された同調回路の基礎は、1911年になってようやくマルコーニ社側にそれがロッジに帰属するものであることが理解され、米国の最高裁がロッジの特許を認めマルコーニ社の特許が失効したのは1943年のことだった。ロッジは、自然科学の真実はシンプルで調和的なのに、経営の人間はその発見の成果を引き出すのは誰かを巡って約半世紀もの時間を要した事実を不思議に思っていたかもしれない。
主要な困難は、効果的な受信装置を作ることにあった。ヘルツの実験に関してロッジが強調したことは、ダイポールアンテナではなく、ループ状の受信装置の方だった。しかし、ロッジは既にのちに商業的に利用される「コヒーラ」の原理をすでにこの時点で発見していたということは皮肉である。彼は、わずかな火花が通過したときはいつでもa couple of little knobsが凝集し(cohered)、連結する現象を確認していた。1889年の時点でロッジはまだこれを受信機に応用する考えはなかった。だが、類似した現象は様々な形で観察されていた。最もよく知られていたのは、筒の中にやすりくずや粉を詰めたものに小さい電圧をかけると高い抵抗値を示し絶縁性を帯びるが、大きな電圧をかけると抵抗値が下がり伝導体の性質を持つようになるというものだった。そしてそれに物理的な刺激を与えると、再びもとの絶縁体に戻る。科学界がこの奇妙な現象にもっと受容的であったならば、ロッジは実験開始当初からこの検知器を利用なものにしていたかもしれない。というのも、1878年にDaivid Hughesが同じ現象を確認して、これを電磁波の検知に利用しようとしていたが、彼は科学界が注目しないことに落胆し、私的に研究を続けただけで論文を出さなかった。ロッジが彼の研究を知るのは、それから20年度のことである。フランスでは1890年にBranlyがコヒーラの実験を行い論文を出していた。彼は今日よく知られている形(tube型)を考案した人物である。が、彼の論文からはコヒーラの振る舞いの原理については曖昧にしか書かれていたことが読み取れる。高い電圧がかかったときにやすりくずの間に電流が流れることは容易に想像できる。だが、なぜ電圧が下がった後も抵抗値が低くなり続ける=伝導性を維持するのかという理由は説明できなかった。彼は、もしかすると電流が流れることで絶縁中間体が変容し、振動を与えるとか温度が上がるといった何らかの動作によってこの新たな絶縁体の状態が変わったのだと示唆するに止まった。伝導性が変容するのは、火花のせいなのか、ヘルツの波=電磁波のせいなのか?コヒーラは、物理的な振動を与えて元に戻さなくてはならないこと、伝導し始める電圧が具体的にわからないこと、コヒーラの静電容量が不明であるといった点で問題があった。そして、on/offのモールス信号ならいざ知らず、音声信号を復調することは無論できなかった。1889年3月に始まった王立協会での「ライデン瓶の同調」実験では、最初の実験には用いられなかったがのちの洗練された実験ではコヒーラが用いられた。この実験では、共振という直流の思考の枠組みでは理解できない現象を示していた。ロッジは回路の設計においてジレンマに直面した。それは、よく電波を放射する回路はよく減衰し、正確にチューニングできないということだった。逆に選択度の高い同調回路は、効率的に電波を放射できなかった。これをいかに両立させるかが、ロッジにとっての難題だった。そしてのちには実用的な面からもこの問題が解決される必要性が生じた。だが、1892年、利用可能な無線通信システムの実現という問題を解く個々の要素は出揃っていた。すなわち、ヘルツの発振機、ダイポールアンテナ、コヒーラ、そして同調回路である。ここに欠けていたのはビジョンだった。