yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (6)

Hugh G.J. Aitken, Syntony and Spark: The origin of radio (New York: Wiley, 1976),(Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), pp.298-340.

 

 最終章では、序章で設定されていた問題、すなわち、科学と技術と経済という3つの社会的活動領域はどのように関わっているのかという大きな問題について、今まで議論されてきた無線通信技術の歴史という事例を通じて考察される。この考察に際して、著者は3つのモデルを作る。

まず第一のモデルは、科学=知識生産活動とみなし、その知識が技術、経済へと一方的に変換されていくという、常識に照らしても妥当なモデルである(図1)。

f:id:yokoken001:20200506193728p:plain

図1. モデル1


 しかし著者は、このモデルは何が科学で何が科学ではないか(18世紀以前と19世紀-20世紀にかけての「科学」は同じものなのか)という点が曖昧であることと、知識が「供給」される面のみを考察対象とし、需要サイドを十分に見ていないという問題があると指摘する。

 実際には、科学の知識だけが特定の技術体系を決定する訳ではない。科学的発見が、いつ、どのように技術的前進をもたらすのかという点には、他の要因が関わっているはずである。あるいは、技術自体は本質的にそれが経済的にどの市場で用いられるものであるかということを、自ずと示すことはない。技術は、しかるべき方法で、それは用いられる市場が発見される必要がある。したがって、著者が示す第二のモデルは、それぞれの間の相互作用をくみつくしたモデルである(図2)。

f:id:yokoken001:20200506193812p:plain

図2. モデル2

 これまで考察してきたように、マルコーニがイギリスに渡った1896年という時期は、ちょうど有線、視覚に基づく通信方法の限界を超える新たな長距離通信方法が求められていた。あるいは、恐慌後の経済が徐々に復興に向かいつつある時期でもあった。(1896年からWWⅠまでの間に、ラジオのほか自動車・飛行機・コンクリートといった新しい技術が芽生えていることは、このことと無関係ではない。) さらに、19世紀末から20世紀にかけてはナショナリズムが勃興する時代でもあり、それゆえ、英国、ドイツ、アメリカ、イタリアの軍部(特に海軍)は、無線技術の軍事的重要性に機敏に反応した。このように、技術と経済の間には、経済側からの様々な需要があった。それは、技術の側からの出力の中で、何が意味を持つのかということを教えてくれる情報であり、それに基づき特定の技術がふるいにかけられ、選択されるのである。

 次に、科学と技術の間の関係を考える。技術は科学の側に何を求め、何をふるいにかけ、何を選択するのか。

 ここで、科学と技術との間にある「市場」と、技術と経済の間にある「市場」とは、性格が異なる点に注意しなければならないという。というのも、技術はすでに高度に組織化されており、経済サイドからの需要のシグナルに即座に対応することができる。それに対し、科学は、いつどのような発見が生じるのかが不明であり、技術サイドからの需要のシグナルに即座に対応することは難しい。むしろ、科学は自律性が高く、科学内部のシグナルによく反応しがちである。したがって、三者を俯瞰すると、技術は、経済サイドから科学に対して発せられる需要を、一旦緩衝させるクッションのような役割を果たしているとみなすこともできる。(技術は、すでに利用可能な情報のストックに基づいて、それらを組み合わせることで、経済側からのニーズに即座に対応することができるからである。)

 ところで、技術から科学へもたらされるフィードバックは、(1)情報、(2)技術、(3)人材に分類できるという。情報の中でもっとも重要なのは、「不変項」である。これは、マルコーニの垂直設置アンテナ(長波)の発明の事例がよく説明している。マルコーニは正式な科学の教育を受けてはいなく、科学の人としては、アマチュアであった点に注意すべきである。もし、マルコーニが「通常科学」の体系的な性格に順応していたら、当時の科学によってガイドされ得ないような領域(=長波)へと足を踏み入れることはなかっただろう。彼がアンテナを垂直に立て、長波を利用することで長距離通信が可能になることを発見したのは、科学的知識に基づいていたわけでなかった。このマルコーニの事例から分かるように、技術から科学へもたらされる情報の中には、当時の通常科学の枠内では理解できない「不変項」が含まれることがある。第二には、測定器(ガルバノメーター、干渉計)、純粋な材料などが含まれる。そして第三には、訓練されたマンパワー(人的資本)、例えば、器具製作者、実験助手などが含まれる。このように、科学と技術の間においては、科学の側から技術の側に一方向に知識が流通するわけではない。技術から科学の側にも、フィードバックのループが存在しているはずである。

 

 しかし、このモデルでも説明されていないことがあるという。それは、それぞれの活動が持つ一種の文化(subculture)である。つまり、それぞれの領域で活動する人間の生活、望み、恐れ、不満、失望といった側面である。科学、技術、経済で活動する人間は、それぞれ違った文化を生きている。ある文化から別の文化へ、アイデアはどのように変換されるのか。この点を表現したモデルが、図3である。

f:id:yokoken001:20200506193910p:plain

図3. モデル3

 これまでの議論で明らかになったことは、それぞれの文化を仲介する個人(もしくは制度)が存在し、彼らがそのアイデアの翻訳を行うということである。ヘルツは、一連の数学的方程式を実験装置に翻訳し、それにより測定や仮説の検証が可能になった。またロッジは、それらの装置を実現可能性のある無線通信技術に翻訳した。さらに、マルコーニは、当時の経済システムに適合することができる場所=市場を、他の誰よりもはっきりと見据えていた。つまり、彼らは科学・技術・経済の間にいて、両方の「言語」を話すことができたので、アイデアを一方から他方へと翻訳することができたのだった。情報が翻訳されることで、その領域においても「意味のある形」に変換され、その領域にある既存のアイデアを混ぜ合わされ、新しいものが生まれるのである。今日では、このような翻訳の活動は、制度的に整備されていることがあるが、当時はまだそのような制度はなかった。それゆえ、本書で見てきたように、その翻訳者は個人だった。

 

感想

 1901年のマルコーニの無線による太平洋横断通信の試みは、ある意味で巨大な「実験」だったのではないだろうか。この実験は、それまでの「ヘルツ波」について理解されていた枠内では説明できない「不変項」を電磁気学にフィードバックし、その結果、科学知識そのものの成長を促した。例えば、マルコーニの実験後、ヘヴィサイドは、直進するはずの「ヘルツ波」が、地球の湾曲にそって伝播するはずはないと考え、電離層の存在を予言した。このアイデアは、長距離無線通信技術から科学界へもたらされた不変項がきっかけとなって生まれたものである。電磁波の概念が「ヘルツ波」が、長波や短波、さらには超短波へと更新されていく過程は、「科学革命」が繰り返されていると考えることもできるのかもしれない。その場合、何が連続し、何が断絶したのかという問題は興味深いテーマだと思う。

 マルコーニ以後の歴史は、The Continuous Waveという本書の続編で扱われる。次は、この本に取り組もうと思います。

 

https://www.jstor.org/stable/j.ctt7zv7w0

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (5)-2

: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 5.後半(pp.244-297)

 

5章後半の内容のまとめ。備忘録です。

マルコーニが、火花式(disc-discharger)によって、連続波に近い波の発振を実現していたということは驚きでした。

 

5-7

 市場の拡大は、(1)長距離通信をいかに実現するか、(2)選択度をいかに向上させるかという二つの技術的な課題を突破する革新を求めた。この説では、(2)の問題を扱う。1900年ごろまでに送受信機の数が増えるにつれて、この問題は看過できなくなっていた。特に送信局間の混信の問題が深刻だった。コロンビア大学のマイケル・ピューピンは、1901年に、マルコーニの大西洋横断通信の偉業を認める一方、所与の時間において、英国から米国へ一つ以上の局から送信することはできない点を心に留めておくべきだと主張している。(現代の我々にとって、羅針盤や六分儀なしで自分自身の位置をしることに全く想像が及ばないのと同様にして、同調事前の時代に思いをはせることは難しい。)

 新しい無線機と公衆との最も初期の効果的な接続は、ヨットレースだった。1901年のヨットレースでは、マルコーニ社以外にも、米国ワイアレステレグラフィー、AT &Tの機器も混ざっており、それらとの混信により大失敗に終わってしまった。米国海軍省の船の実践でも、ある局が送信している間に二船の船の間で送信できないこと、片方の船が送信し始めているときに、もう一方の船は受信できないといった問題が指摘された。 マルコーニ同調へのアプローチは間接的だった。というのも、彼の意識は干渉に向いていたからである。彼はまた、送信周波数が広すぎるために、エネルギーを浪費いていることも気にしていた。こうした直接の関心が、彼を(間接的に)同調技術へと導いていったのだ。

 まず同調回路の設計において取り組んだ問題は、受信機の感度の悪さからだった。

従来のマルコーニの装置では、コヒーラが地面とアンテナの間に挿入されていたが、これは不適切な位置だった。コヒーラーをアンテナから遠ざける(スレイビーは、1/4波長遠ざける方法により、電圧を最大化することを考案し、1900年にSlaby-Arco特許を取得している)ことで、受信感度の問題を解決した。マルコーニ自身が採用したタイプは、スレイビーのそれを原理は同じだが異なるもので、アンテナの電流振動をコヒーラが検知可能な電圧へと変換可能な「高周波トランス」を具備するもの(jigger transformer)であった。ここまでは問題なかったが、今度は、コイルの巻数とその比率が問題になった。知的なブレークスルーは、彼が、アンテナとコヒーラはインダクタンスとキャパシタンスから成る共振回路であり、それゆえ特定の周波数で共振し、そのときにエネルギーが効率よく伝わるということを理解したときに起きた。これらの成果は、最終的に1900年に4つの特許に結実するが、この中に有名な「四つの7=7777番」特許が含まれている。

 マルコーニ自身は、”syntony”という言葉をほとんど使っていない。彼はロッジの1897年特許との違いを強調するために、この語を使わなかったのだろう。彼はその代わりに”tuning”という言葉を利用していたため、1900年以降この言葉は次第に消えていった。もう一つの違いは、ロッジの方は2つの回路から構成されていたが、マルコーニの回路は4つから構成されていたという点だ。だが、ロッジは同調を得る方法を最初に記述した点で、彼に特許権にあるようにみなされ、1911年にマルコーニ社によってロッジの特許は買収されるに至った。

 ただ、ロッジ以外にも、マルコーニ以前に同調に注目していた人物はいた。例えば、テスラは1897年時点で同調のコンセプトをもった装置を開発していたし、John Stone Stoneは、不必要な振動を取り除くフィルターとしての共振回路により、1900年に特許を取得している(発行は1902年)。だが、ストーンもテスラも商業的関心は薄かったし、ロッジも1911年まではマルコーニを訴えなかった。マルコーニがロッジの装置を改良したということよりも、むしろなぜロッジ自身が自分でそれを改良しようとしなかったのかを説明する方が難しい。

 

5-8

 二つ目の目的は、長距離通信の達成ということである。1900年ごろの装置は、100マイルくらいの通信にやっと十分なものだった。マルコーニは、彼の技術をより大きな電流と大きな電圧を有するものへと転換する必要があった。そこで、1900年12月にロンドンのフレミングがアドヴァイザーにつき、高周波発電装置について助言をした。また同時期にR.N.vyvyanもマルコーニ社に加わった。フレミングによって使用された技術は、(1)内燃機関を用いた交流機(発電機)、(2)電流変圧器、(3)同調された火花放電回路だった。1901年に行われたフィラデルフィアの実験は、しかし、期待以下の成果しか得られなかった。大きな電力を得て火花回路へ送ることは比較的容易だったが、それをアンテナに送り長距離通信を達成させることが、前例のない試みだった。そこで課題となったのが、アンテナ設計だった。

 マルコーニが用いていたアンテナは風や氷に弱かったこと以上に、指向性がなく、固有周波数が不明だったことが問題だった。1905年になって初めて、L字型の指向性アンテナが発明された。マルコーニは短波で指向性アンテナを用いることは理解したが、長波で用いいることを学ぶ必要があった。

 マルコーニは、なぜ長距離通信には長波の方が有利だと考えていたのか。低いほとほど霧の中をよく伝わるという音の性質になぞらえて理解する者もいたが、彼自身は地球の伝導性に基づいて説明している。しかし、その説明は、夜の方がよく伝わるということを説明できなかった。電離層が観測されるのはもっと後年になってからである。ともかく、この時無線通信に関して重要な点は、長波のほうが長距離通信にとって有利であると理解されていたということだ。1920年代に入って、アマチュア無線家たちが短波での長距離通信に成功したのは、彼らが優れた機器を用いていたからではなく、電離層という新しい資源を利用していたからである。だとすれば、マルコーニは長波=長距離だとみなす「エラー」を回避することができただろうか。もちろん、ここで問うているのは、当時アクセス可能だった知識の中で、彼の戦略は良いものであったかどうかということである。しかし、長波の実用的な利用にとって「地表波」の知識が必要でなかったのだから、短波の実用的な利用にとって電離層や電波伝搬の知識は必ずしも必要ではなかったはずだ。1900年から1914年の間、ここでは科学的知識が技術に先行するという関係ではなく、技術が科学的な知識に先行するという関係になる段階に入っていた。その意味では、彼は「間違って」いたわけではなく、もっとお金や時間や労力をかけずに目的を達成できたはずという意味で、他の選択肢にも開かれていたと言うべきである。それでも彼が長波にこだわり続けた理由は、彼の両親と同様に、頑強な性格の持ち主であったことも関係しているかもしれない。

 

5-9

 大電力-長波火花送信機の頂点は、1907年に開局したClifden(アイルランド)局だった。ここでは、タービンを用いて直流電流を生成し、それを一つは直接火花回路へ、他方はバッテリーへと導くことで、長時間の送信と二種類(11000-12000,15000V)の電圧で起動することを可能にした。アンテナは指向性のもの(L字型、vent設計)を利用していた。だが、技術的に最も重要な点は、円型の放電機(disc-discharger)を導入したことである。これはアーク放電(電極に電位差が生じることで、電極間の期待に持続的に発生する放電)によるスパークギャップの侵食を防ぐ目的で利用された。例えばリーギはもともと、アーク放電を防ぐために油を塗っていたが、高電圧になればなるほどそれでは不十分になっていた。また、送風や、(テスラが考案した)磁石を挿入して磁場とアークを相殺する方法、スパークボール(?)を導入する方法なども考案されていたが、回転式の円盤を放電に用いたのはマルコーニが初めてだった。だが、これは期せずして、アーク放電によるスパークギャップの侵食を防止すること以上の意味を持つことになった。というのも、これを活用することで、各パルスはとてもゆっくりと対数的に減衰し、それらのパルスは高速で互いに追随するため、連続波に近い送信波を生成できたのだった。残念ながら音声変調として用いられることはなかったが、連続波の生成は、のちの時代にとっても最も重要なブレークスルーの一つになる。そして、円型放電機は、一貫した発振と効率的な放射のトレードオフを解決する技術でもあった。

 Clifdenの通信で、技術的な危機に直面することはほとんどなかった。Fessendenら一部の人間は、ここでの連続波の精度は音声を送るには不十分であること、周波数の混信の問題を意識していた。混信の問題は、受信機の選択制、送信機のより狭いバンド、そしてまだ利用されていない周波数(短波)へのシフトを示唆し、音声送信ができるようにするための改良は、真空管への移行を示唆していた。

 マルコーニ社にとって、1910年以降は、技術的な発展の時代ではなく、商業的な統合の時代となった。1900年の「4つの7」特許を基盤として、1911年にはロッジの同調特許を購入し、1912年にはドフォレストの特許を持つアメリカのユナイテッドワイアレスカンパニーを買収した。ドイツではテレフンケン社が政府の手厚い保護のもとに置かれていたため、買収は容易ではなく、テレフンケンが1912年にロッジの特許権を侵害していることを認め、マルコーニ連合に加盟し、欧州でのマルコーニ特許の使用権を購入することで和解した。第一次大戦(1914-18)に入ると、連合はより国家主義的な意味合いを持ち始め、その延長で米国のRCAが発足(1919年)する。

 しかし、後続の真空管、再生回路、スーパーヘテロダイン回路の発明、さらには1920年から始まる放送といった革新の中でマルコーニ社の特許権の有効性が生き残るかどうかは、疑わしかった。新しい革新により、1920年代以降の産業構造は、1900-1914年までのそれとは根本的に異なるものとなった。1930年までには、火花式送信機は博物館の展示物になり、syntonyという言葉もほとんど消失した。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (5)-1

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 5.pp.179-244.

 

 以下では、第五章の前半までの内容をまとめています。ここでは、グリエルモ・マルコーニの幼少期の様子、母親とイギリスに渡り、ウィリアム・プリースという知己を得てマルコーニ社を創立し、無線電信の大西洋横断実験を行おうとする1901年ごろまでが扱われています。マルコーニは、幼少期にボローニャ大学でリーギの講義を聴講したり、実験室に出入りしていましたが、正式な学生ではありまでんでした。つまり彼はアカデミアに属する学者ではなく、アマチュア無線家であり、起業家でした。彼はノーベル物理学賞を受賞していますが、本書では、マルコーニは「科学者」ではなく、「実業家」という経済界の人物しての面を強調しているように思います。もちろんその一方で、彼が大西洋横断実験を行うなかで、科学界にも解決すべき新しい問題(=anomaries)を、フィードバックしたことも事実でした。

 

5-1

 1896年にマルコーニは英国に渡った。彼が英国で成功することができた理由を、彼に要求されていたことを詳細に観察することと、ウィリアム・プリースが自分自身の状況をどのように考えていたのかに注目することで、考察する。

5-2

 マルコーニは正規の教育を受けていない。だがそれゆえに、彼は自分自身の興味関心に自由に従うことができた。彼は物理や化学特に、電気にかんすることに興味があった。彼は、ボローニャAugusto Righiの教育を受けることで、素人的な好奇心を幾分体系だった知識へとか変えることができた。ボローニャ大学の正規の教育を受けることはできなかったが、彼はリーギの講義を聴講することを許可され、実験室に出入りすることも認められた。リーギは、1894年にヘルツの実験が行われた際、イタリアのある雑誌にその実験についての記事を寄稿しており、そのことがマルコーニが無線を通信に活用できることを思いつくきっかけになったかもしれない。

 マルコーニがリーギから学んだことは、電磁波がどのように生成し、伝播し、検知されるのかについての実用的な理解だった。1894年時点でのリーギの関心は、ヘルツが晩年に取り組んでいたことと同じく、超短波(超高周波)の電波が光とおなじようにどのように放射されるのかということについてだった。一方マルコーニは全く逆の方向、つまり、長波で低周波の電波を用いた実験を行うことになる。彼がリーギからどの程度の影響を受け、あるいは逆にどの程度独立していたかということは、リーギの実験器具を見るとわかる。超短波の電波を生成するために、彼は規模の小さな装置を使っていた。そしてスパークギャプはヘルツのそれを改良し、4つからなる構造だった。この強い、規則的な火花を生み出せるライヒのスパークギャップは、マルコーニの初期の送信機の特徴の一つであった。受信機の方では、コヒーラーに特徴があった。マルコーニのコヒーラーはより大きな感度を備えるものだった。1894年から1896年までにマルコーニが行なったコヒーラーの批判的な改良は、実験的好奇心の産物ではなく、商業的(軍事的)サービスにおける日々の使用に耐えうるものを発明使用とする試みだった。

 アンテナに注目すると、ヘルツの実験以降、超短波の実験が規範的になっていたが、これは「実験室内」という環境に由来するアンテナの機械的な問題に起因していた。(例えば室内におい、2mの波長の電波を生成できても、200mの波長の電波を生成することはできない。) マルコーニの実験のアンテナで特徴的なのは、垂直接地アンテナの活用だが、マルコーニ自身は、垂直アンテナから放射される波とヘルツの波とは異なるものだと考えていたようである。いずれにせよ、垂直アンテナそれ自体に固有な要素があるのではなく、アンテナを垂直に立てたことで偶然にも長波を利用することになり、今日的に言うと、「地表波」によって遠距離通信が可能になったという点に新規性があった。したがって、1920年代に短波が「再発見」されるまで、長距離通信を可能にするのは、長いアンテナであり、長波であり、大電力の送信であるというマルコーニの公式(これはもちろん不完全な公式であるが)が成立すると思われるようになった。その意味で、1895年-96年の垂直アンテナ=長波への移行は、実際、技術的なブレイクスルーであったものの、一方で技術的な「病的な固執=fixation」の始まりでもあった。経済的な観点から言うと、これは長距離通信にとっての資源の誤った配置を導くレシピであった。

 マルコーニは科学的な発見を便利で潜在能力のある装置へと翻訳した。彼は電波を、科学から技術へさらには商業的な利用へと導いたのである。だが、逆に、商業的な利用というマルコーニの試みから科学や技術の方へと情報がフィードバックされるという面もある。というのも、マルコーニは「長距離通信」という科学者の関心になかった問題に取り組む中で、その副産物として、科学が新たに解くべきそして合理的に説明すべきanomalies(トマス・クーン)を提出したからである。例えば、ロッジ自身は実験の中でanomaliesという呼べるものに遭遇していなかった。彼は、新しいアンテナやコヒーラーを用いた実験から得られた結果を完全に理解するために、(1)アンテナ設計に関する理論、(2)電波伝搬に関する理論、(3)送受信機をアンテナにマッチさせるtransmission linesに関する理論を必要としていただろう。これらについての経験的な部分的な知見はすでにあったが、体系的な知識は存在しなかった。マルコーニは、1895年までに綺麗に整えられていた牧草地を未知の大地へと変えてしまったのである。

 1896年に彼が英国にもたらしたものは、(1)装置としてのコヒーラー、(2)情報としてのdirectional reflective antenna、そして垂直接地という概念だった。そのほかには、(3)彼が電磁波を用いて軍事的にも商業的にも価値がある伝送システムを創造できるという自身と、(4)それを実行する揺れない自信を持ち込んだという点も重要である。

 

5-3

 

 マルコーニが1896年に申請した特許(暫定的な仕様書と完全な仕様書から成る)は、それ自体新規性のある科学や技術を含んでいるのではなく、無線のパフォーマンスが向上することにつながる既存の技術の設計上の改善と、構造を詳述しているという点に特徴がある。ただ、アンテナの設計に関しては、新規性を持っていた。マルコーニは、アンテナを一つの独立した問題領域として認識してはいなかったようで、送受信機の構造についての記述の中に散逸しているのだが、いずれにせよ、彼は、(1)インダクションコイル、コヒーラーがアンテナに直接接続している(直接式?)タイプ、(2)パラボラ反射器を備えたダイポールアンテナ、(3)垂直接地型アンテナの3つ型のアンテナを記述している。そして、方向性を重視する場合には(2)を、送受信機間に障害物がある場合には(3)をといった具合に、様々なアンテナを選択している。ただし、同調にかんする言及はほとんどない。強いて言えば、アンテナの大きさによって波長を変え、大雑把に同調できることを記している程度であり、混信を防ぐための同調という視点が皆無であった。

 ロッジは、科学者として、理論的な予言を物理的な器具に変換しようとし、マルコーニはそのプロセスをさらに推し進め、実験室のハードウェアから実用性に奉仕する技術体系へと翻訳した。したがって、この段階において、物事はコスト、予算、代替モードとの競合といった経済的な用語で語ることができるようになった。無論、マルコーニの技術は最先端の科学技術に関わるフロンティアであったが、その唯一の例外が「同調」だった。なぜなら、彼は、正確な同調や鋭い選択性が求められる状況に未だ嘗て遭遇したことがなかったからである。彼は同調の問題を、アンテナの大きさの問題としてしかみなしていなかった。

 

f:id:yokoken001:20200418131711p:plain

5-3の内容をまとめた概念図

 

5-4

 郵政省の技師長であり、自らも実験家であり技術者であったウィリアム・プリースが、マルコーニの電信システムを支持するようになった動機は何だったか?彼は、マルコーニがイギリスに来る前からすでに無線電信(※無線なのか有線なのか、その両方なのか、いまいち読解できなかった。)の実験に取り組んでいた。なぜ彼は自分自身の実験成果を棄却してまで、マルコーニの技術を採用しようとしたのか。手短に言えば、彼自身1895年から1896年の間に、袋小路の状態にあったからである。プリースは経験的に、ワイヤはーは局間の距離と同じ長さにする必要があることを導いていた。だが、これはいくつかの離れた島にある灯台など、適さない状況での使用が難しいという問題があった。取り組んでいた誘導電信は、ワイヤーを展開できる土地が十分に存在する条件で効果的に機能したのだった。電磁波理論が示すように、変動する電磁場には、距離の二乗に反比例して変化する誘導場と、距離の一乗にのみ反比例して変化する放射場の二つの要素があるが、プリースの装置は誘導結合(inductive coupling)(?)にのみ依存しているため、距離とともに急速に(距離の二乗に比例して)減衰してしまった。長い平行線はこれを補うための措置であり、比較的短い距離であれば、有効に機能した。しかし、長距離となれば話は別である。ここでは放射(新しく発見されたヘルツ波)のみが、受信機で検知されるほど十分に強力な効果を生成することが期待された。だが、プリースがマルコーニの技術に関心を持ったのは、このような長距離通信を可能にしたことと以上に、船同士の移動体間通信を可能にするものでもあったからである。確かに距離は重要な要素だったが、1896年より前にマルコーニはプリースの装置以上に長距離の通信の実験に成功していたわけではなかった。彼は惹きつけられた点は、使用するワイヤーが少なくて済んだという単純な事実であった。

 

5-5

 グリエルモ・マルコーニの母にであるアニーは、スコットランド出身であった。彼女は歌を学んでおり、イタリアに「bel conto」を学ぶべく留学していた。ボローニャの友人の家に滞在しているときに、グリエルモの父となるジュセッペと出会う。ジュセッペはボローニャの絹商人だった。彼はアニーの17歳年上で、妻を失った男やもめであり、一人息子を抱えていた(※グリエルモではない)。両親は結婚に反発したものの、アニーはジュセッペと駆け落ちし、イタリアに残ることになる。(のちに、アニーは家族と和解する。) したがって、1895年にグリエルモが母と共にイギリスに旅立ったことは、里帰りでもあった。そして、イギリスは当初世界最大の商船の保有国であり、国際貿易の中心でもあり、海軍力も大きかった。 

 アニー家から得たものは、金と助言と人脈である。このうち助言と人脈において重要な働きをしたのが、アニーのいとこであるJameson Davisであった。Jameson Davisの友人のキャンベル・スウィントンが、イギリス郵政省のプリースとマルコーニを結びつけたからである。

 プリースは郵政省の技師長であり、ちょうど技術的にも行き詰まりに遭遇しているところだった。彼はマルコーニと出会うことにより、そのボトルネックを打破することができることを期待したのだった。

 ところで、マルコーニが官立ではなく、民間企業としてマルコーニ社を起業することになった理由は、英国政府の対応が遅かったためであるという説があるが、これは事実と異なっている。1897年の夏になってようやくプリースはマルコーニにコミットするようになるが、マルコーニ家からすると、これは不必要な官僚的な遅延に思えたに違いない。、、、(以下理解不能)

 結局、プリースの協力を得てマルコーニ社が民間企業として発足したことには、三つの重要な点があった。一つは、プリースのおかげで、民間企業でありつつも、社の方針として第二次世界大戦まで、「政府所有」という方向性が掲げられた点である。第二は、郵政省とマルコーニ社との間に軋轢を残し、特に「帝国の鎖」を構築するときに、その相互不信が大きな問題となった。ただし、この不信感は、マルコーニ社に対して向けられていたものであり、マルコーニ自身に向けられたものではなかった。マルコーニは「無線界の天才」であり、科学者や技術者の間には、友愛や兄弟愛と呼べるような関係が続いていた。第三は、マルコーニの特許をその民間企業が利用することで、研究資金の継続的な拠出関係が出来上がったことである。特に当初は家族の小さな輪の中に、会社の所有権や管理権が限定されており、外部からのそれらの侵害を憂慮する必要もなければ、配当を心配する必要もなかった。マルコーニ社は、いわば、拡大された家族を具現化したものであった。

 

5-6

 1897年にマルコーニ社が創立したのち、技術は商業的な問題と関係しながら、言い換えれば価格システムの影響を受けながら、展開するようになる。市場で生き残り、市場での競争に寄与するかどうかが、装置の発展や、採用/棄却を左右するようになった。ところで、その市場そのものも、無線界では自明の存在ではなかった。まず手始めに、市場を形成するためには通信能力を実演することが必要だった。そのため、当初マルコーニ社は、需要者(軍)自らが装置を操作して、それを体感させる戦略を採用した。しかし、のちに通信システムを所有するのではなく、それへのアクセスを求めている民間を顧客にしたとき、装置自体を製造し、販売するというよりは無線のサービスを提供する性質に変化していく。英国には、すでに国内の通信網を郵政省の管理のもとで一元化する法律が存在したので、マルコーニ社が進出することは容易ではなかった。この法律の抜け道として、民間企業が社内で通信をやりとりすることは禁じていなかった点に着目し、マルコーニ社はロイド社を顧客に無線システムの販売に出た。したがってロイド社がマルコーニ製品のみを使ったのは、技術的な理由ではなく、英国の法律の制限に由来するものであった。マルコーニの独占体制は、1908年の国際無線会議の際に問題化するようになった。そして、マルコーニ社も1910年になって、漸く他社による特許権の侵害を訴え始めるようになる。同社にとって、海軍とロイド社が最初の重要な顧客になったが、第三の市場は、海を越えた長距離通信にあった。だが、この第三の市場は、それまでとは性格を異にする市場であった。というのも、大西洋横断通信は、すでに有線ケーブルによって構築されており、それは格段古い技術というわけでもなく、また多くの投資もなされている分野だったからである。経済の論理からすると、有線電信を無線に置き替えることが合理的であるかどうかは自明なことではなかった。大西洋横断通信の顧客のニーズは、金融や新聞の情報の素早い性格なやりとりができるところにあった。この点について、無線というまだなじみのない未知の要素が多い技術が、有線電信に優っているとは限らなかった。それゆえ、マルコーニがこの分野に進出したことは驚くべきことだ。さらに、マルコーニが大西洋横断通信に試みたとき、その技術はまだ利用可能なものではなかった。ヘルツ波は直進すると考えられていたので、地球が湾曲していることを考慮すれば、それは不可能だという意見もあった。ケネリーとヘヴィサイドが電離層の存在を予言したのは1902年であり、また、アップルトンが実際に電離層を実験的に観測したのは、1925年のことである。マルコーニの事業が科学知識の最先端を超えてたという事実は自明のことである。むしろ、科学の進歩率が、マルコーニの状況に依存していたということが強調されるべきである。それは単にデータが提供されるということだけではなく、もっと難しい技術的な困難を科学界に要求することになった。大西洋音大通信は、マルコーニや周辺の技術者たちに、既存の技術の能力をテストする機会と、新しい技術の基盤を提供したのである。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

 

 

平野啓一郎『透明な迷宮』を読みました。

 

 『透明な迷宮』は、2014年に刊行された短編集で、著者自身による創作時期の分類によると、第4期(後期分人主義)に含まれる作品だ。一つ一つの小品は完全に独立しているわけではなく、テーマや要素が緩やかに重なり合う6つの短編が収録されている。

 作風としては、不思議な国のアリスの世界というか、エッシャーの絵画のようというか、メビウスの輪のようというか、、、物語を筋を追っていくと、何が正しくて何が間違っているのかが分からず混乱してくるような不思議さを備えており、まさに「迷宮」の中を彷徨うような感覚におちいる。

 個人的には、6つの作品の中で、「family affair」と「Re: 依田氏からの依頼」の二作品が特に面白かった。両作品は、「姉妹」という要素が共通しているが、もう一つ、(タイトルの『透明な迷宮』という言葉とも関係してくるが、)「無意識的な強制」というテーマも併せ持っているように思われた。

 

 「family affair」は、享年86歳で亡くなった古賀惣吉の葬儀に参列した登志江(姉)とミツ子(妹)の、惣吉の遺品をめぐるやりとりを中心に描かれる。この二人は、姉妹であるにも関わらず、対照的な人物として描かれており、饒舌でしたたかな妹に対して、姉は普通にしていても笑っているかのように見え、「いつ本当に笑っているのかも、なかなか分からない」という穏健な人物のイメージが湧く。だがそのせいで本当の表情も分かりづらい。

 登志江は、父のなくなる7年前から自宅で寝たきりの彼を看病し続けいていた。周囲の親類は、父の死は悲しいに違いないが、登志江の献身さを労い、ホッとしてもいいだろうという「やさしい」考えを持つことで一致していたと書かれるが、もちろん登志江の本心は不明である。本当は、父の死を誰よりも悲しんでいたのかもしれないが、なにせいつも笑っているような表情をしているので、どんな考えを抱いているのか分からない。そんな具合に、本作品は、姉の自発的な行為でなされているかのように見えながらも、実は妹が強制的に誘導された結果であるように翻弄される姿が印象的な短編である。

 

 「Re: 依田氏からの依頼」も似たようなテーマを持っている。本作は、恋人の涼子を失った劇作家の依田氏の身に起こった特異なエピソードについて、涼子の姉の未知恵の依頼によって、彼女から提供された素材を元に、小説家である主人公がそれを小説に仕立て上げるという内容である。そして、ほとんどの部分は、この「小説の中の小説」のテクストが占めている。が、肝となるのは、このとき依田は時間感覚が混乱するという一種の病に冒されており、日常生活を送ることが困難な中にあって、小説の素材も、未知恵の口述筆記によって書かれている。依田の本心は、誰にも分からないのである。

 

 Twitterなどのメディアには、日々、たくさんの情報が洪水のように溢れており、何が正しくて何が誤りか、見極めることがとても難しくなってきている。自分が「信頼できる」と思っていた情報に基づく判断であっても、実は背後に巨大な力学が働いていて、その大きな力による強制になっていることもありうる。そして、それが難しい問題であればあるほど、外的な環境に左右されやすく、自分の本心がどこにあるのかということが見えづらくなっていく。知らない間に自分の価値観が変容され、ある方向へ誘導されているという感覚。それが、ただの迷宮ではなく、「透明な」迷宮ということなのだろう。

 実際、本当の意見を持つということが、とても難しくなってきているような気がする。もちろん、自分の意見というのはゼロから生まれるのではなく、他人の意見を含めた外的環境の影響を受けながら形成されていくものだ。だが、「こういう意見もあるし、ああいう意見もある。みんな違って、みんないい」というある種の相対主義に陥ると、これもまた迷宮の中をたださまよっているだけになってしまう。

 

 我々が生きている現代という時代の混沌さを、著者独特の方法で表現した、なかなか面白い本だった。まあ、あまり深く考えなくとも、迷宮の中を彷徨うような不思議な体験が得られて楽しい。

 

 

 

透明な迷宮 (新潮文庫)

透明な迷宮 (新潮文庫)

 

 

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (4)-2

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 4. 後半(pp.124-178)

 

  ようやく第四章を読み終えました。正直、かなり苦戦しています。特に電子工学に関わる内容はほとんど理解できていません。史料として多数の回路図に依拠しているので、理解するためには通信工学の知識がどうしても必要になってきます。(誘導結合とか高周波トランスってなんだろう?)

 技術的な細部についてはまだまだ理解の途上にありますが、ロッジについての伝記的内容はある程度理解できました。ロッジはやはり科学者であって、特許を申請することや企業の経営には乗る気でなかった姿など、マルコーニとは対照的です。ロッジ-ミュアヘッド社の経営がうまくいかなかった理由は、ロッジの同調回路という利点が十分に生かせる英国市場で展開できなかったことが大きいです。

  20世紀にもなれば、GEやデュポン社など企業内に研究所を持ち、科学・技術の成果を、すぐさま製品に反映させる体制が整備されることは珍しくないですが、19世紀末では、まだまだロッジのような純粋な科学者のメンタリティと、企業家のそれとの差異が際立っていたということがよくわかります。そうすると、やはり無線通信という実験室内での成果を、無線電信システムという形で世界的な事業化に成功したマルコーニという人物に関心が向きます。これは次の第五章の内容で、きっと面白いに違いないでしょう。

 

4-9

 1890年までに、彼の科学的な関心は、既に無線電信を直接改良する方から離れていた。マイケルソン・モーリーの実験(1887年)のロッジにとって「変則的な」実験結果を受けて、物質が移動したときその周りにあるエーテルがそれにともなって動くかどうかを確かめる実験装置の考案に時間をさくようになった。ロッジにとって1894年の実験は緊急を要するものではなかった。彼のコヒーラの特許を申請することさえも不快なことだった。1896年にマルコーニがイギリスに来るまでの間に、ロッジは新しい友人を得た。彼の名はAlexander Muirheadといった。彼は王立協会のフェローの一人で、1894年6月に催されたロッジの講演の聴衆の一人だった。また彼の兄弟は有線電信機器のメーカーを営んでおり、そのパートナーでもあった。Muirheadはロッジのシステムに内在する商業的な見込みを直ちに理解した。オックスフォードでの実験の際に用いられたミラーガルバノメーターなどの器具は彼に負うところが大きい。二人の出会いは、科学的才能と起業家との出会いというだけではなく、有線の成熟した技術(※ミラーガルバノメーターは有線電信の微弱な信号を検知する装置だった。)と無線という新しい技術との出会いでもあった。

 1901年に二人は”syndicate”の創作でより強固な関係を結ぶことになった。これは1894年時点では必要性を感じていなかったものであり、ミュアヘッドMuirheadがロッジに説得していなかったら特許の取得は実現していなかっただろう。ロッジの最初の特許の出願は1897年だが、これはマルコーニの英国到着(1896年)によって促進されたということは、ほとんど疑いのないことだ。(もちろん、マルコーニを強調しすぎることは誤解を生じさせる。1894年のロッジのオックスフォードでの実験で見せた送信機と受信機を用いた似たような装置を用いて無線電信の実験を行なった人物は他にもいるからだ。だが、マルコーニが他の人々と異なっていたのは、彼が長距離通信を実現した点が大きい。) 今日的な観点からすると、これらの装置の著しく欠けていたものは、チューニング(ロッジの言葉で言うとsyntony)と、波が減衰してしまうことであった。ロッジが直面していたトレードオフは、効果的な伝播を求めると鋭い同調を損なうという関係であった。これを避ける方法は、(1)火花式をやめ他の発振方法を考案すること、(2)新しい回路構成を模索するという二つがあった。そして、ロッジが採用したのは、後者の選択肢だった。

 

4-10

ロッジは、1897年に四つの特許を取得している。そのうち2つ(16,405と18,644)はコヒーラに関するものなので、ここでは触れない。その他の二つは「同調電信の改良」に関するものであり、法的にも技術的にも、長い視点に立ったとき非常に重要な特許である。もちろんアイデアそのものは特許の対象とはならないが、ここでロッジが描いているシステムの本質はやはり「同調」というアイデアである。1896年にマルコーニもヘルツ波を用いた伝送技術で特許を取得しているが、両者はコミュニケーション技術に含まれるべきアイデアについて、対象的な考えを抱いていた。

1897年のロッジの送受信装置を見ると、アンテナは大地にアースされていない。これは波の大地の伝わり方と空間の伝わり方とが理論的に異なると考えられていたからであり、何もない空間をエネルギーが伝播するということを信じることが困難な時代にあって当然のことだったとも言える。その意味で、ロッジがヘルツの実験結果を確かめるとき、有線を用いた姿と同じである。いまひとつの理由は、アースアンテナを用いることで同調しづらくなるという事情があった。アース設置型のアンテナは長距離通信には向いているが、同調特性はすぐれていなかった。ロッジの技術の主要な革新点は、(1)インダクタンス=同調コイルを挿入することでアンテナをチューニングできるようにしたこと、(2)複数(3つ)の異なったインダクタンスをスイッチすることで、チューニングを変えることができるようにした点、(3)高周波変成器(トランス)を用いた点だった。

 

4-11

 1897年のロッジの特許は、その後10年間にわたって、ロッジ自身によってもミュアヘッドによっても、他社(例えばマルコーニ社)による権利の侵害を防ぐ手続きが取られなかった。なぜロッジは自身の特許権を守ろうとしなかったのかを説明することは簡単ではないが、科学者として情報を開示しようとする役割と、特許権を代表しての独占的・排他的な役割との間でいくらか葛藤を抱えていたということは想像できる。が、これだけでは十分な説明とは言えない。

また、ロッジでないにせよ、ミュアヘッドが1897年時点で特許を申請することができたはずだ。しかし、実際には1901年になってようやく有限責任会社が創立し、産業界に姿を現した。だがこの時点で、マルコーニ社を味目として、ドイツのテレフンケン社、アメリカのユナイテッド・ワイアレス社(ドフォレストの特許に基づく製品を扱っていた)なども出現しており、ロッジ-ミュアヘッド社は未熟な会社で、唯一の特許といえば、ロッジの同調回路のみであった。

 ロッジミュアヘッド社は、機器の製造と販売を行う会社で、特に特定の需要者にオーダーメイドで製品を作る点が特徴的だった。需要者は、オペレーターに頼ることなく、自分自身でその特注(custom-built)の機器を操作する。それに対して、マルコーニ社はマルコーニ社に雇われた通信士によって操作されたという点に違いがあった。

 写真資料は、あまりinformativeではない。むしろ回路図が残っていればそちらのほうが便利である。1903年に開発された送信機の回路からは、1897年の特許に比べると二点が改善されていることがわかる。一つ目が高周波トランスを用いている点で、二つ目がアンテナにコイルが挿入され、接地される設計になっている点である。受信機の方を見ると、検波回路が挿入されていることがわかる。さらに特筆すべきことは、コヒーラが改良され、「車輪型コヒーラーwheel cohere」が採用されている点である。車輪型は従来のコヒーラーに比べて機械的に安定しており、タップして元に戻す必要もなく、また一定のインピーダンスを備えている点で優れていた。

 1909年に描かれた図からは、まずアンテナが大きく変化していることがわかる。二枚の水平面の中に4つの四角形ができるような形をしており、それが垂直にたてられた4本の柱に結び付けられている。これらは非接地アンテナだった。1897年のアンテナとの連続性はあきらかで、前者では2つの「コーン」であったところが、8つの「コーン」になっていると見做すことができる。また、キャパシティ・エリアを設けている点も同じである。受信機では、一点大きな変更点があり、それは多様な選択性が施されている点にある。受信機は、アンテナに対して変成(トランス)結合transformer coupled?している。受信機のコヒーラー回路も調整された周波数に同調することが可能だった。送信機のほうに際立った改良点がみられるかどうかはそれほど自明なことではない。送信の方は周波数を操作できるものではなく、この回路の共振周波数である50.60Hzを放射するものであった。ロッジは同調にこだわり、マルコーニは長距離通信にこだわった。ただし、マルコーニにせよロッジにせよ、火花式から純粋なサイン波を得ようという不可能な試みをしていた点では同じだった。

 

4-12

  1911年にロッジとミュアヘッド(Muirhead)の企業が倒産するまで、同社の製品は植民地政府を中心に、アフリカ、カリブ海シンガポール、香港方面へ浸透していた。しかし、同社は商業的には失敗したことは否定できない。失敗の理由は、(1)製品それ自体の問題、(2)市場の問題、(3)経営の問題の3つが指摘できる。第一の点についていえば、同社の製品が高品質であったということは疑いない。だが、製品の特徴は比較的小規模の操作を想定しており、受信周波数の選択ができるということがポイントだった。(一方、マルコーニ社は長距離通信を重要視していた。) つまり、混信を防げるといった点が肝であったが、ロッジ-ミュアヘッド社が展開した市場は、必ずしもその技術に適合していたわけでなかった。混信を防ぐことが最も重要だったのは、船や局で多数の通信が飛び交うイギリスを中心とした市場であったが、そこはマルコーニ社に支配下にあった。さらに皮肉なことに、ロッジ-ミュアヘッド会社は英国郵政省からのライセンス発行を申請したとき、既存のマルコーニ社の通信を干渉させるとの理由で断られた。要するに、もっとも技術的に適した英国市場で足場を築くことができず、植民政府においてかろうじて足がかりを得ていたというのが、二つ目の市場に関わる理由であった。第三の点については、無線通信の初期の段階では、技術そのものというよりは、その装置が使われる通信のネットワークシステムを構築することが必要になってくる。しかしこれに成功したのは、ロッジ-ミュアヘッド社ではなくマルコーニ社だった。加えて、ロッジのミュアヘッドにとっての会社経営はいわば副業だったと言う点も指摘できる。ロッジにとって会社経営とは講演や大学の仕事から気をそらすものであった。経営陣の会社への深い忠誠心の欠如というのも、マルコーニ社のそれと異なっていた点である。

 

4-13

 1901年にロッジ-ミュアヘッド社が設立されたとき、唯一保持していた特許はロッジの同調式の無線電信だった。10年後には新たな改良を求める者も少なかった。だが、マルコーニ社がロッジの特許権を侵害していることを否定したのみならず、英国陸軍省がロッジミュアヘッド社の製品を、マルコーニ社の同調技術の特許(1900年)を侵害しているといった理由で購入しなかった。ロッジは、この袋小路を、特許権を7年間延長する申し立てをすることで突破しようとした。(元来は1911年に失効することになっていた。) マルコーニ社はこれに応訴した。当時、英国においてマルコーニ社の地位は安定していたが、ドイツとアメリカではマルコーニ社の特許権の地位は揺さぶられ始めていた。ドイツでは、テレフンケン社がマルコーニ社ではなくロッジの特許を侵害しているとの見解を持っていたし、アメリカではマルコーニの同調技術への特許申請は、John Stone Stoneによって先を越されていたとの見地から拒否されていたからである。マルコーニ社のアイザックス(Godfrey Isaacs)は、財政や法律に詳しかったため、マルコーニ社の特許権の擁護の任務につかされた。アイザックスとロッジの調停は難しく、ウィリアム・プリースの仲介によって実現することになった。皮肉なことに、もともとプリースはロッジと対立する立場にあったが、のちに彼はマルコーニ社の経営を批判するようになっていた。調停は、ロッジの特許権をマルコーニ社が購入する代わりに、ロッジーミュアヘッド社は解散されるという形で成立した。こうして、1897年に生み出された同調回路の基礎は、1911年になってようやくマルコーニ社側にそれがロッジに帰属するものであることが理解され、米国の最高裁がロッジの特許を認めマルコーニ社の特許が失効したのは1943年のことだった。ロッジは、自然科学の真実はシンプルで調和的なのに、経営の人間はその発見の成果を引き出すのは誰かを巡って約半世紀もの時間を要した事実を不思議に思っていたかもしれない。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (4)-1

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 4. 前半(pp.80-124)

 

 前章のヘルツに続いて、第四章ではオリバー・ロッジの業績を中心に論じられます。全体が約80頁もあるので、備忘録も兼ねて、まず前半までの内容をまとめておきます。(3節で Altenative path 実験とrecoil kick実験が登場しますが、あまりよく理解できませんでした。)

 

4-1

 ロッジ(1857-1894)にとって、1888年のヘルツの実験の成功は、彼に個人的な無念さを引き起こしたことは想像に難くない。彼にとってヘルツは年下のライバル科学者であり、特に特別な設備を持っていたわけではなかったので、ヘルツによりマックスウェルの電磁波の生成と検知というロッジの最終目標に先手を打たれたのだった。1888年の秋、ロッジも似たような実験を行っていてその理論的含意は同じだったものの、彼の場合、実験器具はヘルツのそれより簡易的で、波を誘導する装置としては長いワイヤーを使っていた。

 しかし彼はヘルツに先を越されたことに立腹するどころか、イギリスにおける彼の業績の紹介に尽力した。具体的には、彼はヘルツの仕事の出版を支え、論文を翻訳し、彼の業績に敬意を払った。

 ヘルツは1894年に36歳の若さで亡くなっているのに対し、ロッジは1940年89歳まで生きている。その頃には既に長老の科学者として、若手の後援者と見なされていた。また、実証主義の時代にあって、彼の超能力への関心やエーテルの実在を信じる態度は、時代遅れとして嘲笑に付されることもあった。しかし、1888年時点では、彼はイギリスの若手科学者として将来を最も嘱望された人物の一人だった。ロッジは、ファラデー・マックスウェルの伝統において才能のある想像力豊かな実験家であった。

 1881年、ロッジはリバプール大学に新設された実験物理学の席に招かれたが、そこには以前精神異常者の保護施設(insane asylum)であった空き部屋を除いて、実験施設と呼べるものはなかった。当時の英国にはウィリアム・トムソンのグラスゴー大学の実験室以外にモデルになりうる実験室はなかった。彼は大陸に出発することにし、大学を回覧し、器具を購入することに決めた。その見学はとても有益だった。ロッジにとっての実験器具は、彫刻家にとってののみやかんなと同じく、アイデアを実在へと翻訳する手段であり、決して取るに足りない事項ではなかった。彼はケムニッツ(Chemnitz)で「売るためにではなく使うために」つくられた一級のライデン瓶を購入し、リバプールに持ち帰った。また、ベルリンでヘルムホルツの代わりに主人役を務めたヘルツともそこで出会っている。ケムニッツの人々とはその後もなんどもやり取りをすることになるが、ヘルツとは一回きりの出会いだったという。というのも、そのヘルツの業績が出版されるまでの間、2人の間での書簡のやり取りやアイデアを交換した形跡が残っていないからである。

 

4-2

   ロッジはその後、電力貯蔵会社のアドバイザーとしてエンジニアらと親しくなり、彼の研究も実用的な側面が強くなる。特に、当時、避雷針の普及が急速に進んでおり、確実に機能するものが求められていた。当時、1752年のフランクリンの実験も経ており、雷がライデン瓶の中の電気と同じものであるということは知られていた。つまり、雷とは放電現象であるということは知られていた。ロッジは、さらにそれが交流である(oscillatory)であることも知っており、雲の間で素早く電位が変化していると考えていた。しかし、なぜ、いつ、雷のような強力な放電が起き、そしてそれはなぜ最も抵抗値の低い通路を流れていかなないのかということを理解することが課題だった。そして、その答えは誘導性リアクアンス(コイルのインダクタンスによる交流の抵抗)という概念にあった。1853年にトムソンによって「エレクトロ-ダイナミック-キャパシティー」という言葉で唱えられてはいたが、科学者のあいだでもまだ広く理解されてはいなかった。従来の避雷針は、数多の雲の中にある量の電気が蓄えられており、雲から大地へと容易に電気が流れるように低い抵抗値のワイヤーと導線、そして「排水管」をあてがうような設計だった。ここでの問題は雷の電流が直流として理解されていたことである。しかし、実際に起きていることは「パルス」と呼ばれる突然の電流の加速(acceleration)であった。その場合にはオームの法則は単純には成り立たず、低い抵抗値ではなく、低いリアクタンスが求められるはずだった。加速電流(?)(accelerating currents)は一定の速度で斉一に振る舞う電流の流れとは異なった振る舞いを見せる。そして、回路において適切なリアクタンスを配置することで特定の周波数の振動を生み出すということが、「同調」という概念全体にとって重要になった。

 

4-3

 Altenative path 実験と、recoil kick実験

 

4-4

 1878年にロッジは英国学術協会の会合でダブリンを訪問し、そこでフィッツジェラルドと出会っている。彼はマックスウェルのモデルによると、電磁波の放射は不可能である(?)との見解を持っていた。彼はヘルムホルツと同様に名声のある科学者であったため、彼の放射が不可能だとする見解は、ロッジにも影響を与えたと考えられる。だが、その後Rayleighによって単一な周期の電流(a simply periodic current)は、光のように波の振動(wave disturbance)を生成するという議論を提示した。フィッツジェラルドの誤った解釈のせいで、ロッジはヘルツに遅れをとったと言えるかもしれない。だが、フィッツジェラルドが1882年に過去の議論を修正したとき、リバプールに新しい実験室ができて二年しか立っておらず、大掛かりな実験に取り組むことができたかどうかは疑わしい。その後は、いかにしてライデン瓶とワイヤーから生じる周波数の交流を生じさせるかが実験の課題になっていく。

4-5

  1887年に避雷針の実験に取り組んだ時、ロッジの頭の中には、実用的な関心と学術的な関心の両方が存在していた。避雷針の実験と、電磁波の検知という課題は、ここにきて初めて統一された。だが、ヘルツとロッジの実験は、第一にヘルツは伝播速度に関心があったのに対して、ロッジはマックスウェルのパラダイムを受け入れており、伝播速度は光の速度と同じであるという事実を前提としていたという違いがある。別の見方をすると、ヘルツにとって、ライデン瓶をダイポールアンテナにしたり、空中放射を試みたりすること自体に関心があったわけではなかった。そして、ヘルツにとって、商業的な利用は不快で気をそらすものだった。ロッジの場合に関しては、ヘルツの場合と違って、そこで純粋科学から技術や商業が生まれたという点が重要である。しかし、ロッジの二つの実験(Altenative path 実験と、recoil kick実験)が行われた1887-1888年は、通信に関して言えば有線の時代だった。そのため、彼の頭の中に電磁波を導線なしで伝達させるというアイデアは全くなかった。それゆえ、ヘルツの実験の衝撃は大きかった。

 

4-6

主要な困難は、効果的な受信装置を作ることにあった。ヘルツの実験に関してロッジが強調したことは、ダイポールアンテナではなく、ループ状の受信装置の方だった。しかし、ロッジは既にのちに商業的に利用される「コヒーラ」の原理をすでにこの時点で発見していたということは皮肉である。彼は、わずかな火花が通過したときはいつでもa couple of little knobsが凝集し(cohered)、連結する現象を確認していた。1889年の時点でロッジはまだこれを受信機に応用する考えはなかった。だが、類似した現象は様々な形で観察されていた。最もよく知られていたのは、筒の中にやすりくずや粉を詰めたものに小さい電圧をかけると高い抵抗値を示し絶縁性を帯びるが、大きな電圧をかけると抵抗値が下がり伝導体の性質を持つようになるというものだった。そしてそれに物理的な刺激を与えると、再びもとの絶縁体に戻る。科学界がこの奇妙な現象にもっと受容的であったならば、ロッジは実験開始当初からこの検知器を利用なものにしていたかもしれない。というのも、1878年にDaivid Hughesが同じ現象を確認して、これを電磁波の検知に利用しようとしていたが、彼は科学界が注目しないことに落胆し、私的に研究を続けただけで論文を出さなかった。ロッジが彼の研究を知るのは、それから20年度のことである。フランスでは1890年にBranlyがコヒーラの実験を行い論文を出していた。彼は今日よく知られている形(tube型)を考案した人物である。が、彼の論文からはコヒーラの振る舞いの原理については曖昧にしか書かれていたことが読み取れる。高い電圧がかかったときにやすりくずの間に電流が流れることは容易に想像できる。だが、なぜ電圧が下がった後も抵抗値が低くなり続ける=伝導性を維持するのかという理由は説明できなかった。彼は、もしかすると電流が流れることで絶縁中間体が変容し、振動を与えるとか温度が上がるといった何らかの動作によってこの新たな絶縁体の状態が変わったのだと示唆するに止まった。伝導性が変容するのは、火花のせいなのか、ヘルツの波=電磁波のせいなのか?コヒーラは、物理的な振動を与えて元に戻さなくてはならないこと、伝導し始める電圧が具体的にわからないこと、コヒーラの静電容量が不明であるといった点で問題があった。そして、on/offのモールス信号ならいざ知らず、音声信号を復調することは無論できなかった。1889年3月に始まった王立協会での「ライデン瓶の同調」実験では、最初の実験には用いられなかったがのちの洗練された実験ではコヒーラが用いられた。この実験では、共振という直流の思考の枠組みでは理解できない現象を示していた。ロッジは回路の設計においてジレンマに直面した。それは、よく電波を放射する回路はよく減衰し、正確にチューニングできないということだった。逆に選択度の高い同調回路は、効率的に電波を放射できなかった。これをいかに両立させるかが、ロッジにとっての難題だった。そしてのちには実用的な面からもこの問題が解決される必要性が生じた。だが、1892年、利用可能な無線通信システムの実現という問題を解く個々の要素は出揃っていた。すなわち、ヘルツの発振機、ダイポールアンテナ、コヒーラ、そして同調回路である。ここに欠けていたのはビジョンだった。

 

4-7

 そのビジョンを持っていたのは、William Crookesだった。彼は真空度の高い陰極線を発明した人物として知られる。(南アフリカを訪問していた最中、レントゲンによってX線が発見され、先を越されてしまった。)だが、彼には先見の明があり、無線通信を実現する構想を記事に書いていた。長い距離の通信を目指して火花放電とコヒーラを改良し、新たなシステムを構想していた人物は、イギリスのジャクソン、ロシアのポポフ、イタリアの若きマルコーニなど他にもいたが、Cookesの記事はタイムリーで触媒のようなものだった。その意味で、1892年は分水嶺となった年だった。以降、マクスウェル理論は、信号システムの装置、その発明と特許、商業的な技術の発展の案件となった。とはいえ、市場はどこにあるのか?これはCookesが答えることを要求されていなかった問いだった。彼が示さなければならなかったのは科学の不思議さであって、新技術の商業的な見込みではなかったからだ。

 

4-8

 ではなぜ1892年を境に直ちに無線通信が事業化しなかったのだろうか。ロッジは、その理由として、第一に無線電信の商業的な搾取は少なくとの英国の科学者にとって適切な仕事ではなかったということ、第二に商業的な見込みに盲目で、大電力で長距離の通信を試みようとしなかった愚かさがあったと書いている。無線電信の商業的な見込みは、マルコーニにとって自明なことであっても、その他の人にとっては自明のことではなかった。ロッジは産業に疎かったわけではなく、実用的な側面に関わり商業的な利用を導いた事業にも携わっていた。が、彼は実用的な無線電信を構築するために必要な情報はすでに雑誌などで公表されているものだと思っていた。ロッジは彼の同調回路で特許を取得することも可能だったかもしれない。しかし彼は支配的な地位を獲得することはなかった。

 1894年6月に王立科学研究所(royal institution)で行われた「ヘルツの仕事」と題された講義が、翌月ではロンドンで「女性の座談会」が行われ、小さな受信機が披露された。ロンドンの講演では、ヘッドフォンに代わって「ミラーガルバノメーター」が利用された。同じような装置は、1894年8月の英国協会(royal society)の会合でも利用された。これは送信機を実験室内において、裏庭を挟んで180フィート離れたオックスフォード博物館で受信するという実験だった。電信システムの要素であるエキサイター(励振機)、モールスキー、受信機がそこには含まれていた。それゆえ、ロッジは実用的な無線電信機をデモンストレーションした最初の人物であると言えるかもしれない。それが本当かどうかは、実際に信号の伝送が行われたかどうかに関わってくる。ジョン・フレミングは1894年のオックスフォードの実験では伝送が行われなかったと、間違いなく記している。王立協会の6月の実験では電信の実験は行われなかったという点では、フレミングの書いていることは正しい。しかし、王立協会での発表は初めての公での無線電信のデモンストレーションだった。もしこれが本当であれば、(それを成し遂げたのはマルコーニであるという)定説は覆される。1894年の実験はモールス信号の伝送のために装置が用いられ、ヘルツの波を電信に応用したものであり、ロッジは無線電信の発明者と見なされうる。しかし、彼は、実験室を超えた場所で商業的にそれが利用されうるということに気がつかなかった。ロッジ、ヘルツ、マックスウェルは科学的発見を成し遂げた。そして、ロッジは科学的な発見を利用可能な技術へと翻訳することも成し遂げた。しかし、利用可能な技術と、商業的に利用可能な発展との間には隔たりがある。1894年の実験からは、それを橋渡しする志向は見て取れない。ここで欠けていた要素は、ニーズの知覚と抽象的な可能性を具体的な現実へと変換する駆動力だった。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

 

平野啓一郎『かたちだけの愛』を読みました。

 これまで、『ある男』、『マチネの終わりに』、『空白を満たしなさい』と著者の長編小説を時代を遡っていくように読んできた。そして、今回読んだ『かたちだけの愛』という小説は、僕にとって、4作品中一番読み応えがあり、もっとも好きな作品になった。

多少恋愛沙汰がごちゃごちゃしている感はあるものの、人を愛すること、プロダクトデザイナーが取り組む「義足」とそれに関わるある種の<身体論>、片足を失った女優と彼女の「分人」(この言葉は、小説内で登場するわけではない)などといったテーマ自体が興味深かったということもある。が、なんといってもストーリーがドラマティックで、まるで映画を見ているような映像的な描写も合わさって、圧倒的な読後感に思わずため息が漏れてしまった。

鷲田清一氏による解説も、この小説の一つのキーワードである「幻痛」のもつ意味の広がりに気づかせてくれ、この作品にますます魅了された。また、この作品を読解するときの一つの鍵となる概念は、(谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の引用が何度か登場することからもわかるように、)おそらく「陰翳」だろう。まあ、だがそれについては、鷲田氏の秀逸な解説で十分であり、僕が気づいた関連箇所をいくつか引用することもできるが、ここで改めて書く必要はないと思うので、個人的な感想を少しだけ記しておきたい。

 

やはり、一番考えさせられたのは、恋と愛の違いだった。

恋というのは、一瞬のうちに燃え上がる花火のようなもの。

それに対して愛は、それよりもずっと長く、場合によっては死ぬまで継続するもの。

愛というのは恋よりもずっと成熟していて、それゆえ、恋とは全く別の作用をもった営みだ。

 人に優しくするということは、愛の一つの表現かもしれない。しかし、「優しさ」とは?

 

 本書で考えさせられたのは、「相手が夢中で自分自身に没頭できるように寄り添うこと」、これが一つの成熟した優しさのかたちであるということだった。別の言い方をすれば、「自分といるときの相手が、相手自身を好きになれるように寄り添うこと」、ということになるだろうか。

 翻って自分の立場になって考えると、好きな人といるときに、夢中になって自分の願望や欲求を追求できるだろうか。これは一見すると、自分勝手な振る舞いのように思えるが、持続的な愛にとっては、このことは重要なことだと思う。

 自分が翳になって相手に光を与える(あるいは相手が光るが故に、自分が翳になる)とき。そして逆に、相手が翳になって自分に光を当ててくれる(あるいは自分が光るが故に、相手が翳になる)とき。

こうした複雑な陰翳の交代こそが愛なのであって、そこには本質的な”かたち”などないのではないか。その意味では、このタイトルは一つの逆説を表しているようにも思える。

 

 

 

かたちだけの愛 (中公文庫)

かたちだけの愛 (中公文庫)