yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 2.

Chapter 2 The Young Signor Marconi (pp.25–34)

 

第二章では、マルコーニの生い立ちと、英国にわたった直後の様子が描かれる。中でもウィリアム・プリースは、マルコーニに無線の実用化のチャンスを与えたと同時に、英国郵政省の地位が彼の新技術によって脅かされないように保護していたという2つの役割を演じていたとされ、この指摘が特に重要であると感じた。

 

  • 本書はマルコーニの伝記ではないが、マルコーニ社の歴史と彼個人の人生は不可分であるから、マルコーニの生い立ちについて簡単に振り返る。
  • マルコーニは1874年4月25日にイタリアのボローニャで生まれた。母(Annie Jameson)は、アイルランドで有名なウイスキーを営む家系だった。5歳のとき、英国のBedfordで初等教育を受けるが、すぐにイタリアに帰国し、リーギ(Righi)の下で電磁気について学んだ。
  • 彼はイタリアのアルプスで休暇中にヘルツの実験に関する科学論文を読んだことを契機に、屋根裏の「実験室」で無線の実験を行うようになる。当時の設備は、インダクションコイル、ブランリーのコヒーラー、ヘルツの放射器であり、これらは他の研究者によっても用いられていたものだった。そして装置の細部に改善を加えることで、同時代の研究者によって得られた通信距離をわずかに上回るだけの成果を得た。
  • 実用的な通信距離の限界が100ヤードくらいかと思われたとき、マルコーニは垂直アンテナを利用することを考案し、さらに、シリンダーの直径や場所を変えることでさらに良好な成績を得ることを見出した。
  • 彼はまた独自の装置(radio frequency choke, shunt resistors, relay contacts)を加えることも試みていた。
  • 彼は商業的な利用への最初の努力は、イタリア政府に演示をしたことだった。しかし、イタリア政府はあまり関心を示さず、彼は辛い一撃(bitter blow)をくらった。
  • 家族で話し合った結果、マルコーニ(21歳)は母親とともに英国へ行くことに決めた。イギリスには彼の従兄弟であるデイビス(Jameson Davis)がいた。それだけではなく、英国は世界で最も巨大な商船と最も強い海軍を持つ、世界の帝国であり商業国家であり、マルコーニは大きなチャンスを得ることになる。
  • 1890sの船舶は一度島を見失うと、完全な孤立状態に陥ってしまったため、陸上–船舶間での通信が切望されていた。
  • 1896年6月に、マルコーニは世界初の無線電信の特許(英国特許:第12039号)を申請し、(かなり遅れて)1897年の3月に取得している。
  • この頃までに、彼はSwintonとの契約を勝ち取り、Swintonの紹介で郵政省技師長であるウィリアム・プリースの知己も得ていた。さらに軍需省(War Office)とも接触していた。プリースも軍需省も関心をよせ、1896年6月に最初の公式な実験が行われた。
  • さらに同年9月には、Salisburyにおいて陸海軍の前で演示実験を行った。このときの海軍の見学者はジャクソン(Henry Jackson)であり、彼はその前年に2隻の海軍船の間での通信を成功させた人物でもあった。マルコーニとジャクソンは、互いにノートを比較しあい、同じ路線に沿って仕事を進めていたことを確認した。また、Salisburyでの演示は、陸軍のカー(Carr)の注目も集めていた。
  • 同年9月に、プリースは郵政省にマルコーニの実験についての説明を行い、1896年12月に公での演示と講義を行うことになった。このとき出版業界にも着目され、彼は無線の発明家として広く宣伝された。
  • その一方、ヘルツ波やそれに関する装置の研究を行なっていた科学者はマルコーニのことを好ましく思わなかった。その中にはロッジも含まれ、彼はマルコーニの「秘密の箱」や郵政省技師長を批判していた。
  • プリースは、郵政省で限定的に使用されていた誘導方式という技術的貢献をブラックボックス化する(close the lib of the coffin)(?)という意味で、マルコーニに対して少なくない貢献をしていた。その一方、プリースは完全に無私的に擁護していたわけでもない。1896年に(郵政省が)旧国立電話会社を併合したので、彼は、英国における電信電話を独占していた技師に他ならなかった。そしてマルコーニの無線事業が成功すれば、英国郵政省に棘を刺すような存在(thorn)になるかもしれなかったが、プリースはその可能性を排除していたのである
  • プリースは、事前警告=事前武装(to be forewarned is to be forearmed)という古い原則に基づき、新しい通信システムがそのあゆみを示す機会を与えると同時に、新しい技術的発展を最新の注意を払っていた。
  • GPOからマルコーニへの貢献の中でも、ケンプ(G.S. Kemp)の存在は重要である。本海軍技術者であった彼は、マルコーニの右腕となっていく。
  • 1897年1月に、彼の改善された設備の試験が郵政省を代表して行われ、同年3月には反射器が撤去されるといった変更点も見られた。
  • しかしマルコーニは次第に、自分があまり歓迎されないゲストのホスト役を務めていることに気づいていく。中でもドイツのスラビー(A. Slaby )は無線電信の実験家として知られる人物であり、彼にとって大きなライバルであることがわかった。
  • 1897年の演示の後、スラビーはマルコーニとの間で商業的な合意形成をすることを提案したが、条件が合わず提案は無に帰することになる。マルコーニの装置がスラビーに対して不可解な問題の答えを示すだけではなく、マルコーニ自身のアイデアを誘発してきたので、この結果は不幸なことだった。
  • スラビーの事例は、競合相手の無線システムがいかに(合法的に)素早く現れてしまうか、ということを示していた。時間はマルコーニの側にはなく、彼が先頭を維持しようとするならば、健全な事業基盤の上に、遅延なく新しい通信システムを構築するべきだった。
  • この時期(1895年以後)、マルコーニは絶えず演示を続けばければならないと同時に、機器の改善も行わなければならず、心配なときだった。さらに、収入で支出を相殺しなければならないといった財政関連の問題もあった。
  • また出版業界はマルコーニを報道することで、科学界の中から敵が生み出された。彼らの敵意は、「若い侵入者」へと向いた。さらに、英国の納税者の負担でマルコーニの演示に資金が投じられ、英国科学者らに不利益を与えているという噂も絶えなかった。(実際には軍需省はポケットマネーから支出していたし、郵政省も設備を貸与していたが現金は出資していなかった。)
  • こうした圧力の中でも、彼は彼の特許を購入したいという財政家からのオファーという誘惑にも抜け目なく抵抗し、Jameson Davisを信託した。(会社登録の際には、彼自身はイタリアの海軍に演示を行うべくイタリアにいるなど、従兄弟への信頼は厚かった。)