yokoken001’s diary

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Takashi Nishiyama, 2014, Chapter 1 .

第一章では、まず日本の高等工業教育史が外観される。著者はその発展を4つの戦争(日清、日露、WW1、アジア・太平洋戦争)と関連づけながら振り返る。なぜなら、戦争は中央ないし地方の政府に、工学教育機関を新設・拡大するための理由や財源確保を正当化したからである。戦争こそが、エンジニア教育の財政的・政治的障壁を低減する契機だった。まず、日清戦争の時期に該当する第一期は、京都帝大の新設が重要である。日露戦争に該当する第二期では、九州帝大の新設が重要である。さらに、WW1の時期と重なる第三期では、既存の帝大における工業教育の拡大が見て取れる。そして、その後1920年代半ばにおいて、日本のエンジニア教育拡大は完了したというのが筆者の主張である。いわゆる戦間期においては、工学教育を急いで拡大しなければならない理由が少なかった。1937年以降、日中戦争が始まってからも、工学教育の拡大は延々に進まなかった。そして太平洋戦争期になってからようやく政策を打つも、すでに時は遅く、(航空技術者が心身ともに疲弊していたことに見られるように)明らかに戦争に準備できてい現状が露呈した。

 

Chapter 1 Designing Engineering Education for War, 1868-1942 (pp.7-24)

  • 近代的エンジニアの研究(とくに航空力学)の発展は、以下の4つの段階を示していた。

(1)1895-1897、(2)1905-1911、(3)1918-1924、(4)1938-1942

:それぞれ、日清、日露、WW1、アジア太平洋戦争の時期に対応。

→戦争は、中央(地方)政府に、教育機関を作るための理由・財源を確保させる触媒として機能した。

エンジニア教育を拡大させたのは戦争だけが主たる理由ではないが、4つの戦争がエンジニア教育の財政的・政治的制約を減らし、戦争のための近代国家を強化しようとさせた。

 

  • Building the Infrastructure for Engineering Education, 1868-1890s
  • 明治新政府は、国税から得た資金を各地のプロジェクトに投入したが、その一つが高等教育の拡充、とくに帝国大学の設置だった。政府による直接的な方向づけがなかったら、日本の教育インフラの整備はもっと遅く、粗いものになっていただろう。
  • 日本の初期の産業成長において、唯一かつ最も重要な政府の部門は、工部省(Ministry of Public Works)だった。1870年に設置された同省は、広範囲にわたる工学計画を管轄した。外国から輸入された知識や経験が、全く新しい領域や、日本の職人によって支配されていた領域へ現地化させ、浸透させられた。この目的のために、明治政府は3000人の御雇外国人を招聘した。それは、とりわけ交通や通信といった分野で遅れていた産業国家にとって必要だった。彼らには、日本人教師の3-10倍という高い給料が与えられていた。
  • 日本政府の計画は、外国人教師のみならず、時刻のエンジニアや教育の設立をも必要としていた。工部省は1871年に、外国の工科大学を模範として、工部大学校を設置した。そこでは26歳のダイアーらが招聘され、英語の授業が行われた(食事も洋食だった)。生徒は6つの分野から専門を選択し、当時必要とされた理論的理解を身につけ、6年間学んだ後は工部省で7年間働いた。
  • 1877年に東京大学が設置されたことで、中央政府と工業教育との間の繋がりはさらに強化された。東大の最初の目的は、既にある異なった工学の伝統を統合することだった。つまり、徳川制度における理論志向のプログラムと、工部省主導で進められた実践重視の教育とを統合し、1866年に帝国大学工科大学が文部省の管轄下に設置された。当初から日本においては工学が大学の主たる部分を構成していたが、これは、工学は大学の目的である人格の陶冶と相容れないとして(大学から)排除されていたドイツなどと対照的だった。その後、1866年に帝国大学令が出され、工科大学が日本の帝国大学システムに組み込まれた。帝国大学令は、文部省が大学の学問の自治に干渉する経路を準備した。
  • 東大工学部の社会的権威は高いこともあり、工学プログラムは浸透していった。工学部は、政府や技術的に進歩していた西欧諸国との繋がりを持っていたので、尊敬されていた。こうして大学内での工学の地位は、西欧よりも日本においての方が高かった。さらに、OBのネットワークが政府と産業界との繋がりを強化した。例えば電気工学科の卒業生は、電灯企業、逓信省に就職した。東大工学部は、エンジニア教育の頂点を形成した。
  • 大学と産業界、政府との繋がりは、研究・教育にとっての重要な財政源を与えていた。OBの中には文部省からの資金を工学部に繋げる役目を果たしていた者もいた。また別のOBは民間企業において重要な地位にいた。彼らの寄付によって、工学部は各学部の中でも最も潤沢な学部だった(31%)。
  • さらに、OBは軍との多くの制度的繋がりも強化した。

(Ex 造船工学科は、海軍や船舶企業にとっての有能な技術者集団を輩出した。104人の卒業生(1883-1903)のうち、就職先で最も多かったのは海軍(34人)だった。)

加えて、陸海軍の要望に応じて、1887年には造兵学科、火薬学科(arms technology and explosives)が設置された。これは造兵廠における技術者を確保するためであった。

←このように、工学部出身の卒業生は、人的繋がりの主たる部分を形成し、政府主導の産業化によって社会を変えるための手段となった

 

  • Expanding the Infrastructure for Engineering Education, 1890s-1930s
  • 1890s-1920sにかけて生じた3つの戦争(日清、日露、WW1):
  • 国家のためのエンジニア教育の重要性を正当化し、
  • 国家と教育の関係を強化した。

後続する帝国大学の設置に際しては、東大工学部がモデルとされた。戦争は、支出に関する政治的・法的・財政的制約を減らし、国が大きくエンジニア教育を拡大することを可能にした

  • その最初の段階が日清戦争の時期に該当し、それは京都帝大の設置に例示される。日清戦争の賠償金と戦後の好景気は、新しい資本をもたらした。好ましい機会と技術者ニーズの拡大を見て、京都帝大の設置計画が進行した。1895年には委員会が、(1)大学を京都に設置する、(2)東大の2/3のサイズ、(3)四学部制であるという計画を策定した。フランスのモデルに倣って、日本は講座制を導入した。それは教授が一つの学問ユニットを主導するモデルだった。そして1897年に京都帝大が設置された(7学部21講座で、東大の半分だった)。
  • 同時に、技術知識の制度化が大阪と東京で可能になっていた。それは、従来の徒弟制にとってかわるものだった。大阪高等工業学校(Osaka technical school)(1896)、東京高等工業学校(1881)は、地元の趣向、伝統、軽工業の需要を反映した正式なプログラムを示した。
  • 第二段階は日露戦争の時期に該当し、三番目の帝大である九大の設置に例示される。日清戦争の賠償金は八幡製鉄所建設の基礎となり、1901年から操業を開始した。これは、日露戦争勃発までずっと鉄鋼を海外に依存していた体制からの脱却を目指すものだった。戦争は九州の重要性を高めた。そしてまた、戦争は造船、製鉄、電気などの重工業化を刺激した。
  • 1911年に古川の財政的支援を得て、九州帝大工学部が設置された。それは東大をモデルとしていた。またそのとき戦後の経済ブームが、エンジニア教育の国家的に拡大させた(名古屋、熊本、仙台、米沢)。
  • 第三期はWW1の時期に重なる。WW1は、前線での武器(航空機、潜水艦、毒ガス)のみならず、銃後の生産力が勝敗を分ける総力戦であり、国家は大量生産のために計画、組織化、動員を行った。この新しい戦争=消耗戦では、産業力が重要だった。特に鉄鋼生産の需要が増加し、日本においてさえ、学士のエンジニアの需要が増えた。
  • WW1は、既存の3つの帝大のエンジニア教育を強化した。1919-23年にかけて東大工学部の講座は54に増加した。さらに、1921年には単位時間制(credit-hour system)が採用され、エンジニア教育がより柔軟になった。京都帝大も理学部と工学部をわけ、講座が二倍に増加した。九州帝大には造船学科が設置された。
  • しかし、工業教育の拡大は1920s半ばまでしか続かなかった。歴史的には、国家レヴェルの工業教育にはコストがかかり、対外戦争、動員、経済ブームなどの政治的経済的に理のかなった正当化が求められる。1926-36年の間には、こうした要素がなかった。東大工学部も1924年から33年まで講座が増えず、1934-38年にかけて3つの講座が増えただけだった。これは東京だけではなく、1925-37年にかけて、全ての帝大において工学部が新設されなかった。
  • これは日本が工学を推進しようとする強い動機がなかったことを意味しない。1929年に東京で開催された世界工業会議(The World Engineering Congress)では世界中から1200人が集まり、日本の海外での産業の名声を高める機会を得た。
  • また1920s半ばからのエンジニア教育拡大の停滞には、世界恐慌の影響もある程度はあった。しかし、東大工学部は、この不況の最中でも快活だった。1920-34年にかけて卒業生の需要は高く、就職率は約90%を維持していた。33-37年にかけて、68%が民間企業に、24%が軍を含んだ官セクターに就職した。
  • 現在から見れば、工学の教育インフラの大部分は世界恐慌前の1920s半ばに完了した。明治政府は工学に医学に比肩し、科学を凌駕するほどの地位を与えた。医学部と工学部が全ての帝大に設置されたが、これは工学が医学や科学よりも下に見られていた(less esteem)西欧諸国では見られない現象だった。1870sから多くの日本人の政治的リーダーは、法学者以上に応用科学者を輩出することに関心を持っていたように思われる。当初(1896)から工学部の講座が最も多く、その傾向は1920sまで継続した。

日清、日露、WW1という連続する戦争の経験を通じて、工業教育が広まり、民主化し、制度化された

 

  • Mobilizing Engineers for War, 1937-1942
  • 1937年7月からの日清戦争は、社会における技術者輩出の需要を急増させ、技術者教育の相対的停滞に終止符を打った。労働市場は科学と技術の専門知識のある人材を歓迎した。1939年春には、企業や工場は理工分野の12000人に対し90000人の募集をかけていた。(つまり、一つの卒業生に対し5の仕事が待ち受けていたことになる。)
  • 第一次近衛内閣:国防のためのエンジニア動員の構造を準備。

→陸軍の意向で木戸幸一が厚生省を主導することに。

→「学校卒業者使用制限令」(1938):法的に、民間企業はどの工場に何人求人するのかを事前に文部省に提示し、厚生省が人数調整を行う。

―文部省、厚生省による、戦争のためのエンジニア動員の構造的基礎となる。

  • 一方、主要な航空企業はこうしたクオータ制の恩恵を受けなかった。

∵名声があるにもかかわらず、決まった人数のエンジニアしか雇用できない。

学生にしても、志望とは異なった会社に就職しなければならなかった。

→人材不足を解消する効果的な方法ではなかった。非軍事志向の産業は、大卒を採用できなくなった。

  • こうした人材の不足は、その制度的なインフラにも原因があった。そもそも1937年まで、航空学科を伴っていたのは東大工学部だけだった。
  • 航空学者の人数不足を当時のメディアも報じていた。

←「遅すぎる」という報道は正しかった。

1939年になってようやく東工大が航空技術者不足を解消するプログラムを開始した。同様に、九大(37)、阪大(38)、東北大(39)、名大(40)、京大(42)も航空学分野のプログラムを開始した。

  • 航空分野の急速な拡大は、4番目の波の前兆だった。1938年に文部大臣に就任した荒木貞夫の要求に、高等教育機関は応答した。彼は全ての帝国大学の教授と学長を指名する権利を得ようとした。彼は任期中に、科学・技術の教育、研究、開発を促進することに成功した。それは1938年8月に設置された科学振興調査会での議論に示されている。そこではいかにして研究開発施設を拡大するか、科学や工学の教育をいかに強化するか、科学・工学のプログラムを卒業した人数をいかにして増やすかなどが議論された。そして1939年には科学研究費交付金を創設し、科学と戦争への国家的コミットメントを示した。
  • その間、東大は戦争のための将来的なエンジニアを生産する巨大な中心地になっていた。荒木の元で入学者の数が330人から460人に増加した。さらに、1942年4月には第二工学部が新設された。その他の帝国大学でもエンジニア教育が急速に拡大していった。
  • 現在から見ると、エンジニア教育の急速な拡大は(特に1939年以降は、)アドホックで、急いでおり、戦争への対応としては遅れたものだった。日本は1938年までエンジニア教育の拡大に失敗した。39-42年までの制度的拡大は、タイムラグに固有の問題から目を背けた。というのも、1939年4月に入学した一年生は3年後の1942年に卒業する。第二工学部の場合は、1942年に新設されたのだから、一期生さえ卒業するのは1944年9月である。さらに、大学を卒業して有能な経験のある技術者になるまでに少なくとも数年かかることを考えれば、この対応は遅いものだった。このようなエンジニア教育の失敗は、3年以上続く海外との戦争の経験がなかったことに由来していた。
  • 問題の悲惨な帰結は、戦時産業における経験あるエンジニア、技術者不足だった。それは、1941年12月真珠湾以前に目に見えた。最もこの点を明らかにする例は、有能で年配のエンジニアが責任を負っていた航空機の開発だった。堀越二郎率いる海軍機開発の30人ほどのチームは、当初楽観と若き強さで満ちていた。1938年時点で平均年齢は24歳だった。しかし、若さの活力は、消えることのない仕事の重荷の前では無防備だった。堀越の右腕であった曽根義敏は、過労で一ヶ月の休養が必要であると診断された。他にも体調不良で死に至った技術者もいた。中島飛行機、三菱飛行機のチームは、連合国との戦争に十分準備できていなかった。

 

  • エンジニア教育のための近代的なインフラは1924年にほぼ完成していた。1920年代までに、戦争は(これまで指摘されてきたような)「産業と軍との関係」以上に、「エンジニア教育と社会」との関係をより大きく変化させたと思われる。1919-37年までの拡大の低迷は、高等教育を受けたエンジニアの生産を困った立場に追い込んだ。そして、この不足は、航空産業をはじめとする軍需産業において顕著であり、問題は日中戦争開始時点ですでに目に見えていた。1938年以降の動員政策やエンジニアプログラムの急速な拡大も、日本がアメリカに宣戦布告をする1941年12月までほとんど問題にならなかった。1930sにおける有能な技術者の供給不足は、1940sに意図せざる帰結をもたらした。優秀な少数の技術者は海軍に不均衡に流れていった。そしてこの遺産は、戦後へと引き継がれた。

 

 

 

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