yokoken001’s diary

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Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (5)-2

: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 5.後半(pp.244-297)

 

5章後半の内容のまとめ。備忘録です。

マルコーニが、火花式(disc-discharger)によって、連続波に近い波の発振を実現していたということは驚きでした。

 

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 市場の拡大は、(1)長距離通信をいかに実現するか、(2)選択度をいかに向上させるかという二つの技術的な課題を突破する革新を求めた。この説では、(2)の問題を扱う。1900年ごろまでに送受信機の数が増えるにつれて、この問題は看過できなくなっていた。特に送信局間の混信の問題が深刻だった。コロンビア大学のマイケル・ピューピンは、1901年に、マルコーニの大西洋横断通信の偉業を認める一方、所与の時間において、英国から米国へ一つ以上の局から送信することはできない点を心に留めておくべきだと主張している。(現代の我々にとって、羅針盤や六分儀なしで自分自身の位置をしることに全く想像が及ばないのと同様にして、同調事前の時代に思いをはせることは難しい。)

 新しい無線機と公衆との最も初期の効果的な接続は、ヨットレースだった。1901年のヨットレースでは、マルコーニ社以外にも、米国ワイアレステレグラフィー、AT &Tの機器も混ざっており、それらとの混信により大失敗に終わってしまった。米国海軍省の船の実践でも、ある局が送信している間に二船の船の間で送信できないこと、片方の船が送信し始めているときに、もう一方の船は受信できないといった問題が指摘された。 マルコーニ同調へのアプローチは間接的だった。というのも、彼の意識は干渉に向いていたからである。彼はまた、送信周波数が広すぎるために、エネルギーを浪費いていることも気にしていた。こうした直接の関心が、彼を(間接的に)同調技術へと導いていったのだ。

 まず同調回路の設計において取り組んだ問題は、受信機の感度の悪さからだった。

従来のマルコーニの装置では、コヒーラが地面とアンテナの間に挿入されていたが、これは不適切な位置だった。コヒーラーをアンテナから遠ざける(スレイビーは、1/4波長遠ざける方法により、電圧を最大化することを考案し、1900年にSlaby-Arco特許を取得している)ことで、受信感度の問題を解決した。マルコーニ自身が採用したタイプは、スレイビーのそれを原理は同じだが異なるもので、アンテナの電流振動をコヒーラが検知可能な電圧へと変換可能な「高周波トランス」を具備するもの(jigger transformer)であった。ここまでは問題なかったが、今度は、コイルの巻数とその比率が問題になった。知的なブレークスルーは、彼が、アンテナとコヒーラはインダクタンスとキャパシタンスから成る共振回路であり、それゆえ特定の周波数で共振し、そのときにエネルギーが効率よく伝わるということを理解したときに起きた。これらの成果は、最終的に1900年に4つの特許に結実するが、この中に有名な「四つの7=7777番」特許が含まれている。

 マルコーニ自身は、”syntony”という言葉をほとんど使っていない。彼はロッジの1897年特許との違いを強調するために、この語を使わなかったのだろう。彼はその代わりに”tuning”という言葉を利用していたため、1900年以降この言葉は次第に消えていった。もう一つの違いは、ロッジの方は2つの回路から構成されていたが、マルコーニの回路は4つから構成されていたという点だ。だが、ロッジは同調を得る方法を最初に記述した点で、彼に特許権にあるようにみなされ、1911年にマルコーニ社によってロッジの特許は買収されるに至った。

 ただ、ロッジ以外にも、マルコーニ以前に同調に注目していた人物はいた。例えば、テスラは1897年時点で同調のコンセプトをもった装置を開発していたし、John Stone Stoneは、不必要な振動を取り除くフィルターとしての共振回路により、1900年に特許を取得している(発行は1902年)。だが、ストーンもテスラも商業的関心は薄かったし、ロッジも1911年まではマルコーニを訴えなかった。マルコーニがロッジの装置を改良したということよりも、むしろなぜロッジ自身が自分でそれを改良しようとしなかったのかを説明する方が難しい。

 

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 二つ目の目的は、長距離通信の達成ということである。1900年ごろの装置は、100マイルくらいの通信にやっと十分なものだった。マルコーニは、彼の技術をより大きな電流と大きな電圧を有するものへと転換する必要があった。そこで、1900年12月にロンドンのフレミングがアドヴァイザーにつき、高周波発電装置について助言をした。また同時期にR.N.vyvyanもマルコーニ社に加わった。フレミングによって使用された技術は、(1)内燃機関を用いた交流機(発電機)、(2)電流変圧器、(3)同調された火花放電回路だった。1901年に行われたフィラデルフィアの実験は、しかし、期待以下の成果しか得られなかった。大きな電力を得て火花回路へ送ることは比較的容易だったが、それをアンテナに送り長距離通信を達成させることが、前例のない試みだった。そこで課題となったのが、アンテナ設計だった。

 マルコーニが用いていたアンテナは風や氷に弱かったこと以上に、指向性がなく、固有周波数が不明だったことが問題だった。1905年になって初めて、L字型の指向性アンテナが発明された。マルコーニは短波で指向性アンテナを用いることは理解したが、長波で用いいることを学ぶ必要があった。

 マルコーニは、なぜ長距離通信には長波の方が有利だと考えていたのか。低いほとほど霧の中をよく伝わるという音の性質になぞらえて理解する者もいたが、彼自身は地球の伝導性に基づいて説明している。しかし、その説明は、夜の方がよく伝わるということを説明できなかった。電離層が観測されるのはもっと後年になってからである。ともかく、この時無線通信に関して重要な点は、長波のほうが長距離通信にとって有利であると理解されていたということだ。1920年代に入って、アマチュア無線家たちが短波での長距離通信に成功したのは、彼らが優れた機器を用いていたからではなく、電離層という新しい資源を利用していたからである。だとすれば、マルコーニは長波=長距離だとみなす「エラー」を回避することができただろうか。もちろん、ここで問うているのは、当時アクセス可能だった知識の中で、彼の戦略は良いものであったかどうかということである。しかし、長波の実用的な利用にとって「地表波」の知識が必要でなかったのだから、短波の実用的な利用にとって電離層や電波伝搬の知識は必ずしも必要ではなかったはずだ。1900年から1914年の間、ここでは科学的知識が技術に先行するという関係ではなく、技術が科学的な知識に先行するという関係になる段階に入っていた。その意味では、彼は「間違って」いたわけではなく、もっとお金や時間や労力をかけずに目的を達成できたはずという意味で、他の選択肢にも開かれていたと言うべきである。それでも彼が長波にこだわり続けた理由は、彼の両親と同様に、頑強な性格の持ち主であったことも関係しているかもしれない。

 

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 大電力-長波火花送信機の頂点は、1907年に開局したClifden(アイルランド)局だった。ここでは、タービンを用いて直流電流を生成し、それを一つは直接火花回路へ、他方はバッテリーへと導くことで、長時間の送信と二種類(11000-12000,15000V)の電圧で起動することを可能にした。アンテナは指向性のもの(L字型、vent設計)を利用していた。だが、技術的に最も重要な点は、円型の放電機(disc-discharger)を導入したことである。これはアーク放電(電極に電位差が生じることで、電極間の期待に持続的に発生する放電)によるスパークギャップの侵食を防ぐ目的で利用された。例えばリーギはもともと、アーク放電を防ぐために油を塗っていたが、高電圧になればなるほどそれでは不十分になっていた。また、送風や、(テスラが考案した)磁石を挿入して磁場とアークを相殺する方法、スパークボール(?)を導入する方法なども考案されていたが、回転式の円盤を放電に用いたのはマルコーニが初めてだった。だが、これは期せずして、アーク放電によるスパークギャップの侵食を防止すること以上の意味を持つことになった。というのも、これを活用することで、各パルスはとてもゆっくりと対数的に減衰し、それらのパルスは高速で互いに追随するため、連続波に近い送信波を生成できたのだった。残念ながら音声変調として用いられることはなかったが、連続波の生成は、のちの時代にとっても最も重要なブレークスルーの一つになる。そして、円型放電機は、一貫した発振と効率的な放射のトレードオフを解決する技術でもあった。

 Clifdenの通信で、技術的な危機に直面することはほとんどなかった。Fessendenら一部の人間は、ここでの連続波の精度は音声を送るには不十分であること、周波数の混信の問題を意識していた。混信の問題は、受信機の選択制、送信機のより狭いバンド、そしてまだ利用されていない周波数(短波)へのシフトを示唆し、音声送信ができるようにするための改良は、真空管への移行を示唆していた。

 マルコーニ社にとって、1910年以降は、技術的な発展の時代ではなく、商業的な統合の時代となった。1900年の「4つの7」特許を基盤として、1911年にはロッジの同調特許を購入し、1912年にはドフォレストの特許を持つアメリカのユナイテッドワイアレスカンパニーを買収した。ドイツではテレフンケン社が政府の手厚い保護のもとに置かれていたため、買収は容易ではなく、テレフンケンが1912年にロッジの特許権を侵害していることを認め、マルコーニ連合に加盟し、欧州でのマルコーニ特許の使用権を購入することで和解した。第一次大戦(1914-18)に入ると、連合はより国家主義的な意味合いを持ち始め、その延長で米国のRCAが発足(1919年)する。

 しかし、後続の真空管、再生回路、スーパーヘテロダイン回路の発明、さらには1920年から始まる放送といった革新の中でマルコーニ社の特許権の有効性が生き残るかどうかは、疑わしかった。新しい革新により、1920年代以降の産業構造は、1900-1914年までのそれとは根本的に異なるものとなった。1930年までには、火花式送信機は博物館の展示物になり、syntonyという言葉もほとんど消失した。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)