yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (5)-1

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 5.pp.179-244.

 

 以下では、第五章の前半までの内容をまとめています。ここでは、グリエルモ・マルコーニの幼少期の様子、母親とイギリスに渡り、ウィリアム・プリースという知己を得てマルコーニ社を創立し、無線電信の大西洋横断実験を行おうとする1901年ごろまでが扱われています。マルコーニは、幼少期にボローニャ大学でリーギの講義を聴講したり、実験室に出入りしていましたが、正式な学生ではありまでんでした。つまり彼はアカデミアに属する学者ではなく、アマチュア無線家であり、起業家でした。彼はノーベル物理学賞を受賞していますが、本書では、マルコーニは「科学者」ではなく、「実業家」という経済界の人物しての面を強調しているように思います。もちろんその一方で、彼が大西洋横断実験を行うなかで、科学界にも解決すべき新しい問題(=anomaries)を、フィードバックしたことも事実でした。

 

5-1

 1896年にマルコーニは英国に渡った。彼が英国で成功することができた理由を、彼に要求されていたことを詳細に観察することと、ウィリアム・プリースが自分自身の状況をどのように考えていたのかに注目することで、考察する。

5-2

 マルコーニは正規の教育を受けていない。だがそれゆえに、彼は自分自身の興味関心に自由に従うことができた。彼は物理や化学特に、電気にかんすることに興味があった。彼は、ボローニャAugusto Righiの教育を受けることで、素人的な好奇心を幾分体系だった知識へとか変えることができた。ボローニャ大学の正規の教育を受けることはできなかったが、彼はリーギの講義を聴講することを許可され、実験室に出入りすることも認められた。リーギは、1894年にヘルツの実験が行われた際、イタリアのある雑誌にその実験についての記事を寄稿しており、そのことがマルコーニが無線を通信に活用できることを思いつくきっかけになったかもしれない。

 マルコーニがリーギから学んだことは、電磁波がどのように生成し、伝播し、検知されるのかについての実用的な理解だった。1894年時点でのリーギの関心は、ヘルツが晩年に取り組んでいたことと同じく、超短波(超高周波)の電波が光とおなじようにどのように放射されるのかということについてだった。一方マルコーニは全く逆の方向、つまり、長波で低周波の電波を用いた実験を行うことになる。彼がリーギからどの程度の影響を受け、あるいは逆にどの程度独立していたかということは、リーギの実験器具を見るとわかる。超短波の電波を生成するために、彼は規模の小さな装置を使っていた。そしてスパークギャプはヘルツのそれを改良し、4つからなる構造だった。この強い、規則的な火花を生み出せるライヒのスパークギャップは、マルコーニの初期の送信機の特徴の一つであった。受信機の方では、コヒーラーに特徴があった。マルコーニのコヒーラーはより大きな感度を備えるものだった。1894年から1896年までにマルコーニが行なったコヒーラーの批判的な改良は、実験的好奇心の産物ではなく、商業的(軍事的)サービスにおける日々の使用に耐えうるものを発明使用とする試みだった。

 アンテナに注目すると、ヘルツの実験以降、超短波の実験が規範的になっていたが、これは「実験室内」という環境に由来するアンテナの機械的な問題に起因していた。(例えば室内におい、2mの波長の電波を生成できても、200mの波長の電波を生成することはできない。) マルコーニの実験のアンテナで特徴的なのは、垂直接地アンテナの活用だが、マルコーニ自身は、垂直アンテナから放射される波とヘルツの波とは異なるものだと考えていたようである。いずれにせよ、垂直アンテナそれ自体に固有な要素があるのではなく、アンテナを垂直に立てたことで偶然にも長波を利用することになり、今日的に言うと、「地表波」によって遠距離通信が可能になったという点に新規性があった。したがって、1920年代に短波が「再発見」されるまで、長距離通信を可能にするのは、長いアンテナであり、長波であり、大電力の送信であるというマルコーニの公式(これはもちろん不完全な公式であるが)が成立すると思われるようになった。その意味で、1895年-96年の垂直アンテナ=長波への移行は、実際、技術的なブレイクスルーであったものの、一方で技術的な「病的な固執=fixation」の始まりでもあった。経済的な観点から言うと、これは長距離通信にとっての資源の誤った配置を導くレシピであった。

 マルコーニは科学的な発見を便利で潜在能力のある装置へと翻訳した。彼は電波を、科学から技術へさらには商業的な利用へと導いたのである。だが、逆に、商業的な利用というマルコーニの試みから科学や技術の方へと情報がフィードバックされるという面もある。というのも、マルコーニは「長距離通信」という科学者の関心になかった問題に取り組む中で、その副産物として、科学が新たに解くべきそして合理的に説明すべきanomalies(トマス・クーン)を提出したからである。例えば、ロッジ自身は実験の中でanomaliesという呼べるものに遭遇していなかった。彼は、新しいアンテナやコヒーラーを用いた実験から得られた結果を完全に理解するために、(1)アンテナ設計に関する理論、(2)電波伝搬に関する理論、(3)送受信機をアンテナにマッチさせるtransmission linesに関する理論を必要としていただろう。これらについての経験的な部分的な知見はすでにあったが、体系的な知識は存在しなかった。マルコーニは、1895年までに綺麗に整えられていた牧草地を未知の大地へと変えてしまったのである。

 1896年に彼が英国にもたらしたものは、(1)装置としてのコヒーラー、(2)情報としてのdirectional reflective antenna、そして垂直接地という概念だった。そのほかには、(3)彼が電磁波を用いて軍事的にも商業的にも価値がある伝送システムを創造できるという自身と、(4)それを実行する揺れない自信を持ち込んだという点も重要である。

 

5-3

 

 マルコーニが1896年に申請した特許(暫定的な仕様書と完全な仕様書から成る)は、それ自体新規性のある科学や技術を含んでいるのではなく、無線のパフォーマンスが向上することにつながる既存の技術の設計上の改善と、構造を詳述しているという点に特徴がある。ただ、アンテナの設計に関しては、新規性を持っていた。マルコーニは、アンテナを一つの独立した問題領域として認識してはいなかったようで、送受信機の構造についての記述の中に散逸しているのだが、いずれにせよ、彼は、(1)インダクションコイル、コヒーラーがアンテナに直接接続している(直接式?)タイプ、(2)パラボラ反射器を備えたダイポールアンテナ、(3)垂直接地型アンテナの3つ型のアンテナを記述している。そして、方向性を重視する場合には(2)を、送受信機間に障害物がある場合には(3)をといった具合に、様々なアンテナを選択している。ただし、同調にかんする言及はほとんどない。強いて言えば、アンテナの大きさによって波長を変え、大雑把に同調できることを記している程度であり、混信を防ぐための同調という視点が皆無であった。

 ロッジは、科学者として、理論的な予言を物理的な器具に変換しようとし、マルコーニはそのプロセスをさらに推し進め、実験室のハードウェアから実用性に奉仕する技術体系へと翻訳した。したがって、この段階において、物事はコスト、予算、代替モードとの競合といった経済的な用語で語ることができるようになった。無論、マルコーニの技術は最先端の科学技術に関わるフロンティアであったが、その唯一の例外が「同調」だった。なぜなら、彼は、正確な同調や鋭い選択性が求められる状況に未だ嘗て遭遇したことがなかったからである。彼は同調の問題を、アンテナの大きさの問題としてしかみなしていなかった。

 

f:id:yokoken001:20200418131711p:plain

5-3の内容をまとめた概念図

 

5-4

 郵政省の技師長であり、自らも実験家であり技術者であったウィリアム・プリースが、マルコーニの電信システムを支持するようになった動機は何だったか?彼は、マルコーニがイギリスに来る前からすでに無線電信(※無線なのか有線なのか、その両方なのか、いまいち読解できなかった。)の実験に取り組んでいた。なぜ彼は自分自身の実験成果を棄却してまで、マルコーニの技術を採用しようとしたのか。手短に言えば、彼自身1895年から1896年の間に、袋小路の状態にあったからである。プリースは経験的に、ワイヤはーは局間の距離と同じ長さにする必要があることを導いていた。だが、これはいくつかの離れた島にある灯台など、適さない状況での使用が難しいという問題があった。取り組んでいた誘導電信は、ワイヤーを展開できる土地が十分に存在する条件で効果的に機能したのだった。電磁波理論が示すように、変動する電磁場には、距離の二乗に反比例して変化する誘導場と、距離の一乗にのみ反比例して変化する放射場の二つの要素があるが、プリースの装置は誘導結合(inductive coupling)(?)にのみ依存しているため、距離とともに急速に(距離の二乗に比例して)減衰してしまった。長い平行線はこれを補うための措置であり、比較的短い距離であれば、有効に機能した。しかし、長距離となれば話は別である。ここでは放射(新しく発見されたヘルツ波)のみが、受信機で検知されるほど十分に強力な効果を生成することが期待された。だが、プリースがマルコーニの技術に関心を持ったのは、このような長距離通信を可能にしたことと以上に、船同士の移動体間通信を可能にするものでもあったからである。確かに距離は重要な要素だったが、1896年より前にマルコーニはプリースの装置以上に長距離の通信の実験に成功していたわけではなかった。彼は惹きつけられた点は、使用するワイヤーが少なくて済んだという単純な事実であった。

 

5-5

 グリエルモ・マルコーニの母にであるアニーは、スコットランド出身であった。彼女は歌を学んでおり、イタリアに「bel conto」を学ぶべく留学していた。ボローニャの友人の家に滞在しているときに、グリエルモの父となるジュセッペと出会う。ジュセッペはボローニャの絹商人だった。彼はアニーの17歳年上で、妻を失った男やもめであり、一人息子を抱えていた(※グリエルモではない)。両親は結婚に反発したものの、アニーはジュセッペと駆け落ちし、イタリアに残ることになる。(のちに、アニーは家族と和解する。) したがって、1895年にグリエルモが母と共にイギリスに旅立ったことは、里帰りでもあった。そして、イギリスは当初世界最大の商船の保有国であり、国際貿易の中心でもあり、海軍力も大きかった。 

 アニー家から得たものは、金と助言と人脈である。このうち助言と人脈において重要な働きをしたのが、アニーのいとこであるJameson Davisであった。Jameson Davisの友人のキャンベル・スウィントンが、イギリス郵政省のプリースとマルコーニを結びつけたからである。

 プリースは郵政省の技師長であり、ちょうど技術的にも行き詰まりに遭遇しているところだった。彼はマルコーニと出会うことにより、そのボトルネックを打破することができることを期待したのだった。

 ところで、マルコーニが官立ではなく、民間企業としてマルコーニ社を起業することになった理由は、英国政府の対応が遅かったためであるという説があるが、これは事実と異なっている。1897年の夏になってようやくプリースはマルコーニにコミットするようになるが、マルコーニ家からすると、これは不必要な官僚的な遅延に思えたに違いない。、、、(以下理解不能)

 結局、プリースの協力を得てマルコーニ社が民間企業として発足したことには、三つの重要な点があった。一つは、プリースのおかげで、民間企業でありつつも、社の方針として第二次世界大戦まで、「政府所有」という方向性が掲げられた点である。第二は、郵政省とマルコーニ社との間に軋轢を残し、特に「帝国の鎖」を構築するときに、その相互不信が大きな問題となった。ただし、この不信感は、マルコーニ社に対して向けられていたものであり、マルコーニ自身に向けられたものではなかった。マルコーニは「無線界の天才」であり、科学者や技術者の間には、友愛や兄弟愛と呼べるような関係が続いていた。第三は、マルコーニの特許をその民間企業が利用することで、研究資金の継続的な拠出関係が出来上がったことである。特に当初は家族の小さな輪の中に、会社の所有権や管理権が限定されており、外部からのそれらの侵害を憂慮する必要もなければ、配当を心配する必要もなかった。マルコーニ社は、いわば、拡大された家族を具現化したものであった。

 

5-6

 1897年にマルコーニ社が創立したのち、技術は商業的な問題と関係しながら、言い換えれば価格システムの影響を受けながら、展開するようになる。市場で生き残り、市場での競争に寄与するかどうかが、装置の発展や、採用/棄却を左右するようになった。ところで、その市場そのものも、無線界では自明の存在ではなかった。まず手始めに、市場を形成するためには通信能力を実演することが必要だった。そのため、当初マルコーニ社は、需要者(軍)自らが装置を操作して、それを体感させる戦略を採用した。しかし、のちに通信システムを所有するのではなく、それへのアクセスを求めている民間を顧客にしたとき、装置自体を製造し、販売するというよりは無線のサービスを提供する性質に変化していく。英国には、すでに国内の通信網を郵政省の管理のもとで一元化する法律が存在したので、マルコーニ社が進出することは容易ではなかった。この法律の抜け道として、民間企業が社内で通信をやりとりすることは禁じていなかった点に着目し、マルコーニ社はロイド社を顧客に無線システムの販売に出た。したがってロイド社がマルコーニ製品のみを使ったのは、技術的な理由ではなく、英国の法律の制限に由来するものであった。マルコーニの独占体制は、1908年の国際無線会議の際に問題化するようになった。そして、マルコーニ社も1910年になって、漸く他社による特許権の侵害を訴え始めるようになる。同社にとって、海軍とロイド社が最初の重要な顧客になったが、第三の市場は、海を越えた長距離通信にあった。だが、この第三の市場は、それまでとは性格を異にする市場であった。というのも、大西洋横断通信は、すでに有線ケーブルによって構築されており、それは格段古い技術というわけでもなく、また多くの投資もなされている分野だったからである。経済の論理からすると、有線電信を無線に置き替えることが合理的であるかどうかは自明なことではなかった。大西洋横断通信の顧客のニーズは、金融や新聞の情報の素早い性格なやりとりができるところにあった。この点について、無線というまだなじみのない未知の要素が多い技術が、有線電信に優っているとは限らなかった。それゆえ、マルコーニがこの分野に進出したことは驚くべきことだ。さらに、マルコーニが大西洋横断通信に試みたとき、その技術はまだ利用可能なものではなかった。ヘルツ波は直進すると考えられていたので、地球が湾曲していることを考慮すれば、それは不可能だという意見もあった。ケネリーとヘヴィサイドが電離層の存在を予言したのは1902年であり、また、アップルトンが実際に電離層を実験的に観測したのは、1925年のことである。マルコーニの事業が科学知識の最先端を超えてたという事実は自明のことである。むしろ、科学の進歩率が、マルコーニの状況に依存していたということが強調されるべきである。それは単にデータが提供されるということだけではなく、もっと難しい技術的な困難を科学界に要求することになった。大西洋音大通信は、マルコーニや周辺の技術者たちに、既存の技術の能力をテストする機会と、新しい技術の基盤を提供したのである。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)