菊池慶彦「第一次大戦期の世界電球市場と日本の電球産業」『経済学』(東北大学研究年報)第75巻、3,4号 (2017年)、93-121頁。
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「タングステン電球の普及と東京電気の製品戦略」に引き続いて、博論の第4章に相当する論文。東京電気の電球産業の海外進出に関して先行研究では多くのことが研究されてきたものの、大戦期における欧米企業との関係や日本企業が電球の輸出・海外生産をどのように開始したのかは十分に明らかにされてこなかったと述べた上で、本稿では、日本の電球産業の海外進出と、大戦期の世界市場との関連が論じられる。
- l第一次世界大戦前の電球産業
1903年、アメリカのGEとドイツのAEGは特許交換・市場分割協定が結ばれており、この結果、日本は中立市場とされた。GEは1905年東京電気、1909年に芝浦製作所とそれぞれ資本・技術提携を結んだ。技術面では、1904年のGEM球、1910年の引線タングステン、1913年のガス入り電球と革新が起こり、高性能な電球が開発されていた。GEでは、Mazdaという商標用い、引線タングステン電球をMazdaB、ガス入り電球をMazdaCとして販売した。一方の日本では、日露戦争から第一次世界大戦期までに、電球の生産高は輸入高を上回った。またGEと提携を結んでいた東京電気は1911年にMazdaの商標で高性能電球を販売し始めた。さらに、1914年に東京電気はAEGとも協定を結んでおり、大阪電球・帝国電球・日本電球・東京電球製作所・大崎電気といった企業を傘下に収めた。大戦前、例えば1913年での輸出額は約23万円で、中国を最大の輸出国としていた。だが、この時期中国へはドイツ製品が多く輸出されていた。満州でも日本製品が約2割を占めていたものの、破損が多く、価格も高価だった。
第一次世界大戦が勃発すると、連合国側は同盟国のドイツの特許や海外工場を敵性資産として接収し、輸出は減少することになった。ドイツやオーストリアからの電球の輸出の減少を埋め合わせたのが、アメリカ、オランダ、そして日本だった。(GEとの特許訴訟に敗れたオランダのフィリップスは特にイギリスや南米のアルゼンチンに多く輸出していた。また低燭のガス入り電球もすばやく製品化しており、アルゴンガスの自給体制も整備していた。) 日本の輸出先は依然として中国が最も多く、金属線以外にも炭素電球も輸出品に含まれていたと推測される。なお、数量的にはアメリカへの輸出が最も多く、特に大量消費社会の出現により、クリスマスツリーをはじめとする様々な電化を背景とした需要の増大が電球不足を招いていた。そして、アメリカ国内の電球不足は、塹壕線で必要になるイギリス兵士用の懐中電灯などの注文が日本に回されることにも繋がっていた。東京電気は工場の拡大に加えて、1913年に化学実験室を設置するなどして、タングステンフィラメントの国産化へ向けて進めた。東京電気のみならず、中小企業も輸出を拡大しており、下請業者を組織し、部品工場と分業し生産を拡大していった。また、中国での日米間の競争は激化した。GEは上海に子会社を設立する一方、東京電気も同年支那興業株式会社を設立し、電気事業の経営と資金調達を企図した。 第一次世界大戦後は日本の輸出は減少に転じたものの、大戦を契機に電球産業が海外市場の開拓を強化したことは大きな変化だった。