yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 6.

Chapter 6 The Transatlantic Gamble (pp.61–73)

 

 第六章では、1901年–1902年にかけて、マルコーニが大西洋横断通信を達成する道筋が描かれる。一般的には、大西洋横断通信は1901年12月12日、ポルデューとセントジョンズのシグナルヒル間で達成されたと言われる。しかしこのとき、「大西洋横断通信に成功した」という主張を支える唯一の証拠は、マルコーニとケンプの聴取体験だけだった。加えて当時の科学界では、「ヘルツ波」は直進するため地球の湾曲に沿うのではなく接線方向に宇宙空間に向かって放射されると考えられていたこともあって、マルコーニの主張は受け入れられなかった。むしろ、大衆が懐疑的になるのは至極当然の反応であった。そこで、翌年、彼はモールス印字機に信号が印刷されるようにし、かつ船長の証言を伴わせるという形でリベンジを果たした。このことは、「大西洋横断通信に成功した」という「事実」を公認される「事実」にするためには、その証拠を支えるしかるべきtechnological settingが必要になるということを示す、非常に興味深い論点である。そしてこれは、『リヴァイアサンと空気ポンプ』で展開される議論に通じるポイントであろう。

 

 

  • より大きな会社になればなるほど、開発(development)と実現(materialize)は同時に行うことができるし、実際に行われる。そしてそれぞれの開発は、全く異なった方向に向かっていることもしばしばあるが、以下では一定の一貫性を保持するために、出来事は個々のストーリーとして扱われる。
  • 世紀の変わり目には、マルコーニ社は同調の問題と並んで、〔波長の〕動作範囲(working range)をいかにして拡大するか、という問題に取り組まなければならなくなっていた。
  • ここには謎があった。ヘルツは、無線は光と同様に反射・屈折の法則に正確に従い、異なるのは波長だけであるということを示していた。そしてこの結論は、何度も検証されてきた。しかし、同様に、マルコーニ社の演示から収集されたデータが達成範囲(=通信可能な波長範囲)の着実な進歩を示したという事実は、議論の余地がなかった。当初、これらは計算された数字をはるかに超えていたため、大きなコメントはほとんどなかったが、予測された数字(=λ?)の約 2 倍になると、もはや無視できない問題になった。
  • だが当時の科学界は一部の例外を除いて、この現実から目をそらそうとした。マルコーニは噂を押しつぶすか、長距離通信の競争にシステムを参入させるかの2つの野心があった。そして、大西洋横断通信計画は、こうした中で始まった。そして従来の小さな無線器具ではなく、大電力の送信所を建設することを提案した。
  • こうした大電力の送信局を建設することは、他の船舶無線に影響を与えるのではないかという懸念が取締役会から出された。そこで、HavenとNiton間で予備試験を行い、この心配は杞憂であることを確認した。
  • マルコーニが建設しようとした送信局は、これまでのどの送信局よりも大きな出力のものになるはずだった。1900年7月、マルコーニは強電分野で成果を挙げていたフレミングを(ロンドン大学に席を置かせつつ)同社のコンサルに迎えた
  • まずは、英国側に、通信に最適な場所を見つける必要があった。そして物理的に最もアメリカに近いPolduが選ばれ、1900年10月には予備作業がスタートした。
  • ポルデュー局からの送信の可能性を確認するための、6マイル離れたLizardが選ばれた。同調送信の記録的な距離は、186 マイル離れた Niton局の受信によって達成された。
  • ポルデューでは早速、フレミングが設計した発電所(power plant)が設置された。それは巨大なもので、発振回路に000Vを印加できるものだった。3月までにはほとんど作業を終え、マルコーニはヴィヴィアン(Vyvyan)とともに米国へ向かった。そこではアメリカ側の大電力の局の場所(ケープコードなど)を決め、また英国に戻った。
  • 英国側ではさらにアイルランドのCrookhavenにも送信所も開局した。Crookhaven–Poldhu間での通信は成功したが、アンテナに問題が残っていた。理論と実践の間に乖離があった。今から考えると無謀な設計のアンテナを立ててしまい、1900年9月に、全てのマストが崩壊するという失敗を経験した。さらに同年11月にはヴィヴィアンによって設計されたアメリカ側のアンテナも崩壊した。
  • マルコーニ社の取締役会は愕然とした。50000ポンドが消失したが、マルコーニは諦めなかった。彼はケンプのもとでチームを編成し、残骸を取り除き、臨時のアンテナを立て直した。その速度は驚異的で、9月26日には実験が再開された。
  • 10月22日までには、新たな恒久的なアンテナを設置する計画が提案され、認められた。11月1日にその作業は開始したが、結局マルコーニはそれをやめた。彼はまた、ケープコッド局で大西洋を横断する受信を行うのではなく、ニューファンドランドで最も近い上陸地点で試みることを決定した。そして11月にケンプと新たな助手であるPagetとともにそこへ向かった。
  • ちょうど出発したときにKape Codのニュースを聞いて3人は驚いたに違いない。大西洋を横断する双方向の通信に対する3人の希望は、当分の間失われた。
  • 12月6日に、一向はセントジョンズに到着した。その場所を見渡し、Signal Hillが最も適した土地であると認識した。また、近くにあった使わなくなった軍の病院を利用できるという便宜も与えられた。偶然にも近くには1858年に大西洋横断海底ケーブル敷設の成功を記念するタワーがあった。
  • 12月9日、器具が設置され、有線ケーブルで、ポルデュからモールスコードで「S = ・・・」を要求するメッセージを送信した。翌日、ポルデューでもアンテナが艤装された。このとき測波器がなかったので、どれくらいのλだったのかわからないが、366m説や、2000mくらいという説もある。
  • Signal Hillでは、同調式の受信機とともに、自己修復型コヒーラー(self-restoring cohere)を用いた。それはイタリア軍のCastelliが開発したもので、最も感度が良いとされていた。マルコーニはそれと受聴器とを両方用いた。
  • だが、Sと特定できるような信号を受信できず、マルコーニは風が同調を妨げていると結論づけた。まもなく強風がバルーンを引き裂き、実験には終止符が打たれた。1時間以内にタコも撤去された。そして500フィートの新たなタコがあげられた。
  • 12月12日、予定されていた送信時間に注意深く受聴器に耳を傾けていたマルコーニは、ケンプに「ケンプさん、何か聞こえませんか?」と尋ねた。ケンプは受聴器を撮ってみると、静電気の衝突音がかすかに聞こえたが、紛れもなく3つのドット音を認めた。一向は歓喜を伝えたかっただろうが、この側面に関して記録が残っていない。ケンプはこの勝利を、まるでブーツを履くこと以上に(?)(than the putting on of his boots)重要なことであるかのように記録している。マルコーニは日記をつける人ではなかったが、12月12日には簡潔に「 at 12:30, 1.10 and 2.20.」と記していた。
  • 続く日は天気が低迷であった。この頃までには、マストで支えられたアンテナが唯一の解決策であると考えられたが、天気がよくなるまでは待つしかなかった。
  • マルコーニはこの成功を公に発表すべきかどうかで困惑していた。大西洋横断通信に成功したという証拠は、彼自身が信号を聞いたというだけで、例えばモールス印字機のテープのような目に見える証拠は存在しなかった。また2人の目撃者(ケンプと彼自身)も、バイアスがかかっていないとは言えない。
  • 結局、12月14日と16日に、彼は報道機関にこのストーリーを与えることにした。勝利は甘くはなく苦かった。早速、アングロアメリカン電信会社から理権侵害についての反応を得た。
  • マルコーニは、この問題を争うことなく、装置を解体して別の場所に行くことにした。この選択は賢かった。なぜなら、彼はセントジョンズに高価な局を建設せずに、独占的な規制が存在しないカナダやアメリカでも地理的にほぼ同じ役割を果たす局を建設することができた。法的な争いに巻き込まれることで、時間とお金を無駄にすることになりかねなかった。
  • また、この禁輸措置(アングロ社がマルコーニを訴えようとしたこと)は、間接的にマルコーニに有利に働くことが分かった。Newfoundlandの住民は、アングロ社の行動に激怒し、電話の発明者で知られるベルは、マルコーニにCape BretonやNova Scotiaの土地の利用を差し出した。カナダと米国政府も、マルコーニ(under-dog)に好意的だった。
  • 報道機関はアングロ社のニュースを怒りを持って受け止めた。しかし、マルコーニの大西洋横断通信に成功したという主張は、報道機関のみならず技術雑誌においても懐疑的に扱われた。マルコーニは、ケンプとともに信号を聞いたというだけで、彼の主張を立証する実際的な証拠を少しも持っていなかったので、これは非常に理解できることであった。
  • また、彼が大西洋横断通信に成功したと主張する際、電磁波の振る舞いを支配していた物理法則の妥当性にも異論を唱えることになったということも負担だった。特に回折に関する法則は理論的にも経験的にも証明されてきており、論破できないものだった。電波は水平線を超えて伝わるが、それは接線方向へと宇宙空間へと出ていくと考えられていた。であれば、地球の湾曲に沿って2000マイルも伝わるということは、科学的には不可能であると思われた。科学が実際的な達成と基礎的な物理法則との間の調停を試みるのは、マルコーニが完全に体制王通信に成功したということが実証された後のことである。従って、1901年時点での知見では、マルコーニやケンプの意見を間違いであるとするのは理にかなったことだった。ただし、1901年成功説には、今日でも反対論があるということを記しておく必要がある。
  • アングロ社の突然の禁輸は広く知らせ、カナダ政府などもマルコーニに同情的になった。12月30日にはオタワに招待され、カナダ政府は土地の貸与だけではなく、金銭的な支援を与えることを申し出た。そして、同政府とマルコーニ社の間で契約が結ばれることになった。
  • 1902年1月12日にニューヨークに到着した際には、彼はアメリカ電気工学学会(The Institute of American Engineering)の夕食会で、スタインメッツ、Elihu Thomson、ベル、ピューピンといった著名な人物に会うことができた。
  • その間、ポルデューでは送信機の改良が行われ、モールスキーシステムは理にかなった長さのメッセージが送れるようにされた。
  • 彼が英国に戻る船=ペンシルバニアのオーナーは、マストを拡張し、そこから150mのアンテナを支えるということに同意した。マルコーニの意図は、無線信号が大西洋を横断して伝わるという証拠(proof)を世界に与えるという大胆な試みをすることだった。そしてこのとき、彼には信頼できる目撃者がいた。同調受信機と従来のコヒーラーを用いて、彼はモールス印字機にメッセージを記録させるようにし、かつ、船長によって受信を確認させるようにした
  • 船は西へと向かった。そして、暗くなったとき、ポルデューの信号が再び受信され、1550マイルの距離で印字機に記録された。さらに、Sの文字は2100マイル離れた地点で印字された。ここにマルコーニの主張を妥当なものにする証拠(vindication)が揃った。テームによって得られた証拠と、正真正銘船長の確認を前に、誰も否定することはできなかった。さらにこの時、電波の”night effect”の発見というもう一つの重要な前進もあった。(ちなみにこのときの電信員はS. Franklinという後にアメリカで発明家として知られる人物であった。)
  • マルコーニはカナダ政府との契約を終え、新しい局の場所を決定した。また1902年4月にはアメリカマルコーニ会社(Marconi Wireless Telegraph Company of America)が発足し、マルコーニの発明のアメリカにおける権利は同社に譲渡された。