yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

和田,2016

 

科学史学校での講演をまとめた「科学史入門」のシリーズから。著者による既出の複数の論文を俯瞰的な視点からまとめ、一貫したストーリーに落とし込まれている。

 

和田正法「工部大学校と日本の工学形成」『科学史研究』第55巻(2016年)、178-182頁。(ここからDL可)

  • 著者の基本的な立場は、工部大学校(の教育)が日本の工学の形成に影響したと言えるが、工業(自然の原料を加工して生活に必要なものを作る産業、industry)に果たした役割はまだ十分にわかっていないというものである。工部大学校の卒業生の中から工業の発展に寄与した業績を集めれば、上記の命題を示すことができるとは限らない。というのも吉本亀三郎のように、工部大学校の教育に不満を持ち、個人の努力によって活躍したというケースもありうるからである。
  • 加えて、明治10年以降私費制を認めた後でも卒業生が民間に就職することが容易ではなかったことも、上の命題にとっての反例になる。当時はまだ高給を払えるほど産業が成熟していなかった。明治18年入学の門野重九郎は就職口がなかったため留学し、明治29年に帰国するころには誘い口が3つもあるほど産業が発達していたと証言している。つまり、門野の例からは、工部大学校出身者が工業を作り上げたというよりも、発達した工業の中で同校の出身者が活躍したと考えることができる。もし工業の発達と教育との関係を論じるならば、技術者集団を総合的に把握した上で、工部大学校の役割を明らかにしなければならない。例えば、明治18年までに1200人を超える人材を輩出いた電信修技校の成果を丹念に検討することは必須である。日本の工業化の原点を工部大学校に帰するのは過大評価になりかねない。
  • 一方、工部大学校は日本に工学(体系化された技術、学問としての技術)という分野を導入した、と著者は主張する。その理由としては、(1)帝国大学工科大学(工学部)の成立の基盤になったこと、(2)工学会という学術団体を誕生させるきかっけになったことの2つが挙げられる。(1)について補足すると、確かに『東京大学百年史』には工学部の源流として東京大学の方を求めているものの、人数から見ても、あるいは帝国大学が工部大学校の施設をしばらく利用していた点からみても、実質的には同校が帝国大学工科大学の成立の基盤にあった。石橋絢彦は、明治6年に配布された工部大学校の募集要項の中にあった「工学」という言葉がよく分からず、「大工の学問」くらいのイメージを持っていたという。それが13年後には高尚な学問として定着するまでになった。
  • 海外との比較でいうと、技術教育が大学での地位を確立するケースは稀であり、このことから日本の最高学府に設立当初から工学部があるというのは、日本に特徴的な工学の形成過程である。