yokoken001’s diary

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和田, 2018

和田正法「工部大学校の終焉と帝国大学への移行をめぐる評価」『科学史研究』第57巻(2018年)、186-199頁。

 

  • 明治4年に設けられられた工部寮は明治10年に工部大学校と名称を変え、同年初めての入学生を受け入れた。工部大学校は明治18年に文部省に移管され、翌年に「帝国大学令」が発布されたことで東京大学工芸学部と併合されて帝国大学工科大学となった。先行研究では、工部大学校の終焉について、実地を重視する独自の教育を終わらせるものであったという否定的な見解が通説となっている。それに対して本稿では、工部大学校を設立・維持したことで引き起こされた教育問題への対処に注目することで、同校が閉鎖されたことに対する新しい解釈を試みている。

 

  • 工部大学校は実地教育を重視したところに特徴があったとよく言われる。しかし、工部省内の修技校を閉鎖して留学のための選抜期間としての役割を持った工部寮を建設したのは、工部省が実地よりもむしろ学理を重視したためであった、と著者はこれまで主張してきた(※1)。
  • 工部省は主にイギリスの御雇外国人教師を雇ったが、その背景には藩閥の政治力学があったと指摘する。というのも、新政府で伊藤博文が自身と英国との強みを生かして、工部省内での長州派閥の勢力拡大を図ったという。明治6年には英国人の雇用を進めるとともに、他藩出身の官僚が他省に異動していた。工部大学校が英国人を中心に雇った傾向は、長州派が牛耳る工部省の英国人を積極的に雇用するという政治的方針を踏襲したものにすぎないと解釈することも可能である。
  • また、カリキュラムの詳細はダイアーに任せていたことは事実であるとしつつも、留学の際する方針は工部省とダイアー側でスタンスが異なり、結局は工部省側の要求を押し通し、卒業生11名を英国留学させた形をとった。このことから、教育方針は実地教育重視の英国人教師に、丸投げしていたわけでは必ずしもなく、工部省側の主体性を見てとることができる。

 

  • ところで、明治6年以降工部大学校を運用していく中で、筆者は(1)初等・中等レベルの教育に混乱をきたしたこと、(2)中級レベルの技術教育が後回しにされたことの2つの問題が露呈したと見ている。

 

  • (1):明治5年の学制においては、あくまで高等教育機関の設置がfirst priorityとなり、初等・中等レベルの教育との連絡がsecondaryとなった。高等教育機関に接続するための教育制度が未熟であったゆえ、各専門学校は自前で予備教育課程を設置しなければならなかった。結局、ダイアーは入学候補者に対する準備教育が行き届いていない現状に苦言を呈し、彼の提案で明治7年に工部寮小学校が設立された。しかし、同校は経費削減のため明治10年には早くも閉校となった。従って受験生は手探りで入学試験に備える必要があった。(第6回土木科入学生の古川阪次郎は、入学準備に7年を費やし、かつ教科ごとに先生・学校を変えていた。) 入学後にも修技校と呼ばれる速成教育機関において外国人教師のもとで学んだものは成績が良く、それ以外の教育機関で学んだものと差があったと言われており、政府はあまり教育的な効果に目を向けず、高等教育機関としての体裁やそこで学術的な水準を維持することを最優先にしていたと言える。

 

  • (2):技師、技手、職工という知識・技能レベルが異なる人材を産業界の需要に応じてバランスよく育成するシステムの欠如という問題である。(電信修技教場を除いて)修技校は学理を重視する工部寮の建設のため、廃止・統合され、文部省の製作学教場も明治10年には廃止された。要するに、明治期日本の技術教育の構造は、高級な技術者の妖精を政府が担い、中級以下の技術者や職工の養成は民間に委ねるというものだった。明治政府が組織化を行なったのは、工部大学校をはじめとする指導的地位に就く技術者(技術幹部、工業士官、技術官僚)を育成する教育機関であり、技手、職工の育成に関しては一貫した政策がなかった。言い換えれば、中等専門教育制度が未熟でありながら、少数のエリートを育成することに固執していた。こうした政策がとられた背景には、高等教育には没落士族を救済する意味があったからではないかと著者は指摘する(あるいは科学史家の中山茂もそれに近いことを述べている)。

 

  • 工部省が工部寮を設置したのは、お雇い外国人の代替となる日本人の育成であり、この目的は開校後10年程度の期間(明治16年前後)でおおよそ達成され、同校を維持させる積極的な理由が消滅した。また技術士官・技術官僚を育成するという目標が完了するのもこの時期であり、帝国大学工科大学へ移行したことで、工部大学校の当初の目的を損なうことにはならないという状況だった。むしろ工科大学への統合は、(不明な点が多いとしつつも、)各省の直轄学校を統合することで財政的な合理化を図る行政面での措置であるという『東京大学百年史』の見解を採用している(※2)。

 

  • 以上まとめると、次のようになる。従来工部大学校はその実地教育が最大の特徴であり、帝国大学へ移管されたことでその特質が失われたことを否定的に評価する研究が多かった。しかし本研究では、実地教育重視の考え方は工部省の方針ではなく、藩閥力学の中で偶然選択された英国人教師の方針にすぎなかったことを強調した。むしろ工部省の狙いはあくまで学理重視の高等教育制度の導入にあり、(ダイアーらの主張に反して)卒業後は生徒を留学させる方針を貫徹した。その一方、明治の教育制度には、初頭・中等教育との接続や、技手・職工といった中級技術者の教育機関を軽視するという側面があった。とはいえ、ポストお雇い外国人教師、技術官僚、技術士官の供給という同校の目的は明治15年以降の数年間でひとまずは達成された。このことにより、工部省は同校を存続させる積極的な目的を失った。従って、工部大学校の帝国大学への移行措置は、財政的な理由に基づく順当な措置だったといえる。

 

 

 

※1:和田「工部大学校創設再考」。

※2:明治14(1881)年まで、日本は西南戦争(1877年)の戦費調達を背景としたインフレに見舞われており、その対応策として緊縮財政=貨幣の量を減らしていった結果、1881年から1885,6年まで松方デフレという深刻な不況が生じていた。この松方財政下では殖産興業の目標が達成できないとの危機感から、1884年あたりから各省庁が計画を一、その省が主導権を握るか争いが起きた。1885年に内閣制度が導入され、工部省が廃止されたことで(工部省の提案は採用しないとすることで)省庁間の対立が解消されたとの見方もある。(山口輝臣『はじめての明治史』(ちくま新書、2018年)、136頁。)