yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

和田,2012a

最近は和田氏の工部大学校関連の論文をフォローしている。これは『化学史研究』に投稿された、工部大学校化学科にフォーカスした論文。非常に実証レベルが高く、推論過程も精緻。以下は要約とコメント。

 

和田正法「工部大学校における化学科の位置付け- 実地教育の分析から」『化学史研究』第39号(2012年)、55-78頁。

 

  • 先行研究では、工部大学校の教育に関して日本における近代技術教育の先鞭をつけるものとして顕彰的に扱われ、「成功」したと評価されてきた。その一方、工部大学校の教育の意義について、批判的立場からの研究はほとんどなく、検討の余地が残されている。本論文は工部大学校化学科のとくに実地教育に着目し、困難や矛盾に目を向けながら、同校における位置付けを行っている。加えて教員ダイバースの教育方針を検討したのち、化学科卒業生をプロソポグラフィの方法を用いて出自・就職状況が分析される。

 

  • 明治3年山尾庸三によって理論の教育に力を入れた工学寮構想が示され、翌年には工部省から太政官に「工部学校建設ノ建議」が提出された。そこでは日本が外国人の力を借りずに事業を行う人材教育の必要性が説かれていた。工部寮(工部大学校)はイギリスの技術・文化を導入する方針を採り、明治6年には英国から9人の教師が招聘された。同年最初の32人が入学し、明治12年に初めての卒業式が行われる。同校が文部省に移管される明治18年までに総勢493人が入学し、211人が卒業した。6年間の課程は予科、専門科、実地科と2年ずつ充てられ、最初の四年間は半年ごとに修学と実地を交互に行い、最後の2年は全て実地に従事することが定められており、実地に重点を置くことが最大の特徴だった。

 

  • 工部大学校では多くの専門分野が配置されたが、それらが同等に位置付けられていたわけではない、と著者は指摘する。ダイアーは工部省の部局で「エンジニア」という言葉が通常よりも広い意味で(=土木・機械だけでなく製造業まで含めて)使われていると述べ、そうした日本の状況に対応せざるを得ない側面があった。例えば彼が重視した図学を一様に導入する際に、「化学や電信といった、製図がそれほど重視されない分野においても、すべての生徒は、器具の図を書き…」と「歯切れの悪い」弁明をしながら一様に導入した。要するに、化学科はダイアーにとっては教育的注意が届きにくい付加的な学科として設置されたと筆者は主張する。

 

  • 工部大学校化学科での教育を担当したのはダイバースであった。彼は実地に応用できる知識を獲得することではなく、体系的な知識を身につけ「独創的な研究」を行うことを重視する教育方針を掲げていた。従って、工部大学校が重視する実地偏重に従順である生徒の姿勢を彼は快く思わなかった。さらに著者は当事者の複数の回想録の記述を拾い集め、ダイバースの研究志向は工学的というより理学的であったことを示している。

 

  • そのような化学科にはどのような生徒が在籍していたのか。著者は、まず化学科卒業生25名のうち大多数は生没年すら判明していないことを強調し、高峰譲吉などの後世に名を残し広く知られる者は例外であったと論じている。それでも本稿で判明した情報からは、帝国大学へ移管される直前に明治17,18年においては7割を超える人員が士族出身であったことが明らかにされる。士族主流の傾向は、化学科だけをとっても同じである。
  • 次に、工部大学校入学前の学歴を見てみると、第4回以降の卒業生には工学寮小学校に在籍した記録が残っている者がいた。同小学校には328人が在籍し72名(28%)が工部寮・工部大学校に入学した。この数字は決して高くないが、そのほかには(吉川阪次郎のように)7年間の受験準備期間の間に科目ごとに学校を変えるなど、手探りで入試に備えていた者もいた。
  • 卒業後の進路を見てみると、88% の化学科卒業生が公官吏になっていることがわかる。官費生の場合卒業後7年間の奉職規定があるが、私費生にとっても公官庁が有力な就職先だった。明治15年には政府への人材供給の過剰を受け、官費生の7年間の奉職規定を外したが、卒業生がすぐに民間に移れたわけではなく、就職難への対策として「非職技手」の規定が策定された。卒業生が民間へ就職することが難しかったのは、民間の産業が未発達であったことに由来し、その傾向は明治20s後半まで続いた(そのことは、門野重九郎の回想に顕著に記されている)。しかしこうした卒業生の困難は工部大学校設立前から予測されていた。山尾は産業の未発達を指摘する反対論に対して「人作レバ其人工業ヲ見出ヘシ」と断行していたのであり、むしろ工部大学校の設立は民間をはじめとする国内産業全体を育成するための端緒とみることができると筆者は主張している。
  • なお、東京大学と工部大学校の間で学士の称号について統一した基準が設けられていなかったため、後者の厳格な卒業基準が災いして、就職時に不利な立場に置かれる(工学士の称号が与えられないケースが多かったから)という現象も生じた。
  • 化学科には第1等卒業生が少なかったが、その理由は予科課程の成績が比較的よくない者が同学科に集まったからではなく(予科課程の順位と進級先の学科との間に相関はないことを実証している)、化学科が特に他の科に比べて厳しい基準が課されていたからである。そしてそのことは、生徒を卒業後不利な立場に置かせることにつながった。

 

  • 後半では、化学科の実地教育について分析される。筆者は『工部省年報』や「工部大学校報告」に依拠し、学科別の出張先件数と一人当たりに課せられた日数を表にまとめている(但し、記録に残っていない赤羽工作分局での実習も含めれば、表に示された日数以上になると推測されることを付け加えている)。化学科の派遣先については、東京都では板橋火薬製造所、王子製紙場、品川工作分局、近畿では大阪鉄道、大阪造幣局などが挙げられる。明治18年頃になると、規模は小さいものの、群馬や栃木など北関東への派遣も行われるようになった。化学科において複数年にわたって継続的に派遣が行われたのは東京を中心として、限られた工場だけだった。

 

  • 化学科の生徒が派遣された工部省管轄の工場は、品川工作分局のみである。同局は明治9年にガラス製造会社の興業社を買収して創設されたが明治18年に民間払い下げとなっている。そこでの実習では、紅色ガラスの原料である赤鉛や炭酸カリを化学実験所で製造してする作業を「実地」と称して生徒に充てていた。しかし製造業への関心が低かったダイバースは、生徒をこうした工場へ派遣させることには消極的だった。
  • 従来、工部大学校では工部省所轄の工場で実地が行われていたことが強調されてきたが、実際には学科によって研修場所や期間は多様であり、内容にもかなりの幅があった。言い換えれば、「実地」、「出張」と表現しても、その活動内容は「見学」から「研鑽」、「遂行」まで幅広い意味で用いられていた。

 

  • さらに実地の内容は、6年次の1-3月にかけて執筆されることになっていた卒業論文(以下、卒論と略記)の内容からも推察される。そこでは実地において行った作業に基づいて論文・意匠・仕様書をまとめることになっていたからである。残念ながら化学科の卒論は現存しないが、残された表題一覧からは一つの化学物質をテーマにした論文が多いことが読み取れ、かつそれは当時の産業と密接な関係を持っていたことがわかる。例えば、第一回卒業生の深堀芳樹が卒論の内容に基づき『工学叢誌』に投稿した論文「内国製石鹸試験」では、同時代に国内で製造された石鹸と外国製との比較を行って、より良い製品(水溶性、洗浄力が高いもの)を作る方法を考察していた。ここでは調査研究的なものを超え、卒論の執筆に際して実験が行われていたことも窺い知れる。これは実験室での作業を重視したダイバースの指導によるものであると指摘される。

 

  • 以上、本稿の分析からは、(1)化学科は工部省事業との関連が低いこと、(2)地方を含めた公官庁に就職する者が多かったこと、(3)化学科における学位取得率が低く、このことはダイバースによって難易度の高い教育が行われたことに由来し、卒業生の立場を低くする現象につながったことが明らかになった。特に(2)は民間産業が未熟だったことに起因しており、国内産業の状況に応じて技術教育が発展したのではなく、人材を育成してから彼らに産業の発展を任せようという山尾の意図が背景にあった。

 

 

感想

本論文には120を超える註があり、多種多様な資料を駆使して化学科の位置付け、卒業生の進路、実地内容を細かく描き出している。それだけではなく、推論プロセスも厳密であり、見習うべき点が多い優れた論文であると感じた。工部省というと鉄道・電信や土木といったインフラ事業を想起しやすい。対して化学科に焦点を充てた本稿によって、工部大学校の従来の記述が偏っていたことが明らかにされたように思われる。 (例えば、実地は必ずしも工部省所属の工場で行われていたわけではないことなど。)

 ただし、ダイアーの「エンジニア」概念と、日本でより広い文脈で使われる「エンジニア」概念との違いについては、もう少し説明がほしいところだった。引用されているのは彼による図学の導入に関する弁明であるが、やや主張と資料との間に飛躍がある、というか結論が先にある感がある。