yokoken001’s diary

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和田, 2010

和田正法「工部大学校創設再考 – 工部省による工部寮構想とその実施」『科学史研究』256号(2010年)、86-96頁。(ここからDL可)

 

 以前或る学会で、海外の研究者から日本の電気工学教育の歴史について(いつ始まり、どんな特徴があるのかなど)質問を受け、面食らってしまった。その反省もあり、とりあえず工部大学校からおさらいしたいと思っていたら、2ヶ月も経ってしまった。以下概要と感想。

 

 

  • 工部寮は行政組織として明治4(1871)年工部省に設置され、明治6(1873)年7月に工部寮が学校の名称として用いられ始める。同年10月に工部大学校と名称を変え、明治19(1886)年に「帝国大学令」の発布とともに帝国大学工科大学に引き継がれた。従って、工部大学校の研究=帝国大学工科大学の成立の前史の研究であり、高等工業教育史上重要なテーマとなる。
  • 工部大学校に関する従来の研究では、お雇い外国人教師のヘンリ・ダイヤーに「一切の権限」が与えられ、「白紙の状態」から理想の教育機関を実現したなどといったストーリが語られてきた。それに対し本稿は、ダイヤーの教育計画のみならず、出自の異なる日本側の工部大学校構想のせめぎ合いを視野に入れ、その構想の大枠はダイアー以前の工部省案ですでに決定されていたと主張する。

 

  • 最初に検討されるのは、明治政府における初代Engineer-in-chiefエドモンド・モレルが1870年5月に提出した「建築局」創設建議の中にある技術教育案である。ここでは1/5を学理に残りの大部分を実地研修に教師リソースを割くという内容が示されており、工部省修技校の形式に近いもので、工部大学校の直接のモデルになった可能性は低いという。
  • 同年9月には大島高任が「坑学寮新設に関する意見書」を上申し、鉱山開発に必要とされる学理・技術を教授することを提案している。ここでは外国人教師7人を雇い、全体は数十名規模で、一般的な課程期間は5-6年を基準にしていた。また藩閥に限らず全国から人材を集めることを想定しており、講義内容を出版し学外に啓蒙する案も示されている。さらに、実地教育を「西洋の学術」をいち早く現場に導入する手段とみなしていたことも窺い知れるという。なお、伊藤博文は大島の上司であり、大島の構想について伊藤の念頭にあった可能性があると指摘される。
  • 1871年に工部省(おそらく山尾庸三が作成したと推測される)は「工部学校建設ノ建議」を出しており、それは、工部寮建設は日本人の手で諸事業を運営したいという自立の精神に基づいていた。この建議に依拠し、「工部学校建設概要」、「定即ノ概略」が布告された。伊藤博文はこの後者の策定に山尾とともに関わっていた可能性が高いとしている。伊藤は明治5年2月にワシントンから一時帰国するが、再出発してロンドンのマセトン商会に教師の人選を依頼する時点で、「工部学校建設概要」と「定即ノ概略」にいたるまでの工部寮構想案を完全に把握できる状況にあった。従って、これらの全てを伊藤はマセトンに提示したのではないかと著者は述べている。
  • 工部省案と大島案を比較すると、(1)教師は全て西洋人にすること、(2)洋学を積極的に導入しようとしたこと、(3)学理とともに実地の研修を行うとした点が共通している。一方、大島案では通訳を使うことを想定していたのに対し、工部省案では外国人教師から直接授業を受けるために語学の習得を必須としていた点に違いが見られる。

 

  • 1872年岩倉具視使節団がロンドンに到着してから、伊藤はマセトン商会に教師の人選を依頼し、翌年1月にはダイヤーを雇うことが決まりつつあった。ダイアーの『大日本』によれば、日本に向かう船中で「カレンダー」(教育課程)の作成を行い、山尾に提出すると「修正されることなく受け入れられた」と書かれている。ダイヤーが来日以前に工部省の工部寮構想を知り得た可能性としては、林とマセトン、ダイヤーとの接点が挙げられるという。林は交渉に当たった人物だが、林の証言からは、依頼はすでに伊藤が済ませており、林は教師の同伴者としての任務に当たっていた(彼は語学が非常によくできたからである)。そしてダイヤーの回想には、同行した林から日本の歴史について最初のレッスンを1873年に受けたとあり、この際工部省による工学寮構想を伝えられていた可能性があると推察している(※この点は裏付ける資料がないので、若干微妙な気がする、というか確言はできないだろう)。
  • ダイアーのカレンダと工部省案とを比較すると、(1)入試を行うこと、(2)教育期間を4年間→6年間にすること、(3)その2年間を用いて実地教育を増加させたこと、という3点で彼の独自性が認められるとも著者は指摘している。その一方で学理と実地の接合という案は、工部省案や大島案にもすでに表れており、ダイヤーのみに帰せられるわけではない。あくまで課程期間内での実地教育を重視した点に彼のオリジナリティがあるという。
  • そして、カレンダーで設定された土木、機械、電信、建築、化学、鉱山、冶金の7科は、工部寮の観工、鉱山、鉄道、土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作の部局に対応したものと見ることもでき、実際彼の教育課程の計画では、日本の状況に対応せざるを得なかったことが窺い知れる証言もある(※このあたりの推理もやや無理がある気がする)。加えて、ダイアーが山尾に提出したカレンダーと「工学寮入学式並学課略則」を比較すると、いくつかの点で相違があり(衣食住の経費を官費でまかなうこと、50名中30名を官費入寮生、20名を私費通学生とすることなどはカレンダーに書かれていない)、「どのような修正をされることなく政府に受け入れられた」というダイアーの記述は事実に反し、山尾が追加修正を行っていたことを明らかにしている。また修業後5年の奉職義務も工部省原案にあったものをダイアー案が採用したと考えるのが妥当であるとする。
  • 工部寮建設の目的も、工部省が学理を重視したそれを意図したのに対して、ダイアーは現場を重視した厳格なエンジニア教育を目指した点で異なっていた。それは留学に対する態度にも反映されていた。前者は学理の習得に重点を置きつつ当初より留学重視の姿勢が一貫していたのに対し、後者はあくまで国内の教育で完結すべきであるという考えが強かったという(「我大学校ノ教育ハ英蘇両国尋常ノ大学ニ比スレハ遥カニ其右ニ出ルト云ヘリ」Dyer『工学叢誌』1881年)。要するに、ダイヤーは教育の実質を重視した一方、工部省は留学という形式に拘っていたという相違があった。

 

  • 以上まとめると、工部大学校の教育の大枠はダイアー来日以前にはすでに決まっており、彼のカレンダーも独断で作成したものではなく、工部省案を受け入れつつ作成した。工部省が留学制度を重視し、第一回卒業生のうち優秀な11名を1880年にイギリスに留学させたことに加え、第二回以降の卒業生が工部大学校の教師に着任した後も留学させていたという事実が、あくまで国内の6年間課程で教育が完結するものとみなすダイアー案に反して、工部省が主体的に参与していたことを示している。すなわち、恋部大学校の設計・運営の基本的性格は、ダイヤーというよりはむしろ工部省が規定していたということになる。

 

感想

工部大学校はダイヤーの構想がほとんど修正されることなく実現されたものであるという従来の説に対して、日本側の工部寮(工部大学校)構想案を検討し、ダイヤーがそれらを参考にして日本の条件に合わせつつ構想を練ったこと、教育内容においても留学重視の工部省案が(ダイアー案に反して)採用されていたことを明らかにし、工部大学校創設における日本側の主体性を主張している。先行研究の対比が鮮やかで、非常に興味深い論文である。一方、事実を裏付ける資料が必ずしも十分であるとは言えない箇所もあり、やや長めの補助線が引かれていると思われる部分もあったように思う。のちに発表されている論文も読む必要がある。